君は大丈夫だ

碧美安紗奈

君は大丈夫だ

 断崖に立つ浮浪者のような身なりの若者が、眼下で荒れ狂う海に身投げしようとしていた。

 

 彼は渾身の力を込めて踏ん張ると、大仰な身振りで曇り空を仰ぎ、両腕を広げた。

 自身を追い込んだあらゆるものにぶつけるかのごとく、水平線の彼方まで轟く絶叫を放つ。


「最悪だ! この世の終わりだ!!」


 ――後ろで、誰かが手を叩いた。


 呆気にとられ、彼は振り向く。


 すると少し後方から、暗い色の服を着た禿げかけた頭の中年男が拍手をしながらやって来るところだった。


「素晴らしい」中年は言う。「君は役者だな、わたしにはわかる」


 若者は不満げに対応する。


「……なんだあんたは。自殺の邪魔だ、消えてくれ」


「なに? そう知っては黙って帰れるわけがないだろう。理由を聞かせてはくれないか」


 中年は本気で驚いていた。どうやら、からかいに来たような人物ではないらしい。


「あんたの指摘は半分当たってる」若者は答えた。「ぼくは役者だ。でも、才能がなくてこの様さ」


 と、自分のみすぼらしい服装をひらひらさせる。

 それで人生に失敗してきたことを物語るには充分な程、酷い有り様だった。


「いや、そんなことはない」

 真剣な顔つきで、中年男は断言した。

「さっきの君の咆哮は素晴らしかった。ああいう心情を大事に、役になりきって本気で演技してみれば、それはきっと届くはずだ」


 何を無責任な。

 と、呆れを通り越してぽかんとする若者に、中年は続ける。


「わたしも今は無名だが、いずれ最高の作家になろうと夢見る者だよ。なにか作品のアイディアになりそうなものはないかとあちこち散策していて、君を見つけた」


「……そりゃいい」


 若者は自嘲する。


「じゃあ、ぼくは将来のあんたの姿かもな。世の中はそんなに簡単にいかない、失敗してこうやって死を選ぶかもしれないぞ。こんな最悪な状況にまで落ちぶれてな」


 中年は目を輝かせた。

 風がごうごうと吹き、その薄くなりかけた頭髪を揺らす。そよぐ草花が、打ち寄せる波が、天を割る天使の梯子が、舞台を整えた。

 そして天啓が降りてきたかのように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「最悪と言えるうちは、大丈夫だ」


 そのあまりにも清々しい響きに、若者は心を打たれて立ち尽くす。


 いつか、舞台で発してみたいと思わせる台詞だったのだ。

 それには、生きねばならない。


 若者は自殺を思い留まった。十六世紀終わりの、イギリスでの出来事だった。


 中年男性は後に劇作家になり、自分の作品でこのとき閃いた台詞を用いた。

 彼の名は、ウィリアム・シェイクスピア。


「最悪と言えるうちは、まだ大丈夫だ!」


 その舞台の名は『リア王』。


 十七世紀初頭の初舞台上で台詞を紡いだのは、あの若者だったという。

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