人生旅日記・甲板のラブシーン

大谷羊太郎

甲板のラブシーン ~一夜で消えた夢だった~

  足の向くまま あてどもなしに

  流れ流れて 白髪に変わり

  たどり着いたぜ このシリーズに

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◆前口上


 私はわけあって、大学のとき、プロのバンドマンになりました。当時存在した政府の特別調達庁芸能課の技能検定を受けて、オーデション・カードというものを取得したのです。

 これには、顔写真、技能のランクが記載してあり、日本政府担当官のサインがあります。裏は全面英文です。サインは、当時日本を占領していた米軍担当官のものです。

 このカードがなくても、米軍基地での仕事はできます。しかしこのカードは、技能の保証書としての価値があります。仕事を売り込むにも、とても有利です。

 こうして、プロの第一歩を踏み出します。大学は中退し、そのまま三十代いっぱいまで芸能界にいた。そして、四十歳で推理作家になり、以後は文筆専業で今日に至ります。

 以上の経歴には、嘘偽りはありません。

 マスコミに公表しているこの経歴をお読みになった皆さんは、この私にどんなイメージを抱かれたでしょう。

 まだ学生のうちにプロになったのだから、よっぽど音楽的な才能に恵まれていたのだ。そして二十年間もそこに住み着いたのは、芸能界大好き人間に違いない。

 次にそこからいきなり、プロの推理作家になれたのは、それまで長年、推理マニアとしてその分野の本を熟読し、研究してきたのだろう。

 そうお考えになったあなたに、事実を申し上げましょう。

 そのような想像は、大きくはずれています。

 戦争中は、敵国の音楽を聴くことは、厳しく禁止されてました。終戦と同時にどっと日本に流れ込んできて、若者たちを熱狂させた音楽は、軽音楽と呼ばれ、三分野に別れていました。ジャズ、タンゴ、ハワイアンです。

 どの音楽にも私は惹かれましたが、とりわけハワイ音楽のメイン楽器である、スチールギターの甘い音色には、もう身も心もとろけてしまった。

 当時はテレビがまだない時代。ラジオから流れてくるこの楽器がどんなものなのか、この目で見てみたい。でも、地元の楽器店では扱っていない。

 そこで現物を見るために、ひんぱんに東京まで出かけて、都内の楽器店を巡り歩きました。

 ハワイアン音楽のコンサートに通い、夢見心地で一流バンドのサウンドに酔いしれました。やがて自分でも、この楽器を手に入れて、いじるようになります。

 しかしいくら音楽に熱中したとしても、プロになるのは、また別な話になります。

 私は和音の聞き分けも弱い。生まれつきの耳がその程度では、とてもプロにはなれない。それに音楽理論の知識も、まるでない。

 そんな人間が、二十年間もバンドマンで食えたのは、われながら不思議です。私の人生には、こうした不思議がいくつも起きています。

 芸能界を去って、推理作家になったときも、不思議なパワーが働きました。私は子供のときから、本だけはよく読みました。江戸川乱歩にも夢中になり、全集を片端から読んだのが、中学初年生のとき。

 実はこの全集読破の目的は、これで今後は探偵小説を読むのを止めよう、と決めたからです。

 そんな私が、江戸川乱歩賞応募にのめりこむきっかけになったのも、まったく思いがけない些細事からでした。これも、わが人生で起きた不思議の一つです。

 自分に向いていない仕事につけば、職場ではどんな嫌な思いをするか。上司には叱られる、

同僚や後輩にはバカにされる。

 その手のさまざまな悲劇が、世間にはいくらでもあるでしょう。ところが私の場合、バンドを五つも六つも回りましたが、職場での落ち込み感は絶無でした。

 どのバンドに入っても、仲間たちがよくしてくれた。ステージの上でも、私の力の足りないところを、仲間に助けてもらいました。だから楽屋では、仲間と冗談を言い合って、ゲラゲラ笑いながら過ごす毎日でした。

