団塊の墓

台上ありん

団塊の墓

 神社に到る石段は、靴底を隔てて鈍く足裏を突き刺してくるていどにいびつな形をしていた。昨日か今朝の降雨が散り落としたらしい黄色い笹の葉が、湿り気を吸い込んだまま石段にモザイク状に張り付いていた。

 十数年ぶりに実家に帰る途上、私はふと小高い丘の上にある神社に登ろうと思い立った。

 私は神仏の類は、毛ほども信仰していない。二十代のほぼすべての期間を、汚らしい悪行についやした私が、未だに何の罰も与えられず五体満足のまま地上に生きているということを鑑みると、世の人々が畏敬している神や仏というものは、手を合わせて拝むことにしか使えないつまらないものなのだろう。


 私の足取りは、私の意識してるよりも重かった。前にここを登ったのはいつだろうかと記憶を掘り起こしてみたが、なかなか出てこない。小学生だったころに、学校行事の遠足でここを登った記憶はある。それより前か後かはわからないが、祭りの日に神社の境内でグロテスクな獅子舞を見た。獅子舞の顔の色が、ところどころ剥げていたことを、なぜか私は今もはっきりと覚えている。いずれにせよ、子供のころ以来の参拝ということになるのだろう。私は自分の故郷に対する裏切りを確かめるように、ひとつひとつ石段を登った。

 私はそれまでの私の生涯に対して、不思議と後悔はまったく感じなかった。カネにも友にも魂の平和にも恵まれず、今や身ひとつ以外には何も持たない三十半ばの中年で、世間一般の水準から言えば文句なしに同情されて下に置かれる状況にある。もう少し、上手な生き方はあったものだろうかと省みたことは少ないながらも何度かあったが、たとえば十代のころに時間がもどったとしても、私はおそらく同じようなことを同じようにやって、同じところで同じ躓きをし、そしてまた再び今のこの私にたどり着くよりほかはないというような気がしている。

 十八歳だった私は、たいして頭が良くなかった。そして、それほど勉強ができなかったわけでもなかった。私は、都会にある二流の私立大学に通うことになった。勉強したかったことがあったわけではなかった。なりたい職業があったわけでもなかった。ただ単に、皆がそうしていたから、私もそうしただけだった。二流大学は、私のような中の下くらいの地方出身者をおびき寄せる都会の誘蛾灯のようだった。

 都会で一人暮らしを始めた私は、高い時給につられて夜九時から朝方四時までの居酒屋のアルバイトを始めた。ただでさえ安くはない大学の授業料を父に支払わせ、なおかつ毎月私の通帳に振り込まれてくる仕送りに忸怩たる思いは抑えきれずに、せめて家賃と食費くらいは何とかしようと殊勝にも思っていた。いわば、そうすることが育ててくれた親に報いるひとつの方法だと感じていた。これがいけなかった。

 朝方までバイト先で働いた私は、大学の講義には何とか出席はするものの、ほぼ居眠りをするだけになった。講義を担当する講師や教授によっては、居眠りを許さないケチな者もいて、まもなく私はそのケチな講義は単位取得を諦めて欠席するようになった。私がまったく大学に行かなくなるまで、半年もかからなかった。どうせ真面目に講義に出てこつこつ単位を取ったところで、しょせんは二流大学なのだ。卒業しようがしまいが、二流の人生が三流になるだけ。それならば、眠たいときに眠り、食いたいときに食うくらしのほうが健全に決まっている。私は言い訳でなく、本当にそう思い込んでいた。

 私は、当然私が都会でがんばって勉強していると思い込んでいる実家からの電話や手紙などを疎ましく思うようになり、私は無断で引っ越し、携帯電話の番号を変えて、音信普通になる状態を積極的に作り出した。あのときは、妙に清々しかった。初めて自由になれたような気がした。

 そのころになるともはや私の初めてのアルバイトだった居酒屋はすでに辞めていて、パチンコ屋で朝から夕方まで働くようになっていた。パチンコ屋もまもなく辞め、それ以降私はいかがわしいサービスをする飲食店や雀荘の店員など、あまり筋のよくない仕事を転々とした。その間に知り合った、本名もわからぬ五十代の男性にひどく気に入られ、風俗店の店長をまかされたこともあった。ほとんど小麦粉のあやしげな粉や、飢えた豚でも食わないようなキノコを売り歩いたこともある。収入は、まるで心電図のように上下に振幅したが、いずれにしても私の借銭は着実に増えていった。

 私の渡世が品位を落としていくに反比例して、私の悪行は質的にも量的にも膨れ上がっていった。人を欺き暴力を振るうなどはもはや日常で、むしろ誰もだまさず誰も殴らない日などがあれば物足りなさを感じるくらいだった。そういう日は、なぜか右手のこぶしに痒みを覚えた。追われて逃げるように居を変えたのも、一度や二度ではなかった。もちろん私が暴力を受ける側になってしまうことも多く、スタンガンで気を失わされ、雑居ビルの空きテナントの一室にさらわれたこともあった。

 さすがに人殺しだけはしなかったが、自殺した風俗嬢の第一発見者を装うように強要されたことは、複数回あった。多くの借金を背負ったあげくに風俗に身を落とす女は多かったが、むしろ逆に風俗で働き始めてから借金を作ってしまう女もたくさんいた。何か将来の夢なりたどりつくべき理想の自分なりがあって自由意志で風俗に足を踏み入れ、必要なカネがたまり次第さっさと抜け出して娑婆の生活にもどるはずだったのに、小金を持つととたんにクスリやホストクラブで身体を売って稼ぐ金額以上に乱費を繰り返し、借金のどつぼにはまるというのが、そういう女の常道だった。私は彼女らに、「現実はそんなに良いものでも悪いものでもないよ」と遠まわしに彼女らの未来の最善の道を示したのだが、結果はやはり似たものになった。

 私はひとつの魂をも救えなかった。


 最後の石段を登りきると、さっきまでは竹やぶに囲まれてまるで日の出前のように暗かった視界が、トンネルを抜けたように一気に明るくなった。そこは開けた平地になっていた。鳥居のすぐ向こう側に左右に一対の狛犬があったが、そのうちの向かって右側の物は私の参拝を拒むかのように口を開けて私をにらみつけていた。鳥居の手前には、手水場があった。ひさしぶりに見るこの神社は、私の記憶のなかにあるそれよりもかなり大きく、そして綺麗だった。白い、学校の運動場のようなしっかりした地盤が広がった敷地内には、イチョウやサクラなど季節を感じやすい木が植えられていたが、あたりに落ち葉はほとんど見受けられなかった。このような辺鄙な社でも、定期的にやってきて管理している人があるのだろうことを私は悟った。

 私は手水を使わなかった。私以外には誰も参拝客がいなかったのもあるが、思い返してみればそもそも初詣すらろくに行ったことがなく、私は参拝の正しい作法というのを知らなかった。賽銭箱の前に立ち、財布を取り出して小銭入れ部分のファスナーを開けてみた。紙のカネ、つまり千円すらも自分が持っていないのは承知していたが、まさか小銭入れのなかに、百円玉と五十円玉が一枚ずつしかなかったのは、予想していなかった。賽銭にいくらを投げ入れるべきかという予断は持っていなかったが、せいぜい十円がいいところで十円がなければ五円でも一円でもよかろうと漠然と考えていただけだった。この二枚の硬貨が私の持っている現金のすべてだった。どちらか一枚を失っても、自動販売機でジュースを買うことすらできなくなる。

 それならもう、どちらを賽銭にしたところで大きな違いはあるまいと私は覚悟を決めて百円玉を賽銭箱に放り投げた。分厚い木材と小銭どうしがぶつかる音が、箱のなかで何度か反響した。指先をそろえてまるで何かを願うかのように手を合わせてみた。とりあえずは何かを願っておかなければ決まりが悪いような気がしたので、何か望みを心のなかでつぶやいてみようと試みたが、無駄だった。私には、何の願いもない。何の願いもないということは、きっと何も欲がないということなのだろう。もちろんそれは、私が禁欲主義者であることを意味しない。かと言って、虚無という観念ともまた違う。

 私はとりあえずもう一度合わせた手のひらをこすり合わせるようにして、「今やった賽銭を百倍にして返してくれよ」と願っておいた。願ってから、百円の百倍がたった一万円であることに気づいた。

 神社はそれほど標高の高い場所にあるわけではないが、境内からは市内が一望できた。市内の真ん中を通る川が蛇行しながら下っていくのが見え、その先には遠くに瀬戸内海も確認することができた。小さく、戦後に再建された城が見えた。瀬戸内海に点在する島々はいびつな形をしていて、それはまるで空気の抜けた大きなビーチボールが海に浮かんでいるようだった。

 市は北の海側が臨海地区に工場や倉庫などが立ち並んだ工業地域になっていて、そのすぐ内側がJRの駅や役所や裁判所や商店街の、いわゆる中心部分となっている。その中心部分から放射状に外に向かって、中途半端な高さのビルやマンションがあり、その周辺は戸建て住宅、そしてその外側は田んぼや畑がとなっている。しかし実際にそんなにきれいなグラデーションになっているはずもない。私が高校生のころにはすでに、商店街はシャッターの閉まってない店のほうが少なくなっていて、田畑のなかに不釣合いにそびえる大手企業の商業施設がにぎわっているという、典型的な衰え鈍っていく地方都市の様相を呈していた。

 丘の上から眺める景色は、二十数年ぶりに見るそれであっても私にとって無感動だった。私は足元に落ちている小石を拾い上げ、遠くに向かって思いっきり放り投げてみた。石は、私がついさっき息を切らせながら登ってきた石段あたりに、吸い込まれるように落ちていった。石が何かに当たったような音は聞こえなかった。

 いつのまにか夕暮れになっていた。水を張っているがまだ田植えには及んでいない田んぼは、沈み行く陽の黄金の光を反射させてゆらいでいた。水を張っていない田んぼも有り、それらはどれも雑草にひどく侵食されていて、耕作放棄地であることは都会に生まれ育った人間にも一目瞭然だろうと私は思った。ざっと数えてみると、稼動している農地と耕作放棄地は、およそ半々くらいだった。最近建築したらしい家の屋根には、太陽光発電パネルが住居者の意識の高さ或いは強欲さを示すかのように、屋根の端っこまで領域を広げている。パネルは、陽の光を反射させることなく、深く黒く澄んでいた。

 私は、境内の市内が一望できる場所の反対側、ちょうど神社の敷地の中心部を通って対角線上にわたった場所に歩いていった。そこから私の実家のある集落が見えるはずだった。私はうつむいた顔をおそるおそる上げて、伏した目を開けてみた。視界のすべてをさえぎるように立っている竹のすきまから、かたまりになっているくすんだ一団が、山のふもとに見えた。神社からは直線距離で一キロもないはずだが、それがひどく遠くにあるように見えた。三十年以上前に、山肌を削って開発された新興住宅地。正確に数えたことはないのだが、おそらく五百戸ほどの一戸建てが、背後の山と手前の農地に挟まれて密集している。そのなかの、古い一戸建てのひとつが私の実家だった。

 その集落は通称、新光集落や新光地区と呼ばれていたが、そういう名前の住所はこの市に存在しない。なぜあの場所が新光と呼ばれるようになったのか、ゆえんを私は知らないしあまり想像したこともない。「しんこう」ではなく、「しんごう」と濁点がついて発音されることもあるが、地区内に住んでいる人間は後者を使うことが多く、外部の人は前者を使うことが多いので、おそらく集落が形成されたころは「しんごう」と呼ばれていたのだろう。

 私はそのきれいな正方形に区切られた区画の上に、似たような、しかし微妙に大きさや形の異なる直方体の家屋が立てられた灰色の空間を、墓地のようだと思った。自分の育った集落を墓地のようだと比喩するなどとは、我ながらずいぶん罰当たりなものだと私は思った。

 背後で水が流れる音がしたので振り向いてみると、そこには一人の成人男性と、十才くらいの男の子が手水場で手を洗っていた。男性は、私と同じくらいか、あるいは少し年上だろう。年齢的には、私にも家庭があって子供のひとり二人はいても、おかしくないのかもしれない。私は急に恥ずかしくなり、逃げるように境内から出て石段を下った。


 神社を下りてから実家までは、歩いて十五分もかからなかっただろう。ひさしぶりに見た実家は、白いはずだった塀は、たばこの脂がこびりついたように黄ばんで、ところどころ掃除していない金魚の水槽のように緑の苔が薄く張り付いていた。車庫には、テレビコマーシャルで低燃費を売りにしている軽自動車と同じものが停まっていた。家を見上げると、屋根の端の雨どいから一筋なぞるように、壁にシミがついていた。私の知らない間に、実家はすっかりぼろ家になっていた。

 どこで付けてしまったのかわからないが、いつのまにか私の左の手の甲あたりにクモの糸がまとわりついている感触があった。私はその感触を右手の掌でこすりながら見えない糸の正体を探してみたが、手首をどの角度に動かしてみても見つからなかった。

 私は玄関に立ち、この家に対していったい何と声を掛ければよいのか軽く懊悩していた。たとえいかなる理由があったとしても私の実家に対する振るまいは期待の裏切りでしかなく、しかも私にはその裏切りを正当化し得る高潔な理由などは微塵もなかった。懶惰と薄弱によって放縦を重ねてしまっていた。私の知らないところで、私の父がずいぶん肩身のせまい思いをしたことは想像に難くない。私の帰省が歓迎されるはずもなく、たとえいきなり頭を殴られようと半句の弁解すら口に出す資格はない。

「こんにちは」

 私が思い切って玄関の横開きのドアを開け、暗い家のなかに向かって発した台詞がそれだった。言ってしまってから、ずいぶん間の抜けた帰宅の挨拶もあったものだと我ながらあきれた。もう陽も沈んで、すっかり夜になっている。

「はい」という低い声が、寒々しい狭く短い廊下に反響しながら私の耳に聞こえてきた。すぐに、ひとりの男が顔を出して、私を見た。父はがに股の両脚を引きずるようにして、私に歩み寄ってきた。そして玄関の蛍光灯をともした。そのあいだの時間、三秒にも満たなかっただろうが、私にはそれが私が生きてきた時間すべてよりも永く思えた。

「おかえり。遅かったの」

 十年以上の別離は、私の知っている父の顔、父の声、父の肉、父の毛髪、父の身長さえも別の誰かに変化させていた。父は姿はもはや誰の目から見ても、老人であった。おそらく八十歳を超えた老人ですらも、父を老人と評価するだろう。細くこけた頬と深い眼窩が顔に深い陰を描いて、まるで頭と口のまわりに細い白髪のまとわりついたどくろのようだった。

「よう帰ってきたの。よう帰ってきた。よう」父は私を見据えたまま、何度かそう繰り返して言った。私は拍子抜けして、「ただいま」という言葉を発するタイミングを失った。

「腹減ったじゃろ。お前が帰ってくるの、待っとったんよ。ワシも腹減った。飯を、食おう」

 父の目から見た私の姿もやはり変貌してしまっているのだろうか。視線を蝿でも追うかのように中空を左右させてる私に父はそう言うと、私に背を向けてリビングのあるほうへ戻って行った。小さい音でテレビの音声が鳴っていた。私はかかとをこすり合わせてスニーカーを脱いで、父の後に続いた。帰省するに当たって私の最大の関心事は、「どうやって極力怒られずにすませるか」というもので、いたずらをした小学生と寸分変わらぬものだった。父の怒りを一縷でも後退させることができるならば、土下座もいとわぬ気でいた。飯を食おう、と言われ、私はまちがいなく安堵した。

 帰宅の儀式は、それだけで終わった。

 父ひとりが住んでいるわりには、リビングはそこそこきれいに片付いていた。懐かしさという感情はいっさい湧き上がってこなかったが、何かほこりっぽくて尚且つ少し甘いようなにおいがした。二日分くらいの新聞紙とチラシがじゅうたんの上に無造作に置かれていた。私が子供のころから使っている木製のテーブルの上には、すでにふたつの椀と割り箸が並んでおいてあった。蓋付きの漆塗りらしい椀は、どんぶり鉢くらいの大きさがあった。

