第9話二人、時間。

「改めまして、私はケテルと申します」


 完全に静止した岩の前で、メイド服は正確な所作で頭を下げる。

 正直に言って、ホルンは気が気ではなかった――何しろ彼女の首は未だ深々と切り裂かれているままなのだ、何かの拍子に取れてしまわないとも限らない。


 しかし、何事もないような顔をしている相手に、もしもしお嬢さん貴女首取れそうですよ、なんて伝えるのは幾らなんでも気が引けた。しかも、その傷を与えたのは他でもないホルン自身なのだから。


(そもそも、どうしてその状態で生きているんだこの女は……)


「……王冠という意味だと、ミザロッソは言っていたようだが」


 内心の疑問を、ホルンはしかし尋ねなかった。

 それどころか、けして面に出ないように気を付けていた。相手が当たり前だと思うことを尋ねない、それはホルンが長年培ってきたハッタリという名の鎧であった。


 代わりに尋ねた当たり障りの無い質問に、ケテルは嫌みにも好意の表現にもならない程度の微笑みを浮かべた。


「本か棺か、どちらかを読み解かれたのですね。流石、御嬢様は博識でいらっしゃいます」


(御嬢様、ね……)


 そう呼ぶことに、彼女は納得してくれているのだろうか――クロック家の御嬢様として、ミザロッソは認められたのか?


「彼女の知識、知恵、胆力。いずれにしても後継者たり得るものと私は感服致しております。それに」


 人望も、お有りのようですし。

 意味ありげな言葉と共に向けられた無感情な瞳は、ホルンを微妙に居心地悪くさせる。お前たちの間に信頼など無いのだろうと言われているような気になるのは、後ろめたさ故の幻想だろうか。


 ともかくも。


「認めて貰えて良かった。彼女も喜ぶだろうし、僕としても鼻が高いよ」

 ケテルは、またしても首に不安な角度をつけた。「と、申しますと?」

「僕は彼女の婚約者なんだ」


 途端、ケテルは姿勢を正すと先程よりも深く頭を下げた。

 灰色の長い髪がぱさりと垂れ、彼女の表情を束の間覆い隠す。


「左様でしたか、これは失礼致しました、旦那様……そう呼ばせていただいても?」

「ははは、まだ結婚したわけではないけれどね。早めに呼び方に慣れてもらった方が良いだろう、君は、ミザロッソ曰く彼女の従者となるのだろう?」

「その予定です、彼女が間に合えば、ですが」


(そう言えば、宴があるとか言ってたな)


 村で催される歓待の宴に出席しないと、後継者としては認められないという話だった――時間的には余裕こそ無いが無理でもなく、堅実に試練をこなしていれば必ず間に合うであろうとも、彼女は予想していた。

 先に行かせて正解だった。後は、走って追い付けば良いだけだ。

 ミザロッソの走りは、彼女の役柄的に仕方なく身に付けている三重に重ねたスカートのせいで果てしなく、遅い。ホルンが真面目に走れば充分追い付けるし、しかも幸いにも、背中の荷物は目を覚ましてくれている。

 ……致命傷を負ったままどうして目を覚ましているのかは、この際目を瞑る。


「君、走れるな? 結構、では、急ごうか」

「はい、旦那様。早くしないと

「……危険?」


 急に嫌な予感がしてきた、何だ、飯の時間に遅れるかもって話ではないのか?

 将来のために紳士的な態度を崩さず、けれども意表を突かれたのは隠せなかったらしく、ホルンの顔を見ながらケテルは重々しく頷いた。


「先の大岩。あれは罠の一つであり、そして同時、でもあります。この洞窟に無尽蔵に仕掛けられた罠たちの先駆者なのです」


 例えば、タイルを踏むと槍が飛び出す罠。

 例えば、壁に触れると矢が放たれる罠。

 例えば、落とし穴。地雷、乾燥の魔方陣。

 