 しかしひとたび楽屋を離れ冷静にわが身を見つめると、強烈な不安感に襲われます。こんな浮き草暮らしでこれから先、生きてゆけるのか。

 芸能界は運と才能で、年齢や経歴とは関係なく、いきなりリッチになれる世界です。その夢を抱いた者が、野心満々で入ってくる。

 しかし私だけは、特別な理由があって、そんな情熱などはかけらもなく、不安に怯えながら暮らしていました。

 芸能界が嫌なら抜け出して、ほかの職を探せばいい。しかし、それが出来ない家庭の複雑な事情が、私の動きを封じていました。

 それについては、いずれ書くつもりですが、これで私が、芸能界大好き人間ではなかったのが、お分かりと思います。


 さて今回も、前置きが長くなってきました。そろそろ本筋に入りましょう。今日は、私が映画に出た話。群集の中の一人で出たのではありません。スクリーンに映っている人物は三人だけ。その中の一人は大スターのあの方、残る一人は私と同年配の若い女性。

 そしてその女性と固く抱き合い、濃厚なラブシーンを演じていたのは、ハンサムなスターの方ではなく、他でもないこの私だったのです。


 撮影カメラがすえられたのは、客船後尾の広い甲板。

 私と同年輩の男女が大勢いて、助監督を半円形に取り囲んでいる。その中から、だれをこのシーンで使おうかと、助監督は慎重に彼らの顔を見回している。

 男女の方は、自分を選んでもらおうと、顔を突き出して、助監督の指先の動きを見守っています。

 なぜなら、この人たちは、スターを夢見る俳優の研修生だったからです。助監督はその中から、次々に出演者を選び出す。こうして助監督は、次の一人を指名しました。

「君だ」

 声とともに突き出した彼の指先は、なんとこの私を指しているではありませんか。

 びっくりした私は、あわてふためき、とっさに言い訳を言おうとしました。

ーーあの私、出演関係の者じゃないんです。ただの見学者なんで。

 しかし狼狽のあまり、声も出ません。いっそ言い訳も言わずに、この場から逃げ出そうか。

 頭は混乱して、うろたえるばかり。そこに、助監督の厳しい声が響きました。

「早くしろ。ロケの時間は限られてる」

 続いて私の左右からも、怒声が起きます。「ぐずぐずしてるんじゃないよ」

 さらに私の背後にいた者が、声とともに、私の背中を強く押しました。

「さっさと前に出るんだ。もたつくな」

 このシーンに出るエキストラの数は、限られている。少しでも、映画出演の実績を積みたい彼らにとっては、当然、なんとか指名してもらいたい。

 なのに助監督は、自分以外の者を選んだ。がっかりするとともに、指名されたそいつに嫉妬の念が湧く。だからみんなの声は、尖っていた。それに、次の指名者の名を早く聞きたい。期待をこめた焦りも加わって、こんな雰囲気になったのでしょう。

 私も、居直る気になりました。とって食われるわけじゃなし。ここは俳優志願者の一人に見せて、成り行きに流されるか。

 私のあと、数人を指名すると、助監督はその場の全員に向けて言いました。

「選抜は以上だ。指名されなかった者は待機だ。休憩室に行っていいぞ」

 ぞろぞろと、彼らはその場から引き揚げてゆきました。残った数は、それでも三十人近くいました。

 さて、なぜ私がそんな場所にいたのか。それをお話しましょう。


 その頃の私は、大坂のバンドに入っていました。出演先は、当時、音楽喫茶と呼ばれていたライブハウスです。道頓堀近くの豪華な店、「ナンバ一番」や「銀馬車」には、常時、出ていました。