「天丼の出前、頼んどったんじゃ。お前が何時くらいに帰ってくるかわからんけん、六時半に届けてもらえるように頼んどったんじゃけど、ちょっと冷えてしもたかもしれん。お前、天丼好きじゃったけんの」

 壁には私の知らない時計が架かっていた。すでに午後七時を過ぎている。テレビ三十インチより小さいくらい薄型のもので、野球中継を放送していた。変化したものがやたら目に入ってくるということは、あまり変化してしてないということを逆に示しているのかもしれない。オリジナルが誰のものか知らないが名画らしい絵のレプリカや、電話機の横のシャケを咥えた木彫り熊などは、たぶんここ何年も動かされずにそこにずっとあったのだろう。

 この家は、私が育った家に違いなかった。一度だけ母から、以前は市内の商店街の近くにある借家に住んでいたが、私が産まれた後にこの家を建てて引っ越してきたと聞いたことがあった。私には、前に住んでいた家の記憶はいっさいない。私が赤ん坊のころの写真を、私は自分で見たことがあるが、背景に写っていた景色や建物は私の知らないものだった。つまり、私の子供のころからの記憶はすべて、この家とともにある。

 しかし、懐かしさや喜びや、帰るべきところに帰ってきたという安心感など、本来私にあるべきはずの感情は湧いてこなかった。起居する場所をとりあえず確保したという、レベルの低い欲求の充足のみがあった。私の頭のなかにはなぜか、ケンタッキーフライドチキンのコマーシャルで使用されている、「ケンタッキーの我が家」という曲が流れていた。私のいちばん好んだファーストフード店がケンタッキーだったので、頻繁に耳にするこの有名な曲についてインターネットで検索してみたことがあった。意外なことに、この曲はCMのために作られたものではなく、カーネル・サンダースがレストランを創業するよりもだいぶ前に作曲されていた。

 父は私に、椅子に座るように促した。私の右側に父が座った。

「元気じゃったんか?」

「ああ、うん」

「そうか。元気じゃったら、それでええんよ。飯食おう。ワシ、腹減ってしもた。冷蔵庫にビールやったらあるけん、飲みたかったら飲んでもええ」父はそう言って、冷蔵庫のほうをあごでしゃくるように示した。

 私はアルコールを飲みたいとは思っていなかったが、のどが渇いていたのと、父がわざわざ用意したビールを飲まないことは父の怒りを買うのではないかという危惧があって、私は椅子の上に置いた腰を再び立ち上がらせて冷蔵庫を開いた。不必要に大きい冷蔵庫のドアポケットにスーパードライの五百ミリリットル缶が二本と、透明なビンの日本酒があった。冷蔵庫にはほかに、ドレッシングやマヨネーズ類、スーパーで売ってそうな小分けパックの漬物、もやしが一袋入っていた。台所の流し台のほうに目をやると、ガスコンロのすぐ近くにスーパーの袋がおいてあり、中にはインスタントのカップ麺がたくさん入っているのが確認できた。

「冷酒は、ワシが風呂上りに飲むやつじゃけん、残しといてえ」冷蔵庫の中身を凝視している私に父がそう言った。父は酒飲みというほど酒は飲まないが、昔から季節を問わず冷やした日本酒を飲んでいた。私が初めて酒を飲んだのはたしか高校一年のころで、父の真似をしてコンビニで冷酒を買って自分の部屋でこっそりと飲んだ。一合も飲んでいないのに、急に胃袋の中が熱くなって、一時間後にはトイレに向かって全部吐き出していた。以来、私は日本酒が苦手になってしまい、ウイスキーやワインなどは人並みには飲めるが、日本酒だと少し飲んだだけで酔いが悪く回ってしまう。

 椅子に座って、椀のふたを開けてみると、ふたの内側に水滴が玉になってくっついていた。椀の中からは、でんぷんを水で溶かしたような冷えかけの白飯のにおいがゆっくりと立ち上ってきた。父はすでに割り箸を手に持って、口のなかに飯をかき込んでいる。

「元気に、しとったんか?」エビのてんぷらをかじりながら父がそう言った。さっきも同じようなことを聞かれたが、私は気にしなかった。

「まあ、特に何事もなく」

「そうか。元気じゃったら、それがいちばんじゃ」しかし、父は私のその答えに何か物足りないものを感じているようだった。まるで私の身に何か危機があったことを期待しているかのように私には思えた。父はまたテレビに見入った。

「うちから坂を下りてからまっすぐ歩いて行ったとこに、寿司屋があったじゃろ?」テレビのほうを向いたまま父が言った。

「あー…。小学校の向かいの、小さい寿司屋?」

「あそこの大将が、ワシより五くらい年上なんじゃが、もうトシじゃけんっていうて、店じまいしてしもた。電話して頼んだら出前だけはしてくれるようになっとったんじゃけど、国道沿いに一皿百円の回転寿司ができての、ぜんぜん儲からんなった、て言うんじゃ」

「ふうん」

 父は興奮気味に話を続けた。

「前から、寿司だけじゃなくて丼物とか刺身なんかも頼んだら出前してくれとったんじゃけど、回転寿司のせいで、寿司の出前を注文する人がぜんぜんおらんなったけん、今じゃもう寿司を頼んでも持ってきてくれんようになって、親子丼とかカツ丼とか、丼物の出前専門店みたいになってしもとる。ほいで、おもしろいことに、寿司の出前をやめて丼ばっかりにしたら、大将が言うには、前よりだいぶ儲かるようになったらしいんじゃ。今でも店の名前は『馬越寿司』のまんまやけど、寿司を握らんようになった寿司屋が丼物で大繁盛しとるって」父はその、笑い話なのか冗談なのかいまいち判断しかねる話を、愉快そうに私に話した。

 私はそれを聞きながら、椀の中で行き場を失っているエビの尻尾を箸の先でつまんだ。手元に放ったままの紙の箸袋を見てみると、やはり「馬越寿司」という文字と店の電話番号が黒字で印刷してある。

「病気とか怪我とか、せんかったか?」

 とうとう三度目になったが、私はここに至ってようやく、父が私がこの十数年をどのように暮らしていたのかを知りたがっているのだと気づいた。私には百万語を尽くして父に言わねばならないことがあるはずだが、私が音信不通のあいだにどのように生活していたかなどということは、話したくないというよりも、話せるような内容がない。つまらなく不潔な職を転々とした。その一言で、私の二十代のすべてが尽きる。

「今日、こっちに帰ってきて思ったけど、田んぼってまだ田植えしないんだね。四月か五月くらいに終わらせるもんだと思ってたんだけど、水を張ってるだけのところばっかりだった」私は神社の境内から見た風景を思い出しながら言った。私の家は農家の家系ではないので、親族で農地は所有しているものはいない。私は臆病にも話題を変えることを選択し、その手段としてこの発言をした。

「たぶん、今週か来週くらいじゃろう。このあたりは兼業農家ばっかりじゃけん、田植えは日曜にしてしまうらしいんじゃ。もうちょっと田舎じゃったら専業農家も多いから本腰入れて百姓やっとるやろうし、もうちょっと都会になったら田んぼや畑なんかめずらしいくらいで、今でも農地を持っとる人は意地でも守り通そうとするもんじゃろうけど、このへんみたいに中途半端に開発してしもたら、仕事も人間も中途半端になってしまうの」

 中途半端。私は私の生き様を過不足なく言い表す言葉を見つけたような気がした。

「市内は今、人口どれくらい? 減った?」

「十五万くらいじゃろ」

「ほとんど変わってないじゃん。たしか俺が中学生のときに、十五万か、それくらいって習った記憶があるんだけど」

「ほうじゃけど、となりの町と合併して、十五万なんじゃ。じゃけん、たぶん二万人くらい減っとる」

 私は気取って都会のしゃべり方を続けていたのではない。父の使っている、私の母国語ともいうべき方言を、上手に発する自信がなかった。少し早口でしゃべる父の言葉は、私にはやたらと「か行」の音と濁った音が多く聞こえて、標準語よりも少しだけ暴力性を含んでいると感じた。私には、たいていの田舎者と同じく、努めて故郷の言葉を封じ込めようとして言葉につまるという、かっこ悪い一時期があった。

「帰ってきたんは、新幹線で?」

「うん。のぞみ。岡山駅から特急に乗り換えた」

「そうか。新幹線、速いじゃろ。ワシも昔、二回だけ乗ったことあるんじゃが、あんまり速すぎて、怖なったん覚えとるわい。乗りながら頭の中で日本地図を描いてみたんじゃが、あっというまに東京駅まで着いてしもうて。今、東京から岡山までどんくらい時間かかるん?」

「さあ。一時くらいに東京駅を出て、四時くらいに岡山駅に着いたけど、ちゃんと時計見てたわけじゃないから、具体的にどれくらいかわからない」

「新幹線が開通したときは、東京大阪間で四時間と聞いてウソじゃろがと思った。今はもっと速いんじゃろうなあ。昼ごはんは、どっかで食べたんか?」

「ん、ああ。駅で適当に弁当買って、特急の中で食べた」

 私は昼の、コンビニ弁当にくらべてひどく値段の高い弁当のことを思い出した。特急の片道切符を買った後に財布に残った最後の紙幣一枚をはたいて、その高い弁当とペットボトルのお茶を買ったのだった。ごまの振り掛かった飯が冷たく、サバの煮込みのたれが皮の上にゼリー状に固まってて気持ち悪い感触だった。どう考えても値段に見合わないまずい弁当だった。

 私がまだ天丼を三分の一ほど残しているうちに、父が先に食べ終え、「ごっそうさん」と言って椀にふたをした。食べ終えても、父は私の予想していたより饒舌だったが、しゃべるテンポに少しムラがあるように思えた。その理由はすぐにわかった。テレビの野球中継が、巨人が攻撃側にまわると口数が減ってテレビに見入り、巨人が守備になると息を吹き返したようにしゃべりだす。巨人のバッターが、大きなフライを外野に上げてアウトになったときは、「あああ」と喉の奥から小さなうめき声のようなものが出ていた。地方の住人には、巨人ファンかアンチ巨人しかいない。正確には、野球に興味ないという層も少なからずいるが、私もそのうちの一人だった。

「あのさ、いちおう聞くけど、この家パソコンなんかないよね?」

「ない」父はテレビに目を向けたままだった。背番号10の選手がバッターボックスでバットを持っていた。

「携帯電話とかは?」

「携帯電話の本体は前にワシが使っとったやつがあるけど、契約してないけん使えん」

 父は私が子供のころから、ひどい機械音痴だった。ビデオの予約のやり方は、私が父に教えた。携帯電話はともかく、パソコンなどはろくに触れたこともないかもしれない。部屋のなかを見回してみても、家電はどれもプリミティブなものばかりで、いちおうそれなりに新しそうなものといえば、フラットパネルのテレビだけだった。私は年輩者がみんな機械に弱いという偏見は持っていないが、父は機械の前で右往左往し、ほどなく白旗を上げて人に頼るという典型的な年輩者で、それはまったく変わってないようだった。

「そのテレビ、いつ買った?」

「さあ。5年くらい前か。地デジとかいうのに変わったらテレビが壊れるて言うけん、仕方なしに買ったんじゃけど、前のとどう違うんかようわからん。ひょっとしたら、地デジがどうのこうのいうんはテレビを売りつけようとするオレオレ詐欺みたいなんかと思うとった。このテレビは、前のより画面がちょっと大きくなったけど、薄いけんテレビの上に物を置けんで、不便じゃ」それを聞いて、この家は昭和のころまま時間が止まっているのかもしれないと思った。

 私も天丼を食べ終えた。それを確認した父が、

「うまかったじゃろ?」と言った。

「うん。うまかった」私もそう返事をした。たぶん、うまかったと思う。私は口のなかに残る油をそそぐように、缶のなかのビールを一気にあおるようにして飲み干した。

「もしまだ足らんかったら、インスタントラーメンしかないけど、好きに食うてええけんの」

 私はうなずいたが、食べるつもりはなかった。私が一向にしゃべろうとしない過去の生活を、父は追及してこなかった。私はうまく難を逃れた気分になった。

 風呂から上がったときにようやく私は着替える服はもちろん、下着すらも持っていないことに気付いた。実家に帰ってくるにあたり、私の身元を特定できそうなものは除き所有物はすべて、未払いの家賃とともに四畳半の部屋に置き去りにしてきた。携帯電話やパソコンなどカネに替えられそうなものは中古ショップにぜんぶ売り払っていたので、私の持っていた家財のうち残っていたものは、ゴミに近いようなものかゴミそのものだった。私は文字通りの一張羅だった。仕方がなく、風呂に入る前に脱いだ服をそのまま着た。衣食住のうちどれひとつとして意のままにできないのはさすがに情けなく思い、自分が困窮と苦渋の果てに実家に逃げ帰った敗残の身であることを痛切に自覚した。

 リビングでは変わらず父はテレビを見ていた。時刻はすでに八時半を過ぎていたが、野球の試合はまだ七回表だったので、放送時間を延長しても結果をテレビで見届けることはできないだろう。

「なんか疲れたから、もう寝るよ」私は濡れたままの髪の毛を手のひらで掃うようにしながら、そう言った。寝るには早すぎる時間だが、父と並んでテレビを見るという状況に、所在なさと居心地の悪さしか感じないような気がしていた。

「ああ、そうか。二階のお前の部屋の押し入れに、布団があるけん。一回、干そうかと思っとったけど、最近雨ばっかりで」父はそう言って立ち上がろうとした。私はそれを両手を前に出して制した。

「いいよ。自分でやる」

 しかし父は立ち上がって、上に電話機を置いてある小さな棚のひきだしを開けて、中から何かを取り出した。それが紙幣だということはすぐにわかった。

「ほい」と言いながら、それを父は私に向かって突き出した。横に二回折りたたまれた一万円札のかどは、刃物のように尖っていた。

「何かと、要るモンも出てくるじゃろ。とりあえず、こづかい。ワシにはお前に何がいるかようわからんけん、好きなように使えばええ」

 私にはそれを受け取らないという選択肢がないことは理解していた。しかし私は躊躇した。三十を超えて親からこづかいをもらうことが恥ずかしいなどという殊勝なものではなく、私はそのカネが怖かった。今までさんざん父に負担を掛けた私に対して、なお父は与えようとする。人からカネを強引に奪うことが暴力的な行為であることを私は身をもって知っていたが、人にカネを受け取らせることも同じくらい暴力的だとは、想像もしていなかった。かすかに残っていた私の良心は悲鳴を上げていた。

「ありがとう。今まで、ごめん」私は完全に敗北した。父の手からそのカネを盗むかのようにひったくり、私の部屋として使用していた、二階の西側に窓のついた部屋に逃げるように入った。


 缶ビール二本という、酔うには足らず素面でい続けるには余る量のアルコールを摂取したせいか、私はうまく眠れなかった。家のなかで「こども部屋」と呼ばれていた私の部屋は、私が高校卒業後家を出たときと寸分変わっていなかった。本棚には、私が集めていて引っ越すときに持って行けなかった漫画やCDが並んでいた。わずかに、教科書や参考書の類もあった。

 三十分ほど眠り目が覚め、その後一時間ほど布団のなかで考え事をし、また三十分ほど眠りまた目が覚め、ということを何度か繰り返していた。目が覚めているあいだに、床を伝わってくるかすかな音で、父が風呂に入ったことや風呂から出て冷酒を飲んでいるらしいこと、テレビを消したこと、そして階段を登って二階にやって来てこども部屋のとなりの部屋で眠りについたことなどが、手に取るように知ることができた。

