一、せちがらい、よのなかのはなし

 事件とは、刑事が『しかし』と『だが』をふるいにかけ、真実を選別する作業だと思う。

 俺が鑑識課から刑事課へ戻ると、タカナシ・ソウスケはアンパンを咀嚼しながら捜査資料を読み返していた。

「む。おふぁえりなふぁい」

 部下にあるまじき挨拶の仕方に対し、可及的速やかに注意を促していた数ヶ月前の俺を思い出して、現在の俺は嘆息した。

「お前な……あまり変なことしてると、今に罰が当たるぞ」

「大丈夫です。まだ餡子は落としてませんから」

 俺は「じゃあ俺がお前に罰を落としてやろうか?」と言ってやる代わりに、こいつが警部補昇格試験に落ちた時、それみたことかと鼻で笑うことにした。

 だいたい、『三十代で警部に昇進する』という野望を掲げる大卒出のノンキャリアが、上司に敬意を払わないのはいかがなものだろう。俺に「部下としてタカナシはどうだ?」と薦めたシバタ課長も何を考えているのやら。

 そのタカナシは、アンパンの袋を丸めてゴミ箱に捨て、二百ミリリットルの牛乳パックをストローで啜った。壁掛け時計は午前十時を回ったばかりだ。

 昼食にしては早いな、という俺の視線を読んだタカナシが、「今朝、食べる時間なかったんです」と言った。

「ところで、鑑識課はなんて言ってました?」

「お前の予想通り。紙片から前科のない二つの指紋も検出された。あとこの紙、個人的に欲しいとも言っていたな」

 得意そうな顔をするタカナシを横目に、俺は鑑識課から持ってきた二枚の写真をデスクに置いた。

 一枚目に写っているのは、顕微鏡で見た雪の結晶、もしくはどこかの地表を撮った白黒写真――を印刷した、A4サイズのコピー用紙。二枚目はその裏面。現場に散乱していた紙片を、我が警察署の鑑識課がかき集め、復元したものだ。

 事件は昨夜。閑静な住宅地に建つ、アパートの一室で起こった。


 第一発見者は隣室の住人。「隣室から二人が言い争うような声が聞こえ、ドアが激しく開いた音と、何かがぶつかる音が数回あった。音が収まったところで隣室へ行き、開いていたドアから女性が倒れているのが見えたので通報した」と証言している。

 被害者の女性は、その部屋の住人であるニシムラ・ハナ。年齢は三十一歳。三つ年下の実弟、ニシムラ・リュウジと同居しており、リュウジは昨夜から行方不明となっている。

 被害者は頭を強く打ち、現在は意識不明で入院中。数名の捜査官が被害者の警備にあたっているものの、今のところリュウジらしき男が現れたという情報はない。

 他の住人達に話を聞いたところ、二人は二年前にアパートへ入居。両親が他界し、生家を売り払った後、発達障害を持つ姉を気遣った弟と一緒に上京してきたらしい。毎朝被疑者の車で出勤する二人の姿も目撃されていた。「とても事件が起きる雰囲気はなかった」と、住人達の驚く顔が頭に残っている。

 しかし、被害者が夏でも長袖やカーディガンを羽織っているのが気になっていたという証言と、被害者の体から、ごく最近の、古くても数週間前の、打撲痕や切り傷の痕が数カ所認められた。

 そのことから、『被疑者は、被害者の面倒を見ることに対して日頃からストレスを溜めており、時折被害者に暴力を振るっていた可能性』と、『事件当夜、障害のことで被害者と口論になり、衝動的に暴力を振るった被疑者は我に返り、そのまま失踪した可能性』を視野に、引き続き被疑者の行方を追うことになった。

 これはあくまでも可能性の話であり、どれもその範疇を超えてはいない。平常時の被害者は温和だが、パニックを起こすと、自傷行為や物にあたることがあるらしいと、大家が入居前の被害者から説明を受けたことも分かっている。

 普段から気配りのできる人間が暴力行為など、それこそ短絡的だ。

 聞き込みが終わった後、俺が無意識に零していたと言ったタカナシが、「そういう人間だからこそ、ストレスが溜まりやすいんですよ」と、生意気な口を叩いたのを思い出した。

 いや、生意気でもなんでもないかもしれない。『発達障害』や『脳機能障害』などの単語を耳にする機会が増えたとはいえ、偏見や差別的な目を向ける者は多い。発達障害者に該当しない俺やタカナシでさえ、理解の及ぶところではない。

 頻繁に暴力行為が行われていたのであれば、もっと前に隣室の住人から苦情が出ていたかもしれないし、事件当夜に限定された暴力にしては打撲痕や切り傷の痕が多い気がするし。

 どれも可能性の範疇を超えてはいない。結局のところ、これ以上の手がかりがない。早くもお手上げ状態だったのだ。

 タカナシが紙片を見て、「思い当たる節がある」と口走るまでは。


「被疑者がどこに行ったか、知ってますかね?」

「それをこれから確認しに行くんだろうが」

 なら『思い当たる節がある』なんて、ドラマみたいな台詞を口に出すな。生意気な部下に言ってやると、部下は苦笑しながら「ですよねー」と来たもんだ。だから俺は部下を持つのは嫌だったんだ。

「でも意外でした。ホズミさんだったら、『いるのかいないのか分からない相手に時間を取られたくない』って突っぱねられると思ってたんですけど」

 そう言っていられないことぐらい、タカナシも分かっているはずだ。だからこその軽口であると察した自分が恨めしい。

「馬鹿っ。俺は、課長がいつ『被疑者が見つかれば解決する事件だろ。とっとと被疑者を捜してこい』と言い出すか心配なだけだっ」

 つい声を荒げてしまった俺に、タカナシが二回目の苦笑と「ですよねー」をお見舞いする。こいつとの会話は、まるで掌で転がされている球になったようで気分が悪い。

「じゃあ、住所調べますんでちょっと待ってください」

「時間が惜しい。先に行くぞ」

 俺はデスクに置いた写真をポケットに突っ込むと、自分のコートを手に立ち上がった。

「え? ちょ、ちょっと待ってください! ホズミさん!?」

 声をひっくり返すタカナシも、後から俺の背中を追ってくるだろう。

 もし被疑者がタカナシの言う『ストレスの溜まりやすい』人間だとしたら、衝動的な行動で被害者に暴力を振るったことに罪悪感を感じ、こちらの捜索しづらい所まで行く可能性もある。

 タカナシではないが、俺も復元した用紙を見た時から、『事件は誰かが呼ぶのではなく、何かに呼ばれるものだ』と、どこかで聞いたような言葉が頭をよぎった。俺もタカナシも、あいつも、今回の件に呼ばれるべくして呼ばれたのかもしれないと。

 だからこそ、俺とタカナシ以外の刑事に、あいつを会わせたくないと思った。

 世間の片隅で、ひっそり生きていてほしい人間を、無関係な事件に巻き込むわけにはいかない。不必要な苦しみは、あいつに届く前に食い止めたい。

 被疑者も同じ気持ちを抱えて、毎日被害者を過ごしていたのだろうか。ならどうして、被疑者も俺も、こうなってしまったのだろうか。

 警察署から出た辺りで、息を切らしたタカナシが「先に行くなんて酷いじゃないですか!」と苦言を呈した気がしたが、おそらく気のせいだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る