 ところがあるとき、変わった仕事が舞い込んできたのです。

「映画に出てほしい。客船内のホールで開かれたダンスパーティで、演奏するシーンでね。セットではなく、本物の船を使っての撮影だ」

 ここまでは、うなずけますが、マネージャーとわれわれが呼んでいる仕事の斡旋業者は、こうつけ加えました。

「でも、当日、楽器は持ってこなくていいよ」

 バンドを雇って、演奏シーンを撮影するというのに、楽器なしで手ぶらで来いとは。

 一瞬、耳を疑いましたが、その理由を聞いて納得しました。

 その日がきました。撮影場所は、夜のとばりに包まれた大阪湾の埠頭です。現場に行ってみると、岸壁には客船が横づけされている。

 一帯はライトで明るく照らされていて、撮影関係者らしい人たちが、忙しげに船を出入りしている。船尾に目をやると、甲板には若い男女がかなりいる。

 大型のクレーンが、その甲板を見下ろすように、船のそばに据え付けてあります。俯瞰撮影用に使うのだな、と想像がつきました。

 私たちは、船内に入り、ホールに案内されました。壁ぎわに低いステージがあります。その上には、ジャズバンドで使う楽器が並べてありました。

 出迎えたマネージャーが、済まなそうな表情をのぞかせて、口を切りました。

「実は楽器を七人分用意するつもりが、六個しか集まらなかった。せっかく来てもらったのに、お一人は、映画に出られなくなってしまってね」

 その言葉を聞くなり、私はバンドの連中に言いました。

「俺は、出たくないからね」

 芸能界敬遠者の私ですから、考えることもなく、反射的に口が開いたのです。

「じゃあ皆さん。どれでも好きな楽器を取ってくださいな」

 マネージャーのその声を、待っていたように、バンドの連中は楽器に手を出します。

「俺には、ペット吹きを任せてくれ」

「テナーサックスは、俺にやらせろ。情感たっぷりに、吹いてみせるぜ」

「トロンボーンを、思いっ切り派手に扱って、恰好つけてみたいな」

 こんな調子で、それぞれ担当する楽器が、すぐに決まりました。

 実はこの連中、これらの楽器は扱えないのです。演奏する真似をするだけ。うちは、後にロカビリーと呼ばれるウエスタン系のバンドで、そのときには、管楽器は入ってなかった。しかしジャズバンドと共演する機会はよくあり、見よう見まねで、演技するぐらいは軽くできます。

 つまり撮影のときは、ジャズバンドが演奏したテープを場内に流す。そして、さも自分たちが演奏しているように、うちのバンドは演技するだけ。

 私もこのカラクリを聞いたときは、驚きました。なるほど、こうすれば制作経費はぐんと安くなる。一流のジャズバンドを、使うほどの場面じゃないので、音だけ借りるわけです。

 バンドの連中は、撮影時刻がくるまで、ホールで音楽を流して、偽ジャズメンのリハーサルをすることになりました。ところがこの私は、何もすることがない。

 そこで思いつきました。甲板にいた男女たちは、みな着飾っている感じだった。彼らは今夜、船内のホールでのパーティ場面に、出演するエキストラたちに違いない。

 船尾の甲板に集まってたのは、あそこでの場面撮影が進行中なのだろう。

 私に、ちょっとした好奇心が目覚めました。映画制作現場というものを、そばで眺めてみようか。どうせ、なにもすることがなくて、時間を持てあましている身なんだから。

 そう決めた私は、仲間たちのいるホールからそっと抜け出して、甲板に出てみる気になったのです。

 甲板に出て、そこにいた男女の中にまぎれ込み、様子を見ているうちに、この場の状況がわかりました。

 連中は、あちこちの俳優養成所から集められたもの。彼らの出るシーンは、ホールでのダンスパーティ。

 そのほかに、甲板での撮影。パーティが終わったあとも、すぐに帰宅しないで、船でビールでも飲もうという連中がいる。彼らはこの甲板に集まる。

 なるほど、そう聞いて、改めてこの甲板を眺めてみると、ここは船内のビアガーデンだったのです。確かにそのように設えてあります。

 小型テーブルと椅子が、甲板いっばいに並んでいる。そのシーンに出る顔ぶれを、助監督は今、選んでいたわけです。

(このままここにいたら、映画に映るのかな……)

 こうして私も、図らずもエキストラの一人として、映画の画面に出ることになったのです。


 撮影が始まりました。好きな席に座れ、と言われているので、私は目立たない隅のテーブルを選んで、ポツンと一人座りました。ほかの人たちは、カメラが近づきそうな場所取りに、大わらわのようでした。

 賑やかなビアホールシーンの撮影です。みんな飲んだり喋ったり。テーブルの合間をぬって、白服のボーイが、忙しげにビールを運ぶ。

 さすがは俳優の卵たち、カメラを意識して、動作も表情も、派手でオーバーです。大口を開けて笑う。何度も乾杯を繰返す。体をやたら動かすなど。

 私だけが、カメラが向きそうもない隅のテーブルで、配られたビールを、一人ぽつんと飲んでいました。

 すると、すぐにストップがかかり、監督が出演者の顔を見回して、「君」「君」と言いながら、指を向けます。

「今、指名された者は、お休みだ」

 つまり、画面から抜けろ、という意味です。

 そしてすぐまた、同じ場面の撮影に戻る。ほどなく、またストップがかかる。ふたたび「お休み」の指名があり、何人かが抜ける。 これが繰返されてゆくうち、甲板にいる人数は、どんどん減ってゆきました。