 家賃に追われない部屋の寝床に身を横たえると、私は四肢がタコのようにやわらかくなるのを感じた。

 夜は更けてあたりは死んだように静まり返ったが、今度は遠くのほうから原付が走る音が響き渡ってきた。原付の音は、一台ではなく二台かそれ以上だったので、それが新聞配達だとすぐにわかった。原付は、高くて軽いエンジン音を轟かせると、すぐに悲鳴のようなブレーキの音を短く出す。そしてまたエンジン音を立てる。これを何度も繰り返していた。私は、今の時刻は夜中の三時か四時くらいだろうとおおまかに見立てた。新聞配達がやってくるということは、二時より前ということはないだろう。

 父からもらった折りたたまれた一万円札は、私は一枚だけだと思っていたが、部屋に入ってから折り目を開いてみると、三枚あった。持ち金五十円玉一枚の私にとって、慈雨ともいうべき恵みとなった。私は父がこのカネをどのように稼いだのか想像しようとしたが、実のところ見当がつかないというのが本当のところだった。父はどうやらもう働いておらず引退しているようだが、年金をもらうような年齢になっているのだろうか。私は、父の正確な年齢を知らない。思い出せないのではなく、そもそも覚えてない。昭和二十年代のなかごろの生まれ、誕生日は四月末のゴールデンウィーク前半部分が始まるころ。これが私の持っている、父の生年月日に関する情報のすべてだった。

「ワシは団塊の世代の、終わりのほう」と父が何度か言っていたのを記憶している。団塊の世代とは、第二次大戦敗北の副産物で、戦争に行っていた男が日本に帰還したら子供が増えたという極めて単純な理解を私はしていた。私が団塊の世代という単語を始めて耳にしたのは、たしか小学校の社会の授業だった。その意味を初めて知ったとき、日本人全体に対して蔑みのような感情を持った。戦争とは非常に文明的な振るまいで、戦後の平和のほうが人間が野蛮に行動したのではないかと思ったが、もちろん口にはしなかった。

 いずれにせよ父はすでに六十は超えているはずだが、一方で年金が何歳から支給されるのか私は知らない。「父が年金をもらっているか」という疑問を解決するのに、決定的に重要なふたつの情報の双方ともが私には欠落していた。

 原付の音が、だんだん近づいてきた。私は新聞配達の仕事はしたことはないが、この新光地区のような地域だと配達するのも一苦労だろうと見えない原付の運転者に同情した。ただでさえ街の中心から離れているのに、配達するのはマンションなどの集合住宅ではなく一戸建てになっている。雨の日などは特に辛かろう。私自身、遠くない未来に職を得なければならないはずだが、私は真面目に働く自分の姿がまったくイメージできなかった。手に職もなければ特別な知識があるわけでもない。そもそもこの中途半端な田舎に、私を雇ってやろうなどという度量の広い企業が仮にあったとしても見つけ出せるだろうか。この年齢になって、私はいまだに何者でもない。

 原付が私の家の前で、キュッという音を出して止まった。そして私の家の郵便受けに新聞を入れたようだった。配達員の鼻をすする大きな音が、まるでうどんでも食っているかのように鳴り響いた。もう完全に目が醒めてしまった私は怠惰な芋虫のように身体を左右に揺すって布団から抜け出した。どうせこのまま布団のなかで転々としていても再び眠りに落ちることは期待できそうになかったので、とにかく届いたばかりの新聞でも読んで時間を潰そうと思った。私は配達員がきっちり遠くに行ってしまうのを見計らってから、こっそり夜遊びに出掛ける不良少年のように忍び足で階段を下りた。

 リビングに入って蛍光灯をともすと、時計は午前三時半を指していた。新聞を取りに外に出ると、斜向かいの家はすでに部屋に電気が点いていたが、ほかは貧相な街路灯以外は真っ暗だった。街路灯は、私の家のすぐ正面の電柱には蛍光灯のもの、そのとなりは発光ダイオードに取り替えられていて、新旧の技術の光が混在していた。空には北極星とカシオペア座がくっきりと見えたので、空に雲がほとんどないだろうことがわかった。

 私は新聞を手にしてリビングにもどった。一面には、集団的自衛権がどうのこうのと大きな白抜きの文字で書いていた。新聞を広げてみると、私の足元にやわらかい紙の束が落ちた。広告チラシだった。私は暇つぶし用に新聞をコンビニや駅などで買うことがあったが、もっぱら東京スポーツで、たまに梱包材用に新聞紙が必要なときに一般紙を買う程度だった。配達される新聞にはチラシがはさまっているということを失念していた。落ちたチラシの束を拾い上げると、予想外にチラシは少なく三枚しかなかった。一枚は食材の特売を謳うイオンのカラー印刷、もう一枚は私が子供のころからある地元資本の食品スーパーでこれは黄色い紙に黒字で印刷されていた。最後の一枚は不動産屋のものだった。

 不動産のチラシは両面印刷で、表が入居者を募る賃貸物件の記事で裏面が更地や中古住宅やマンションの売買仲介になっていた。私はあるいは不動産の相場が、この市の現状をおおざっぱに知る手がかりになるかもしれないと思ってそのチラシを手に取った。

「駅まで徒歩5分」というワンルームが三万五千円。敷金三ヶ月礼金ゼロ。六畳でユニットバスという条件は、私が大学に入ったころに住んでいた部屋とほぼ同じ条件だった。そこの家賃は九万八千円でそれでも安いほうだったから、家賃相場は都会の三分の一くらいだろうか。地方の場合、駅まで近いというのは、さほど重要とは思えない。電車で通勤通学する人がそもそも少ない。その記事のとなりには、単身者用ではなく2LDKのマンションになっていた。こっちは駅までの距離を示していないが、代わりに大きく「駐車場空きアリ」と書いてある。家賃は六万円。

 チラシを裏返して、売買仲介の記事を見てみた。更地五十六坪七百五十万円、建付条件有り。私は頭のなかで、一坪あたり十五万円足らずとおおざっぱに計算した。一坪が畳二枚ぶんということは私も知っている。私は目を上下に這わせて、空中に畳二枚分の広さを描いてみた。この大きさが十五万が高いのか安いのか判断することができなかった。その更地は売り文句に、「大人気の城東小学校区!」などと書かれていた。城東小学校がどこにあるか、私も覚えている。その名のとおり、城のすぐ東側にある。わざわざ地区の公立小学校を書いているということは、新築住宅用に更地を買う人は小さい子供を持ってる人が多いという前提がある。

 この更地を購入するのはいったいどういう人なのだろうか。学校を卒業し、就職し、結婚し、子供が生まれて、三十年ローンを組んで一軒家を建てるというライフサイクルのモデルは、疲弊した現在の地方でもまだ有効なのだろうか。私がそれまでろくな人間と付き合ってこなかったというのもあるのだろうが、私にはそのような階段をひとつずつ登っていくような生活は、一部の恵まれた人間のみが得られるもののような気がしていた。私はそのライフサイクルの、最初の部分で躓いてしまっている。

 チラシにはそのほか中古の分譲マンションの記事がいくつかあったが、いちばん右端にある一戸建てに私の目は留まった。「築三十年リフォーム可(別料金) 閑静な住宅街の新光地区!」と書いてある。つまり、私の家の近所の物件だ。敷地四十八坪、床面積三十二坪九百八十万円。市の中心地から離れていて築年数が深いことを考えてみても、一千万を下回っているというのは少々安すぎるが、私はその安さに注目したのではなかった。建物の一階部分が駐車場とくっついている少し珍しい形の一戸建てに私は見覚えがあった。私は子供のころ、その大岡君の家に、頻繁に遊びに行っていた。私の家から子供の徒歩でも五分とかからない。大岡君の家は公園のとなりのとなりにあるので、公園に遊びに行ったはずがいつのまにか大岡君の家でゲームをしていたり、あるいは大岡君の家に行くはずが公園で一寸に満たぬ虫を捕まえているうち、いつのまにか大岡君もそれに混ざって一日が終わるなどということもあった。私は大岡君を時代劇に倣って「越前」や「越前守」となどと呼ぶことがあったが、これはいじめなどではなく大岡君がそれを望んでのことだった。大岡君は私より学年がひとつ下だったので、小学校に入って学年が進むにつれて互いに同級生と遊ぶことが多くなり、公園に行く機会も減ったので、しぜんと疎遠になっていった。中学校に上がると、ごくたまに学校ですれ違っても互いに顔を認識するだけだった。

 家が売りに出ているということは、大岡君も大岡君のご両親もそこには住んでいないのだろう。大岡君とそのご両親は今どこで何をしているのだろうか。私は、この一階の駐車場部分の、車と置き去りになったままの三輪車の横をすり抜けるように通って遊びに行っていたことを、生々しく思い出した。当時としてはめずらしいことだったが、大岡君も私も一人っ子で、私たちは存在しない兄弟の隙間を埋めるように遊んだ。大岡君の母親は、息子よりひとつ年上の私に優しく、遊びに行くとよくお菓子を出してくれた。私は母親の前では、彼を越前と呼ぶことは注意深く避けていたが、今思えば確実に知られていたに違いない。

 故郷の景色や実家などにも郷愁を感じなかった私だったが、初めて昔を懐かしむような気持ちになった。そして拗ねた子供のように、何もする気がしなくなってしまった。眠れなくても布団にくるまっていようと、チラシをまとめて新聞にはさんで折りたたみ、リビングを出て二階の部屋にもどった。

 次に目が醒めたら、部屋の壁にわずかに黄色くなった昼の光が反射していた。窓の外から周期的に、金属がこすれあうような音がしていた。朝方、太陽が昇ってかなり明るくなるまでは起きていたが、いつのまにか再び眠っていたらしかった。この音が私を目覚めさせたに違いないが、それほど不快は感じなかった。私は起きて、周期的に聞こえてくる音の源泉をさぐろうとカーテンを開け、網戸を隔てて外に目をやった。するとそこには、テレビショッピングなどでよくある高枝切りバサミというやつの先端部分が、私の目の前一メートルくらいにせまっていた。

「おう、おはよう。起きたか」私の顔を認めた父がそう声を掛けた。父は手元で何やら単純な操作をすると、長いハサミの柄を縮めた。

 私はすぐに一階に下り、スニーカーを履いて玄関から出てみた。木の枝は、食べ終えたぶどうの房のようにスカスカの状態になっていた。さっきまであれほど長く伸びていた高枝切りバサミは、三十センチの物差しほどになっていた。父の足元のまわりには切られた枝が父を取り囲むように落ちていた。

「木の手入れしてたの?」

「あ、んん。梅雨の合間を見て、あるていど切っとかんと、七月にこんまい枝がようけ伸びてしもて、汚くなってしまうんじゃ。暑さと雨とで、木が成長する条件が整っとるけんの。そのまんま八月になったら、もうジャングルみたいになって、手が付けられんようになる」

 私の家も猫の額とはいえ庭がある。庭には、紅葉や柿の木などが植えられているが、これは私が物心ついたことにはすでにあったから、おそらくここに家を建ててすぐに父か母が植えたものだろう。私は子供のころ、庭木に関心を示したことはなかったし庭掃除を手伝うこともしたことがなかった。たくさん木が植わっていることは当然知っていたが、それらについて具体的に知ろうとしたことはなかった。

「手伝おうか? 俺もやるよ」と私は父の持っているハサミに向けて手を出したが、父はそれを私にわたさなかった。

「いやあ、とりあえずこれで終わり。あとは昼から、ちょいちょいとやっときゃ、二、三日雨が降っても大丈夫じゃろ」父はそう言いながら、草履で地面に落ちた枝を一箇所の寄せるように軽く蹴った。

「この切った枝はどうする?」

「燃えるゴミ。こんな枝でもゴミ出しするときは、市で売っとる燃えるゴミの黄色い袋に入れんと持って行ってくれんけん、袋が破けんようにして入れんといかんのんじゃ。昔は薪みたいにひとつの束にしてゴミ置き場に置いときゃ良かったのに、いろいろ面倒になったの。燃えるゴミは次の月曜じゃけん、今日はこの辺にまとめて置いとったんでええ」そう言うと父は枝を蹴っていた足の動きを止めた。

「これは、何ていう木?」私は庭の中でいちばん高い木の頂上らへんを指差した。二階のベランダを超えているから、おそらく五メートル以上はあるだろう。葉は紡錘状で、見ただけでふつうの木の葉よりも肉厚だとわかる。

「モチノキ」

「モチノキ?」

「そう。最初は、腰くらいの高さの細いやつじゃったが、こんなに大きなるとは思わんかった。木もよう考えて植えんといかんの。木が太くなったら見栄えがええじゃろと思て、いろいろ植えてみたんじゃが、太くなってみたらワシが歳を取って、世話するんも一苦労になってしもた。あと十年もしたらワシも足腰弱ってしもて、脚立の上に登るんもできんようになってしまうけん、今のうちに根っこから切ってしまわんと、いかんかもしれん」しかし父はそう言いながらも、高く育った木を見上げて満足そうだった。そして、

「木は、長生きじゃ。人間よりも長生きじゃ。ワシ、若いころ、自分が歳を取ることなんかまったく想像せんかった。ずっと、あのころのまんま生きてゆけるもんと勘違いしとった」とつぶやいた。私は聞こえないふりをした。

「あの木は?」今度は私はリビングの窓のすぐそばにある低くて黒っぽい小さな木を指差した。幹は五センチに満たない細いもので、葉は一枚もついてない。高さは一メートルほどだろうか

「サルスベリ」

 このインパクトの強い名前は私も知っていた。ほかのところでサルスベリの木を見たことも何度かあった。しかし庭のサルスベリは、私の見たサルスベリとは似ても似つかないものだった。その名のとおり、猿も滑るほどに木の表面がつるつるしているはずなのだが、家の庭に生えているその木は、黒っぽいというよりも苔がこびりついているように汚れている。

「もうこのサルスベリは、ずっと前から病気になってしもて、薬を撒いてもうまいこといかんのじゃ。何とかならんかといろいろやっても、元気にならん」私の疑問を悟ったらしい父が先回りしてそう言った。

「枯れてるんじゃないの?」サルスベリの木の表面をなでてみると、やはりごつごつした感触が指先にあった。猿が登れそうというよりも、猿も登ろうとしないかもしれない。

「たぶん、まだ生きとる」どういう根拠があるのかわからないが、父は花も葉もない木をそう評した。

 木に限らず、庭はとても手入れされているとは言えない。雑草としか表現しようのない草が伸びている。物干し台には苔が生えていて、物干し竿は端のほうの錆が表面の塗装にひびを走らせていた。

「朝メシは?」父が言った。

「いらない」

「ほんじゃ、ちょっと早いけど、ふたりで昼メシにしようか。カップ麺しかないけんど。ワシもちょっと腹減った」

 父は高枝切りバサミを玄関の傘の横に立て掛けた。私も父の後に続いた。玄関の下駄箱の上には、昨日の天丼の椀が重ねて置いてあった。

 父はカップのきつねうどん、私はキムチ味のラーメンにそれぞれお湯を入れた。両方ともにお湯を入れても、やかんの中にはまだかなりの量のお湯が余っていた。お湯を入れて三分待っているあいだ、父は新聞をテーブルの上に広げ、顔を離して黙読し始めた。

「あ、夜中に一回起きてしまったから、新聞を取ってきて読んでたんだけど…」

「うん。朝、郵便受けに取りにいったら新聞がなかって、まだ配達に来てないんかなと思たんじゃけど、こっちにあったけん、ちょいとびっくりした。朝方、一階に下りて行ったときに、新聞取ってきとったんじゃの」父はスポーツ欄を広げて、昨日の野球の結果を眺めていた。私も首を少し伸ばしてそれを覗いてみると、先発投手の顔の写真がカラーで掲載されている。得点票には、九回裏のところに数字とバツの印がついていたので、巨人の逆転勝ちになったのだろう。

 正確に三分を計ったわけではないはずだが、父がカップ麺のふたを開けて食べ始めたので、私もそれに倣った。箸を突っ込んで麺をかき回してみると、ちょうど良いほぐれ具合だった。

「そろそろぬくいモンを食べるんは、つらい季節になったかもしれん」きつねうどんを啜りながら、父は薄くなった頭に汗を浮かび上がらせていた。さっきまで庭で木を切っていた父と、まだ寝起きの気分から抜け切っていない私とでは、少し温度差があるようだった。

