第20話 湖畔

 あーあ、明日からまた学校か…。ヘレナは憂鬱だった。学校そのものは楽しい。それにDaddyとMomの血を引くからなのか、こんな自然の中の小さな町が性に合っている。しかしCatsの前を通りがかるとあげはを思い出し、あげはを思い出すと気が重くなる。あげはが怒って以来、口も利いていない。誰があげはに変な噂を告げたのだろうか。あたしがあげはの足を変にした犯人って噂だったのか。あげはは『変な噂』と言っていた。あたしが犯人って噂だったら変な噂じゃない。あげはを傷つけるような、ずっと前に苛められたような、そんな噂じゃないのだろうか。


 夏休みの間は楽しかった。高原リゾートへも出かけ、Daddyのゲストと一緒にサイクリングもした。まさかトンネルを通って街までサイクリングで行けるなんて、思っても見なかった。Daddyもゲストも慣れていて、あたしだけが初めてで、それでも30km、走り通した。やるやんヘレナ。自分でもそう思った。しかし明日からはどちらかと言うと『やってしもたなヘレナ』や。あーあ。


「よし!野ばら湖、行こ」


 ヘレナは声を出して自分を鼓舞した。野ばら湖は町にある湖。大して広い湖ではないが水はきれいだし、水面に映る森の木々がまたきれい。ヘレナがお気に入りのウッドデッキを張った湖畔の公園は、地元の人の安らぎの場にもなっている。あそこでぼーっと水面見てたら、嫌な事も忘れる。


「Mom!野ばら湖、行ってくる」

「Ok. Take care」


 リビングで電卓を叩いていたソフィアに声を掛けてヘレナは表に出た。通学路とは反対方向に歩くこと10分、夏が終わりかけの湖のデッキには誰もいなかった。ヘレナはベンチに腰を掛けて空を仰ぐ。まだ日射は夏の強さだが、気のせいか、陽が傾くと弱くなってる。空には入道雲に代わって羊の雲が浮かんでいる。撫でるような風が湖面に漣を立て、ヘレナの金色の髪を揺らした。このまま世界がフリーズしてもええのに…。ヘレナは目を瞑った。




「行ってきまーす」

「はーい、お願いねー」


 同じ頃、あげははゴールドを抱っこしてCatsを出た。一応首輪とリードはバスケットに入っている。

「ゴールド、お散歩なんやから車がけぇへん所まで行ったら、自分で歩くんやで。でもどっち行こ」

あげはがキョロキョロしているとどこからともなくアゲハチョウが現れた。


「あれ?アゲハチョウや。ゴールド、この子やでアゲハチョウ。ウチ、初めてCatsへ来たときな、案内してくれてん。この子がずっと前を飛んでてな、それでひょいってあんたのお母さんの尻尾に止まったんよ。バス停の所で。そこからはあんたのお母さんとこの子が仲良く案内してくれてんで。ウチの名前もあげはやから来てくれたんかな」


「ナーォ」


小さい声でゴールドが鳴いた。

「え?そうやって?そうやんな、ウチのお母さんもそう言うてた。ウチにとって大事な時にきっと案内してくれるって。なんかティンカーベルみたいやな。せやからついて行ってみよか」


 アゲハチョウはいつもと違う方向に進む。こっち行ったら野ばら湖やな。あげはも何回か行った事のあるウッドデッキを思い出した。野ばら湖…、ヘレナ、好き言うてた。あはげは夏休み前にクラスで聞いていた会話を思い出した。ヘレナと取巻き女子の会話だ。



