第三十六話 「AR白拍子・嘉嶋禮子」

「それでは、この〝水〟をお飲みくださーい」


 白装束に着替えさせられた希歌の前に、禮子は白磁の陶器を差し出した。

 器には、乳白色の液体がなみなみと注がれている。

 胡乱な視線を向けてやると、禮子はそっぽを向き。


「合法! 合法でーす! ちょーっと譫妄せんもう効果のある木の根っこ、ハシリドコロを絞ったものです。イッツ、リーガルハイ!」

「……っ。まぁ、いまさらか。覚悟は、とっくに出来てるし」


 ため息をつきながら、希歌は客席を眺めた。

 ボロボロになった保が、所在と二人、黒服に囲まれて座っている。


「カトーさん」

「……生きて帰ったら、抱かせろ。割にあわねぇ」

「絶対ヤだよ、べーっ! あたし、これでも好きな奴いるもん」


 舌を出して、笑って。

 それから、禮子をキッと睨み付ける。


「全部始まる前に、約束を果たして」

「はてー? 約束とは?」

「……大事な人に、メールだけさせて」

「ご随意にー」


 そっと差し出されたスマホ。

 忘れるわけもないアドレスに、たった一文「サヨナラ」と打ち込んで、送信ボタンを押す。

 スマホを禮子に渡したときには、もう覚悟は終わっていた。


「田所ちゃん! ちゃんと撮影してね。あたし、女優黛希歌の……一世一代の晴れ舞台を!」

「……っ、もちろんッス!」


 涙ぐみ、真剣な表情で頷く所在に、希歌は微笑みかけ。

 そして、杯を口にする。


 奇妙なえぐみと、痛みにも似たのどごしに顔をしかめるが、それでも飲み干す。


「ぷはっ」

「いい飲みっぷりですねぇ。では、こちらも準備しましょう。えっと、こちらのノートパソコンを操作して……ああ、田所所在さん、でしたか。機械にお強いあなたには、存外に興味深い世界だと思いますよ?」


 その言葉の意味を問いただす間もなく、ホール内の灯りが落ちた。

 そして──


「な、に、これ……?」


 


 瞬間移動でもしたかのように。

 希歌の周囲すべてが、神社の景色に置き換わっていたのである。


「昨今の天災や人災によって、重要文化財の消失を政府は憂いておりますの。そこで我々神社庁は、万が一のときに備えて社殿の正確な3Dモデリングを行いました。そのテストケースがこちら、鹿島神宮の境内となります。これによって、もしもの際、速やかな再建が可能。なにより──神域として神社を、どこにでも現すことが出来るようになりました。そう、拡張現実神社ARSSならね!」


 これが、AR技術?

 映し出されているだけの、ホログラフィックだと?


「そうですが、大事なのは雰囲気。場が整えられていること。儀式とは遙かないにしえよりそういうものですから。さて、始めましょう」


 ノートパソコンを傍らに置いた禮子は、ペットボトルを黒服から受け取ると、頭から水を被り、次に手、口の順でゆすいでいく。

 懐から、七半折りの文を取り出すと。

 頭から真っ白な布を羽織り、くるくる、くるくると、舞を踊り始めた。


「──れの神床かむどこけまくもかしこき香島かしまあめ大神おおみかみ──」


 くるり、くるり。

 彼女は回る。

 右に、左に、左に、右に。


「──泥水霊尊等なずみづちのみことたち、諸々の大神等おおかみたちの大前に、かしこみ恐みももうさく」


 禮子の声が、やけにこだまして聞こえる。

 先ほどの飲み物に、マジでヤバい薬物が入っていたのかも知れない。

 世界がぐるぐると、極彩色の渦を巻き始める。


 残響する、反響する、発狂する、歪曲する。

 世界が──

 自分が──境界を、失って。


「大神等の広き厚き御恵み、かたじけなまつり、高き尊き神教みおしえのまにまに、なおき正しき真心持ちて、ひ持つわざに、御星の姿、誠の道に廻帰かいきし賜えぇとぉ──恐み恐みももをす」