「橋を渡ったとこのホームセンター、まだある?」ラーメンを半分ほど食べたところで私は父にたずねた。

「ああ。あるけど、どうした?」父は口のなかを麺で噛みながら言った。父は熱さを紛らわせるために、あえて早く食べてようとしているようだった。

「自転車、買いに行こうかと思って」

「自転車…? そんなもんわざわざ買わんでも、移動するんやったらワシの車使こうたらええ。軽自動車やけど、最近は男でも軽に乗っとる若モンも多いし…」

「運転免許が、ないんだよ」私は自嘲するように、鼻先で大きな息を吹き出しながら言った。父もこの答えは予想外だったらしく、あわてるように口のなかのものを飲み込んだ。

「あー、そうじゃったか。まだ持っとらんのか。免許取りに行かんといかんの。都会のほうやったら、別に車運転できんでも生きていけるじゃろうけど、田舎じゃ、ないとどうにもならん」

 私は、実家に帰ると決めたときに、父がそれを言うだろうと予想していた。私は、できるならば運転免許は取りに行きたくないと思っていた。田舎では、大学や専門学校に進学しない者は、高校三年生のうちから教習所に通う。進学する者のうちでも半数くらいは、進路が決まれば免許を取りに行く。しぜんと、教習所に通う人間は十七歳か十八歳の現役高校生ばかりで、三十を超えているものは一人もいまい。孤立するのは慣れているが、進んでそのなかに入りたいとは思わなかった。

「まあ、免許を取りに行くとしても、教習所までの移動手段が必要になるわけだから、どっちにしても自転車は買いに行ってくるよ。ついでに、服とかも買ってくる」

「ホームセンターまで、乗せて行ってやろか?」

「いや、いいよ。歩いても三十分くらいでしょ。帰りは当然、自転車で帰って来れるわけだから、問題ない」

「そうか。あの店、昔は大工道具とか木材しか売ってなかったけど、最近はトイレットペーパーとか洗剤とかも置いとるけん、ワシもよう行くんよ」

 歩くという行為に対する認識が、都会と田舎ではみ微妙に違っている。都会では、電車に乗って買い物に行ったとしても駅から十五分くらいの距離にある店に行くなどということは珍しくはなく、往復で三十分の距離を歩くことは日常の一部と言っていい。一方で田舎では車で移動することがほとんどで、歩くといえばせいぜい駐車場から店までのものだ。先行する想像など一寸もかまわず、現実は構造的に都会人のほうが健康的に作られている。

 父はカップのなかの出汁を、まだわずかに残っている具や麺と一緒に飲み干した。額に浮かんだ汗の玉と玉がくっついて、滴になってこめかみの横を通り過ぎた。私は、急に今日は土曜日だったということを思い出した。私が子供のころ、土曜日はまだ半ドンの授業があり、昼の一時前くらいに帰宅していた。父の仕事が休みの土曜日の昼は決まってカップ麺で、まだ若かった父は、このように汗をかきながら豪快にスープを飲み干していた。

 家の前の緩やかな坂を下って四つ角をふたつ曲がったところに、大岡君の家はあった。チラシで見た不動産屋の、「売物件」と書いたオレンジ色の看板が立っていた。看板には「内覧ご希望の際は気軽のお電話ください」というステッカーも貼ってあった。駐車場部分の右側の枠には、かまぼこの板よりもひとまわり大きい木製の表札が昔のまま残っていた。表札はすでにかなり黒ずんでいて、よくよく見なければそれが「大岡浩次」という、大岡君の父親の名前を書いてあると認められないほどだった。

 家の二階部分を見上げてみれば、ベランダの向こう側に破れて枠から外れた網戸が垂れ下がっていて、わずかに吹く風に揺れていた。家の外壁には、窓から斜めにひび割れが入っていた。庭には、塀の高さを超えて伸びているススキに似た雑草が顔を出していた。おそらく、うちの庭とは比べ物にならないくらいの雑草が生い茂っているだろうと私は想像した。チラシには九百八十万円と載っていたが、率直に言うと商品としての価値としては、それでも高いのではないかと思うくらいに、家は老朽化していた。色褪せた表札は、まるで卒塔婆のようだった。

 私が顔を上げて悲嘆していると、公園の向こう側あたりから、子供の走る軽い足音が聞こえてきた。すぐに黄色い帽子をかぶってランドセルを背負ったふたりの小学生が姿を現した。ふたりは、私の姿を見つけると走る足を止めて、ゆっくりと歩いて私の背後を通り過ぎていった。ふたりのうちの一人が小さな声で、「知らんおじさんがおる。どこの人じゃろ」と言った。まだ昼過ぎで、小学生が帰宅するような時間ではないはずだが、きっと学校で何か教員の行事などがあるのだろう。「今日は学校もう終わったの?」などと聞いてみたい気持ちはあるが、働き盛りのはずの男が昼間から住宅地をフラフラ歩いているというだけでも、私は立派に一個の不審人物だ。

 不動産屋のチラシには、この新光地区を閑静な住宅街と高評していた。字面だけを見ればその形容は、それほど的外れなものではない。工場などはひとつもなく、商業施設といえば住居と店舗が一体化している酒販店がひとつと理容室がふたつあるだけで、物理的に静かな空間には違いない。しかしその反動なのか、小さな雑音でも一気に地区の端まで鳴り響いて、何度も反響する。雑音とはつまり、つまらないうわさ話のことだ。

 うわさを広める主体はやはり主婦で、もっとも強力な引力を以って彼女らの耳目を集める話題は、地区内の家庭の内部事情、特に子供の進学と夫婦仲に関することだった。現状に対する不満を追認して卑屈になるにも、乾きそうな虚栄心を刹那に潤すにも、人の幸不幸がもっともお手軽な素材になる。どこの家は最近夫婦喧嘩ばっかりだとか、どこの息子さんは○○高校に合格したとか、あそこの旦那さんは次の春に出世して単身赴任するとか、他家の米櫃を覗き込むようなゲスい話を、私はごく小さいころに母から何度も聞かされた。

 かつての我が家も相当うわさされたに違いなく、今も、「ながらく行方不明だったあそこの父子家庭の息子が帰ってきた」というような内容で、私のことが地区内のうわさになるのも時間の問題だろう。ひょっとしたらすでに広まっているかもしれない。人が住むには、閑静よりも雑多で少しやかましいくらいの場所のほうが適している。私は歩を進めた。私たちがかつて遊んだ公園も、今は人が足を踏み入れることが少なくなったせいか、ところどころに葉の広い雑草が根を張っていた。

 ホームセンターは昔と同じ場所にあったが、店舗を増築したらしく建物に新しい壁と古い壁との境い目がきれいについていた。少しだけ狭くなった駐車場は、三分の一くらい埋まっていた。いかにもホームセンターらしく、店舗の外には販売用の角材や木製の柵や、丸く巻いた大きめのすだれなどが壁に立て掛けられている。店の入り口を前にして、自転車はいちばん安いものを買おうと決めていた。漕げば走りブレーキを握れば止まり夜にライトが点けば十分で、それ以上のこだわりを持たないようにした。私には父からもらった三万円しか手持ちがない。自転車を買うには十分だろうが、このカネを資本金として生きていくには一円たりとも無駄にはできない。

 入店すると、すぐ目の前がレジになっていて、並んでいる客はいなかった。所在なさそうに店員が立っていた。レジのすぐ向こう側にワゴンが置いてあり、一枚五百円の名作映画DVDが山になって乱雑に積まれていた。私は天井から吊るされている案内看板を頼りに自転車売り場を探した。案内看板は、「ガーデニング用品」や「日曜大工・電動工具」などのホームセンターの定番のものもあれば、「座布団・寝具」や「飲料・お酒・調味料」など大型スーパーなどで扱うべきと思われるようなものまであった。私は視線を上に上げて左右に首を振ってみたが、自転車の看板は出ていない。ホームセンターらしからぬものは、主に増築したらしい部分に置いてあるようだった。

 店舗のもっとも奥に自転車売り場はあったが、ざっと見たところ二十台も展示しておらず、つつましいものだった。駅前に違法駐輪されている自転車のほうが、まだ多いくらいだろう。展示してある自転車はペダルが装着しておらず、少し滑稽だった。それぞれ前籠のなかには、ビニル袋に入った取扱説明書が無造作に置かれていた。自転車がもっとも売れる時期はやはり二月や三月など学生の入学準備のシーズンで、梅雨どきのこの季節に自転車を買い求める人は少ないのだろうかと私は想像した。

 ハンドルの部分に大きな黄色い紙の値札が付いていて、黒い縦長の数字で価格を示している。私はそのなかから最安値のものを探した。一見すると貴そうな競輪で使うようなものもあったが、意外に安く税込三万五千円だった。私が高校に入学するときに父に買ってもらった自転車もそれくらいの値段だった記憶がある。もちろん通学用に買った自転車は、目の前にあるものとは違い、普通のいわゆるママチャリだった。黒くて前篭のついていないものがひとつあったが、これは一万四八〇〇円だった。フレーム部分が細くなっていて、ハンドルのグリップだけが茶色い素材でできている。

 私はこれがもっとも安いものだろうかと思ったが、いちばん奥つまりこの店舗の角にある銀色の自転車はなんと九八〇〇円だった。黒い自転車でも、私が想像していたよりもだいぶ安かったのだが、一万円を割れるものがあるとは思ってもみなかった。これに決めた。私はすぐ近くにいた、店のブルゾンを着た女性の店員を見つけて、「すみません。自転車が欲しいんですが」と言った。店員は、「あ、はい。ちょっと待っててくださいね」と言うと、小走りでどこかへ行った。

 まもなく店内に、「業務連絡。自転車売り場お客様お願いします」という、太い声のアナウンスが流れた。おそらくさっきの女性店員の声だった。すぐに私のほうに向かって、まだ二十歳そこそこの若い店員がやってきた。

「この自転車、ください」と私は指で示していった。

「はい。ありがとうございます。防犯登録、しますか?」

 私はその問いが少し意外だった。自転車の車体のすみに小さく貼ってある、オレンジや白の防犯登録ステッカーは、強制的に貼られるものだとばかり思い込んでいた。だいぶ前に一度だけ、防犯登録を剥がした自転車に乗っていたら、警察官に職務質問をされ、盗難したものではないのかと疑いを受けた。私はシールは乗っているうちにいつのまにか剥がれたと言い張って逃れることができたのだが、ひどく煩わしかった。

「登録料三百円が必要ですが、どうします?」返答しない私に促すようにその店員が言った。

「お願いします」

「じゃ、ここに住所と氏名、電話番号をご記入ください」工具を入れる小さな棚の上には、すでに記入用紙と黒のボールペンが用意してあった。久しく書く必要のなかった実家の住所も、忘れずに覚えているのが何か不思議だった。忘れようと思っても忘れられない情報というのはきっとあるのだろう。

「この銀色の自転車と、黒いのとでは、どうして値段があっちのほうが高いの?」記入を終えた私は、この単純な疑問を店員にぶつけてみた。ケチな客だと思われるかもしれないが、私はどうしても気になった。

「あれは、ギア付きなんですよ。三段ギアですけど」店員は私が記入した後の用紙に購入日時を書き入れると、店のゴム印を黒のインクで押した。

 私はあらためて私が買うべき自転車をもう一度見た。ギアは付いているものだと思っていたが、車輪の歯車を見てみると、一枚だけの単純なものだった。余計な機能は求めないと決めてはいたが、本当に最低限の自転車になった。念のため、ライトや鍵などが付いていることをもう一度良く見て確かめた。

「ペダルを取り付けて、ブレーキの調整をしますから、少々お待ちください。終わったら店内放送でアナウンスしますので」私の早合点かもしれないが、私は店員のその発言は私を遠ざけるよう言ったものかもしれないと思った。なんらやましいところのなくても、労働をじっと観察されるのはなぜか気後れするのは私も同じだった。

 店のなかの客はまばらにしかいなかったが、私以外の客は父と同じくらいの年齢層がほとんどだった。ひとりの男性客は穴を開けるための電動ドリルを手にとってトリガー部をしきりに指で引いていた。電気は通っておらずバッテリーも充電されていないので、カチカチと音が鳴るだけだった。

 ホームセンターの増築部分には、家具や食料だけではなく、簡単に衣類なども売っていた。ハンガーにかけられて並んでいるTシャツは、「三枚で1,200円」との表示がされていた。私は地味な色の三枚を選んで手に取った。Tシャツを売ってる棚の近くに、私の必要とするものはすべて揃っていた。私は、自転車を購入した後、それに乗って別の衣料品店などに行こうと予定していたのだが、この店にあるものは私の予算内に収まるものだったので、すべてここで買い揃えることにした。私の買うべき物は手に持ち切れそうにないので、近くに重ねて置いてあった灰色の買い物かごを利用した。私は商品を選びながら、まっとうな経済活動のなかに復帰したという喜びがある一方で、カネは父からもらったものであるからまだ半人前であることを痛切に自覚した。

「自転車をお待ちのお客様、たいへんお待たせしました。一番レジまでお越しくださいませ」店内アナウンスが流れた。

 私が買い物かごを持ったままレジの近くに行くと、きっちりペダルの取り付けられた銀色の自転車がスタンドを立てておいてあり、その近くにはさっきの男性店員がいた。男性店員は私の姿を認めると、事務的にしゃべり始めた。

「これをレジに出して代金をお支払いください。こっちの紙が防犯登録証で、控えになります。説明書などは前かごに入ってますから、お読みください。このタイプの自転車は、雨の日は後輪のブレーキが効きにくくなったり、ブレーキをかけたときに、『キーッ』という大きな音が鳴ったりしますからお気をつけください。タイヤの空気圧の調整は無料で行っております。出張修理サービスは前日までにご予約が必要になる場合があります。そのほか、何かお気づきの点がございましたら、お気軽にお問い合わせください」

「あ、はい。ありがとう」と私は言った。その終始丁寧語で発話して方言を出さなかった店員は、軽く私に頭を下げると、店舗の奥のほうへ向かって去って行った。

 私が腕に掛けている買い物かごのなかは、Tシャツのほかにはひげそり、下着、靴下、歯ブラシなどが入り、まるで日帰り出張の予定が急に宿泊することになった勤め人のようだった。買い漏らしたものはないだろうかと、もう少し店内を巡回してみるつもりだったが、私はそれを機に会計をすませることにした。

 支払いは全部で、一万四九一八円だった。自転車で約一万円ということは、その他のもを五千円ぶんも購入したことになる。この過分な贅沢を、私は自分でどのように審判すればいいのか計りかねた。最初、自転車だけでも二万円を超えると踏んでいたのだから、必要物すべてを買ってその枠内から足が出なかったということは、うまい買い物をしたと言えなくもない。しかし私は、一円でも惜しい。支払いのときに私は一万円札を二枚出したが、福沢諭吉の半身が引き裂かれる痛みが伝わってくるようだった。

 私は「説明書」とやらが入ったままの前かごに、ポリエチレンの買い物袋を入れた。そしてペダルに足を引っ掛け、ホームセンターの駐車場から出発した。自転車に乗るのは、およそ二年ぶりだった。前に所有していたものが盗まれて以来、どうせ新しい物を手に入れても盗まれるだろうと決めつけていた。頭では説明しきれない自転車の乗り方は、何年経っても身体が覚えているらしく、最初の三メートルほどはハンドルが左右にぶれたが、すぐに直進できるようになった。

 しかし、またハンドルは左右にふらつくようになってしまった。一キロも進んでいないにも関わらず、私の両脚はひどく疲労してしまい、息が切れ、荒れる呼吸に合わせるようにハンドルの操作も乱れた。私は、それほど体力がないわけではない。もう三十代とは言え、一キロくらいの距離を走るのは訳のないことだし、徒歩ならば二時間三時間でも平気だ。私は自分が息を吸っているのか吐いているのかわからなくなるくらいに乱れたところで、自転車を降りた。耳の後ろあたりから首にかけて浮き出ている汗を手のひらでぬぐった。私は、これは体力が落ちたのではなく、ひさしぶりに乗る自転車に、普段使っていなかった筋肉を一気に働かせたことによる疲労だと言い訳をした。乗っているうちに、また昔のように自転車でどこまでも行けるように、脚の筋肉も付いてくるだろう。