 これはつまり、時間が過ぎていったことを、画面で表現しているのです。賑やかだったパーティが終り、ビヤホールに居残った者たちも、つぎつぎに帰っていった。

 文章なら、こう書くところです。

 監督は、残った男女をそばに集めました。

 十人ぐらいだったでしょうか。そしてしげしげとその顔を眺め回してから、やがて「君」と言って、私を見つめました。

(これで私も、お役目が済んだな。偽俳優志願者という、面白い体験をした)

 どうなることかと、最初は怯えたのに、済んでみると、満足感を覚えました。私から目を離した監督は、視線を別な人に移し、また「君」と呼びかけました。

 そして一同に向って、こう言いました。

「今、指名した二人以外の者は、お休みだ」

 瞬間、私はえっ、と驚きました。さっきまでとは逆に、今度は撮影に残される者が、選ばれたのです。

 あわてて、自分の正体を告げて、断ろうと思いました。でも監督は、忙しげにその場を離れてゆく。仲間たちも、出番が終わったので、みな甲板から引揚げてゆく。

(えい、こうなったら、なるようになれだ)

 度胸を据えて、成り行きに身を任せることにしました。

 監督に代って、助監督が選ばれた私たち二人に、これから何をするのかを、説明してくれました。

「あんたら二人は、熱愛中のカップルになってもらう。今まではここに人がいたが、みんな帰って、二人だけの場所になった。人目がないのを幸い、二人は情熱的にお互いの愛情を、遠慮もなしにぶっつけ合う。いいな」

 そして、われわれのいる位置を、示してくれました。

 船尾に立って船体を眺めると、まず足元に拡がる後甲板が目に入ります。目をあげると、正面に船室。その両側には、甲板につながる通路の出入り口が見えます。

「君たち二人は、右側のあの通路の口にいてくれ」

 助監督は、われわれをそこまで引っ張ってゆきました。そして女性に、

「君は背をこの壁につける」

と言い、私には、

「君は、彼女に覆い被さるようなポーズで、密着するんだ」

 それから私たちを等分に見て、

「あとの演技は、君たちに任せよう。撮影時、監督さんからも、指示がでるかも。じゃ、うまくやってくれ」

 助監督は、これから始まるシーンについても、話してくれました。

 主役は、正体を隠して、悪の一味に接近した敏腕捜査官。彼はこの場で、これから悪の一味と麻薬取引をする。人目につかぬよう、深夜、人のいないこの甲板を、会合場所に選んだのです。

 時系列から言えば、ストーリーはパーティ場面があって、その後、甲板シーンになるのですが、映画は話の前後とは関わりなく、場面場面で撮影してゆきます。

 スタンバイしているうち、こちらとは反対側の通路から、一団の人が現れました。

 その中の一人は、紛うことなくあの人です。この映画の主演者、当代映画界のトップスター、鶴田浩二その人に間違いありません。

 さすがに、私にも緊張感が走りました。


 出を待っている間、顔を突き合わせていながら、無言でいるのもおかしいので、相方の彼女に声をかけます。

「今日は、晴れてよかったですね。雨だったら、ロケは出来なかったもの」

「ええ。そうですね」

 他愛のない言葉に、彼女は優しい笑顔で答えます。

 しかし、主役の人が登場して、いざ撮影となると、彼女の顔も引き締まる。本番前のリハーサルに入ります。

 私たちは、甲板の右側通路の出入り口で、甲板を背にして、通路に一歩踏込んだ位置に立ちます。鶴田さんは、甲板左端近く、船尾ぎわに据えられた丸テーブルに、一人座っている。