 それら全てが連動しているのだと、ケテルは語った。詰まり。


「岩が発動した時点で全ての罠は起動致します。砂時計は引っくり返され、尽きるときを待っているのです」


 曖昧模糊な笑みを浮かべながら、ケテルは極めて簡潔に、事態を宣告した。 


「時限式の罠。期限内に脱出しない場合、









 消毒という言葉に本来、これほど不穏なニュアンスは存在していない。

 それは人間にとって希望の火、姿形の無い無味無臭の死神たる細菌を永遠に遠ざける、革新的な戦略だ。

 極端な話単純な消毒行為だけで、人類を悩ませ続けてきた疾病の七割は駆逐できる。夢のような本当のお話なのだ。


 消毒は死の対策であり、死の原因ではない。

 だというのに今、その単語がホルンの生命を脅かしている。

 何とも皮肉な話だが、『本体に良くない影響を与える何かを排除する行為』を消毒と呼ぶのならば成る程、確かに自分は消毒される側であろうなと思うくらいには、ホルンも見る目があった。


「御嬢様を先行させたのは英断でした」

 奇妙な、走るというよりは異常な速度の競歩のようにケテルは進む。「罠とはいえ試験です、突破できるように作られておりますから」

「となると、危険なのは我々か」

「というより、危険なのはです」


 まあ、そうだろうなとホルンは頷く。

 切り裂かれた首から血の一滴も垂らさぬまま、全力疾走で辛うじて追い縋れる早歩きをする女性と比べたら、死神に捕まりそうなのは自分の方である。

 良く見れば、彼女は小刻みにステップを刻んでいる――微妙に色の違うタイルや不自然な窪みを、瞬時に判別して避けているようだ。


(従者が道を切り開く、か)


 ケテルを伴っていれば、そして彼女が正しく協力的でさえあれば、洞窟の罠を全て回避することが可能なのであろう。

 逆にそうでなかった場合、挑戦者は即ち侵入者であるのだから、容赦は要らないというわけだ。ホルンのように資格はなくけれども合格する、という事例は滅多にないのだろう。


「出口までは、旦那様の全力疾走であれば充分間に合うでしょう」

「それは、助かるよ」


 彼女がこちらの全力を見誤っていないと良いが、とは、言う余裕もない。


 【黄泉返りトライアングル】の恩恵で、ホルンは少なくともケテルには勝てるようになっている。

 だがそれは、『戦闘でケテルに勝利し得る』という性能スペックを保証しているだけで、『彼女より高い身体能力』を補填してくれるわけではない。【黄泉返りトライアングル】は死を遠ざけるが、克服するわけではないのだ。


(まあ、走れば間に合うというなら是非もないさ)


 抗う余地のある絶望なんて、全く絶望の名に恥じるというもの。

 懇切丁寧にあらゆる退路を潰す悪魔なわけでもない。相手は親心と嗜虐心を履き違えただけの老人なのだ、汗を掻くだけで血を流さずに済むのなら、悪くない取引だ。


「……旦那様、良い知らせと悪い知らせがあります」


 だから。

 先行する従者が唐突にそう発言したとき、ホルンはやや朦朧とする意識の中でさえ、酷く震える背筋を意識せざるを得なかった。


 こういう場合、幸不幸の天秤は釣り合わないものだ。


「良い知らせとしましては、上等な調子ペースであるということ。このままならば、村でワイン片手にを見物できるでしょう」

「……それで……悪い、知らせは……?」

「間も無くお分かりになります」


 そう言ったケテルは歩調を急激に緩め、ホルンの直ぐ背後に陣取った。

 食事の最中隅で控える女中メイドのようだ、と思い、そう言えばメイドだったなとホルンはぼんやりと思う。


 そう、彼女は控えたのだ――となると。



 当然。

 次の場面は


「…………ミザリー……」

「良かった、無事ね。それに、従者も。やるじゃない」


 全く。こんな状況でなければ頭を抱えながら相手の愚行を罵っているところだ。生憎喉は言葉を吐き出すより酸素を吸い込むのに必死だし、抱えるべき腕には他にやることがある。


「ちょっと、ちょっとだけだけど、心配してなくもないわホルン。もしかして岩に潰されたかと思って……」

「そうか、悪いな」

「……ホルン? どうしたの、そのままだと私にぶつか」


 その後の声はミザロッソお嬢様の名誉のためにも、まるで潰れた蛙のようだったという文学的表現だけを残して、伏せておく。

 事実は二つ。

 ホルンは速度を緩めず。

 ミザロッソは腹部を起点に反転するように抱えあげられた。


 ホルンに続くケテルは半歩脇に避け。

 ミザロッソの唇から、床に散らばったそれの名残をそっと拭き取った。


「時間はぎりぎりになりました」

「わざわざどうも!」

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