 息が整ってから、私はハンドルを押して歩くことにした。細い道の横を通っている用水路は、田んぼに水を送るために堰がしてあって水かさが高くせり上がっている。真新しい自転車は、タイヤのホイール部分がピカピカに光っていた。

 用水路の流れにそってまっすぐ進めば、あの丘の神社の入り口がある。私は今になって賽銭箱に投げた百円がもったいなく思えてきた。もう一度、あの高台の神社に登ってみようという気も頭をかすめたが、今の私には投げ入れる一円の賽銭もない。持っているすべてのカネを有用に使わねばならない。百円の賽銭を投げ入れて百倍になってくれなどと祈ったから、御祭神が願いを聞き入れるどころか色を付けて三万円にして返してくれた、などとは思わない。私のカネは、私の父が私にくれたものだ。

 私の不信心は私自身も呆れるほどに強固なものだったが、では私が信仰を持つにはいかなる条件が必要になるのだろうか、などと考えてみた。どんな奇跡を目の当たりにしても、私はそれを偶然の集合体とみなし、一時的な驚きとともに一笑に付すのみだろう。宝くじで大金が当たって生活に余裕が出てくれば、何かに対する感謝の気持ちが芽生えてくるのだろうか。神秘主義者たちの説くような、天国とかいうけっこう良い所らしい別の世界が実際に存在するのだろうか。

 私が自転車のハンドルを押しながら歩いていると、五十メートルほど前から一匹の犬がこっちに向かって走って来るのが見えた。さっきまではそんなものはいなかったように思ったが、どこから現われたらしかった。私は犬には詳しくないが、柴犬という種類に似ていて、「犬」という文字から真っ先に想像する生き物の姿態にほぼ一致する。犬と私の距離はまもなく近いものになった。犬は横を通り過ぎて、私の今歩いて来た道を行くだろうと思った。しかし犬は私の前に立ち止まり、口からだらしなく舌を伸ばして私のほうをじっと見てくる。私は犬を無視して、そのまま自転車を押して歩き続けた。犬は私の後にくっつくようにして、私と同じ速さで歩く。私が止まれば、犬も止まった。

「なんだよ」と私は犬に言った。犬に言葉がわかるはずはないが、そう言わずにはいられなかった。

 私はそのまま立ち止まって、犬が飽きてどこか別の場所へ行くのを待ってみることにした。田んぼに囲まれた細い道の真ん中で、犬と私の奇怪なにらめっこが始まった。私は、犬や猫に限らずペットを飼った経験がなかった。せいぜい、カブトムシなどの昆虫くらいだった。私は、こういう犬や猫のような小動物をどのように扱えばいいのか、知らない。犬から逃げようとしたら、走って逃げるのがいちばんの下策ということだけは知っていた。

 犬は私と一メートル近く離れた場所に留まったまま、私をじっと見てくる。私が犬に少し近づいてみると、犬はそのぶんだけ後に引いた。

「なんか、俺に用があるの? エサなら持ってないよ。帰れよ」再び犬に言ってみたが、犬は聞こえないかのように無反応だった。首輪はしておらず、逃げた飼い犬ではないようだったが、野良犬のような汚らしさもなかった。

 私はこの犬を撒こうと、自転車に乗って思いっきりペダルを漕いでスピードを上げた。すると犬も走って私を追いかけてくる。まるで伴走者のようだった。このとき、犬は初めて鳴き声を上げた。すぐに、自転車を漕ぐ筋肉の衰えている私のほうがギブアップしてしまい、走るのをやめてペダルから足の裏を離して、道路の上に乗せた。

 犬は、まるで私の影ように私の背後に付いて来た。

 家に着くと、父は庭でまた高枝切りバサミの先端を宙に漂わせながら木の枝を切っていた。木は午前中よりもかなり切られて、視界が明るくなったような気がした。

「おかえり。自転車は買えたか?」

「うん」

「その子は?」犬に気付いた父が、そう言った。

「わからない。ずっと付いて来るんだよ。神社のあたりから。追い払おうとしても追い払えなくて、そのうちどっかに行くだろうと思って無視してたけど、結局ここまで来てしまった」

 父はハサミを地面に置き、しゃがむと手のひらを前に出して、犬に向かって「おいでおいで」と言った。犬は父のもとに駆け寄った。父が犬の頭をなでると、犬はその手のひらの動きに合わせるように目を閉じたり開いたりしていた。

「よう手入れされとる犬みたいじゃ。きれいな毛並みしとる。首輪は最初から付けてなかったんか?」

 私はうなずいた。

「どっかの飼い犬が、捨てられたんじゃろか」父の手に撫でられながら犬は、ソプラノリコーダーの出損なった音のような鳴き声を、閉じた口の端から断続的にもらしていた。

「服とか靴下とかも買ってきたから、ちょっと着替えるよ」私は玄関に歩を進めたが、父と犬はまるで昔からの知り合いかのように仲良くじゃれあっていた。

 私の脱いだシャツは首から胸元にかけて汗に濡れ色が濃くなっていた。私はそれを脱ぐと、買ってきたばかりのTシャツを着た。着てみるといかにも安物というのがよくわかり、へんに伸びて長風呂でふやけた指先のようなしわが寄る。

 三日分伸びたヒゲを剃ってリビングに入ると、父は台所にいた。使い捨ての紙製の取り皿を出して、食パンを指でちぎりながら乗せて、シーチキンの缶詰を開け、それを丁半博打のサイコロ壷をひっくり返すようにして乗せた。

「それ、もしかしてあの犬にやるの?」私はあごや頬を指の背で撫でながら、ひげの剃り残しを手で探りながら言った。

「犬には、ちょっと贅沢かもしれんの。冷や飯でも残っとったら良かったんじゃが、朝は飯を炊かんかったけん、ないわい」

 シーチキンの油分が食パンにしみ込んでいる。私はうまそうだと思った。形状はだいぶ違えど、材料だけで判断するならばツナサンドという立派な人間の食い物だ。父は缶詰の円柱の形を残しているシーチキンをスプーンでほぐして、皿を覆うように広げた。

「エサなんかやると、犬が勘違いして住みついてしまうかもしれないでしょ」

「行こう」父は手に紙皿を持って玄関へ向かった。においからエサを察知したのか、外にいる犬がしきりに鳴き声を上げた。私はしぶしぶ、父の後ろについて行った。

 犬は首をすべり台のように傾けて一口食べると遠慮がちに首を上げて、舌を出して口のまわりをぬぐう。そしてまた一口食べ、顔を上げる。その動作を繰り返していた。

「犬はのう、エサ食べよるときに頭を撫でられたり身体を触られたりするんを嫌うんじゃ。触ったら、エサを横取りされる思うて、噛み付いてきたりしよる」父はじっと犬が食べ終わるのを待っている。

「犬、飼ったことあるの?」

「あ、そうか。お前は知らんか。ここに来る前、借家に住んどったころ、知り合いの人に犬が子供産んだけん、もろうてくれ言われて、飼ったことがあるんじゃ。ちょうどこんな、普通の柴犬での。でも、一年も経たんうちに、死んでしもた。急にワンワンやたら吠えるようになって、二、三日吠えてやっと静かになった思たら、次の日、死んどった。たぶん、病気になっとったんじゃろ」

「へえ。ウチでペットなんか飼ったことあったんだ。ぜんぜん覚えてないや」

「そりゃ、そじゃろ。お前が産まれる前じゃけん」

「あ、そう。だったら俺が知ってるはずないか」

「あんまり缶詰みたいな人間の食べ物は、犬にはやらんほうがええんじゃけど、ちょうど具合のええモンもないし、まあ少しくらいなら大丈夫じゃろ。ほかにも、ねぎとかたまねぎも犬にやったらいかん」


 翌日の朝、私は窓の外から聞こえる騒音で目を覚ました。「お手」や「おすわり」などという台詞が聞こえてきたので、窓から首を出してのぞいてみると、想像したとおりの絵が見えた。サルスベリの木の横で、父がやたら手を上下させて犬に後肢を曲げさせようとしているのだが、犬は父の掛け声に合わせて吠えるだけだった。庭には、見慣れないものが増えていた。茶色い犬小屋らしきものの屋根が見えた。

 庭に出ると、梅雨らしい分厚くて黒い雲が空を覆っていた。父は私の姿を見つけると、笑顔になって犬小屋を指差した。前日に行ったホームセンターに、似たような物が売っていたような気がするが、はっきりとは思い出せない。

「どしたんだよ、これ」

「朝一番で、買うてきた。天気予報で昼から雨が降るて言うけん、はよ行っとかんといかん思て」父はまるで子供のようにはしゃいで言った。

「この犬、ウチで飼うつもり? どこかの迷い犬かもしれないし、こんな小屋まで買って、もし明日にでも飼い主が見つかったら、ムダになるだろ」

「ワシもそう思わんでもなかったけんど、ひょっとしたら野良かもしれん。おすわりもお手もできん。まあ迷い犬やったとしても、飼い主が見つかるまでウチで預かるいうことにしよう」

 犬はちゃんと首輪も付けられていて、首からは長いリードが伸びている。リードの手に持つ輪になった部分は、サルスベリの木の枝に引っ掛けられていた。この犬の素性は知る術もないが、私の後に付いて来たことで衣食住の心配はしなくてもよくなったようだ。運のいいやつだと私は思った。

「別に反対はしないけど。俺、世話しないよ」

「まあそう言わず、かわいがってやらんか。もとはと言や、お前が連れて帰ったんじゃけん。お前が寝とるあいだに散歩に連れて行ったんじゃが、途中でコイツ、糞しよっての。ワシもひさしぶりじゃったけん、犬が糞するいうことも忘れてしもとったわい。あわててスーパーの袋、取りに帰ったんじゃ」

 私は犬の頭に手を置いて、軽く撫でてみた。毛が犬の体温をため込んでいるのか、少し熱いと感じるほどに温かかった。

「名前付けてやらんといかん。なんか、ええのないかの?」

「さあ。別に『犬』でいいんじゃない」

「ワシとこの子と、どっちが長生きできるか、比べっこじゃ」父はそう言って、犬の首から胴体を、毛並みに沿って撫でた。

「そりゃ心配しないでしょ。犬って、寿命が十年くらいだろ。この犬、何歳か知らないけどさ」

「ウチはけっこう、短命の家系じゃけんの。ワシの親父、お前のじいさんも六十で逝ってしもたし、お前のひいじいさんもひいばあさん、早かった。ワシもいつの間にやら、親父より年上になってしもたけん、いつお迎えが来てもおかしくないわい」父は平然とそう言い放った。

 私はその「短命の家系」という、自然科学と迷信とが違和感なく同居している奇怪な言葉に、背筋がぞっとした。私の祖母つまり父の母も、祖父よりは長生きしたが、私が高校生のときに病で死んだ。平均寿命を大きく下回る享年だった。私自身も漏れずに、その短命の家系に属する。

「そうじゃ、クラベにしよう」

「え?」

「犬の名前。簡単なのがええわい。比べっこをするから、クラベ。ワシも負けんように、がんばって長生きして、今度こそ、病気させんよう最期まで世話してやらないかん」父はそう言って笑いながら、犬のしっぽをさわって遊んでいた。

 私はその命名に賛意を示さなかったが、ほかに案もなく、犬の名前はクラベに決定した。

「今、何時くらいじゃろ?」父が言った。

「さっき時計みたら、十時半過ぎてたよ。十一時前くらいじゃない?」

「しもた」父は草履をはいた足を不恰好に振って走り、家になかにもどって行った。玄関の傘たての横には、白い犬の絵が描かれた大きな袋の犬のエサがあった。

 父はリビングに戻り、テレビをつけてNHK教育を見ていた。日曜日だったので、将棋NHK杯の放送をしていた。すでに対局は始まっていて、画面はマグネットで駒が貼り付く大盤を映して解説者の棋士がしゃべりながら素早く駒を動かしていた。私は父が将棋を趣味にしているということを知らなかった。将棋を指しているところも見た記憶はないし、詰め将棋を解いているところも知らない。テレビの画面は、ふたりの対局者が、同じような角度で首を曲げて思考している姿に切り替わった。

「将棋、毎週見てるの?」と私は父にたずねてみた。父は、みじかくウンと言った。

「昔、ワシがまだ工場に勤めとったころには、仕事が終わった後によう将棋やったもんじゃ。麻雀のほうがやるモンは多かったけんど、ワシは麻雀はどうも性にあわん。将棋も麻雀も、賭けでやるには変わらんのじゃがの。結婚してからはしばらくせんかったけど、最近、NHKで見るようになったんじゃ」

 私も将棋は好きだった。と言っても、駒の動かし方を覚えたのは二十歳を越えてからで、あるあまり良くない場所で夜勤の店番の仕事をしていたころ、客が少ない時間帯の暇を潰すため携帯電話の将棋アプリをダウンロードしたのがきっかけだった。インターネット上には、プロ棋士が残した棋譜がデータベース化されて山のようにあったので、退屈しのぎには最高の素材になった。私は私の棋力にそこそこ自信はあったが、将棋を趣味にする人が周囲には皆無だったため、人間と対局したことはインターネットを通じてしかない。

「教習所に、行かんといかんの」テレビを見ながら父が行った。

「うん。あとでいちばん近くにあるところの入所手続きの資料、もらってくるよ。教習所って、日曜日も開いてるのかな?」

「開いてる思うけど、さあどうじゃろ」

「じゃあ、自転車で昼から行ってみるよ。たぶん教習料、三十万円くらだと思うけど…」

「でも、無しで済ませるわけにもいかんじゃろ。今日の昼もラーメンでええか?」

 将棋という、極めて集中力をすり減らすゲームを観戦しながら、父は普段よりも饒舌で、野球を見ているときと正反対だった。応じるかのように、私の口数も多くなった。

「昨日、ホームセンターに行く途中に、小学生とすれ違ったんだけど、この新光地区にもまだあんな子供がいるんだね。世間で少子化って騒がれてるから、もうこの辺には子供なんていないと思ってたよ」

「あー、何人かはおるみたいじゃ。どっかのお孫さんじゃろ。小学校も、もう一学年に一クラスしかないようになっとるらしいわい。お前が行きよったころは三クラスやったの」

 私が中途半端な大学などに行かず、ずっとこの家にいて、職を得て結婚していたのならば、父にも孫ができていたのだろうか。そしてこの家から、さびれた小学校に通う子供を、私は送り出していたのだろうか。

「坂を下りて角を曲がったとこに、大岡さんっていうお宅があったの、知ってる?」

「あ、今は売り家になっとるとこじゃろ。あそこの家には、お前と同い年くらいの子がおったけど」

「うん。昨日、ちょっと前を通ってみたら、売り家になっててびっくりしたんだ。昔よく遊びに行って、お菓子とか食べさせてもらったんだけど、大岡君のご両親はどうしたんだろ、と思って」

「亡くなった」

「え?」

 あまりに予想外の答えに、私は頭のなかを引っ掻き回されるように思いがした。一家でどこか別のところに引っ越したものとばかり思い込んでいた。子供のころの私には、大岡君の両親はともに、私の父母よりも若く見えていた。

「つい最近、て言うてももう三年くらい前のことじゃが、交通事故に遭うて。トラックかタンクローリーか、大型の車にぶつかって車がぺしゃんこになるくらいに潰されて、即死じゃったって。あんまり急なことじゃったけん、近所でもうわさになっての。しばらくは、息子さんが一人で住んどったけど、いつのまにか逃げるように引っ越したらしくて、気付いたら空き家で売り家になっとった」

 テレビの将棋は駒を取り合う中盤が終わり、取った駒を捨てて王様を捕らえに行く終盤戦に入った。両対局者の顔がワイプで映し出されて、ともにさかんに首をひねっている。後手のほうが勝ちそう、と父が言った。

