二、ウミガメスープを飲み干して

「よかった。もう来ないかと思ってました」

 夢原さんが優しく微笑んだ瞬間、僕は気恥ずかしさで顔を背けてしまった。

 あれから数日。テストのおかげで早く帰宅することができた僕は、服を着替えて夢原さんの元を訪れた。

 思い出してみると、彼女は僕の質問に答え、本題に入ろうとしていたのだ。それを僕が感情的にまくし立て、勝手に帰ってしまい、場を台無しにした。

 お詫びを言うのは僕の方だと反省したものの、あの人がかけた僕への疑いが晴れるまで待つ必要があった。

 学校から帰って自分の部屋で勉強し、夕方にあの人が帰ってきたら家政婦さんが作った夕食を一緒に食べ、部屋に戻って勉強の続きをして寝る。

 機会を窺いながら、どうやって彼女に謝るかを考えながら、一瞬の非日常を日常で埋めていく。

 長期戦を覚悟していたが、まさかあの人が機会をくれるとは思っていなかったが。

 昨晩のことだった。謝罪の気持ちとして持って行く菓子折のことまで考え始めた時、あの人が、僕の部屋のドアをノックした。

『父さん、明日は帰りが遅くなるから。食事は先に済ませてくれ』

 あの人がドア越しに伝えてきたので、僕もドア越しに「分かりました」と返すと、例の微妙な空気を残して、父の気配が足音と共に遠ざかっていった。

(父さん……)

 いつから、僕はあの人のことを『父さん』と呼ばなくなったのだろう。あの人が母さんと離婚した後も言っていた気がするけど、なぜかその前後の記憶がない。

(僕の大事なものも、いつなくしたのか、どんなものだったのか思い出せないし)

 今まで疑問に思わなかったのが不思議なくらい、僕の記憶は欠如していた。どの時期の、どの部分の記憶かも朧気なんて。まるで自分の体から意識だけが抜け出して、別の人間の体に入っているような。

 薄ら寒い想像と「タカトシくん」と呼ぶ声が重なる。反射的に顔を上げると、夢原さんが僕の目の前で両手を叩いた。

「うわ!」

「なにが『うわ!』ですか。ちゃんと話聞いてました?」

 夢原さんは両手を腰に当て、唇を尖らせた。今日の彼女は髪を頭頂部にまとめたお団子頭で、ピンクのツナギを着ていた。これが仕事着なのだと、先日のことを謝罪した時に教えてくれた。

(そして、僕がソファに座ってようやく目線が同じくらいになる小ささは相変わらず、と)

「えっと――『トポグラフィー』は本来、地形とか地勢図って意味があるって」

「それは冒頭。しかも余談です」

「あー」

 頭を掻いて思い出そうとするが、残念なことに、冒頭の余談しか出てこない。

「すみません。もう一度お願いします」

「もう……ふふ、困った人ですね」

 幼い顔で大人っぽく笑う夢原さんが直視できなくて、壁に飾られた白黒写真に目を向けた。

 あれが、僕の求めていたトポグラフィー・マップであると夢原さんは言っていたが、未だにピンとこない。どこをどうしたら地図に見えるのか。あれで本当に僕の大事なものが見つかるのか。

「でもそうですね。ただ説明するだけじゃ飽きちゃいますよね。実際にタカトシくんのマップ作っちゃいましょうか?」

「え? そんな簡単にできるものなんですか?」

 インスタントラーメンを作るのと同じくらいの軽さに驚くと、夢原さんは「いいえ?」と否定した。

「人から出たものから作るので、作成時間に個人差が発生するのは否めません。ですが私は『夢原涙子』の名を冠するプロのマッパーです。迅速かつ丁寧に仕上げてみせますので、大船に乗った気持ちで期待しちゃってください!」

 夢原さんの名前にどんな力があるのか知らないが、彼女のやる気に水を差さない方がいいだろう。僕は素直に「お願いします」と頭を下げた。

「ま、タカトシくんのような方にこそ、マップは必要だと思ってるのは本当ですし」

 もったいぶった言動にもどかしさを感じるものの、そこに彼女の意図があるのだろう。先日のように取り乱さないよう、彼女の言葉に耳をそばだてる。

 夢原さんは僕の姿勢を認めてくれたらしく、後ろで手を組み、確信を持った口調で続けた。

「タカトシくんの場合、他の依頼人の方と違って大事なものに関する記憶がありませんよね。だからこそマップを使って、あなたの中にいる『本当のご自分』を見つけ、大事なものがなんなのか教えてもらうんです」


(『本当の自分』を見つける、か)

 夢原さんが涙を採る準備をしている間、僕は目を閉じて先日のやりとりを思い返した。

 マップを使えば、僕の大事なものが見つかるのか尋ねた時、夢原さんは答えられないと言った。答えられないのは、僕の大事なものは、僕が探すからと。

 僕は、彼女でも手に負えない依頼だからなのかと勘ぐった。でも夢原さんは地図を作ることはできると言って、憤った僕は夢原さんの言葉を遮って声を荒げた。

 彼女の意図が分からなかったからだ。はっきり言わず、もったいぶった言い方をしたから。

(夢原さんは。僕になにを伝えたかったんだろう)

 それに、帰り際に言った言葉も気になる。

『あなたは、本当に大事なものを見つけたいと思っていますか?』

「タカトシくん。準備オッケーです。そのまま目を閉じていてくださいね」

 瞼の向こう側から夢原さんの声が聞こえた。でも準備をしているらしい音が聞こえなかったのだが。

「あの、実は僕の額に肉の文字を書こうとしていませんか?」

「はい。してませんけど?」

 瞼の裏に、首を傾けて不思議そうな表情の夢原さんが浮かんだ。実際はもっと可愛い……。

(いやいやいや、僕はなにを考えているんだ。夢原さんは小学生な見た目だけど、中身は大人だから。可愛いのは見た目だけで……って、僕が言いたいのはそうじゃなくて! 顔が熱いのも気のせいで!)