「ヘレナー、夏休み、どこか行くの?」

「ううん、ウチは夏休み、めっちゃ忙しいねん。Daddyがお客さんと一緒にツーリングとかキャンプとかやから」

「へえ、そっか、ツアコンなんだよねー、ヘレナんちって」

「そう。外国の人も日本の人も来るねん」

「じゃあ、旅行とか行けないんだ」

「うん。ちょっと誘われてるんやけど。山の方のツーリング」

「ふうん。でも地元だよねえ」

「まあね。その為にここに住んでるんやから」

「つまんないね」

「でもここ好きやから。暇な時は野ばら湖行ってるし。あたし大好きやねん、野ばら湖」

「へー、あたしらはもう飽きちゃったかな」

「えー、飽きへんよー。きっと秋も綺麗やろなあって思うし」


ふうん。ヘレナって野ばら湖好きなんや。あげはは漠然と記憶したのだ。


 風が雲を吹き払い、太陽が顔を出す。ゴールドの毛並みが輝いてそよぐ。あげはの頭の中ではヘレナの金髪も風にそよいで、その淋しそうな表情が見えた。ヘレナ、あそこにいる。会わなあかん…。

あげは達は、間もなく湖の周囲を回る遊歩道に出た。アゲハチョウはそのまま湖の真中へ向けて飛んで行く。


「ゴールド、チョウチョ行ってしもた。ちょっと歩こか。すぐそこに座れるとこあるし」

あげはがゴールドを降ろし、リードをまさぐっていると、いきなりゴールドが駈け出した。

「うわ、ゴールド!危ない!ちょっと待ち!」 

ゴールドはリードと後ろ足を引きずりながら遊歩道を走る。あげはは追いつけない。ゴールドが湖に落ちたら大変や、あげはも必死になった。



「あかん。寝てしもてる…」

ヘレナが伸びをしたその瞬間、音もなく金色の小さいのが膝の上に飛び上がってきた。うわっ!