「ここらへんも、そろそろぽつぽつと空き家が出るようになってしもた。亡くなったり、引っ越したり、いろいろじゃけど、住むんにそんなに便利なとこでもないし、大学とか就職でよそに行ってしもた子が帰ってくるんも期待できんし、そのうち空き家だらけの寂しい場所になってしまう」

 将棋は父の言うとおり、そのまま後手が押し切った。放送時間を多く残したまま終局したため、初手からの感想戦となった。私と父が見逃した序盤を、両対局者が盤上に再現するが、どうやら序盤は先手の有利で進んでいたが、途中で先手に悪手が出て逆転となったようだ。

「将棋は、序盤から中盤で逆転することはようあるけど、中盤こえて優劣がはっきりしたら、ひっくり返すんが難しくなるの。失敗したと思うたら早いうちに直さんと、そのまんまずるずる負けてしまう」父は今日の一戦をそう評した。

 父は感想戦にはそれほど興味を示さず、テレビをつけたまま台所にお湯を沸かし始めた。

「雨が降り出した。夕方の散歩は、行けん」父は窓から、クラベが犬小屋に入っているかどうかを確認した。

 教育テレビは、将棋NHK杯の後には囲碁NHK杯が始まるが、父は囲碁には興味を示さず、チャンネルをお昼のニュースに切り替えた。私も囲碁はルールがさっぱりわからない。ニュースは、何かのスポーツの話題を報じているらしく、新しく建てられた国立競技場の空撮映像を映し出していた。

「壊してしもた前の競技場で、アベベっていう選手が金メダル取ったん、知っとるか?」

「マラソンでしょ。いちおう、知ってるけど」小学生のころに、阿部という苗字の同級生のあだ名がアベベだった。私と同年代の全国の阿部氏は、一度はこのあだ名で呼ばれたことがあるに違いない。

「あの選手ひとりだけ、なんか走り方がぜんぜん違うんじゃ。馬みたいに走って、ゴールしたあとも平然として、しんどそうにしとらん。ありゃ勝てんと、日本中が思ったわい。ちょっとしたヒーローじゃった」

「まさか、国立競技場に行って、観戦したの?」

「いやテレビで見ただけ。ワシの親戚の家がテレビ持っとったけん、みんなでそこに行ってテレビ見せてもろうた」

「あの東京オリンピックのマラソンで、日本人もメダル取ったんじゃなかったっけ。何か、どこかで聞いたことあるんだけど。有名な選手で、銀か銅」

「ああ、円谷幸吉」父はそう言ったきり、黙ってしまった。

 昼飯を食ってのち、私は教習所に行くことにした。いやだという気持ちはあったが、先延ばしにしても状況が変わるわけではない。この先も私はたくさんの恥をかかねばならない。若者に混じってひとり中年が教習を受講するというのも、恥の練習と思えばやり過ごせるだろう。私が靴を履いて出ようとすると、父がリビングから声を出した。

「どこ行くん?」

「教習所に」

「雨、降りよるぞ」

「傘指して行くよ」昼前から降り出した雨は、その勢いを強めるわけでもなく弱めるわけでもなく、惰性のように降り続けていた。いかにも梅雨らしい雨の降り方だった。

「傘指して、自転車乗るんか? 危ないけん、やめとけ。別に明日でもええじゃろ。教習所は逃げやせんわい。そもそも、傘指し運転は、交通違反じゃ。教習所にそんなんで行ったら、どやされるぞ。ちょっと、こっち来い」父は顔をこっちに向けて私を手招きした。私は靴を脱いだ。

 どこに仕舞っておいたのか、父は将棋盤を出してダイニングテーブルの上に置いていた。ずいぶん古いものらしく、駒も盤も木製、駒の文字は墨が黒インクのものだった。駒を入れる箱には、右下に小さく「任天堂」と書いてあった。父がこの将棋盤を買ったころには、この京都の中小企業が後に世界の娯楽産業を中心を占めるとは、想像もしなかっただろう。ずいぶん様相は違うけれども、私も父も幼少期から青年期にかけて、任天堂にさんざん遊ばせてもらったようだ。

「一局、やろう。もしワシに勝ったら、晩飯に好きなモン食わせてやる」父はいつもより顔にしわを寄せていた。

「賭け将棋するの? 別にかまわないけど、俺が負けたらどうすればいいの?」

「別に、何もせんでええ」

 私にリスクはない。やはり本音の部分では教習所には行きたくないと思っていた私は、この杜撰な博打を受けてたつことにした。

「それじゃ俺が負けたら、風呂掃除でもするよ。勝ったら、二段に乗せた鰻でも食わせてもらおうか」私は鷹揚として言った。

 勝つ自信は、はっきり言ってまったくない。プロ棋士どうしの対局にはひらめきと体力が必要とされ、ゆえに二十代が全盛期だということは棋譜を並べていて理解できた。逆に、素人の将棋は、今までに討ち取った王将の数、つまり経験が物を言う。また、運という要素も少なからず含まれる。駒は父が「王将」のほうを取り、私が「玉将」を持った。

 私は初めて実物の駒にさわった。駒を初形に並べながら、私がこうして父と遊ぶのは、いったい何年ぶりだろうと思った。

「先手、指してええぞ」父が言った。将棋が後手より先手のほうが有利なのは、将棋のルールを知ってるものすべての合意事項だと言ってもいい。いくらキャリアに差があるとは言え、そこまでの余裕を見せられると、私も少し胸に燃えるものが沸き起こってきた。

 父はさっき、若いころに将棋を指していたが、しばらく遠ざかっていたと言っていた。きっとそれは、昭和五十年くらいのことだろう。私に昭和五十年代のNHK杯の記憶はないが、棋譜によるとそのころには居飛車穴熊という戦型が流行していた。時代が平成に入ってから、この居飛車穴熊という優秀で万能な戦型への対策として、藤井システムというハイカラな名前の戦法が開発された。この藤井システムは当時の棋界にパラダイムシフトを起こした。

 私は父との対局に藤井システムを採用することにした。もし父が、最新の定跡に通暁しているなら、あるいは居飛車穴熊以外の戦法を採用するなら、私は無残にも敗北するだろう。

 私が角道を止めて飛車を振ると、父は小さく鼻で笑った。もはや勝ちを確信しているようで、父の王将は一目散に穴熊を目指した。私が一向に玉将を動かさないのを見て、「定跡知っとるんか?」と言った。

 私の藤井システムは驚異的な効果を発揮し、王将の穴熊をあっさりと妨害した。調子を崩された父は、右側の銀を丸損した上、玉のそばに「と金」を作られるという失態を侵し、およそ七十手、時間にして三十分もかからないうちに、どう転んでも私の勝ち以外にない布陣になった。

「投了する」父は手持ちの駒を、盤の中央にバラバラと落とした。

 将棋に負けて、父は不機嫌になった。無言で盤を片付け、新聞にはさまっていた広告チラシをテレビの前で乱暴に広げてその上に足を乗せ、爪を切り始めた。まるで先ほど倒れた王将の敵討ちでもするように、パチンパチンと力を込めて爪きりを握った。振り飛車が居玉で穴熊と戦うなどという、野蛮も極まった戦法に負けたことが、よっぽど腹が立ったらしい。

 左足の爪を切り終えたところで、父は立ち上がって電話の受話器を取った。なれた手つきでそらんじている番号を押し、

「あ、すいません。そうです。新光の、…そうです、ワシですけんど、いつもお世話になっとります。申し訳ないんじゃが今日の夜に、鰻丼二人前お願いできますかいな。急ですいません。ええ。ええ。七時まで…。はい。はい。あ、えっと、値段はなんぼくらいになりますかいな。はあ、三千四百円。ええ。お願いします。」と言って電話を切った。そしてチラシの上に足を戻すと、今度は右足の爪を切り始めた。

「鰻は冗談で言っただけだから、そんな高級品を頼まなくても、俺は別に晩飯もカップ麺でもいいし」まるで子供のように拗ねた父を見て、私は大人気ない粗悪な行為をしたような気分になり、声が小さくなってしまった。今日の私の勝利は、実力でひねりあいの乱戦を制した勝負ではなく、単に定跡を知っているかどうかの問題だ。数学の公式を機械的に当てはめて問題を解いたようなもので、自力で定理を探し当てたのではない。

 鰻丼の三千四百円という値段は、おそらく二人前のものだろう。ということは一人前千七百円で、鰻丼としては目玉が飛び出るというほどではないが、一日の晩飯に費消する金額としては、相当なものだ。

「また今度、土用の丑の日にでも…」

「ワシが鰻食いたいんじゃ」

 ここまで依怙地になる父を、私は初めてみた。博打で損をする人間は決まって、感情的に熱くなる。こういう人種は勝つときは、天からカネが降って来るかのごとく大金を稼ぐが、負けるときは全財産を失うことも怖れずに突っ走る。大きく変動する収支は最終的にはマイナスに傾く。父もきっと若いころに、賭け将棋で財布の底が見えるくらいまでむしり取られたに違いないと私は思った。

 父はチラシから飛んではみ出した爪を指先で拾って、チラシの上に落とした。「展示会、開催中」と書かれた赤く黄色いそのチラシは、墓石の広告らしく、「最高級黒御影 標準型○○円」と書いてある。父の足が上に乗っかっているので、具体的な金額は確認できなかったが、桁が百万に達していることはわかった。広告のすみには、「三ツ岡霊園、いちばん人気の第二新区画、新規分譲開始! 森を背景にした静ひつな場所。ご家族で還る墓所を、ぜひこの機会に!」などと書かれていた。

 短命の家系。私はそのチラシを見て、午前中に父がにわかに触れた祖父の葬儀のことを思い出した。当時私は小学四年だった。と言っても葬儀については、若干の場面を除いてほぼ何も覚えていない。しかし、その葬儀の一年後に祖父の墓参りをしたことは明確に覚えている。表面にツヤのある縦に長い墓石を見て、私はまったく別のことを考えていた。

 人が死んで、墓が増えて、また人が死んで、墓が増えてという営みを人間が反復すると、数百年後、地表は墓で埋まってしまうんじゃないだろうか。私はそこを地獄だと思った。群立する墓のすきまを縫うようにして生活する人間の陰鬱な姿は、子供の私に恐怖の涙を流させた。大人たちは、祖父の墓石の前で涙を流すその私を、心優しい子供と勘違いしたようだった。線香の臭気に、私はよりいっそうむせ返った。

 あるいは、墓石にも寿命があるのだろうか。


 夕方、寿司屋が出前を持って来た。空の模様は、まだ雨雲が多く残っていたが真っ赤な夕焼けになっていて、明日の天気を先取ってしるしていた。父が財布を持って玄関に出ると、玄関で父と寿司屋が大きな声で雑談してるのが、リビングにいる私のところに聞こえてきた。父と寿司屋は、口ぶりから、すっかり仲良くなっているようだった。

「息子さんが帰ってきたお祝いに、今日は鰻丼ですかいな。うちなんか子供三人とも、盆正月も帰って来やせん。親に向かって堂々と酢飯が嫌いじゃあ言うて憚らん不孝者に育ってしもとりますわい」寿司職人らしい、よく通る太い声だった。

「ウチは、死んだ息子が生き返ったようなもんよ。子供のころにあんまり贅沢させてやれんかったけん、通風になるまでええモン食わせてやらなあ、な。急に鰻て、無理言うてすんませんなあ。ご迷惑じゃなかったじゃろか」

「いやいや。若いころに一緒に修行して市内に店出しとる仲間がまだなんぼかおりますけん、今日みたいに早いうちに言うてもろたら、二人前くらいならけっこうすぐに材料も仕入れられるんです。遠慮せず、どんどん言うてください」

 父が陽気な笑い声を発した。


 ※


 一九七〇年代後半。

 父は市内の中心を通る川の、河川敷で穴を掘っていた。出勤時間が迫るまでにはもっと深い穴を掘れると思っていたが、河川敷の地下は表面はやわらかくて細かい砂に覆われているが二十センチも掘ると固い地盤が現われて、思うように掘り進められなかった。背中あたりの筋肉がひどく張って痛くなった。

 父は諦めてスコップの先端を地面に突き刺し、停めてあった車にもどってトランクを開けた。トランクから犬の死体を抱えるようにして持ち、さっき掘った穴のところまで戻った。マルと名付けられたこの犬は、ひどく軽かった。初秋の朝は思ったより冷え、犬の死体は固く硬直していた。茶色い毛はたわしのようにとがっていて、父の首筋を刺すように触れた。

 この犬と一緒にすごした時間は、一年にも満たなかった。手のひらの上に乗りそうなくらいのまだほんの子犬のころに知り合いから貰い受けて、家で育てることにした。耳が目のほうに垂れて、正面から顔を見るとちょうど丸い形に見えたので、マルという名前にした。母はその安直な命名を笑った。そもそも、母はあまり犬をもらってくることに反対ではないにしても、消極的賛成と言ったところだった。

 たった一年だったが、子犬だったマルはもうすっかり成犬になっていた。掘った穴に、そっと寝かせるように置いたと思っていたが、穴の底にマルの身体がはね返るような音がした。

「ごめん」と父は言った。

 簡素な埋葬を終えると、父は涙の代わりにため息を出して、車に戻って会社に向かった。

 父は市内にある繊維工場に勤務していた。従業員が五十人あまりの典型的な地方の中小企業だったが、市内ではこれでも大きなほうだった。父はそこに高校卒業後すぐに就職し、製造部門と事務を経験した後、配送係になった。配送係とは、トラックを運転して製造した繊維製品を取引先に納品したり、縫製を請け負う内職さんの家まで運んだりするのが仕事だった。荷物の積み下ろしもしなければならないため、けっこうな重労働だった。繊維製品は、一枚一枚は重さが無いかのように軽いものだが、段ボールに詰め込まれると立派にその存在を主張した。会社内で配送係は、製造部門でも事務でも活躍できない人間がはまる落とし穴のような扱いだった。

「先輩、今日はちょっと遅いですね。寝坊でもしたんですか?」入社してまもなくのころは、よく仕事後に将棋を指したり酒を飲みに行ったりしていたふたつ年下の後輩が、父に対してそう言った。いつも父は、一番乗りではないにしても始業時間よりかなり早く出勤し、更衣室で作業着に着替えていた。

「犬が、死んでしもて。二、三日前からちょっと様子が変じゃったけど、昨日、家に帰ったら死んどった」父は努めて平静を装った。

「あ、そういえば先輩の家でも犬飼ってたんでしたね。柴犬でしたっけ?」

「いやあ、もらいもんの犬で。君んとこは、何とか言う足の短い犬飼うとったんじゃったか」

「ダックスフントっていうやつです。めずらしい種類で、飼うのも難しいんですが、妻がペット大好きですから。でも、先輩たしか飼い始めたのは、けっこう最近ですよね?」

「一年前くらいか。早うに死なしてしもた。寿命じゃったんじゃろか。病気したんかな」

「エサは、何を与えてたんですか?」

「家の残りもんとか、余った味噌汁をごはんにかけたり」

 後輩は苦虫を噛み潰したような顔をした。そして作業服のしわを伸ばすようにすそを引っ張った。

「そら、ダメですよ。人間の食べ物を犬にやったら、ダメなんです。子犬の時分からそんなことしよったら、病気になりますよ。人間の食べ物は塩分が濃い過ぎて、犬とか猫には向かんのです。あと味噌汁も、ネギとかタマネギとか入っとるでしょう。犬はネギを食べると、血液に悪い影響が出るです。人間とおんなじモンを食べるんが、かわいく思えたりするんでしょうが、犬にとっては毎日ドッグフード食べるんがいちばん幸せなんです」

「そうじゃったんか。知らんかった……」

 後輩の言うとおり、味噌汁に食らい付いているマルの姿を、父は特にかわいいと思っていた。あの臭いカンパンのようなドッグフードを食べさせるのは、犬に申し訳ないような気がしていた。そうならば早く教えてくれとずいぶん身勝手なことを後輩に対して思ったが、口にはしなかった。

