第2話 肉壁は嫌だ

「彼女さんを救えず申し訳ありませんでした。でも、あなたは無事でよかったですね」


 『誰か』は、眼鏡をクイっとあげてひどく落ち着いた声でそう言った。

 触れた眼鏡のレンズには、返り血が付着している。それが気になったのか、『誰か』はせっかく位置を直した眼鏡をはずして、服の裾でその血をぬぐおうとした。すると、はた、と動作を止めて、こちらに真顔を向けた。


「ハンカチ、持っていたら貸してもらえませんか?」


 しばらく唖然としていた俺は、その落ち着いた声でようやっと状況を理解する。そう、さっき……、さっきコイツ……優里奈の頭を斧で――


「どうして、どうして優里奈を……」

「え?」

「邪魔すんじゃねぇよ部外者が‼ 」


 足の先から一気に熱い何かが湧いて出た。その湧いて出た何かに任せて口を開くと、とんでもない台詞が漏れ出していた。ああ、俺はまた感情をコントロールできなくなっている。コイツは俺を助けてくれたのだ、助けてくれたのに――


「俺は優里奈に喰われたかったんだ、なのにお前が優里奈を殺したんだ‼ 」


 違う、優里奈を殺したのは俺だ、俺のせいだった。俺が優里奈を見失ったせいで、俺が優里奈を一人にしたせいできっと何かに巻き込まれて……コイツは関係ない、何も悪いことはしていない。


「どう責任取ってくれんだよ、なあ‼ お前の名前すら知らねぇし、何なんだよお前、ふざけてんじゃねぇよ‼ 」


 こんなこと言いたいんじゃない、ダメだ、ダメだ黙れ、ふざけているのは俺だ。


「お前も死ねよ‼」

「死にたくありません」


 とても強い言葉だった。

 熱くなっていた俺の体が、一気に冷めていく。無表情なままの『誰か』は、服の裾で眼鏡のレンズを拭き始める。


「僕が死にたくないから、あなたを助けました」

「……は? 」


 眼鏡を持ち上げて、拭いたレンズにフッと息を吹きかけ、曇ったレンズを再び服の裾で拭き始める。


「僕一人ではここから出るのは困難なので、僕がここから出るためにあなたを助けました」


 やっと汚れが落ちたのか、眼鏡を裾から離して顔に装着した。


「別にあなたの為とかではないので、大丈夫ですよ」


 眼鏡のレンズ越しに光る金色の瞳。横長に伸びた瞳孔が山羊を思わせるその瞳は冷たく、だが意思がはっきりとした美しい瞳だった。ずっと眺めていたら吸い込まれそうだと思うくらいに――


「……大丈夫ですか? 」


 コイツの声ではっとする。俺はしばしコイツの瞳に見とれて固まっていたようだ。血が足りなくてボーっとする頭を振って、なんとか意識を保とうとする。というか、何も大丈夫ではない。さっきコイツが言っていたことが俺にはさっぱり理解できないのだ。

 理解できないのは今俺の頭が大丈夫じゃないからなのだろうか、それともコイツが理解できないことを言っているからなのだろうか。そんな余計なことを考えていたら、もう俺の機嫌は大分落ち着いていた。


「だいじょばない」

「そうですか、肩貸しましょうか? 」

「いや、いい……それより、その……」


 俺はコイツが何を言っているのか、何が言いたいのかよくわからなかった。でも、はっきりわかることが一つだけある、こいつは『死にたくない』ということだ。


「まずは謝る、さっきは取り乱してすまなかった」

「ああ、いいですよ。無理もありません」

「なんでお前そんなに冷静なんだよ……」


 俺は大きなため息をついた。こんなに冷静過ぎるコイツを見ていたら、取り乱していた自分が恥ずかしく思えてくるから。


「僕は冷静じゃありません、女の子の頭を斧で叩き割ることのどこが冷静でしょうか? 正気じゃないと思います」

「んぇっ……いやお前、自分で言うのかそれ……」

「僕は別に殺人鬼でもサイコパスでもないので、その時ごとに自分にとってリスクが低い選択肢を選んでいるだけです」

「……それでお前にとってのリスクが低い選択肢が、俺を助けることだったと……」

「そういうことです」


 取り乱していた俺が言えることではないとは思うのだが、例えるなら『ゾンビ』のような姿に豹変した人間に襲われている人間を、わざわざ自分の危険を顧みず助けに入ることがはたしてリスクの低い選択だと言えるだろうか。俺なら、誰かが襲われているうちに自分の身の安全を確保してしまう……そう、見捨てて逃げる。大多数が現実でこんな状況に出くわしたら逃げるだろう。

