第21話 2020年5月20日ー溶けぬ記憶

 長崎県のJRも、東京オリンピックと紐づけて新幹線ルートを開拓した一エリアだった。

 新型感染病にて入学式を含めた日常生活すべてが狂い、県民の誰もが不定期なイベントへの関心がティッシュ・ペーパー一枚分以下まで薄くなった。

 瑚子が通う奏真館でも三学期の期末テスト、新年度の実力テスト、一学期の中間テストが五月のゴールデン・ウィーク明けに統合された。

 入学式、新入生歓迎遠足も中止。三年生に進級した瑚子はクラス替えがなかったが、郵送で伝達された統合テストの範囲を瞼の裏にまで刷り込むことで精いっぱいだった。

 クラス・メイトの余所余所しさに気を留めたところで、同じ普通科のチョウがテストの山を予想してくれることはない。

 他学科の利矢に、極端に手間を省いて数学の長文問題をクリアするテクニックを乞うぐらいであればチョウに土下座をする方が簡単だった。

 それ以前に音楽科の利矢が高校数学を履修している確信もなく、実際に一冊のノートを挟んで顔を合わせるよりも、テストの赤点で補習を受ける方を選ぶ。

 このときばかり、瑚子は正晃に感謝した。

 正晃の勤務先に大学の入学式が中止になった娘を持つ同僚がいたので、高校主要教科の要所をまとめたノートを譲り受けた。

 数学と古文は赤点を免れた程度にしか恩恵を活かせなかったが、生物と現代文に関しては、二か月後の期末テストで六十点をクリアする要点が掴めた。

 すべてのテスト答案が戻った後、瑚子は正晃を介して礼を伝えた。

 新学期わずか二週間で合服に変わり、三十日後の高総体に向けた応援期間が始まった。

 感染病拡大を最小限に抑えるため、高総体期間を長くする代わりに、一日で集まる選手の数を拡散する方針で決まった。

 異例の流行り病で部活そのものができず、各運動部は自宅での筋トレのみを頼りに勘を取り戻そうと自身を追い込んでいる。

 今でさえ脚力が衰えていない瑚子は、昨夏の正晃に従って正解だった。

 誰もが筋肉痛で日常運動でさえ鈍くなる条件で、一人だけ息を乱さずスパイクを蹴っていれば、指定のジャージ姿では長崎市の自宅まで逃げ切れない。

 トビヒ族とまで特定できなくても、瑚子が人間でないことは奏真館に関わる人間すべてに悟られてしまう。

 ハナサキ族の利矢は言葉遣いこそ礼儀の欠片も無いが、頭の回転は速い。昨年の秋、瑚子が間に入ったことでチョウを仕留め損ねたものの、チョウが暗闇に消えるまで人型の素性を見せなかった。

 感情の自制心も強く、雪平家に世話になった後、校内では瑚子を空気とみなしている。

 奏真館を一歩出ると、瑚子が諫早市内で利矢を見かけることはドラッグ・ストアでチョウと引き離されて以来一度もない。

 利矢が長崎市へ遊びに出かけるような噂も、廊下ですれ違う音楽科の生徒から聞くこともない。そもそも利矢は瑚子がわざわざ気にかけるような対象でもないので、休日に正晃と分担する家事を放ってまで、浜町に出向いて尾行する理由もない。

 ――否、理由がなくとも、瑚子は年が明けて一度も浜町に行っていない。友里子と一緒に、元義祖母・絹代への手土産を買いに行ったのが最後だった。

 瑚子の年代であれば、茂里町もりまちのショッピング・モール内を巡る方がニーズに合う効率的な買い物ではある。

 それでも浜町が瑚子の記憶で薄らがないのは、アーケード特有の楽しみ方と思い出が樹林千年に筆頭する広く深く根付いているからだ。

 浜町アーケードでは友里子と、聖マリアンヌ女学園の真奈美とで発掘した喫茶店や雑貨店を共有。テイク・アウトのスイーツやタピオカ・ドリンク、スムージーを片手に軒ごとの無料イベントを梯子はしごする。

