第20話 真実

 わたしたちは姉妹だったと、濡れた体にタオルを巻いて彼女は言った。体を温めるために入れた熱々のレモンティーを淹れた。僕はお茶を淹れてもらう。


「仲のいい姉妹。あおちゃんしずちゃんって呼ばれてた」


 僕は濡れた制服を洗濯機にかけてもらい、今は彼女から、お父さんのものだけど我慢してね、と丈の長いズボンと上着を借りている。都合よく体育がある日じゃないことが、もう少し融通をきかせほしいと思ったりもするけれど。


「碧は内気で外に出たがらない、いわゆるインドア系って感じなんだけど」

「君はアウトドア系ってことか。さすが姉妹だね」


 彼女は、あはは、と笑う。なぜ笑う。


「わたしが何度遊びに行こうって言っても、碧は一度もついてきてくれなかったよ」


 めんどくさい、と断っていたそうだ。幼稚園児が。


「君と初めて会ったのは、確か公園だったかな。最初は二人で遊んでたけど、徐々に人が増えていったんだよね。赤場くん、溝口くん、堀江くん、あと──奈月ちゃんも」

「奈月のこと、知ってたんだね」

「うん、まあね。彼女は忘れてたみたいだけど。でも幼稚園の頃だもん、覚えてるわけないよね」


 それは、どうなのだろうか。言うべきか迷い、結局、言わなかった。

 二人以外の名前を聞いても僕は顔を思い出せない。外見がほとんど整っていて区別もつく年齢である中学の、しかも卒業の時の彼らの顔を、僕は思い出せない。


「わたしが死んじゃった話については、ごめんだけどあまり話したくないかな。わたしでもよくわかってないから」


 それはそうだろう。僕は流す。


「ただ、起きたら碧の体に入ってて、わたしは君に会いに行ったんだ」

「僕が山にいるって知ってた理由は?」


 再三問う。


「なんだろう。『勘』かな」

「それ本気?」

「あっ、うそうそ。えっとね……なんとなくわかったんだ」


 ほとんど答えが変わっていない。僕は諦めて次の質問をした。これが一度重要だと思い、最後まで残しておいた。


「空本が消えるっていうのは、どういうこと?」


 彼女はレモンティーの入ったコップを静かに下げた。真剣な表情。


「あの子ね、わたしでも困っちゃうくらいわたしに優しい子なんだ。……だからなのかな、自分が消えてもいいって思ってるの」


 彼女の発した言葉に、僕は沸き立つ怒りを何とか押さえ込んだ。それを言う相手は、彼女じゃない。


「どちらかが消えないと、だめってこと?」


 彼女は頷く。


「でも君は彼女の体を借りている側だ。それがどうして、彼女が消えることになるんだよ」

「それは……」


 彼女は言い淀んで、しばらく黙った。視線を下げてまた上げた時、どこか空気が変わった気がした。低い声。


「私がそう望んだからよ」


 そんな、強い決意に満ちた眼。いや違う、自己満足を誇った眼だ。

 僕は待ってましたとでもいうように、彼女を見つめる。


「望んだ? どういうこと」

「言葉の通りよ。──あなた、流れ星の力って信じる?」

「願いが叶うっていうあれのことをいってるのなら信じてないよ」


 僕はきっぱりと言った。彼女は落ち着いた様子でレモンティーを飲む。姉妹なんだな。


「私も信じてなかったわよ。けど姉さんが死んでから、私は空虚な時間を過ごした。本当に無駄な時間よ。あなたより無駄な時間。その生活が中学三年間、丸々続いたわ」


 彼女は苦虫を噛んだような表情になる。


「けど、このまま何もせずそんな空虚な時間を過ごすくらいなら、誰かにあげたいって思った。そう思ったとき、真っ先に思い浮かんだのは──姉さんだった」

「空本のせいで死んだわけじゃないんだろ。責任を感じる必要なんて──」

「責任なんて、そんな軽いものじゃない」


 彼女は強く言葉を断じる。


「姉さんは私なんかよりも生きるべき人だから。生きていたいと思っていた筈だから。だから私は毎日星に願ったの、姉さんを返してくださいって」


 そんな願いを、星は聞き届けたというのか。彼女の自己満足も甚だしい行為を認めたと。


「途中で諦めたけどね。半年くらい経っても全然叶わないから、ああやっぱり迷信なんだって。──けどあの夏に、私はニュースを見た」


