第三部 泥と水の狂騒曲~パンデミック~
第忘章 祈り、生まれた日
第却話 「涙よ、流れるままに枯れ果てよ」
──このことを、橘風太は覚えていない。
§§
幼い黛希歌が、病院で息を引き取ったとき、彼はその場に居合わせた。
激しい発作で、胸と喉をかきむしり、力無い身体で暴れに暴れて、そして希歌は確かに死んだ。
呼吸は停止し、心臓は止まり、脳波は途絶え。
医学的には、死亡したとしか表現できない状態だった。
そのときの風太にとって、彼女の死は恐怖でしかなかった。
風太は怖かった。
死の穢れも。獣のように唸り、暴れまわる様子も。
けれど、何より怖ろしかったのは。
大切な幼馴染みが、永遠に
橘風太は、酷く泣き虫だった。
些細なことで取り乱し、臆病風に吹かれて尻込みする。他のこどもたちからも浮いていて、あまりに世間となじめない、そういう少年だった。
そんな彼を、黛希歌だけが見放さなかった。
どこに行くにも、彼を無理矢理連れてまわし、家の中から引きずり出して、危険な場所へ、外の世界へ導き出す。
イヤだといっても聞かないし、そもそも少年には否と言えるほどの度胸もなかった。
お転婆な少女は崖から飛び降りて遊ぶことや、石垣を蹴って跳躍する遊びを少年に強要した。
近くの廃神社に忍び込み、ご神体を玩具に振り回し、落ちた神棚を使ってままごとをした。
好きでもないお菓子を押しつけ、読んでいる本の代わりに竹とんぼを握らされた。
風太は幼馴染みに、それはそれは傍若無人の限りを尽くされた。
黛希歌は橘風太にとって、厄介きわまりない〝災害〟で。
──だからこそ同時に、憧れの対象でもあった。
常に我が道を征き、周囲を明るく照らし出す少女。
彼女に、少年は限りない憧憬を覚えていたのだ。
そんな少女が、死んだ。
少年の目の前で死んだ。
とても受け入れることが出来なくて、怖ろしくて、風太は病院から逃げ出した。
走った、走った。
泣きじゃくりながら、必死で走った。
どこかへ向かいたかったわけではない。それでも脚は、自然と少女と同じ時間を過ごした場所へと向いた。
辿り着いたのは、廃神社だった。
もう奉る宮司もいやしない、管理すらされていない壊れかけの神社。
狛犬の代わりに苔むしたうさぎの石像が転がり。
名前すらも定かではなくて、雨風で摩り切れた鳥居に、朽■神■の文字が辛うじて窺えるだけである。
あちこち腐って傷んでいるので、大人達からは立ち寄らないようにと念を押された場所だったが。
けれど、彼女と少年は、ここで多くの時間を過ごした。
少年は拝殿の扉を押し開くなり、その場に跪いた。
彼は作法を知らない。
彼には知識がない。
それでも跪き、両手を合わせ、一心不乱に神に縋った。
「どうか」
どうかあの娘を。
「希歌さんを、たすけてください」
神社には神様がいる、神様は願い事を聞き届けてくれる。
それが都合のいい話だと言うことぐらい、幼い少年にも理解できた。まだしも対価を求める悪魔の方が身近だったが……
だとしても、願わずにはおれなかった。
彼にとって、黛希歌はおのれのすべてだったから。
だから願った。
祈った。
呪った。
そして──差し出した。
「もう、ぼくはわがままをいいません。なんでもします。きらいな食べものも残さず食べます。こまっているひとがいたらたすけてあげます。どんなにつらいことでも、それがよいことならあきらめずにやりとげます。それに」
それに。
「もう、ぼくは泣きません。涙なんかながしません。希歌さんを、たくさんのひとを笑顔にできるよう、なんだってします。だから、おねがいです」
もう彼女から、なにも奪わないでください。
必要なものは、全部自分が差し出しますから。
「だって、イヤなんです」
これまで、イヤだなんて言葉は、口にすることも出来なかったけれど。
それでも。
「希歌さんがいない世界なんて、イヤなんです! だから!」
たすけてください。
そんな願いを、何度も何度も。
何度も何度も何度も。愚かしいぐらい、見ていられないぐらい、見苦しいぐらいに何度も繰り返して。
そうして、視た。
「……え?」
涙ににじむ世界の中に、真っ赤な光が輝くことを。
「わぁ!?」
光は爆発し、少年は拝殿の外へと吹き飛ばされる。
轟く音、なにかが崩れ落ちる音。
顔を上げたとき、社は完全に崩壊していた。
なにかが、少年の頬を拭った。
暖かななにかが目元に触れて、それまで流されていた涙と呼ばれるものを奪い去る。
声が、響く。
『ここにひとつの命がある。お
少年は、漠然と理解する。
おのれはもう二度と、こころから涙を流すことは出来ないのだと。
同時に、胸の奥で何かの炎が灯った。
──のちに。
病的なまでに、他者を笑顔にしようとする使命感は、このときはじめて、彼のなかで芽吹き──
そして、少年は気を失った。
目を覚ましたとき、橘風太は自宅のベッドにいて。
廃神社で起きたことを、なにも覚えていなかった。
代わりに死んだはずの幼馴染みが。
黛希歌が息を吹き返し、そして快方に向かうのだが……その因果を彼が知ることは、未来永劫ない。
なぜなら──
「そう、これは僕らが『なかったこと』にした事実だからだ。いやはや、まったく運が良かったと言うべきか、悪かったと言うべきか。検閲如きで済んで、まったく胸をなで下ろす。とかく、さて……数少ない後輩のために、これだけは言っておこう。キミはどこまでもただの人間なのに、苛酷な運命を背負ったものだねと。なぁ──」
世界の外側に向かって。
声は告げた。
「
§§
これは世界から削除された少年の誓い。
検閲された歴史。
──このことを、橘風太は覚えていない。
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