 やっぱりコイツのことがよくわからない。理解しようとするのをやめた方がいいのだろうか?

 一旦冷静になろう、いや、もう冷静にはなっているのだが、あまりに色々なことが起きすぎて脳みそがパンクしそうだ。とりあえずここが何処か分からない場所で、出口どころか扉すらない長い廊下が続くばかりで出れる気配がない。そしてあろうことか見失っていた内に優里奈はこんな『ゾンビ』のような姿に成り果て、狙ったタイミングのように現れたヒーロー(名前は分からない)に俺は助けられ九死に一生を得た。今はそんな状況だ。そしてコイツは確かこんなことを言っていた。


「そういえば、お前、ここから一人で出るのは難しいから俺を助けたって言ってた……よな?」

「はい」


 ここから出るのは難しい、それは理解できる。ドアもない廊下と窓だけの空間なのだ。出られるかもわからない。でも、コイツは一人で出るのは難しいから俺を助けたと言った。ということは一人じゃなければここから出られる? コイツは出る方法をすでに知ってる? ということにならないだろうか?


「……出れるのか?」

「はい?」

「出れるのかって」

「……」

「おいなんで黙ってんだ、やっぱり出られな――」


 コイツは目の前に立ったまま急に微動だにしなくなった。その視線は俺ではなく足元へと向けられている。俺は自然と視線をコイツに合わせてコイツの足元へと向けた。


――青白い優里奈の手が、コイツの足首を力強く握っていた。


「!? い、いきて……!?」


 優里奈は声にならない雄たけびを上げて、しっかりと掴んでいたコイツの足を崩した。がくんと膝を曲げてしまい、コイツは優里奈の方へ体制を崩し尻餅を付く。尻餅を付いたコイツに容赦なく優里奈は組み付いて襲い掛かった。


「おいヤバ、あ、い゛!!」


 何とか立ち上がって優里奈を引きはがそうと手を伸ばす。だがその手は動かなかった。動くどころか焼けるような激痛が走りそのまま俺の脳天まで電流が走った。まるで電気ショックでも流されたのかのように俺は再び床へ崩れた。


――そういえばこっちの手喰われてたんだ、痛みも全部忘れてた!!


 ついでに血も大量に流したことを思い出し、急に吐き気とめまいが襲う。視界が歪んで、優里奈に組み付かれたアイツがどんどんおされているのが分かる。


「健斗‼」


 アイツは優里奈と戦いながら、倒れた俺に視線を向けて名を叫んだ。

 コイツ、ほとんど話したこともないのに俺のことを下の名前で呼び捨てか。俺はコイツの名前すら知らないのに。


「斧をッ‼」


 斧と叫ぶアイツの視線の先、いつの間にか斧は俺のすぐそばに転がっていた。さっき優里奈に組み付かれた時にこちらへ飛ばしてしまったのだろう。

 でも片腕は動かないし貧血で意識を保っているのがやっとな俺に、斧なんて振れるんだろうか。


『げ』


 優里奈がつぶれた喉で音を鳴らす。


『げ、ン』

「健斗」


 朦朧とした意識、信じられないくらい痛い腕、血がなくて動かない体。

 でも、確かに俺の耳に入ってきたのは、優里奈の声だった。


「だあああああああああ!! どちくしょおおおおおおおがああああああああ!!」


 叫ぶ勢いで飛び起き、俺は無事な方の腕で斧を取った。

 勢いに任せて斧を振り上げる。


「優里奈ああああああああああ‼」


ドンッ――


 斧は優里奈の首に目掛けて振り落とされる。勢いの付いた刃はそのまま優里奈の華奢な首を切断した。接続が無くなった首はそのまま床に垂直落下して、ボールのようにバウンドして転がっていく。優里奈の首が廊下の先の暗闇に消えると、優里奈の体が糸が切れたようにボロボロと崩れて床に落ちた。