「先輩、気を落とさんでください。犬の飼育も、失敗しながら覚えてるもんですよ。犬は人間の言葉をしゃべれませんから、人間が犬の言葉を理解するよう努力するしかないんです。ウチも犬を飼うのは三匹目ですが、やっと上手に飼う自信ができたところです」

「マルに、すまんことしたなあ」と父はつぶやいた。始業五分前を知らせるチャイムが、扉を隔てて更衣室の外から聞こえてきた。

 縫製の内職をしている人は、圧倒的に家庭の主婦が多かった。みんな決まったように、一戸建て一階の一部屋に業務ミシンを置いていた。アパートや文化住宅に住んでいる内職さんは一人もいなかった。

 その日、仕事を終えて借家に帰ると、母に変わった様子を見せなかった。

「マル、埋めて来たよ」と言ったが、ふうんと言って、それ以外に感想らしい言葉は出てこなかった。母が犬を好んでいなかったのは父も気付いていたが、あまりに素っ気なくすまされたので、より寂しかった。

「犬とか猫て、あんまり人間の食べ物を食べさせたら、いかんのじゃって。今日、後輩が会社で教えてくれた。じゃけん、マルも病気になってしもたんじゃろて」

「そうなん? でも、猫マンマとか犬マンマとか言うけん、別にええんじゃないん」

「味噌汁も、いかんらしい。ネギを食べたら体調が悪くなるて」

「へえ。けっこう贅沢なんやねえ。犬のくせに。そんなことより、これちょっと見てえ」そう言って母は、どこで入手してきたのか、数ページしかない薄い小冊子を出して父に見せた。その表紙には、「新光地区分譲地見学会開催」と黒字で印字されていた。

「しんひかり?」と父が言った。

「これで、しんごう、って読むんやって。山のほうに行く国道を左に曲がったとこら辺り、建設会社が山のふもとを開発して住宅地にする工事をしとって、順々に分譲しよるて」

 母のマイホーム取得に対する執着心は強いものがあった。父は結婚してからすぐのころから、母が不動産屋のチラシや新規に建設されるマンションの資料などを、どこからか手に入れてきて父に見せるのだった。

「マンションもお洒落でええけど、管理費が毎月掛かるけん、やっぱり一戸建てじゃね」と何度も言った。そう言った舌の根も乾かないうちに、またマンションの案内資料をどこからかまたもらってきた。

 父はその冊子を母の手から受け取り開いた。なかには、いくつかの白黒写真と、短い文章が書いてある。「しんごう」という耳慣れない地名は仮のもので、小高い山を挟んだ向こう側が「古光」と書いて「こごう」と読む地名だったことから、便宜上「新光地区」と呼称しているということだった。新光地区開発工事は、団塊の世代がそろそろ結婚適齢期のピークを越えてマイホーム需要が増えてきたことに対応するため、市長肝煎りで約五年から始まったものだと書いてあった。山のふもとを削って宅地にし、削った土は海岸線埋め立てに利用する、埋立地は新規の工場建設地やゴミ焼却施設が作られる、などこの新光地区開発がいかに合理的で市に大きな利益をもたらすか、などと謳っていた。「全区画、上下水道都市ガス完備予定」という文字が、いかにも工事が現在進行中であるということを示しているように思えた。

 市には、わざわざ山のふもとを開発しなくても、市街化区域のそこそこ便利な場所に耕作放棄地が出現し始めていたが、それらが宅地として供給されることはなかった。「計画中のバイパス道路が完成すれば農地は二倍で売れる」という呪文が農協の内部でひそかに唱えられていて、農地を持っている者はひとりも漏れずこれを信じ込んでいた。が、いったい誰がバイパス道路建設を計画していてどこに敷設されるのか、詳しい事情を知っている人はいなかった。

「どう? 良さそうでしょう」パンフレットを見ている父の横で、母が笑みを浮かべて言った。

 父はすでに三十を越える歳になっていたが、マイホームはまだ自分の分を超えた贅沢品な気がして、母の期待に応えられずにいた。いつもなら母の夢を壊さないように、遠まわしにその話題を終わらせようとする父だったが、そのとき父は母とは違った理由で自分の家を欲しいと思った。今朝の簡素な儀式は、父に自分には犬を埋葬してやれる場所をこの世界中のどこにも持っていないということを痛切に自覚させた。住んでいる借家はいちおう一戸建てだが、二部屋で風呂は付いているが水洗トイレもない貧しいものだった。家の前には物干し竿を置くほどのスペースしかない。もし借家に広い庭があったとしても、他人の土地に埋葬するわけにはいかない。

 ペットを失う辛さから、もう二度と犬を飼わないでおこうと思っていた。新たに自分の土地を手に入れたからと言って、まさかマルの遺体を掘り起こしてくるなどということはできるわけがないし、するべきではないが、もし次にペットを飼って先立たれたなら、河川敷ではなくきちんと埋葬してやらねばならないと、矛盾しながらも父は思っていた。

「見学会、行くだけ行ってみよか」母は父のその言葉を予想していなかった。

 母が持ってきた小冊子には、「来春より第二次分譲、順次開始予定」と書いてあった。


 ためらっているうちに第二次の分譲は完約してしまい、第三次の分譲地の少し奥に入ったところになってしまったが、父は新光地区の一角の土地を購入することを決断した。母が強く望んだというのもあったが、私が産まれたということが決定的な理由となった。三人で住むということになればいずれ借家からは引越しなければならず、引越しをするならば私が幼稚園や小学校に入学する前が良い。ローンを払い終えるのは、三十年という途方も無い先だったが、とにかく一歩一歩進んでいけば確実にその未来にたどりつける。父は幸福になろうと、希望を強く持った。

 購入を決定するまでに、父は母と何度か見学会に参加していた。新光地区の比較的良い場所に一軒、モデルハウスが建っていた。そのモデルハウスの庭に張られたテントには、第三次分譲地工事終了後の区画の地図があり、どのあたりが良いか首をひねってしきりに悩んだ。角地は坪当たり二万円ほど高くなり、家の前の道路が坂になる立地は安かった。区画が道路に面している部分が、南向きか北向きかでも微妙に値段が異なった。売買仲介する不動産会社の営業マンは、しきりに早く決断するよう強引と思えるほどに勧めた。工事で削った土砂を運ぶ大型トラックが、舗装されたばかりの道路を何度も往復していた。いちばん最初に分譲された第一次の区画はすでに戸建ての建設が始まっており、白木の骨組みの上で大工がかなづちを叩く音が響いていた。

 土地を購入してから約一年後、マイホームは完成した。二階の間取りは、大きな部屋をふたつ取るか四畳の狭い部屋を含めてみっつにするか迷ったが、子供がもうひとりできた場合を考慮して、みっつにした。四畳半の部屋は「こども部屋」にすると母は言った。

 私はそのころ、ようやく人間の言葉を発することができるようになっていた。

 実際に家が完成してみると、それは前に期待していたほど母の気に入るようなものではなかった。長年の夢だったマイホームが実際に手に入って住み始めてみると、そこは夢の続きが見られるようなきれいな場所ではなく、子育てと家事に追われる日常があるだけだった。それを体感すると、急につまらなくなり、なぜこんなものをあんなに欲しがったのだろうと過去の自分の振る舞いに、恥ずかしささえ覚えた。隣近所に同じ時期に建った住宅のほうが、良いもののように見えてしまって、これが隣の芝生は青いというやつなのだろうと自分に言い聞かせた。

 母はほかの一般的な家庭と同じく家計の管理を任されていたが、借家の家賃の支払いが減ったぶん以上に新たに始まったローンの支出は多く、毎月手元に残る現金は以前に比べだいぶ少なくなった。それも不満の種だった。十歩も歩けば端から端まで辿り着いてしまうような狭い空間のために、なぜこんな対価を支払わなければならないのだろうと思わない日はなかった。

 交通には不便な場所にあるので、父の通勤にかかる時間は借家に住んでいたときよりも二十分ほど長くなった。父の勤めていた繊維会社は、本社工場以外に生産拠点や支店などはなく、ゆえに転勤などという事態は生じるはずがないので、おそらくこの建ったばかりの新しい家に人生の最期まで住み続けることになるだろう。だから、たとえ通勤に不便があっても腹をくくってしっかり働くしかないと、新入社員だったころを思い出して決意を新たにした。しかし父は相変わらず、配送係のままだった。

 近隣には、庭に小屋を置いて犬を飼う家庭も少なくなかった。父はそれを見るたびにマルを思い出して胸が苦しくなった。狭い庭だったが、父は庭のすきまを埋めるように、種々の植物を植えた。

 もっとも近くにある園芸ショップは日曜日も開店していて、しかも午前八時から営業していたため、父はその店の常連客となった。最初は安い花の種などを買うだけだったが、樹木を植えてみたくなるまで、それほど時間を要さなかった。

「木を植えるときには、それが成長したときのことをイメージするのが大切です。一度植えると、移植するのは難しいですから。一戸建ての場合、あまり敷地の端のほうに植えると、育った枝が道路や隣地にはみ出して、要らないトラブルのもとになったりもしますよ」父は自分と同い年くらいのその店員の言うことを素直に聞いた。

「今、苗木を植えとったら、家のローンを払い終えるくらいには太い木になっとるかなあ」と父は自虐的に言ってみた。店員は否定も肯定もせず笑っていた。

 父はリビングの窓からよく見える場所にサルスベリの若木を植えた。店員に、あまり大型にならず育てやすく、しかもきれいな花を咲かせるから最初に植えるのにはちょうどいいと勧められたので、挑戦してみることにした。以来、毎朝リビングの窓からサルスベリの木を覗き見るのが父の日課になった。木は少しずつだが、着実に大きくなった。母はやはり、関心を持たなかった。


 私が小学生になったころ、バブル景気というやつが勃興した。テレビのニュースは、騰貴した地価のことを毎日のように伝えていた。「地上げ屋」というそれまで耳にしたことがない職業があることを、私はテレビの報道で知った。

 私の家にとって好景気はあくまでテレビの向こうの出来事だった。父の日々の勤務にも、大きな変化はなかった。給料が少し上がったが、それは物価の上昇分を埋める程度だった。しかし、地方の地価も多少の影響を受けて上がっているらしく、またローン金利も父が組んだときより2%ほど上昇していた。

「ね、家買っておいてよかったでしょう。今から家買ってローン組む人はたいへんよ」などと母は父に気取った言葉で自慢げに言っていた。庭のサルスベリは、ようやく花を付けた。決してゆとりのある生活とは言えなかったが、なんとか順調と言ってさしつかえないこの日常が、当たり前のように続いていくものと父は思っていた。

 偽りの好景気が終わるまで、さほど時間はかからなかった。私は「ふきょう」という言葉を、勝手に「不今日」と変換し、昨日とか明日のことを難しく言うとそうなるものだと思い込んでいた。バブル景気がテレビの向こう側の出来事だったのと同じで、不況もまたそうだった、というふうにはならなかった。

 ある日、父がいつものように出勤すると、社長の弟である専務が急に従業員全員を招集して、今日は急遽、休業することを告げた。理由は製造機械のトラブルなどといういささか腑に落ちかねるものだったが、たなぼたの休日を忌む理由はなかったので、従業員はおおむね喜んでいた。

 父も帰ろうとすると、配送係の者だけは残るように告げられた。ほかの従業員は更衣室に入って、その場に父を含めて四人の配送係と専務だけになると、専務は配送係に内職に出している製品を、縫製が完成してなくてもいいからすぐに行って全部回収してくるようにと命じられた。理由を問うたが、「後から説明する」というばかりで一向に具体的な説明は出てこなかった。

「今日は社長は出勤しないんですか?」と年輩の配送係が専務に聞いたが、社長は体調不良という小学生のずる休みのような答えだった。

 合点のいかないまま父は荷物をまったく積んでいないトラックを運転し、もっとも近くにある内職さんのお宅まで行った。本来なら一週間に一度の頻度しか行くことはなく、先々日に行ったばかりだった。この内職さんは七十に近い女性で、会社が創業したころから仕事を請け負っている。父よりもだいぶ会社内部のことに詳しく、今の二代目社長が子供のころから知っていると言っていた。

「こんにちは、すみません」父が玄関を開けて声を掛けると、内職さんは、ハイと言いながら顔を出した。

「いきなりすみません。詳しいことはウチの専務のほうからご連絡が行きますので、とりあえず製品を回収…」

「アンタ、こんなとこで何しよるの!」父の顔を認めるとすぐに、彼女は怒鳴るような声で言った。父が呆気に取られていると、

「おたくの会社、倒産したんよ。何しよるんよ、こんなところで。在庫品を回収に来たんかね。それはええけど、未払いになっとるぶんの報酬は、ちゃんと払ってもらえるんじゃろね」と続けて言った。

 父は頭の中が真っ白になり、一心に会社からそこまでに通ってきた道を戻った。悪い冗談に決まっている。いくら不況と言っても、繊維製品は生活必需品だからそうそう売れなくなるようなものではない。

 ひと気のない会社に戻って、めったに入らない事務室に行くと、専務と体調不良のはずの社長が密談していた。専務が父の姿に気づき、

「何しよるか。さっさと回収に行かんか」と響く声を出した。

「専務、社長。会社、倒産したって本当ですか?」父がそう聞くと、専務が、

「何を不吉なこと言うんじゃお前は。馬鹿なこと、言うな。会社は百年安泰じゃ。ええからはよ仕事に行かんかい」と言った。

 社長は下を向いたままだった。

 一週間後、父は初めて職業安定所というところに行った。市役所にほど近い、市の一等地にそれはあった。車で来所する人のために駐車場もあるが、駐車場は車であふれ返っていた。求職者登録というのをし、失業保険給付を受けるための手続きの仕方を、学校の授業のような形式で教えてもらった。職業安定所にはホワイトボードが並べてあって、磁石で求人を知らせるビラ紙が貼ってあったが、求人のビラよりもそれを眺めている人間のほうが圧倒的に多かった。父は不況という言葉の意味を、ようやく理解した。

 会社倒産の原因は、社長が銀行に言われるままに不動産投資を始めたことだった。融資実績を積み上げたい銀行の営業は、節操無しに地方で手堅く商売をしていた中小企業にまで投資話を持ちかけた。「購入資金は全額融資します。今買ってじっと持っておいたら、二年後には地価は二倍になります。そのときに売って儲けるも良し、持ち続けてさらに値上がりを待つも良し。いずれにしても損はしません」という、後になって聞いてみれば詐欺師の甘言以外の何物でもないような話に、社長が乗せられた。

 バブル崩壊後の大不況のなか、手に職があるわけでもなく立派な学歴や資格もない四十半ばの男にとって、再び職を得るという行為は不可能に近い難行だった。せめてあと十歳若ければ、などと詮無い事を考えた。好況期にぜいたくをしたわけでもないし、良い思いをしたこともないのに、なぜそのツケを自分が支払わなければならないのか。

 中小企業をだまして多くの会社を倒産させたり、たくさんの人を自殺に追い込んだ銀行は、なぜか税金で救済された。その税金を原資として、大手不動産会社や総合建設会社の借金は、債権放棄という不思議な言葉を使って棒引きされた。誰が救済されて、誰が地獄に落ちるのか、予めどこかで決まっているらしかった。難しいことはさっぱりわからないが、父はこの世の中をあまりよくないと思った。

 私は夕方に学校から帰ると、仕事に行っているはずの父が家で相撲中継をぼんやりと見ていることを、最初は不思議に思ったが、父と母が会話をしているのを聞いて、おおまかに事情を察した。「父さんの会社が倒産」とは、おもしろい洒落だと思った。父はおちょくるように私に「将来なりたいもんは、何じゃ。野球選手か」などとしばしば言っていたが、職を失ってからはそれはぴったりと絶えた。

 父が失業してから二ヵ月ほど経過したあたりから、母はその本性を現し始めた。そもそも母は、父を愛していたわけではなく、世間体と、金欲物欲を手っ取り早く満たすための手段として結婚を選択していた。父は母にとって使役できる牛馬だった。