 つい先刻まで、並べられた丸テーブルは、ほとんど人で占められていた。しかし今は人の姿は消え、甲板にいるのは鶴田さんただ一人。

 テーブルの上には、手提げカバンが、でんと置かれている。中身は、麻薬の取引代金か。それとも麻薬に見せた品物か。

 鶴田さんは、身動きもせず、じっと前をみつめているだけ。それでも、迫力は満点です。

相手方を待つ緊迫の情感が、溢れています。記憶をたぐると、このときサングラスをかけていたようにも思います。

 相手の来るのを、待っている場面です。時間だけが過ぎてゆくのですが、実に見ごたえがあるのは、鶴田さんの持つ魅力のせいでしょう。

 いえ、その横顔に見とれている場合では、ありませんでした。監督の怒声が、私たちにぶっつけられたのです。

「おい、そこのアベック。もっと体を寄せろ」

 その声にびっくりして、私は彼女に言いました。

「少し、失礼させてもらいます」

 丁重に許しを乞い、そっと足を少しだけ前に出しました。

 するとまた監督の大声。

「なにを、もたもたしてるんだ。二人はぴったり体を密着させろ。そのぐらいの演技ができないのか」

 慌てて、私はさらに前進する。監督の声は止みません。

「手を回して、抱きしめろ。いちいち、そこまで言わせるのか。思いっ切り、濃厚な形をつくれ」

 監督の大声は、続きました。

「人目がない物陰だよ。ほかのやつらが帰っても、そんな場所に居残った二人なんだ。大胆に振る舞うのが、自然というものだぞ」

 おっしゃるとおりでございますと、私は胸のうちで答えました。ためらいがあっても、いったん納得すると、あとはもう夢中でのめり込む。あんまり感心しない特性ですが、このときも、その性格が動きました。

「こんなわけですので、ちょっと大胆な真似事をお許しを」

 丁重にお断りをすると、私は腕を伸ばして、彼女をきつく抱きしめました。それから……。

 あとの光景は、読者の皆様の想像力に委ねますが。


 こうして、ロケ場所に着くなり「映画になんか、俺は出たくないよ」とバンドの仲間に宣言した私は、彼らよりもぐんと目立つ形で、この作品に扱われることになったのです。

 後日、出来上がった作品を映画館で見ました。明りに照らされた船の後部甲板。テーブルはいくつも並べられているが、隠密刑事のほかには、だれも居ない。

 画面の左端、船尾から見て甲板の手前に据えられたテーブルに、鶴田さんが右向きに座っている。テーブルの上には、黒いカバンが置かれ、鶴田さんは身じろぎもしないで、ただ前をじっと見つめている。それだけで、鶴田さんの風格や貫禄が、画面一杯に、サスペンスを生み出しています。

 画面の右手、舷側に沿い、甲板とつながる通路の入口を、一歩入った位置に、しっかりと身を寄せた二人の男女がいる。

 二人は、自分たちだけの世界に、完全に埋没している。

 次の瞬間、画面にはギャング団が登場する。刑事の正体を知らなければ、この場は無事に過ごせる。しかし、刑事と知っての上で、やつらがやって来たとすると、刑事は無事には済まされない。

 アベックの姿は、甲板に接した客室が邪魔になって、刑事の目からは見えません。しかしカメラの視界は、横にも広く、両者を画面の両端にとらえています。

 死をも賭けた緊張感に漲る刑事。一切を忘れて、ひたすら自分たちの情熱に、のめり込む男女。

 まさに対比的な異質の刺激を、この場面から同時に与えられて、観客たちは画面に没入し、生活のストレスなどすっかり忘れ、非日常の世界に溶け込んでゆく。

 今なら、そのように言えますが、映画館で観た画面では、アベックの姿があまりにも頼りない。本物の俳優さんを使って、二人をもう少しアップにしていたら……などと考えたりします。でも鶴田さんの緊迫したシーンに、観客がよそ見しない程度のスパイスを添えられたのかな、と思うことにしています。

 ともあれ、あれから長い年月が経ってから、あの夜の出来事をふと思い出すと、自然に口元がゆるんできて、一人笑いをしてしまいます。

 ちょっとやそっとじゃ出来ない経験だったな。あの大スターと、映画の同じ場面に出ただなんて。

 芸能界敬遠主義者だと、みずから信じているはずの私なのです。でも、本心を覗いてみると、案外、芸能界大好き人間なのかもしれませんね。(おわり)

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