「はぁっ、はぁっ……」


 俺は斧から手を離して、大きく体をふらつかせる。ふとした時膝から力が抜けて、俺も糸が切れたように崩れ落ちた。床に崩れそうになったその時、俺の体をすかさずアイツが支えた。


「ありがとうございました」


 耳元で静かに囁くコイツの声は、心なしか息が上がっているように震えていた。首筋には汗のような水滴が伝っている。冷静だがコイツも俺と同じ人間なのだ、命の危機に瀕したら流石に緊張するらしい。


「……あぁ」


 俺は何とか返事をして、床に転がる優里奈の首なし死体を見やる。首の切断面からはドクドクと赤黒い血液が流れ出て、床に血の池を作り出していた。


も殺しちまった……」

「……もう行きましょう」


 もう行くという声に、俺の意識は付いていけなかった。ぐらりと視界は一回転して、真っ暗な闇が俺の目の前に広がった。



 柔らかい肌触りと薬品の匂いが俺の感覚を刺激する。ゆっくりゆっくり意識を海の底から地上へ引き上げていくと、暖かな日の光が俺を照らした。ここは外なのだろうか、あれは全部悪い夢だったのだろうか、そんな淡い期待を持ちながら、俺はゆっくりと瞼を開いた。


「おはようございます」


 山羊の瞳が俺を真っすぐ見下ろしていた。


「……ここは?」


 俺は額に手の甲を乗せて、目線をゆっくり辺りに動かす。視界に入ったのは木造の壁と床、そしてテーブルに乗ったいくつかの本と薬品、この柔らかい肌触りは布団だろうか? 見たところここはどうやら『部屋』のようだ。廊下と窓しかないと思っていたのだが、きちんと部屋というものが存在していたらしい。段々意識もはっきりしてきて、俺は腕の肉がごっそり無いことを思い出す。不安に思いながら噛まれた方の腕を見やると、そこに包帯が撒かれていた。


「分かりません。でも、今の所危険はない場所ですよ」


 アイツは布団から離れると、テーブルの方へ行ってカタカタと薬品の入った瓶を弄り始めた。俺はゆっくり体を起こす。


「……悪い夢、じゃないみたいだ」

「案外そうでもないかもしれませんよ。夢を何重にも見ているだけかも」


 アイツは紫色の液体が入った瓶を手に取ると、流れるように俺に投げて渡した。俺は驚きつつも持ち前の反射神経でそれを何とか受け取る。片手サイズのその瓶をつまんで持ち上げると、どろどろとした半透明の紫色の液体が不気味に揺れていた。


「……なんだこれ」

「飲んでみてください」

「はぁ⁉」


 俺は瓶を思わず落とす。落とされた瓶は布団の上で小さく跳ねて沈んでいった。

 飲んでみろとはなんてことを言うのだろうか、どんなに頭の悪い奴でもこの明らかに「毒です」と言わんばかりの見た目をした液体を、怪我人に飲めと、とどめを刺すつもりだろうか。


「回復薬ですよ。なんていうんですかね、ポーション?」

「ポーションはもっと回復しそうな見た目してるもんだろ!! み、緑とかっ」

「君は本物のポーションを見たことあるんですか?」


 カチリと動きが止まる。確かに言われてみたら「緑のポーション」というものはゲームや創作物の中でしか見かけたことはない。いつの間にか回復アイテムは緑色をしているという印象を勝手に植え付けられていたのだ。そう考えてみると「本物のポーション」はドロドロとしていて紫色をしているのかもしれない。……いや、回復薬という名のポーションってそもそも存在するのだろうか? なんか一瞬流されそうになった。