 陸上部の休みと持ち合わせの小遣いが少ない日が重なるときは、携帯ショップの福引イベントを巡り、真奈美のスマホ・クーポンで飲食できた戦利品を二人のカメラ機能に収めた。

 ガラケーではSNSにアップできず、スマホを持つ真奈美もフォルダに保存する程度に留めていた。

 一度だけ、瑚子に気を遣わないよう告げたが、そこで初めて、瑚子が勘違いしていることを想い知らされただけだった。

『いやいやいや、町ば歩くとだけでも瑚子の可愛さをばら撒いとるとに? 私がタイム・ラインとかにアップでもしたら、瑚子が誘拐される要素が一つ増えるとよ。そがん危なかこと、私がするわけないやん?』

 真奈美の冗談を聞くに堪えられず路地裏に逃げ込んだことが、一秒前のように瞼にも色濃く残っている。


 午後十九時、帰りのJRにてぽっちゃり体型に変形したカバンを撫でた。

 奏真館を出るとき、瑚子がエプロンをカバンに突っ込んだので、既に入っていた持ち物の重量で革が伸びた。

 高総体の応援期間中、帰宅部の瑚子はヘルプとして十の文化部を回る。

 この日は調理部担当でホット・サンドを作った。

 例年はおにぎりを運動部に配布していたが、新型感染症の再流行防止のため、加熱できる個包装の料理が採用された。

 もちろん調理用にと部費から極薄の手袋が支給された。片づけが始まると、瑚子の鳩尾みぞおちまで収まるゴミ箱へ一斉に手袋が投げ込まれた。

 そのうちの二枚に、瑚子の指紋が付着している。トビヒ族として息を潜めるため、瑚子が犯した非情と重ね見て、逃げるように退室した。

 新幹線ルートの開拓と併せて移転した諫早駅には、スーツ姿でキャリー・ケースを転がす男性、酸化した汗の臭いを放出する男女の高校生の袖がぶつかり合っていた。

 いつだったか真奈美が瑚子の汗が良い匂いだと言ったことも思い出し、長崎行きのホームまでハンカチで鼻を抑え踵に重力をかけて歩いた。

 それから十五分、二度目の乗客数ピークを迎えるまでに座席を獲得した。

 膝に抱えるカバンの中では、余りのホット・サンドが教科書にサンドされているかもしれない。受験勉強の夜食として機能さえすれば、瑚子は見目形など気にしない。

 夜食候補よりも定期ICカードよりも、瑚子が手放せずにいられないものが二つカバンの中に留まっていることが瑚子の重点だった。

 友里子が村雨家を出た日から、瑚子は生理用品のポーチを生理のない三週間でさえカバンに持ち歩いている。

 男親の正晃には三台目のガラケーを調べられても、ポーチのファスナーを開け紙の摩擦音を広げられる心配はない。

 万が一外出先でポーチを落としても、ファスナーを半分開ければ生理用品だと分かる数を入れている。

 男女問わず、生理用品だけ見えるポーチを探るのは、人間は刑事ドラマの役者に限る。

 最後の夜、友里子から真奈美の度重なる訪問を聞いた翌朝から、瑚子は現実世界では見つかりにくい手段で真奈美の連絡先のメモを守っている。


 瑚子は二つ目の重点、末広の皺が刷り込まれたプリントを取り出した。

 新年から世間を騒がしている新型感染症の再流行を防ぐため、この年の高総体応援者数と応援競技種目を、奏真館の職員が指定調整した。

 瑚子が指定された応援競技種目と会場、出向く日時はたった一枚のプリントに印字されているが、広辞苑十冊分の重みが膝の筋肉を傷める。

こんなことこがんこと指定されたら、奏真館すら応援できないよできんばい


 三年C組 村雨瑚子


 応援日 二〇二〇年六月二十五日 木曜日


 会場 長崎市総合運動公園(かきどまり)


 応援競技 陸上 長距離・ハードル


 注意 他の陸上競技は応援対象外です。他の生徒に任せること。

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