 あなたも見たんでしょうという視線を向ける。ああ……あれだ。


「星雨。これ以上ないでしょう。むしろこれで駄目だったら諦めるつもりだった。何百本も流れるうちの一本にも、私の願いは届かなかったんだって」


 でも、その願いは。


「だからあの日、夢の中で姉さんに出会った時。私は願いが叶ったと思った。姉さんは夢の中で『体を貸して』って言ってきたから」

「それで、君はなんとも思わず体を貸したの?」

「ええ」


 馬鹿だ。ただの馬鹿だ。そんな迷信を信じて、願った望みは自分ではなく他人のことだったなんて。それを叶えたこの非常識な現実にも、このまま自分は消えてもいいと、そう僕を見つめる彼女の眼にも僕は反吐へどが出そうだった。


「姉さんはあなたのことが好きだった、ずっと。卒園式の次の日に引っ越しをすることも、あの人は言い出せないほど辛かったのよ」

「それは、どうして」

「決まってるじゃない。あなたを縛り付けることをしたくなかったからよ。あの時あなたの回りには姉さん以外にも人が集まっていた。そんな中、引っ越すなんて言えるわけないでしょ」


 それくらい気づきなさいよ、と彼女は僕を睨み付けた。やけになってレモンティーを一気飲みして、行儀悪く音を立てて置く。

 ああ、心底君は僕のことが嫌いなんだな、と僕は確信に近い感覚を肌に感じた。


「君は彼女のことばかりなんだね」

「は?」

「まるで僕みたいだ」


 共感、といえるほど共感しているわけじゃない。ただ過去のことを今も追い続けている姿は、似ていると思った。

 自分では気づかなかったことで、自分では見えなかったことが、他人ひと の行為としてはこれほど、これほどに恥知らずなことだと思い知らされた。理性ではそのことをわかっている彼女だから、今の僕のように客観的な視点で見れていたのかもしれない。


「だから、それは間違ってる」


 きっぱりと言ってやる。これは僕なりの罪滅ぼしでもあった。前を向かずに後ろを振り返ってばかりいることの愚かさを、彼女の醜さが僕に教えてくれたから。


「間違ってる?」


 彼女は反芻するように、一人呟く。

 ずっと握っていた両手をさらに強く握ったからか、震えているように見えた。噴火したように立ち上がり、彼女は喚く。


「あなたに……あなたに何がわかるのよ! 姉さんを失った後の私の五年間を、あなたは何も知らないじゃない!」

「知らなくてもわかるよ。だって、君の望んだことは、本当に彼女が望んだことなの?」

「それは……っ」


 違うと、わかっている筈だ。誰よりも一緒にいた妹の彼女なら。ただその理性が、大きすぎる過去のトラウマを忘れるための本能に押し潰されていただけで。


「もう一度、よく考えてみてよ」


 彼女は黙り込み、ぽつりと呟く。


「けど姉さんは……」


 ああもうじれったい。僕は立ち上がり、彼女に近づいた。なんだろう、自分に言っているみたいに言う。


「君の意見を聞かせてよ」


 彼女は俯かせていた頭をあげて、僕の方を見た。いつもみたいに取り繕った凛とした雰囲気の欠片もない、臆病で弱虫な彼女の本当の姿だった。強い自分を演じようとしている所まで、僕にそっくりだと思った。


 彼女は「え」とか「う」とか言葉に迷って、やがてこっちを見た。


「姉さんを、忘れることはできない。私の大切な、姉さんだから」


 僕は頷く。忘れたくない思い出があるだけで、彼女の方が少しマシだ。


「けど、それだと姉さんは泣いてしまうから。私は、そんな姉さんを見たくはない」


 辛さを共有することが二人の間でできるのだとしたら、分かちあえると同時に、苦しみも同じように背負ってしまうのだろう。雫の方は、過去の彼女に囚われている空本を見て、自分に責任を感じていた。空本は、過去を忘れたくせに前を向けていない僕を不甲斐ないと罵倒し。

 僕はそんな二人を見て、少し羨ましいと思った。


「見たくないなら、もうそろそろ解放してあげよう」

「……わかってる」


 そうしないと、二人とも前に進めないから。


「けど一日だけでいい。わたしたちに時間をほしい」


 彼女は立ち上がり胸に手を当ててそう言った。

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