「本物なんて見たことねえよ、そりゃそうだろ現実に飲んだら回復するポーションなんていう魔法アイテムは存在しねえんだから」

「じゃあ飲まなくていいんですか?」

「飲めるかこんなもの……ウッ⁉︎」


 思い出した様に包帯が巻かれた方の腕から激痛が走った。俺は腕を抱えて項垂れる。もうお言葉にできないほどめちゃくちゃに痛い、熱い、なんだこれやばい。


「飲まなくていいんですね?」


 痛がる俺に追い討ちをかける様にコイツは言い放つ。無駄に冷静なこの声のトーンがやけに気に触る。まさか、この痛みがこのポーションとやらを飲めば治るとでもいうのだろうか。そんな訳ないと頭の中では分かっているはずなのに、今はただこの激痛から解放されたかった。その為の方法が今この得体のしれないポーションを飲む他に無かった。

 俺は沈んでいた瓶を掴んで持ち上げる。意を決して蓋を開けた。嫌な匂いはしない、寧ろ花のいい香りがする。本当に効き目がある様な気がしてきた。思い切って一気にその液体を喉に流し込んだ。喉感触は最悪だ。ドロドロの中に得体のしれない固形物が混じっていたのだ、その固形物が喉の側面を伝って胃に入っていくのがわかる。不快感で吐き出しそうになるのを必死に耐えて、しっかり飲み込んだ。

 するとどうだ。間もなく腕の痛みが嘘の様に引いた。まるで怪我などしていないかの様に軽い。試しに腕を動かしてみると、まだ他人の腕の様に感覚が麻痺していてうまく動かせなかった。完全に直せたわけではない様だが、腕はもう使い物にならないとうっすら思っていただけにかなり驚いた。


「凄い! ポーションだった! ポーションだこれ!」


 俺は嬉しくなって瓶を掲げてコイツにアピールする。アイツはじっと俺を見つめて顎に手を当てるとボソリと呟いた。


「毒じゃなかったんだ」

「ああそう……ん?」


 俺はいまいち理解できなくて一旦停止する。だが言葉が理解できるまでにそう時間はかからなかった。


「おま、おっっま、お前っ、おま、お前ええええええええ⁉︎」


 俺は布団から飛び出してアイツに掴みかかる。もう言葉にならない、もうとにかくコイツを殺してやろうかと殺意が湧きに湧いて止まれなかった。対するコイツは素知らぬ顔でされるがままになっている。


「渋った割に飲んじゃうなんて馬鹿ですね」

「お前が飲めっつったんだろが⁉︎ あれ毒だったらどうすんだよ‼︎ お前俺のこと助け損になるぞ⁉︎」


 そう、コイツは此処から出るために俺を助けたのだ。なのに得体のしれぬアイテムの毒味などで俺を殺す気だったのだろうか? もう訳がわからない、コイツが考えていることがわからない。


「……ああ、その事ですか」


 俺が言いたいことが伝わったのか、コイツは掴み上げた俺の手を上から掴むと小さくため息をこぼした。


「君はちゃんと役割を果たしてくれてますよ」

「……役割?」


 一瞬気の緩んだ間に、コイツはするっと俺の手から抜けて、一歩離れた場所で着崩れた襟元を直している。


「肉壁として」

 

 その非道な言葉は、襟を直したついでに袖に付いていた毛玉をむしり取るというすごくどうでもいい行為と共に彼の口から放たれた。


「ギャアアアアアアアアアアアアッ‼︎」


 俺は絶叫マシンに乗った時のような喉の潰れた悲鳴を上げて、バタバタと後ろ歩きに離れていく。壁を背に追い詰められた俺はブルブルと身震いしながらアイツを指差した。


「あ、ああ悪魔‼︎ お、おおおお鬼‼︎ 血も涙もないのかクソ野郎‼︎」

「何をそんなに怯えてるんですか? 僕変なこと言ってます? 当たり前ですよね?」


 スタスタと軽い足取りでこの悪魔は距離を詰めてくる。


「怯えるだろ同級生に、同級生に俺はっ‼︎」


 悪魔はとうとう俺の目と鼻の先にまで迫ってきた。コイツの山羊のような不気味な形の瞳が余計に恐怖を駆り立てる。コイツは本当に人間なのだろうか、もしかしたら本当に悪魔なのかもしれない。俺は恐怖のあまり目をギュッと閉じた。