 会社倒産による失業のため失業保険は手厚く支給され、急激に家計が悪化したというわけではないのだが、母にとっては「自分の家」に父が昼間から居ることが腹立たしかった。ようするに母は父が目障りだった。私が学校に行っているあいだ、母は父に毎日「職安に行け、面接に行け、仕事を見つけろ」と繰り返し言った。求人情報が更新されるのは週に一回だと説明しても、とにかく家から出て行けとヒステリックに叫ぶだけだった。

 夜はいつも夫婦喧嘩が始まった。正確には喧嘩などという立派なものではなく、一方的に母が父を罵るだけだった。コップや皿が割れる音が、こども部屋で寝たふりをしている私のところまで聞こえてきた。もはや「父さんが倒産」などと笑っていられなくなった。私は布団のなかで毎晩震えていた。

 母の父に対するふるまいは、暴力というよりも虐待に近いものだった。家の財布を握っている母は父が一円でも出費するのを認めず、散髪代やヒゲソリを買うカネすらも与えなかった。父は工作用のハサミで自分の伸びた髪を切った。広げた新聞の上に落ちた髪には白髪が混じっていた。刃が錆びてぼろぼろになったヒゲソリで髭を剃ると、口のまわりや頬の皮膚が剥げて血が滲んだ。その血がタオルに付着すると、母はそれを材料にして「タオルを汚すな、汚い」とまた父を罵った。

「働きもせんくせにメシだけは一人前に食べるけん、髭やら髪の毛やらが伸びるんじゃろが。どういう神経でメシ食べよるんじゃお前は。今日から一日一食じゃ」と母は怒鳴りながら台所に行き、父の茶碗を床に叩きつけて割った。

 父はじっと耐えていた。

 私は一度だけ、母に「怒るのを止めてほしい」と懇願したが、母は、「お前のことを怒っとるわけじゃないけん、口を出さんでもええじゃろ。そんなことよりテストの点さがっとろが。しっかり勉強せんか」とわけのわからないことを言い、続けて「あんな男と結婚するんじゃなかった」という言葉を床に吐き捨てた。

 私は怒り狂っている母が恐ろしく、学校に持っていく給食費の封筒を母の目の前に出すことができなかった。それを母に見せれば、カネがかかることを責められるのはでないかと思った。私は学習机の奥に隠しておいたお年玉のなかから三千円を取り出して、封筒の中に入れた。これで母の狂乱が少しでも収まるのならばと、祈るような気持ちだった。

 急なことだったが、祖父つまり父の父が亡くなった。祖父はもともと心臓が丈夫にできておらず、何度か手術を経験していた。訃報を聞いて、憔悴し切っていた父の顔色がさらに悪くなっていくのを私は目の当たりにした。

 祖父の葬儀では、母は父の親族を前に失業中の父を健気に支える良妻を演じていた。私はその姿を見て、この母は悪人だと確信した。

 親族は皆母の仮面にだまされていた。親族の中の一人は、父に対して、

「甲斐性なしのまんま親に先立たれて、バカモンが。お前みたいなんができあがって、亡くなったお父さんは天国で悲しんどるわ。こんなしっかりした嫁さんにまで苦労させて。仕事なんか選ばんかったら、土方でも便所掃除でも、なんぼでもあるじゃろ。しっかり働かんか」と言いながら父の側頭部を平手打ちした。便所掃除はともかく、職業安定所には勤めていた会社が倒産して失業した土方が、列を作って職を求めている状態だった。

 父は正座をしたまま下を向いていた。

 祖父の葬儀はなんとか無事に終わったが、その日の夜、母はしきりに父に、

「保険金はなんぼ下りるん? お義父さんの土地はお義母さんのもんになるん? 明日さっそく、貯金はなんぼくらいあるんか、電話して聞きい。ほんで、もらうもんはきっちり貰い。もめるようやったら、早いうちに弁護士さんに入ってもらわんといかん。どうせあの人らとこの先付き合っても、ええことないんじゃけん」と言った。この日、めずらしく母は父を殴らなかった。

 祖父が亡くなって約二ヶ月後に、母は残っている家の貯金と祖父の生命保険金を、慰謝料と称する根拠薄弱な名目で合法的に全額強奪し、家を出て行った。母が何を考えていたのか私にはわからなかったが、とにかく母は、一度に大金を手に入れる機会がやってきてそれを最大限活用した。

 母が家から居なくなった二日後、父はようやく私に、

「あのなあ、おかあさんは……」と急に行方知れずになった母のことを話し始めた。

「わかっとる。あんなん、おらんでええ。あの女、悪魔じゃ」と私は言った。

「母親のことを、そんなに言うたらいかん。今日からはワシとふたりで暮らしていくことになるんじゃが、ええか?」

「かまん。僕、インスタントラーメンが好きじゃ」と私は言った。これは本心だった。

 設計するときに母のアイデアがふんだんに盛り込まれた一戸建てに、父と私は取り残された。当たり前だが、住む人間が減ろうが使わない部屋が増えようが、住宅ローンが減額されることはない。ふたりしか住まなくなってみれば家にトイレがふたつある状態は不可解千万で、二階のトイレは掃除するのがめんどうという理由から、緊急時以外は使用禁止となった。

 父の再就職が、ようやく決まった。タクシーの運転手だった。前の会社で配送係を長らく勤め住宅地の奥深いところにまで土地勘があることと、無事故無違反のゴールド免許だったことが採用の決め手となった。二種免許を取得するところからのスタートで、休日も給料も不安定の、割のいい仕事とは言いがたかったが、父にとってそれは天職だった。工場に勤めていたころ、父は天然パーマ気味だった髪の毛を無理に七三分けにしていたが、運転手になってからは整髪料を必要としない短髪にした。父はそのヘアースタイルを、「両津勘吉カット」などと言っていた。

 母がいなくなって家は平和になった。私はようやく、安心して眠れるようになった。父の腕や背中に頻繁にできていたみみず腫れは、意外に早く消えた。

 父が再就職した年の十二月のある朝、父は私に、

「今年のクリスマスは出勤でお祝いできんけん、早いうちにケーキ買って食べよか」と提案した。

「いらん。ケーキはあんまり好きじゃない」

「じゃ、次のお前とワシの休みが同じになった日に、何か一緒に食べに行こか。なんでもええ。好きなモン。ステーキでも、焼肉でも」

「天丼」と私は答えた。

 家がまだ不幸になる前、父はよく仕事帰りにスーパーのお惣菜コーナーで、ひじきの入った丸いかき揚げ天ぷらを買って帰った。そして風呂上りに、その冷えたかき揚げをいつくしむように箸で突きながら冷酒を飲んだ。酒のつまみとしてかき揚げを全部は食べず、わざと半月の形に残しておいて、白飯の上に乗せて醤油をかけ即席の天丼を作って食べるのを父は好んでいた。私はその粗末で最下等の天丼を、一度でいいから食べたいと思っていた。

「天丼? 変わったモン食べたがるんじゃの。遠慮せんでもステーキでもええのに。まあ、ええわい。運転手仲間に、うまい天丼を出してくれる店、教えてもろうとくわい。やっぱりタクシーの運転手っていうんは、外で飯食うことが多いけん、みんないろんなところ知っとる」

 父は私がそれまで行ったことのないような豪華な店に連れて行ってくれた。アナゴやエビやイカの天ぷらがどんぶりからはみ出すように乗せられた天丼は、私の思い描いていたものとは大きく異なったが、それでもうまかった。


 ひとり取り残された父は、リビングでじゅうたんの上に仰向けに寝転がっていた。齢六十を過ぎ仕事を引退した父は、無為な日々を送っていた。

 息子はいつのまにか行方知れずになった。大学に入学して一年くらい経ったころ、息子が借りている部屋の不動産管理会社から電話が掛かってきて、家賃が二か月分未納になっていることを知らされた。銀行引き落としにしているが、残高が足りなく引き落とし不能状態が続いている。父はあわてて息子の携帯に電話してみたが、「この番号は使われておりません」というアナウンスが流れるだけだった。

 警察に捜索願いは出したが、事件性がなくただの家出のようなものだろうと軽く扱われた。大学には長らく出席していないということだった。電気もガスも止められ誰も帰ってこない息子の部屋は、一年ほど家賃を払い続けていたが、契約更新を機会に引き払うことにした。軽トラックを借り、長い距離を運転して息子が置き去りにした荷物や家電を乗せて持ち帰った。

 それから五年ほどが経過した日、父のところにガラの悪い借金取りがやってきた。父はいつのまにか息子の作った借金の保証人になっていた。借金取りの持っていた借用書を見ると、父の名前の筆跡はたしかに息子のものだった。

「息子は今、どこにおるんですか?」とすがるように父は借金取りにたずねたが、

「知らないよ。うちは債権譲渡を受けただけだから」とにべもなかった。

 しかし父にとってはそれさえも、まだ息子がこの世のどこかに生きているという福音となった。半年後に、また借金取りがやってきた。借りた金額は前の半分になっていた。

 天井をぼんやり眺めながら、父はどのように自分の後始末を付けるべきかを考えていた。結婚に失敗し息子は行方不明で、勤めていた会社も倒産し、人生を省みて唯一成し遂げたことといえば、この貧しい家のローンを払い終えた、たったそれだけだった。父はいつのまにか、独居老人という世間から憐れみを受ける存在になっていた。

 苦難と失敗と後悔だらけの人生だったが、いちばん後悔しているのは河川敷に埋葬したマルのことだった。結局あれ以降、ペットを飼うことはなかった。自分の無知がマルを殺した。生き返って欲しいと切に願った。

 電話が鳴った。最近、掛かってくる電話といえば、インターネット回線や絵画などのセールスばかりだった。父は電話を取らずに放置しようかとも考えたが、ゆっくりと上半身を起こして受話器を取った。

「俺だけど」と私は言った。

「元気にしとるか?」長い間をあけて、父が言った。

「ぼちぼち、かな。…あのさ、ちょっといろいろあって、住むところがなくなりそうなんだけどさ、そっち、帰ってもいい?」

「かまわんぞ。いつ、帰ってくる?」

「今日は無理だから、明日かな。たぶん夕方くらいになると思うけど」

「お金は、持っとるんか?」

「片道分くらいなら、あるよ」

「そうか」

「じゃあ、切る」

 父はそのまま受話器を話さず、ボタンを押して別のところに電話を掛けた。

「あ、もしもし。…そうです、そうです。いつもお世話になっとります。明日、出前たのめるじゃろか。天丼を、二人前。ええ、ふたりぶんです。夕方、六時半くらい。いやあ、長いこと留守にしとったうちのバカ息子がね、いきなり明日帰ってくるて、言うてきてね。もう、十年ぶりくらいかな」


 ※


 父がどんな生涯を送って来たのか、私はほとんど知らない。私の知っていることをすべて駆り立てて、父の半生を自分勝手に捏造してみたが、はたしてどこまで事実に近いものか、ひどく心もとない。おそらく、ほとんど間違ったものだろう。

 私が実家にもどって約十ヵ月後に、父は脳梗塞であっさりと死んだ。揺れる救急車のなかで、救命士がほぼ何もしない様子を見て、私は早くも覚悟した。短命の家系という父の予言は、そのとおりになった。予感があったのか、死ぬ一週間くらい前に父は、

「何も親らしいことをしてやれなんで、すまんなあ」と唐突に言った。

「何も息子らしいことしてないから、そこはおあいこってことで良いんじゃない」と私は言った。

「ほんなら、今から息子らしいことしたらええじゃろが」と父は愉快そうに笑っていた。

 そのころには風呂上りの冷酒は、三百ミリリットルの瓶入りのものをふたりで分けて飲むのが毎日の習慣になっていたが、いつも父のほうが少し多目に飲んだ。風呂に入る前に冷蔵庫から瓶を出しておいて、風呂上りに飲み始めると冷え過ぎの酒がいい具合に和らぐということは、私が発見した。

 葬儀で私は喪主ということになった。母に父の死を連絡していないし、仮にしようと思っても母がどこにいるのかも私は知らない。父の葬儀に間に合うように母の居場所を探し当てるのは不可能ではなかったかもしれないが、正直に告白すると私は母を探す努力をまったくしなかった。

 ひさしぶりに顔を合わす親戚一同に、私は重ねた不義を叱責されるものと思っていたが、そうはならなかった。遠方に赴任し十五年以上会っていなかった、父の兄つまり私の叔父は、

「よう帰ってきたの。間に合ってよかったわい。最期にあんたが家におってくれて、お父さんは幸せじゃったろな。いろいろあったけど、あんたは孝行息子じゃ」と、へんな誉め方をしてくれた。

 告別式には、私が予想していたよりもはるかに多い人が集まった。父がタクシーの運転手をやっていたころの仲間が、声を掛け合って集まったようだった。私はその一人ひとりにきちんと頭を下げて礼を言った。何人かはまるで申し合わせたように、初めてみる私の顔を見て、「お父さんに似て、男前じゃ」とお世辞を言った。

 父はたくさんの人に見送られた。この人たち一人ひとりの中にそれぞれの形をした父がいて、私はそれを一片残さず集めたいと思った。平凡で不器用で、不運で無欲だった父の生涯を、誰かあやまたぬまま讃えてくれ。

 父の遺したわずかな金融資産と土地家屋はすべて、唯一の相続人である私のものになった。不動産の登記手続きに印鑑証明が必要とのことだったが、私は実印を役所に登録していなかったので、ややこしい形をした印鑑を作るところから始めなければならなかった。書類にいくつも判を押したり署名したりしながら役所や銀行を何往復もし、それでもなお不備があると窓口で書類を突き返されたときは閉口した。

 クラベはもちろん、まだ生きている。父とクラベの長生き競争は、あっさりとクラベの勝利に終わった。

 葬儀の前後数日、エサをやる以外に何も世話をしてやれなかったら、犬小屋の周りに糞が散らばって悪臭を放っていた。私はそれを片付けると、サルスベリの黒い枝に掛かっているリードを持って散歩に出ることにした。クラベは父の姿が現われるのを待つように、おすわりの体勢をしている。私はリードを軽く引っ張って、クラベを立たせた。

 外は昨日と同じ普通の朝だった。私は父とクラベの散歩に同行したことは一度もないので、どういう道順で散歩をしていたのか知らない。しかしクラベはきちんと覚えていて、私を先導してくれた。

 坂を下り大岡君の家の前を通って、四角い公園を斜めに突っ切り反対側に出る。そしてその向こうの緩やかな坂を下って、まっすぐに行く。新光地区の入り口とも言うべき場所で引き返して、また同じ道をもどる。クラベはしっぽを左右に振り、四本の脚を器用に動かしながら散歩した。

「おはようございます」

 家まであと百メートルというところで、急にうしろからそう声を掛けられて、私は背中を少しのけ反らせた。振り返ると、知らない中年女性が立っていた。この女性も手にリードを持って、チワワというのかプードルというのか、とにかく小型の犬を散歩させていた。

「おはようございます」私は戸惑いながらも、そう返事した。

 女性は私のすぐ近くまで来ると、深々と頭を下げて、

「伺いました。急なことで…、お悔やみ申し上げます。この度はご愁傷様でした」と言って厳かに合掌した。

「ありがとうございます。生前は父が、たいへんお世話になりました」私は、ここ数日何度も言った台詞をその女性に返した。

「お世話なんて、とんでもない。こうして、犬の散歩のときにちょっと雑談するだけじゃったんです。ちょうどね、ウチと同じ時期に犬を飼いだしたみたいで、よう道端ですれ違うたんですよ。最近まで、あんなに元気そうやったのに、急に。ねえ」

 私はもう一度、頭を下げた。

「お父ちゃん、おらんようになって寂しいねえ。クラベちゃん」

 女性はそう言うとアスファルトの上に膝をついて、クラベの首を両腕で包むようにして抱きしめた。クラベはおとなしく呼吸を繰り返していた。


(了)

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団塊の墓 台上ありん @daijoarin

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