第15話

「アノミアに入る条件は強いデストルドーを抱いていることとされています。それによって世界のデストルドーと共感し、アノミアで活動する権利を得るようです。これは実生活の充実具合とは余り関係ありません。むしろ、その充実が虚無感を誘い、結果アノミアに引きずり込まれる可能性もありますからね」


 朔耶自身、不自由な暮らしをしていた訳ではない。

 しかし、だからこその、平凡に日々を過ごしていたからこその非日常への憧憬。

 日常を壊してしまいたい気持ち。

 それこそがアノミアへの扉を開く鍵だった訳だ。


「またアノミアに入る条件を満たした者が、傍にいた誰かに触れていた場合、その相手もアノミアに引きずり込まれます。そのため、本来囚われずに済んだはずの者が囚われる、ということも間々あります」


 パウロは何故か己刃を気遣うように一瞥したが、彼女は、大丈夫です、と頷いた。


「どちらで入ったにせよ、一度アノミアを経験した者は本来しばらくの間アノミアに陥ることはない。だが、その傍に強いデストルドーを持った者がいた場合、その者に引きずられ、再びアノミアに入ってしまう。今回の朝日奈は正にそれだった」


 再び光輝の補足が入る。

 千影は、一昔前まで他者と関わりを持たずに一人で本を読み続けていた。

 その日々の中で朔耶に似て、しかし、朔耶以上の非日常への憧れを抱いていたのかもしれない。

 それでもアノミアに至ったのが自分よりも後だったのは、自分が多少なり彼女の死の欲動を抑えられる存在だったから、と考えるのは自惚れか。

 だが、自分にも千影や和也、陽菜のような友人がいて尚、アノミアに陥ったように、それだけでは防げない根源的な何かがあるのかもしれない。そう朔耶は思った。


「現在では、アノミアは毎日必ず世界標準時で午前零時に発現します。つまり日本では午前九時です。そして、正確に七分の二四時間続く」


 今日もあの時も、確かにその時間に世界がアノミアに移行していたことを思い出す。


「えっと、でも、現在では、ですか?」

「はい。人間の思想如何でそれは変わるようです。かつては一週間に一度、安息日の終わりに丸一日アノミアが生じていました。安息日を含めた天地創造の七日。その翌日、いつか訪れる八日目、最後の審判の日。そんなイメージだったのでしょう」

「つまり、以前は一日だったアノミアが七分割されていると?」

「恐らくは」

「でも、何で世界標準時に同時になんて、一日の終わりなら日本の午前零時でもいいはずなのに……」

「アノミアはこの地球、あるいは世界の見る夢のようなものなのかもしれません。でなければ、朝日奈君の言う通り地域毎、いえ、それどころか個人毎にアノミアは訪れるはずですからね。世界の夢に紛れ込んだ人間が僅かながら指向性を与えているのでしょう」


 時間に世界基準があることは常識、多少なり教育を受けている者なら誰でも知っていることだ。

 アノミアが世界各地で全く同じタイミングで起きると前提するなら、そうなるのも無理もないことかもしれない。


 しかし、七日毎だったアノミアが毎日発生するようになった思想の変化とは何なのか。

 ふと、朔耶はそこに疑問を覚え、睡眠が原因かもしれない、と考えた。

 人は睡眠時に意識が一時的に断絶する。それ故、睡眠以前と覚醒以後の世界は本当に同一なのか、という妙な懐疑を抱いたことがあった。

 過去など本当は存在せず、今日という日の始まりに全ての記憶も、過去と呼ばれるものを根拠づける物証も何もかもが創造されたのではないか。

 それは本気の本気で考えれば深い問いになるかもしれないが、結局朔耶の不確かな論理性如きでは、記憶の不確かさを再確認しただけだった。


「……そう言えば、一度目の時、アノミアから出た瞬間、そこで体験した出来事を全て忘れていました。それは何故だったんですか?」

「それは、精神の記憶は肉体の側では読み取ることができないからです」

「読み取れない?」

「人間は肉体、魂、精神から成り立つ。高次のものから並べると精神、魂、肉体だ。故に肉体の記憶を精神は得られるが、精神の記憶は漠然としたイメージ以上には肉体に伝わらない。つまり上位互換は可能だが、下位互換は不可能ということだ」


 三度、光輝の補足。

 つまり最新ゲーム機で旧式のゲームを遊べても、旧式のゲーム機で最新のゲームを遊べないようなものか。そう考えると随分俗っぽくなるが。


「アノミア内で起きた事象の記憶は基本的に肉体には残りません。そのため、アノミアが終わる時、様々な矛盾を解消するために肉体の記憶は自らによって改竄されます。例えば朝日奈君の場合は――」