「僕は【有栖ありす】です」

「ん?え、あ、あり?」


 俺は小さく目を開く。目の前には山羊の瞳があった。だがその瞳はほんの少しだけ揺れている。


「せめて名前で呼び合いませんか、


 そう言うと、有栖は踵を返してテーブル方へと戻っていった。

 俺の記憶が正しければ、先程コイツは俺のことを「健斗」と呼び捨てにしていたはずなのだが……。


「……有栖、そっか……そういう……」


 俺は謎の興奮と緊張がプツンと切れて、ずるずると壁に沿ってそのまま床に座り込んだ。そんな俺を有栖は目で追うと、呆れたように瞳を閉じてため息をこぼした。


「ようはペンギンの列の一番前ってことですよ」


 アリスは踵を返して俺から離れると、再びテーブルの上のガラクタたちを熱心にいじくりだす。カランカランとガラスが衝突する音が、同様した俺の精神を心なしか沈めていく。


「ペンギンって1列で移動するんですよ知ってました? あれ、氷河の深い切れ目、クレバスっていうんですがそれに群れが落ちないためらしいですよ。一列に歩けば最前列のペンギンが犠牲になるのみで、群れの多くは助かります。つまりですよ、健斗さん、あなたが僕より先に立ってクレバスに落ちてくれれば僕は落ちない。一気に生存確率があがるってことなんですよ。具体的な事例としては先ほどの毒見でしょうか」

「長々と無駄な説明ご苦労様」


 俺は髪をかきあげ項垂れる。それもそうだ。肉親でもなければ友人でもない赤の他人を、親切心だけで助けるなどあり得ない。それに俺をペンギンの最前列とするために助けたのであれば、自然とあの答えも予想が付く。とはいえ一応確認はしておこうと、俺は有栖を見た。


「なあ、さっき『出られるか』って聞いたの覚えてるか」


 有栖はカチャカチャとガラス類を弄っていた作業を止めて、俺の方へ顔を向ける。


「……『分かりません』」

「だろうな」


 俺は重い腰を起こして、ふらりふらりと部屋の奥の本棚の方へと足を進める。目に入った本の背表紙たちはどれも日本語では書かれておらず、語学堪能でもない俺には到底読解できない代物であると本を開かずとも分かった。だが、何もしないで呆然と有栖を眺めるのも嫌で、それとなく目に留まった本を手に取って適当にパラパラと広げた。


「でも」


 本を捲る俺に向け、有栖は言葉を続ける。


「僕は諦めませんよ」


 それだけ言って、有栖は俺から視線を外してテーブルに手を突く。手を付いた衝撃でテーブルは揺れ、上に置かれたガラス類はこすれて音を立てる。


「謎はダイスで解けるようになっている」

「……は? ダイス?」


 適当に聞き流しているつもりだったのだが、前の台詞と明らかにつながらない言葉に俺はつい横槍を入れる。本を見ていた目は有栖に向けられた。有栖は俺の視線に気がついたのかまた俺の方へ顔をあげる。


「僕らのやることなすこと、それらには『成功率』が決まっている。その成功率の判定は100面ダイスで決めているって都市伝説があるんです」


 そんな都市伝説聞いたこともない、俺は思わず眉をひそめる。部活でも一切話したことも無かった奴だが、まさかオカルトオタクという奴だったのだろうか。こんな悪夢のような状況下ではあるが、そんなオカルトを本気で信じてしまうほどまだ精神はイカレていない。舌打ちを漏らして視線を本へ戻した。


「だからきっと、僕らが諦めなければダイスはし、謎だって解ける」

「振られるって、まるで誰かに操作されてるみたいなこと言ってさ。マジで頭がイカレちまったか?」

「君がどう思おうとそれは自由です。でも僕はそう信じて、脱出することを諦めません」


 俺は大きなため息をこぼした。


「おいおい何なんだよさっきから、まるで俺が諦めてるみたいに言いやがって」


 有栖は絵にかいたようなキョトンとした顔をして、俺を見つめている。八の字になった眉は、実にそのムカつく顔に合っていない。


「俺だって諦めねぇよ。お前が俺を肉壁として助けたんなら尚更お前の思い通りになるかってんだ、お前の為になんか死なねえよ。……俺が死んだら、誰が優里奈のこと伝えんだよ」

