第19話 許し

「今の……何?」


「つくづく、不思議な娘だ」 


 九尾の妖狐は目を細め、戸惑う沙羅の姿を眺める。


「常人より、霊力が少し高いだけの娘かと侮っていたら、俺に取り憑かれながらも、意識の深層部にまで介入してくる強い精神力を持ち、神器の力無しでも魂を鎮め、邪なものを祓い清めるほどの力を持つ。いや……むしろ、神器を失くしたことで、お前の本来の力が解放されたのか」


「本来の力?何を言ってるの」


「……お前はきっと、特別な存在なのであろうな」


「……?」


 その時、鼻がムズムズしてきて、沙羅は「くしゅんっ」と小さなくしゃみを漏らした。そういえば、さっきからずっと雨に打たれているのだ。風邪を引いてもおかしくはない。庇護のない旅の身で病にかかるのは死活問題だ。埋葬作業は済んだのだし、もう山を降りてどこかで宿を借りられないか探したほうがいいかもしれない。そこで少し休めば体力も回復するだろう。沙羅は九尾の妖狐へ微笑みかける。


「ねえ、九尾の妖狐……さん?」


「九尾でいい」


「じゃあ、九尾。ここはもう寒いし、私は町へ戻ろうと思うの。あなたも、まだ本調子ではないんでしょう?また、この中へ戻って体を休めなさい。この御統は私が首にかけて、肌身離さず持っておくから、心配はいらないわ」


 沙羅の申し出に、九尾はすぐ頷くかと思ったのだが、彼は「いや」と首を横に振った。


「その前に、お前に話がある」


「話?」 


 なんの話だろう。目をパチクリさせて、沙羅は九尾の顔を見上げた。九尾は、淡々とした口調で告げた。


「——俺は、今ここで死ぬ。お前は俺の首を多津瀬へ運び、退治したと里の長に言うがいい。さすればお前は、再び元の安穏な生活に戻れる」


 亡骸の埋まった土の上へ、優しく降り注ぐ慈雨の音が、沙羅の耳朶を打つ。


「え?」


 間を置いて、ようやく口から出たのは、どこか間の抜けたその一音のみだった。九尾は表情を一切変えずに言葉を続ける。


「……せめてもの罪滅ぼしだ。狂わされていたとはいえ、俺はあまりに多くの、罪もない命を奪った。お前にもひどいことをした。お前の里にもな」


 言ったそばから、九尾は地面に転がっていた抜き身の刀を拾い上げた。討伐隊の誰かが持っていたものだったのだろう。雨に濡れた刀身が、まるで涙を流しているように見える。その刀身を、自らの胸へ突きたてようとしていることに気がついた沙羅は、「待って」と悲鳴をあげるように叫び、無我夢中で手を伸ばしていた。


「お願いやめて。私は、あなたが死ぬことを望んでないわっ!」


 伸ばされた沙羅の手は、九尾が自身の胸を突くのに使おうとした刀をぎゅっと握りしめていた。自分の手の握力で刃が手のひらに食い込み、痛みが走る。だが、九尾は沙羅の行動に顔色一つ変えず、刀を下ろそうともしない。痛みに負けて沙羅が手を離してしまえば、九尾はすぐにでも死のうとするだろう。沙羅は、痛みをこらえ、半ば泣きかけながら必死で叫んだ。


「もう誰にも死んでほしくない。誰にも、私のせいで死んでほしくないの。あなたにもよっ」


 沙羅の訴えが届いたのだろうか、九尾がふっと刀から力を抜いた。死ぬのをやめてくれたのだろうかと思った沙羅は、刀から手を離す。が、それは罠だった。九尾は刀の柄頭を油断した沙羅の胸元へ叩き落とし、その衝撃と激痛に沙羅の体は崩れ落ちる。体は痛みに喘ぎ、脳はグラグラする。やわらかな雨の音が脳髄にまで響き渡る。意識が持って行かれそうになる。それでも沙羅は、地面を掻き毟り爪を皮膚に食い込ませて懸命に耐えた。そうでもして意識を保たないと、九尾が死んでしまう。九尾は沙羅を気絶させ、邪魔が入らぬ状態で死ぬつもりなのだ。


 意識を失わなかった沙羅に驚いたのか、九尾は信じられないと目を見開く。

 沙羅は自分の気を奮い立たせるように、地べたに手をついたまま叫んだ。


「そもそも、危険を冒して山へ入ったのだって、あなたがまだ苦しんでいるかもしれないと思ったからよっ。あの夜、あなたを完全に救うことができていなかったのなら、今度こそ必ず、救いたくて、その一心でここまで来たのよ。……確かに、あなたが命を差し出せば、私は元の生活へ戻れる。けれどそんなの望んじゃいない。そんなのを望んでここに来たんじゃない。そんなので元の生活に戻れても、ちっとも嬉しくない。罪滅ぼしをしたいというのなら、もっと他にやりようはいくらでもあるはずよ。私も一緒に、考えるから。だからお願い。死ぬなんて言わないで」