「あの時、俺はアノミアに入る前と出た後で位置的な矛盾があったから、ここまで散歩に来た、なんて記憶を自分で作り出した、ということですか?」


 朔耶が確認の意味を込めて問うと、パウロは頷いた。


「その最たるものはアノミア内で死んだ、つまり魂を破壊されたものは世界から存在を抹消される、というものです。誰の記憶にも残らず、その者が存在した物的な証拠も全て消え去ってしまいます」

「そ、そんな、記憶はともかく何で物証まで?」

「世界がアノミアに移行する際、物質的なものは全て曖昧になり、いえ、消失し、魂が物的に振舞う世界が構築されます。そしてアノミアが終わる時、物質世界は再び創造されるのです。そこに残る魂の情報に従って」

「つまりね。破壊された魂以外の情報を基に世界を再構築するの。勿論、アノミア以前の世界通りに作り直そうとするんだけど、その人が死んだという情報は現実世界に出力されない。アノミアでの出来事だから。しかも、その人自身の分の情報も欠如している」


 今度は己刃がまだどことなく力がない口調のまま補足を加え、更に続ける。


「すると世界は矛盾と判断し、その人の人生をなかったことにして世界を再構成するの。勿論、直前の世界と極力変化が小さくなるように。だから、例えばその人が誰かの命を救っていたとして、救われた人まで死んだりはしないの。ただ記憶が都合よく改竄されるだけで。でも、その人がいた証は全てなくなる」

「な、なら、千影は――」

「現実世界では、その存在は忘れ去られる」


 悲痛な面持ちで、しかし、はっきりと告げる己刃。


「お、俺も、忘れるんですか?」


 その事実が心に重くのしかかり、呆然と呟くように尋ねる。

 すると、己刃は首を横に振り、パウロは、いいえ、と否定した。


「力を得たということはアノミアと深く繋がったということです。必ずアノミアに引きずり込まれる代わりに、精神の記憶も思い出すことができるようになります。恐らく、魂がそう変質するのでしょう」

「多分、だけど、莫大な容量の映像データを変換して、劣化なく小さい容量に圧縮してくれるような機能のついたバイパスが魂にできるんだと思う」


 その説明が分かり易いかはさて置き、朔耶は二人の言葉に心の底から安堵していた。

 彼女のことを忘れ、記憶が改竄されてしまうのは正直怖い。

 そして、それにもかかわらず何事もなかったかのように過ごしていく自分を想像すると悲しくなる。


「さて、本題に入りましょう。時間も余りないようですし」


 パウロが聖堂の入口の両脇にある砂時計を見上げる。

 その砂はほとんどが下に落ちていた。それは間もなくアノミアが終わる証だ。


「先程も言いましたが、照屋さんの魂の欠片を全て取り戻せば、恐らく彼女は甦ります」

「で、でも、世界から忘れられるんですよね?」

「魂が完全な形を取り戻せば、アノミアが終わる時、その情報を加えて世界が再構築される以上、肉体を取り戻すことができるはずです。そうなれば、彼女の人生もまた元に戻され、生き続けていたものとして人々の記憶改竄が行われるでしょう」


 つまり、全てはアノミアにおける存在の情報次第、ということのようだ。


「しかし、パウロ様、本当にそんなことが可能なのでしょうか? これまでにそんな事例はなかったと思いますが……」


 光輝の表情からは、にわかには信じられない、という彼の気持ちが見て取れた。


「朝日奈君は照屋さんを死なせたくないと思った瞬間に力を得たと言いました。それはつまり、彼の力はそのためにこそある、ということです。力は求めにより形を決めますからね。ですから、その力は彼女を生かすためのものである可能性が高く、ならば魂の欠片を集める、というプロセスが不可欠のはずです」


