幕間劇 川屋華子は責務を叫ぶ

第閑話 「恐怖、終わらず」

「……外が、騒がしいですね」


 希歌たちを送り出した華子は、ベッドの中で休養をとっていた。

 その間も弟子である雪鎮は働き続けており、彼女が目覚めたと知ると、一番に駆け寄った。


「ご苦労様。なにか、解りましたか?」


 彼女の問いかけに、雪鎮は首を横に振る。

 華子は、額に手を当てて考える。


 黛希歌の姿は、彼女の視点からではあまりに痛ましいものだった。

 右手を中心にして、おびただしい量の蛇が、均整の取れた身体に絡みつき、妖しく蠕動ぜんどうしているのである。

 他のだれも、あの異常に気がついているものはいない。

 それだけ自体は水面下で動いていることになる。


 もう一方で気になったのが、この場に橘風太がいなかったということだ。

 彼ならば或いは、希歌に万が一のことがあっても瀬戸際で押しとどめてくれるだろうと期待していただけに、当てが外れたと言ってもいい。


「花屋敷統司郎の秘蔵っ子が、そんな役立たずなどとあり得ますか……?」


 表の顔は、伝記作家である統司郎だが。

 この界隈では、もっと別の側面を持つ。

 一面的な人間はいないといっても、統司郎のそれは常軌を逸している。

 あまりに顔が多すぎる。


「あれは、人を食いますからね……できれば関わりたくないですが……」


 それでも、今回彼女は依頼に応じた。

 花屋敷統司郎が一枚噛み、配役を招集するということは、それが絶対に必要だからなのだ。


 その上で、あの場にいた人間の素性は、今日までに調べ上げた。

 TAKASHIは実家の寺に関連する何らかの宗教に属しており、霊媒体質。いわゆるシャーマンだ。神との対話を可能にするもの。


 希歌は出会った瞬間には、〝封印〟されていることが一目で解った。なにか大いなるものを内包しているし、過去を探ってみれば案の定、死の世界に限りなく近づいたことがあった。