「死が救いとは思わぬか」


 沙羅はハッと顔をあげる。九尾の苦痛に満ちた顔がそこにはあった。


「もう何百年も前の話だ。ある日突然、何の根拠もない激しい憎悪と殺戮の衝動が沸き起こった。それは正常な心をたちまち奪い、俺を狂わせた。狂った挙句、何千もの罪なき命を奪った。人もあやかしも、神すらの命も。そんなことはしたくないいっそ殺してくれと、心の奥底で泣き叫びながらも、上書きされた憎悪がそれを許してはくれなかった。封印されてもその衝動はなおも止まらなかった。……お前が消してくれるまでずっとだ。だが、お前のおかげで、もうあの忌まわしい衝動にに邪魔されずに、俺は死ねる。ようやく死ねる。そしてその死はお前への罪滅ぼしにもなる」


「嘘よ」

 

 沙羅は、先ほどとは打って変わり小さな声を出していた。


「なんだ」


 地面へ這い蹲り、髪を垂らし呟き出した沙羅を、九尾は怪訝に伺う。


「嘘よ。嘘。死にたいなんて嘘っ」


 地面に突き立てた指を伸ばし、沙羅はキッと九尾を睨み上げた。


「死にたいなら、どうしてあの時逃げた!?逃げなければお前は父上たちに殺されていたはずだ。どうして勾玉の中に身を隠した!?隠れなければ、弱ったお前は父上の兵たちに見つかりいとも容易く殺されたはずだ。どうしてもっと早くに私の前に姿を現し、今のように自分で死のうとしなかった!?本当は、本当は死にたくなんかないんだろう!」


「俺は……」

 

 きつく攻め立てるような沙羅の口調に、九尾は瞳を揺らす。


「本音を言え!」


 獣のように地面にうずくまりこちらを見据える少女の眼光は、恐ろしいほどに冴え渡っていた。何もかもを見透かすようなその双眸に、九尾は胸を突こうとしていた刀を落とした。


 沙羅の瞳に魅入られたように、言葉を漏らす。


「死にたく……ない。だが、俺は生きていてはいけない存在だ。こんな血にまみれた汚らわしい獣が、この世で生きることなど誰も許さない。俺の所業を知る者は皆、人も神もあやかしも、誰も許しはしないのだ」


「私が許す」


 低い声でそう言うと、沙羅はよろよろと立ち上がった。まだ九尾にやられた箇所が痛み、ケホケホと咳き込みながら。


 髪も服も手足も顔も、雨と泥で汚れ、酷い格好をした沙羅は、屹然と九尾を見返した。その姿からは、かつて「姫」や「守り巫女」と人々から敬われ親しまれ、平穏な生活を送っていた華やかな娘の面影は一切見えない。神をも差し置き、お前を許すと傲慢な態度で九尾を見返してくる、泥に汚れたただの娘。それなのに、九尾は目をそらすことができなくなっていた。


「たとえ神さえ許さなくとも、私だけはあなたが生きることを許すわ。大叔母様が、私が生きることを許したように」


 九尾はわずかに声を揺らして、元のやわらかな口調に戻った沙羅に問うた。


「お前は二度と、里へ戻れずとも良いのか」


「かまわないわ。覚悟の上だもの」


「俺を、憎くは思わないのか」


「思わない」


「許すのか、こんな俺が生きるのを」


「許すわ。あなたが許しを求めるのなら。あなたが生きたいと望むのならば。……生きたいのならば、死が怖いのならば、生きなさい」


 九尾は、自分を見上げてくる沙羅の瞳をじっと見据える。それから、ふっと力が抜けたように笑った。


「ならば俺はお前のそばで生きよう。そうさせておくれ」


 そう告げると、九尾は沙羅の胸元で光る赤い勾玉へそっと触れた。次の瞬間、勾玉に触れた九尾の指先から、黄金色の無数の葉が弾けるように舞い上がった。それは九尾の体を覆い隠し、沙羅の視界を黄金色に染めあげる。黄金の葉は突風に吹かれたような乱舞をしばし繰り広げると、やがて五つの勾玉に向かって飛び込んでいった。勾玉はその全てを吸収してゆく。それが終わると、九尾の姿はどこにもなかった。


 沙羅は、まだジクジクとした胸の痛みを感じながら、勾玉の一つにそっと触れてみた。やはり、勾玉はほのかに熱を帯びている。人肌のような優しいぬくもりに、沙羅は思わず涙ぐんだ。

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