 禮子が読み終えた瞬間、希歌の意識はぷつりと途切れる。

 そして。

 そして──


「いざ参られよ、旧き世界の支配者!!」


 嘉嶋禮子の声が、仮想の境内にこだまして──


§§


 そして、〝これ〟は目覚めた。


「おお、おおお!」


 禮子が畏敬の念に震え、その場に膝を突く。

 黒服たちが狼狽し、ざわめき立つ。


「────」


 保は言葉を失い、所在はただ、カメラを回した。


 儀式の間、左右に揺れていた希歌の身体が、ピタリと制止し。

 彼女は両腕を、天と地を示すように持ち上げる。

 天空へと向けられた右手が、指先から、インクを垂らしたように漆黒へと染まっていく。

 ほどけた包帯の下、奇っ怪な傷痕だけが、赤くうねるように輝いた。


 だらりと開いた口からは、聞き取れないような異形の言語が高速で唱えられ、やがて「シューシュー」と連なる音を奏上する。

 それはまるで、蛇の鳴き声のように。


 カッと見開かれた双眸、ぐるりと白目を剥いて。

 その白目さえも、闇黒に染まったとき。


 ──怪奇現象が、起きた。


 希歌の身体が、なんの予兆もなく空中に浮遊したのだ。

 次の刹那、悲鳴が上がった。


 血まみれの黒服たちが転がり、絶叫を上げて逃げ惑う。


 彼らの手足、または首が喰い千切られ、噴水のように血しぶきを上げる。

 希歌の右腕から、無数の蛟霊──蛇の形をした水のアギトが牙を剥き、周囲にいるものたちを無差別に食い散らかしていく。


「す、素晴らしいですー!」


 感極まったように、禮子が黄色い悲鳴を上げた。


「神社庁に潜入して早十年! 一日千秋の思いで、この日をどれほど待ち望んだでしょうか! そう、すべては宇宙におわします我らが神! 〝水〟のご光臨を願うため!」

「テメェ! 騙しやがったのか!?」


 保の絶叫も、もはや禮子の耳には届いていない。

 ただふらふらと、恍惚とした表情で、水霊みづちそのものと化した希歌に歩み寄っていく。


「おお、神よ、わたくしたちの神よ! どうか、何卒! この醜い世界を、あなたさまの力で美しい御代へと回帰させてくださいませー! 何卒、何卒おおおおおおおお!」


 一心不乱に願いを唱える禮子。

 彼女を見向きもしなかった〝これ〟は。

 けれど、まるで戯れのごとく禮子へ視線を向けて。


「おお、おおお! 我がか──み?」


 ばくりと、その半身を食いちぎった。


「な、あ、え──」


 パクパクと金魚のように口を開閉させ、救いを求めるように保のほうを見た禮子は。

 しかし次の瞬間、残りの半身も蛟霊によって喰らい尽くされる。

 かくして、嘉嶋禮子という存在はこの世から消滅し。


「……カメラ回してるか、田所」

「ッス」


 短く応答を交わした保は、震える手を、ギュッと握りしめる。

 目の前で、バケモノへと変わった部下を。

 自分の大事な女優を、真っ直ぐに見据え。


 彼は、吠えた。


「バカヤロウ! 目ぇ覚ませっ、黛ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」


 その声が届いたのか、〝これ〟が身体の向きを変える。

 保たちを睥睨し。


「ぎゃあ!?」


 蛟霊で、なぎ払うように吹き飛ばす。


「いっ……骨が……でも、死んでねぇ。死んでねぇよなぁ、田所ぉ!」

「もちろんッス!」

「黛! 生きてる限り、俺たちの撮影は続くぞぉ! 俺がなぁ、俺が終わらせるまでは終わりじゃねぇんだよ! 戻って来やがれ、クランクアップには早すぎるだろがぁあああああああ!」


 〝これ〟は答えない。

 ただ無情に、蛟霊を彼らに向かって振り下ろすのみ。

 けれど。


「黛!!!」

「黛さんんん!!」


 ……或いは、彼らの叫びが届いたのか。


「──」


 〝これ〟の右目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

 ゆえに。

 だからこそ。


 〝それ〟が、やってきた。


「なぁあああ……ぅなぁあああ……おぎゃああああ……」


 鳴り響くのは、やかましいほどの産声。

 世界に絶望し叫ばれる命の嘆き。

 神社の境内と化したホールの暗がりから。


「────」


 真っ赤な笑みを湛えた、泥人形が、姿を現した──

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