 パウロのその言葉に、朔耶は心の内に希望が生まれるのを感じた。

 彼女を守れなかった後悔を解消するチャンスがあるかもしれないのだ。


「……さて、そろそろアノミアが終わりますね」

「はい。では、パウロ様、今日はこれで。……鳴瀬。朝日奈。教会を出るぞ」

「あ、は、はい」


 パウロに頭を下げてから歩き出した光輝に促されるままに、己刃と共に教会を出る。

 教会内部とは違い、外の世界は相変わらず穢れを含んだ色を湛えていた。

 これも世界が抱くデストルドーによるものなのだろう。


「あの、何で態々外に出るんですか? この中って安全なんですよね?」


 朔耶はその光景を視界に入れながら、以前のアノミアで疑問に思ったことを尋ねた。


「それはね。この教会の中にいると元の世界に戻れないからなの」

「え? どうしてですか?」

「私も詳しくは知らないんだけど、あれは昔の聖人の力で作られたものだって話だし、逆にアノミア内に留まり続けるためにあるんじゃないかな」


 己刃は軽く首を傾げながら曖昧に笑った。

 彼女の推測通り、誰かの力によって作られたものなら、その色に穢れが含まれていないのも理解できる。

 しかし、その詳細な目的は分からないようだ。

 やがて世界の色から穢れが消え去り、目の前のグラウンドでは体育の授業でサッカーをしている生徒達の姿が現れ、賑やかな声が聞こえてきた。


「アノミアが終わったんですね」

「そ。でも、記憶は残ってるでしょ?」

「あ、確かに……」


 千影を守れなかったあの瞬間の出来事もしっかりと思い出せる。

 そのせいで一瞬暗い気持ちになりかけたが、彼女を甦らせられる可能性があるという事実が朔耶の心を落ち着かせてくれていた。


「って、そう言えば、今授業中ですよね? こんなところにいて、大丈夫なんですか?」

「心配ない。体調が悪くなって保健室に行っていた、とでも記憶が改竄されているだろう。だが、教師としてはそれを理由に授業をサボるのは見過ごせないからな。なるべく早く教室に戻るようにしなさい」


 光輝はそれだけ言うと、朔耶達を残して校舎へと足早に去っていった。


「多分、先生、授業中だったんだね。今日は色々あって元の位置に戻れなかったから」

「あ、それは、また……」


 その場合は一体どんな記憶改竄がなされているのだろうか、と首を傾げる。

 どんなものであれ、真実を知る者から見れば、矛盾満載に感じるに違いない。


「それはともかく……改めて。私は鳴瀬己刃。よろしくね。朝日奈朔耶君」


 己刃は真剣な表情になって右手を差し出してきた。

 その双眸には、いつかのように強い意思の光が見て取れる。


「はい。よろしくお願いします。己刃先輩」


 朔耶がその手を握ってそう言うと、彼女は小さく頷き、それから僅かに目を伏せた。


「……もう一度、謝らせて。私達の力が足りなかったばかりに君の大切な人を守れなかった。ごめんね」


 しかし、己刃はすぐにまた顔を上げて朔耶の目を真っ直ぐに見詰めた。


「でも、彼女を助けられる可能性があるんだよね? なら、そのために私は精一杯協力するから」

「ありがとう、ございます」


 己刃の口調から感じられる確かな決意に、自然と感謝の気持ちが生まれる。

 パウロから提示された可能性。

 そのおかげで彼女を不当に責めたりせず、純粋にそんな感情を持つことができていた。


「まだ色々と詳しく話さないといけないことがあるから、放課後、朝日奈くんの教室に迎えに行くね。勝手に帰ったりしちゃ、駄目だよ?」

「分かりました」

「それと、これから教室に戻っても、照屋さんは……皆から忘れられているから、取り乱したりしないように、ね?」

「……はい」


 哀れみを帯びた己刃の忠告に深く頷く。


「さ、行こう」


 そして校舎の白い外壁に沿って二人並んで歩き、昇降口を朔耶だけ先に素通りして一階の廊下に至る。

 己刃は外履きの靴だが、朔耶は破壊された廊下から直接グラウンドに出たため上履きのままだった。

 一応、靴の裏についた砂は払ってある。

 ふとアノミアでは氷柱に破壊され、大きく穴が開いていた部分を視界に入れる。

 しかし、そこには何事もなかったかのように普段通りの壁があった。

 どうやらアノミアが終わる時、人工物は元の状態に戻るらしい。恐らく、それ自体は主体的な意識を持たないがために人々の記憶によって多数決的に修復されたのだろう。

 だが、あの中で死んだ人間は元に戻らない。それどころか存在しなかったことにされてしまうのだ。

 朔耶はその理不尽さに奥歯を噛み締めていたが、靴を履き替えた己刃の気配に一つ息を大きく吐いて心を落ち着かせた。

 そして、彼女と共に静かな校内を歩く。

 授業中であるため、廊下には当然他の生徒の姿はない。


「それじゃあ、また後でね」


 階段を上り、二階の踊り場で三年生の教室がある三階に行く己刃と別れ、重い足取りで教室に向かう。

 やはり廊下に人影はなく、教室からは教師の声が時折聞こえてくるが、どこか取り残されてしまったかのように感じる。


「千影……」


 朔耶は自分の、二年C組の教室の前で立ち止まり、そう口の中で呟きながら左の掌を一度見詰めた。

 それから様々な感情を胸に押し込めるように手を強く握り締め、教室に入っていった。

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