金色の小さいのはヘレナに顔を向けた。目が合う。


「ナァーォ」


「え?ゴールド?なんで?どうしたん?脱走して来たん?」

ヘレナが叫んだところに、今度は一人の少女が走ってきてデッキの上で転んだ。

「痛ー、ゴールド、あかんやん!」

デッキに手をついて起き上がろうとしたあげはの目は、目の前の光景に釘付けになった。

「ゴールド…、ヘレナ」

ヘレナの目もあげはを凝視する。

「あげは…」


やっぱり…。あげはは当たった予感を噛み締めながら起き上がって、ベンチのヘレナの横に座った。


「走るの慣れてへんから、足もつれるわ。格好悪いとこ見られてしもた。ヘレナ、リレーの選手やもん、可笑しいやろ」

「いや、そんなことないけど、ゴールドが来たからびっくりしてたら、あげは迄来てもっとびっくり」

え? あげはは目を丸くした。

「ヘレナその子の名前、ゴールドって知ってんの?なんで??」


あ。ヘレナは狼狽えた。そうや、あたしは知らん筈なんや。せやけどあげはが来ると思わんかったし。


「それは…えっと、あのー、あのね、あたしもCats行ったことあるねん」

「えーー?そうなん? あれえ、香苗さん何にも言わんかったなあ、大抵ウチがおるねんけど会わへんかったし」

「うん、まあ。たまに行くだけやったから、会わへんかっただけやと思う」

ヘレナは誤魔化した。あげはは、そうか!と手を打った。

「七夕の英語の短冊って、もしかしてヘレナやったん違う?一つだけ英語で、筆記体きれい過ぎて、ウチ、Wingしか読まれへんかってん」

「あー、たぶん…」

「そっかー、香苗さん言うてくれたらええのに。知ってる子ちゃう?とか。あ、香苗さんって知ってるよね、お店のお姉さん」

「うん」


 ゴールドはヘレナの膝で落ち着いている。親分、ひと仕事しましたぜって顔だ。

「それにしても、ゴールド、ヘレナに慣れてるなあ。なんかちょっとジェラシィや」

「え?いや、何やろ、膝の形がええのかな…」

「はは、ええんよ、ゴールドはウチだけのもんやないし、みんなに好かれた方がええし」

 あげはは『ジェラシィ』という言葉に続いて切り込んだ。


「あのさヘレナ。ウチ、ヘレナと喋るの久し振りやねんけど、あのさ、ウチとヘレナがどうこうって話、知ってる?」

「どうこう?」

「ちょっと恥ずかしいねんけど、ほらどっちも女やけどお互いが好き同士みたいな」

「Lesbian?」

「そうそう、それ」

あげははちょっと俯いた。ヘレナは口ごもりながら答える。

「あたし、あげはのことは好きやけど、そう言う意味ちゃう。彼氏は欲しいし」

 やっぱり…。あげはは確信した。ヘレナも無罪や。

「ヘレナ、ごめん。ウチ、前にヘレナを怒鳴ったやろ。変な噂流さんといてって。あれ、ウチの思い込みやった」


 ヘレナも焦った。さっきまでの憂鬱感は軽くなっている。あげはがあたしに謝るやなんて反対やん。せやけど、あの時の原因はそれやったんか。足のことやなかったんや。じゃあ、足のことはどう思ってるんやろ。聞かれへんけど…。


「ううん、そんな話があったの、全然知らんかった。そんな風に見えたんかな、あたしら」

「よう判らんけど、誰かがそう思ったみたい」

「そんなに喋ってへんのにね、不思議」


 ゴールドがヘレナの膝から降りて周囲を嗅ぎながら歩き出した。ヘレナの目が細まる。

「あれ?ゴールド、足、痛いのかな」

あげははドキッとする。

「せやねん。キャットタワーから飛び降りて捻挫してん。でもちっちゃいからすぐに治るって」

あげはは早口になった。あげはも『ウチのせいで…』は言えなかった。ヘレナはふうんと唸っただけだった。

 

「あげは、なんでここへ来たん?」

「あー、アゲハチョウが案内してくれてん」

「案内?」

「うん。ウチが生まれた時、ウチのお父さんをアゲハチョウが病院まで案内して、連れていってくれてんて。それでウチの名前は『あげは』になったんやけど」

「へえ」

「お母さんが言うにはやけど、せやからウチにとって大事な時は、アゲハチョウが案内してくれるよって」

「そっか」

「今日はアゲハチョウが出て来てここへ連れて来てくれた」

あげははそう言うと、ヘレナの方を見た。

「きっと、今日はヘレナにうときってアゲハチョウが言うてくれたんやと思う。大事なことやでって」

そう言って空を見上げると、あげはは付け足した。

「今のはほんまやねんけど、それだけちゃう。ヘレナ、ここ好きやろ。ウチ知ってる。せやからアゲハチョウだけ違うよ。ウチも来ようと思ってん。ヘレナに会えるかもって」

「あたしに…」

どう言う意味やろ。あげはがあたしに会えるかもって、どういう気持ちでやろ。ヘレナはそっとあげはの顔をを伺った。そんなヘレナの気持ちなんぞ、どこ吹く風で、あげははゴールドを抱きかかえた。

「ゴールドもヘレナに会いたかったしな!」

そして笑顔でヘレナの方を向いた。

「ヘレナ、今から一緒にCatsへ帰ろう。香苗さんびっくりするで」

「…うん」


 心の奥のおもりを一旦横に避けて、ヘレナは返事した。あげはも同様の錘を心にぶら下げているなんて思いもしなかったけど。


「よし、ゴールド行くよ!帰りはヘレナが抱っこしてくれるって」

「うわー、だいぶ重くなったなー。ゴールド、雲母きらら* みたいにあたしら乗せて飛んでよー」

ゴールドは『とんでもねぇ』と言わんばかりにヘレナにしなだれかかった。

「ゴールド、めっちゃヘレナに甘えてるなあ」

「甘えても何にも出えへんよー」


 二人の中学生ははしゃいで見せた。しかし心はまだ漣のように揺れている。二人が後にした湖面にも、傾いた陽が小波に映って揺れていた。

 * アニメの犬夜叉に出てくるキャラクターで猫又(妖怪)

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