「……でも、それは……」

「分かってねえな」


 俺は開いていたページに指を挟めて本をたたむと、そのままその本で有栖の頭を叩いた。パンっといい音がすると、有栖は遅れて目をつぶって驚いたように肩を上じぇさせた。


「優里奈はご両親もじいちゃんばあちゃんもご健在なんだよ。もし俺も此処から出られなくて、外では行方知れず扱いになってたら、残された人たちは一生優里奈のことを探し続けることになる。そんなの、残酷だろ」

「……」


 有栖は頭に置かれた本の影から、俺をじっとその眼で見上げ捉える。


「理不尽な死を告げられるより、いっそ生きていると希望を抱いて探し続ける方がマシだと思います」

「……お前とはとことん気が合わねえな」

「ええ」

「もういい」


 俺は有栖の頭から本を離して、指を挟めておいたページを開いて見せた。突然本のページを見せられた有栖は、瞬きを一つして目線だけをその本のページへと向ける。だが、何かに気がついたように目を見開いて、眼鏡のフレームの端をもってその本へと顔を近づけた。


「お前との関係はもうそれでいい。気に喰わないがもうお互い力合わせて方法を探すしかないだろう? ってことで、早速だがこの本お前読めるのか?」


 俺が話している間も興味深そうにその見開かれたページを視線で追う有栖を見て、少々期待が募る。有栖はスッと眼を閉じて、顔を本から離した。


「書かれている言語はドイツ語ですね」

「おお、それで?」

「……この本、写本のようです」

「写本……?」

「誰かが本を書き写したものってことです」


 そうだったかと思わず本を見返す。誰かが書き写した、と言われれば、確かに文字にところどころインクのダマのようなものが付いていて、ペンで走り書きしているようにも見える。全く分からない言語なのでそういうフォントなのかと思っていた。俺は再び開いていたページを有栖に向ける。


「で、で? このページ、もしかして脱出のヒントが書かれてたりするんじゃないのか?」

「……君がそう思うのってもしかして」


 有栖はトンっと開かれたページに人差し指を置く。俺はそれが見えるように本をテーブルへ広げた。有栖が指さしていたのは本のとある部分。そう、俺が適当にパラパラと捲って目に留まったあの部分だ。『図』である。

 その図は、長方形である。長方形の図が横に二つ並んで、その丁度二つ並んだ間の線に分割されるように『模様』のようなものが描かれている。その図はまるで、二つの戸にシンボルが描かれた『門』のようだった。


「そう、『門』みたいだろその絵。ここって廊下ばかりで扉の一つも無いじゃないか? ああいや、いつの間にかこんな部屋みたいなのに居るけど……ほら此処みたいにさ、もしかしたら出口が隠されてて、この『門』がその出口のヒントとかだったりするんじゃないかと思ってさ」

「……なるほど」


 有栖は指さしていた手を引っ込めて、顎に手を当てる。


「先ほどオカルトだイカレてるだ言っておいて、君もなかなかファンタジーチックじゃないですか?」

「うるせえな、なんか知らないけどピンと来たんだよ、ピンと」

「そうですか、直感は中々侮れませんからね……」


 眼を細めじっと真剣にその図を見つめる有栖を見て、なんだかコイツに利用されるでもなく寧ろ今俺は優位な立場にいるのではと尚更胸が高鳴る。俺を肉壁だペンギンだ言っていたのだ。利用されるよりできれば同じ立場くらいには立っておきたいものである。


「ちなみになんですが、この部屋は壁を叩いて偶然見つけた隠し部屋なんです」

「……壁を? 忍者屋敷みたいに壁が一部回転とかするやつか?」

「まあイメージは合ってます」


 壁を叩いて部屋を探すとは、そういう発想は無かった……と思わず感心する。あの時の俺は優里奈が居なくなってしまったことで動揺して、ただ廊下を真っすぐ歩くことしか出来ていなかった。もっと色々やってみるべきだったのだ。そう、言えば『探索』みたいなことを。


