第七綴   化け物蠢く

 睡夢はいつだって、真紅に染まっている。


 灼々と燃えるくれないは曼殊沙華に似て、されど嫌にはっきりと漂ってくる臭いは少なくとも花の香ではない。なまぐさいのは転がる首から溢れ続けている鮮血の臭いだ。焦げ臭いのは焔が脂肪にまで燃え移った所為せいだろう。

 ありとあらゆる悪臭を纏って、包丁を手にしたあのヒトが立っている。

 現状を理解出来ていない幼き日のアヤカはただ呆然と、床に座りこむことしかできない。逃げることも叫ぶこともできずに黒煙を吸いこんではむせ、熱を帯びた空気に喘いだ。


『アヤカ……』


 ゆらりゆらりと陽炎の如く揺らめきながら、あのヒトが近づいてくる。

 低い目線では口もとまでしか見て取れない。いびつに吊りあがった口角から漏れる呼び声は、苦痛に嗄れている。


『アヤカぁ……』

『……ぁさん、どうし……ごほごほっ』


 言いたい言葉は咳に遮られて届かない。

 何時だってそうだ、何度見ても想いは伝わらないのだ。悔しさに歯噛みするのは現在のアヤカの意識で、ただ涙に咽ぶのは過去の自分。


『アヤ、カ、アヤカ……ッ』


 包丁の閃きを携え、声がどんどん近づいてくる。


「アヤカ様ぁあぁぁッ!」

「ッ!」


 がばりと薄布団をめくり、アヤカは起きあがった。

 現実の疾呼しっこに悪夢からひき戻されたアヤカは肩で息をしながら、額に浮かんだ冷や汗を拭う。はっはっと荒い呼吸を繰りかえし、水を求めて舌が口内を彷徨った。

 自分を叩き起こした声のぬしの姿は見えない。気のせいだったのかもしれないと取り敢えずそのことは頭の隅に追いやる。我を取り戻すのがさきだ。

 そのうちに現状を理解し、自室とは異なる個室にも違和を感じなくなってくる。他の豪奢な座敷とは違い、質素な間取りだが、だからこそ落ちつく。寝室にまで空飛ぶ鯉や屏風から飛びだす侍がいては、おちおち眠ってもいられない。 竹器に手向けられた椿の花に目を移し、もうすこし気を落ち着かせようとおもった矢先だった。


「きゃあぁあぁぁぁぁぁあぁあああああああぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 耳をつんざく断末魔の叫びが響いた。


 それがマイヅルの声であることに気づくと同時に、アヤカは足に絡まる布団を蹴りあげていた。畳に片手をついて立ちあがり、乱暴にふすまを開ける。襖が完全に開くのを待たず、隙間をすり抜け、足指に下駄を引っかけただけの状態で廊下に飛びだした。


「マイヅルさんッ!」


 廊下は先刻さっきと変わらず、薄明るい程度の照明しか燈っていない。清潔に磨かれた床に揺らめく炎が反射して、世界が鏡合わせに見えた。 アヤカの部屋は二階だ。吹き抜けの踊り場を走り、階段を駆けおりてまわり、廊下におりる。その間も視線はしきりに動き、白地に青花の着物姿を探していた。


「マイヅルさん! いたら返事をして下さい!」

 

 答える声はない。ただ嫌な予感がする。

 鼓動が狂ったようにのたうっていた。自分の呼吸だけが静寂を掻き乱し、沈黙が不安を煽る。


「あれは……?」


 闇のわだかまりに浮かぶ、白い異物を目に留める。

 真夜中とはいえ、ここの廊下にごみが落ちているはずがなかった。拾いあげ、まじまじと観察する。それは人型に折られた千代紙で、これといって気にとめるような物ではないはずだ。

 しかしながら、アヤカはそれから目を離すことができない。


 千代紙の模様は、マイヅルの来ていた着物と瓜二つだった。


「マイヅルさん……?」


 考えるよりさきに、声が漏れていた。

 まさか、そんなはずがないと否定しきれないのは、この宮に感化されてしまった所為か。

 それとも、マイヅルの着物とおなじ模様の、この千代紙が悪いのか。


「マイヅルさ……っ!?」


 突然の衝撃。

 アヤカの身体が紙くずのように宙を舞い、事態を把握する前に床へと叩きつけられた。


「がッ」


 落下の衝撃に骨が痺れ、全身がばらばらになったような錯覚を起こす。遠退く意識と一緒にあらゆる身体器官が停止したのか、呼吸がまったくできない。痛みよりも酸素が肺に供給されないことに焦る。ひゅうひゅうと喉だけが鳴り、世界が暗転と回転を交互に繰りかえした。


「なに、が」……起こったんだ。


 空気を取りこむ作業に全神経を集中させながら、目玉だけは見開いている。真っ直ぐ天井を見あげた視界にぶわりと、黒い影が割りこんできた。


『脆イワネェ、ダカラ人間ノ男ッテ嫌イナノヨ』


 だらりと、両脇に垂れ下がった黒髪。こちらを睥睨するぬらりと濡れた眼球。

 美人とは言い難いが、それらはすべて女性のものだ。真っ赤に裂けた唇から四本の牙がつきだしていなければ、女中と見間違えたかもしれない。

 だが、違う。これは、これこそが。

 粘着ねばつく唾液に濡れた牙がアヤカを狙い、大きく上下に開かれる。その間から獲物を捕食する為だけに生えている緑の舌が覗いた。



 本物のバケモノだ。

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