「痛くしませんから、緊張しなくて大丈夫ですよ」

「ああ、はい、えっと、お願いします」

 そう言われ、顔の熱さが体に広がっていくのを感じた。よかった。気付かれてない。

「ふふ。ではまずリラックスしましょう。ゆっくり深呼吸してください」

 夢原さんの指示に従い、肩を上げ下げしながら、ゆっくり深呼吸した。一回、二回、三回。

「落ち着いたら、自分に問いかけてください。『本当に、大事なものを見つけたいと思っているのか』と」

(僕は本当に、大事なものを見つけたいと思っているのだろうか)

 そんな当たり前じゃないか。だって僕は、


『誰にも言わないでね。二人だけの秘密だよ?』


 瞼に映った残像を追って目を開けると、夢原さんが左足を上げ、右腕を垂直に上げた変なポーズを取っていた。驚いたせいで、履いていたスニーカーの片方が床に転がっている。

「な、なにか思い出した?」

「えっと……女の子が」

「女の子が?」

「夢原さんくらいの背丈の女の子が、僕に秘密だよ』って」

 顔は思い出せないが、とても嬉しそうな声だった。あの子はいったい誰なんだろう。

 夢原さんは「ふんふん」と言いながら変なポーズをやめ、スニーカーを履き直した。

「タカトシくん。早くも手がかりゲットですね」

 親指を立てる夢原さんが、女の子の残像と重なる。背丈が似ているからか、それとも、夢原さんとその子の雰囲気が似ているからか。

(いやいや、何度も言うけど、夢原さんは中身が大人だけで、本当に小学生じゃないし。あの子はませてただけで、ちゃんと同い年だったし)

「ん?」

「また手がかりゲットしちゃいましたか?」

「あ、いや、それはまだ」

 女の子のことと思しき記憶が浮かんだが、夢原さんに言う前に消えてしまった。ただ、僕はその子と面識があって、僕の大事なものに関わっているのは確かだ。

 僕は、あの子とどんな約束をしたのだろう。

「夢原さん」

 次はできそうですと言いかけた僕は、夢原さんの笑顔に釘付けになった。気恥ずかしさを感じる方ではなく、口元に手を添え、あからさまになにかを企んでいる方の笑顔だった。

「んふふふふ」

「あの、なにか?」

「いえ、なんでもないですよ?」

(なにかありそうだから聞いたんですけど……)

 心の中で思いながら、夢原さんの中にちゃんと大人が入っていることに安心した。


 無事に涙を採ることに成功した夢原さんから、指定された場所で待っているように言われたのだが、あと一分で夢原さんが来なかったら、羞恥心に負けて家に帰っていたかもしれない。

「お待たせしま、した?」

 ようやく来た夢原さんが首を傾げるぐらい、ひどい顔をしているのだろう。自分でも分かる。分かるけど、半分は夢原さんのせいでもあるので、この際言ってしまおう。

「あの、ずっと思ってたんですけど」

「はい」

「……やっぱりなんでもないです」

 麦わら帽子を被り、編み目を崩した三つ編みを両肩から垂らした、白いセーラー服に似たワンピースの彼女になにを言えばいいのか。

 ワンピースの裾には『不思議の国のアリス』のモチーフがプリントされていて、足首の長さの白い靴下と、バレエシューズに見える黒い靴を履いていた。最初に会った時の服装の方がまだマシだ。気持ちとしてはツナギが一番接しやすいのだが。

「言いたいことがあるなら、その時に言わないと駄目ですよ。後出しじゃんけんはかっこ悪いですし」

(こっちは『最初はグー』でパーを出された気分なのですが)

 ため息をつくと、僕は「それはそうと」と話を切り替える。

「マップはできたんですか?」

「できましたよ。でも、探す前にブレイクタイムしません?」

 夢原さんは、さっきから眺めていた立て看板を指さす。待ち時間の内に何往復も眺めたそれは、見ているだけで胸が焼けそうになる。

「僕はいいんで、勝手に買って勝手に食べてください」

「ありがとうございます! すみませーん! 生クリームとフルーツ全部乗せください! お金はこのお兄ちゃん持ちで、もがぁ!」

 僕はフライング気味に彼女の口を押さえ、注文を聞いた店員に首を振って辞退した。

「すみません。普通のいちごで」

「ふぁ! ふがああああ!」

 腕の中で暴れる彼女の拳骨やら蹴りやらを受けながら、顔を引きつらせる店員に注文を押し通した。

ご迷惑をおかけしてすみません。でも僕は許せなかったんです。

 女の子の好きそうなファンシーな装飾とパステルカラーで彩ったクレープショップを待ち合わせ場所にし、曲がりなりにも男性である僕を辱めたこの人のことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る