 逆に言えば、彼らはとてもわかりやすかった。

 けれど、風太は違う。

 彼だけは、どれだけ背景を探っても──統司郎が肩入れしているのに──なんらおかしなところがない。


 怪異を食ったことがある家系だとか、鬼切りの刀を持つ家だとか、どこぞの島の呪術師であるとか、そんな超常的なバックボーンがひとつもない。

 極めて一般的、どこまでも平均的な一市民にしか見えないのだ。


 だから施設で探りを入れてみたが、収穫はなかった。

 収穫はなかったが。

 これまでの彼の振る舞いから、断言できることがひとつある。


「橘風太が傍にいる限り、黛希歌の〝封印〟が解かれることはない」


 おそらく、風太は要石のようなものなのだろう。

 この出来事を意図した何者かにとっても、それ以外にとっても。

 偶発的なものか、必然的なものかまでは解らないが。


「ともかく、私の役割は、すでに果たされつつある」


 正確には、出来ることがない。


 事態は既に、浄霊などという些事に囚われない、巨視的な観点に移っている。

 目の前の怪異がちっぽけに思えるぐらい、とんでもないスケールの話が、そこにはあるのだ。


 この事件の本質、根本は、けっして泥泪サマなどという初めて聞くような怪異ではない。

 呪われたとか、殺されかけているとか、そんなことは副次的なものなのだ。

 それだけは、間違いなく確かで。


「時間が、ありませんね」


 そう。きっとずっと、自分が思っているよりも時間がない。

 界隈に古くから名前だけが伝わる〝ナズミヅチ〟。

 正体不明の脅威が姿を現そうとしているのだから、なおさらに。


「だかこそ女菟師を──なんですか?」


 彼女がスマートフォンを操作しようとしたとき。

 急に、院内が騒がしくなった。


 なにかが這いずり回る音、蠢動しゅんどう蠕動ぜんどうひしめき、うごめく音。

 遠くでは、悲鳴が。

 大人や、こどもの悲痛な声が。


 なによりも酷い陰気が。

 立ちこめる暗雲のように、病院全体を包み始めている。


「なにごとですか?」


 確かめようと、ベッドから起き上がろうとした瞬間。

 ほとんど反射的に、華子は手印を結んでいた。


かん!」


 目の前に飛来した蛇のアギトが、空中で爆発四散し、べちゃべちゃと室内に飛び散る。

 カッと目を見開けば、あり得ないはずの物が、その場に浮かんでいた。


『にゃぁ──ぁぁん──』


 猫なで声で笑ったのは、TAKASHIの姿をした何者かだった。


 髪は逆巻くように天井へと向かって伸びており、手足の関節はどうも向きがおかしい。

 糸か何かで吊られているように、ぎこちなくバラバラに動いている。

 眼はぎょろりとして、互い違いに焦点が合わず。

 口元はだらしなく開いて、ボトボトと唾液をこぼしている。


 本能的に、華子は理解する。

 これが、この世の物ではないことを。


「世に迷いましたか、TAKASHIさん。或いは、彼岸に魂を売っていましたか」


 怯えて駆け寄ってきた雪鎮を背後にかばいながら、華子は数珠を構える。

 よく見れば、TAKASHIの髪の一本一本が蛇に変わっており、威嚇するように鳴き声をあげ、華子へと牙を剥く。

 悍ましい異形へと変貌した男を前にして、華子の背中を冷や汗が伝った。


「何をしに来たのです、答えなさい」

『────』


 蛇男は答えない。

 代わりに、にたぁと笑うと、舌を突き出した。

 蛇のように裂けた舌、そこには、無数の蛇が絡まる奇妙なタトゥーが施されている。


 そして、それは希歌の右腕に絡みついていたものに酷似していた。


「宗教……蛇……蛟霊みずち……泥……? ──まさか!?」


 あやふやないくつもの情報。

 それがいま、有機的な結合を経て、華子の脳裏で実像を結ぼうとする。

 奇跡的な発想の飛躍。


 けれど、それを阻むように蛇男が動いた。

 身体をしなやかに蠢かせ、彼女へと大量の蛇髪を伸ばす。

 反射的に華子は手印を結ぶが、すべてを捌くことはできず、引き千切った数珠とロザリオで結界を張る状態まで追い詰められる。


 結界に触れた触手は煙を上げて焼き切れのたうつが、男は気にも留めない。

 身動きが取れない華子を尻目に、結界へと全身で絡みつき、今にも絞め殺そうとする。


 蛇の一部が結界を貫通。

 華子の腕にかぶりつき、毒液の滴る牙を突き立てる。


「……ぐぅううう」


 必死に念仏を唱える華子だったが、目と鼻、耳からは泥が溢れ出し、いよいよ進退が窮まる。

 泥は、まるで何かに押し出されているようですらあった。


「こ、この現象も、そう言うことだったのですね……! あの風変わりな花屋敷が一枚噛んでいるのも──そのため! だとしたら、いま、この病院は未曾有の危機に襲われて……」


 一瞬だけ閉じられた彼女の瞳が、千里眼となって病院の様子を見通す。

 そこには、苦悶の表情で泥を垂れ流す人々の姿が。

 泣きじゃくる、虚ろな瞳の少女の影があって──


「伝え、なくては……! このことを、誰かに……!」


 必死に歯を食いしばる彼女に。

 弟子である雪鎮はしがみつく。

 怯えているように震える彼を見て、彼女は心を決める。


「雪鎮」


 泥の涙をこぼしながら、軋む結界を維持しながら。

 滝の汗とともに、華子は告げた。


「このことを、伝えてください」


 首を振る弟子に。


「私は仕方がありません。大事なのは──世界のバランスです」


 言い聞かせるように言葉を重ねて。


「行きなさい雪鎮! あなたが私の弟子なら! あなたが──」


 カッと目を見開いた彼女が、ありったけのお守りをなげだし、結界を燃焼させる。

 蛇男が痛みに身を捩る。


 エジプト十字架と六芒星が爆発。辺り一帯に四散する。

 一瞬緩む拘束。


 泥を吐き出しながら。

 華子は、凄絶な表情で笑った。


「あなたが──私の式童子しきどうじなら、責務を果たすのです!」

「──っ!」


 そこで。

 そこで初めて雪鎮は──

 川屋華子の使は、大きく頷いた。


 一拍の後、彼の身体がほつれ、無数の紙片となって結界の外へと飛び出す。

 舞い散る紙吹雪。

 それこそが雪鎮の正体、式神の本体だった。

 さらに病室のドアが勝手に開き、道ができる。


オーン!」


 追いかけようとした蛇男の前に、華子は飛び出して動きを封じ、持てる限り最大の聖句を口にした。

 TAKASHIの姿が、絶叫とともにかき消える。

 安堵とともに、崩れ落ちる華子。


 けれど。


 ひた

  /ずる

 ひた

  /ずるり

 ひたり──

    ──べちゃり


 濡れた雑巾をぶちまけるような。

 素足で廊下を歩くような、奇っ怪な音が聞こえて。


「あ、ああ、あああ」


 全身のあらゆる場所から泥を吹き出しながら顔を上げて。

 そして華子は──目が合った。


 ぎょろぎょろと音を立てて蠢く眼球。

 泥を塗り固めたような、真っ黒な顔、身体。

 なによりも、三日月のように赤い口が。


 華子を、嗤って。


 ぴしゃりと音を立てて、病室のドアが閉ざされる。


 あとにはなにかが暴れまわり、どこかへ引きずり込まれるような物音と。

 華子のこの世の物とは思えない絶叫が、果てしなく続いた。

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