「そういう経緯もあったので……僕もその、出口が隠されている、という意見に賛成です」

「おお」

「この本に書かれていることも、もしかしたらヒントになるかもしれませんね」

「おお」

「では、ドイツ語が読める人を探しに行きましょう」

「おお……おお?」


 カクンと思わず首が落ちかける。


「……お前今なんて?」

「ドイツ語が読める人を探しに来ましょう」

「読めねぇんじゃねえか!! 」


 口と一緒に拳が出た。こればっかりは責めないで欲しい。本当に心から期待していたのにこのしょーもないオチは酷いものである。

 ポカっと頭をまた叩かれた有栖は、頭を叩かれた勢いで落ちた眼鏡が床を転がっていくのを呑気に目で追っている。


「お前質問には次の行で答えろよ、一々引っ張るなよ、なあ」

「別に引っ張ったつもりは無いのですが、期待していたんですか?」

「当たり前だろ!! じゃないとお前に本見せないわ!! 」


 眼鏡が外れて裸眼になった有栖は、眼鏡を拾おうとせずじっとその裸眼で俺を見つめている。山羊のように瞳の瞳孔が縦長に、しかも床と平行になるように真横を向いた変わった形の瞳に思わず興味が注がれる。こんな形の目をした人間なんていたんだと。じっと見ていると有栖が急にくしゃっと瞳を細めた。ああそうか、眼鏡を常にかける必要があるくらいに視力は恐らく低いのだ。黙っていれば悪くはない顔面がくっしゃくしゃの雑誌のようになって台無しである。しばらくそんな台無しの顔を見ていたい。


「……平気なんですね」

「何が?」


 ああいや、と有栖は顔をくしゃくしゃにしたまま床を手探りする。やがてお探しの眼鏡が手に当たったのか、それを手繰り寄せて掴むと埃を払って眼鏡を掛け直した。


「僕の瞳、不気味だって怖がられるので」

「……まあ不気味だな」


 でもこんな屋敷に急に迷い込んで、できたばかりの彼女はゾンビになって頭が床に転がり、俺は腕喰われかけで、同級生に肉壁にされそうになってる状況と、瞳孔が真横を向いてるのとどっちが怖いかっていうと圧倒的前者である。


「いまさらそんなことで精神力削られねえよ」

「やっぱり肉壁……」

「今なんて言ったサイコ山羊」

「別に。そんなことよりこの後どうするか、じゃないですか」


 確かにこんな部屋にいつまでも籠っている訳にもいかない。この部屋が安全であるとは限らないからだ。次やることと言えば、思いつくのはこのドイツ語の本を誰かに翻訳してもらうことくらいだろう。でもこの屋敷に俺たち以外の、しかもドイツ語が読める都合のいい人間なのいるのだろうか? そんなのいくら何でも都合が良すぎて望み薄な話だ。


「実は手掛かりがあるんですよ」


 そう言って有栖は、ズボンのポケットから何かを取り出した。

 指の中に包めるくらいのサイズのソレは、ぱっと拳が解かれたことであらわとなった。金属性の金具がきらりと光りを反射し、それに繋がれた小粒の緑色の固形物は石だろうか。美しく可愛らしいそれは、日本の高校生が学校に身に着けていくには校則違反と没収されてしまいそうなアクセサリーだった。


「ピアス?」


 有栖の手のひらからひょいとそれを奪って摘まみ上げる。ゆらゆらと緑色の石が揺れ、摘まんだ金属製の金具には針のような部品が付いている。それはどう見てもピアスだ。勿論優里奈の物ではないだろう。優里奈はそもそも耳にピアスの穴は開けていなかった。


「廊下に片方だけ落ちてました」

「これが落ちてたってことはつまり……本当に俺ら以外に誰かいるってことか⁉」

「ええ、探しましょう。まずはこのピアスの持ち主を」


 こうして、俺達の方針は『ドイツ語が読める人を探す』というより『ドイツ語が読めると期待してピアスの持ち主を探す』という危ういものに決定したのだった。

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探索者は悪夢以外の夢を見るのか? 這撫広行 @inkogasuki32

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