Ⅰ.魔術師と人形
1.銀髪の人形
一八九二年、八月某日。
蒸気機関大国たる大英帝国の首都ロンドンは、その日の空も厚い灰色で覆われていた。
それは、発展した蒸気機関が生み出す大量の煤煙と排煙が、空を覆い隠しているからだ。
その薄汚れた大気で出来た灰色の空を切るように、白い蒸気飛行船が悠然と風を切って飛ぶ。
背高く聳え立つ無数の高層建築物の合間を縫うように造られた、アーチ状の巨大な陸橋の上を、黒い装甲の蒸気機関車が客と荷を乗せて走っている。
その下を走るのは、白い蒸気を吐く
路面の脇を歩く人々は、降り注ぐ煤煙をかぶらないようにするため、外套を深くかぶったり傘を差したりしている。
地下からは、ロンドン全域のエネルギー源でもある
まるで、人々の身体にその胎動を染み渡らせるかのように。その音が止むことはない。
これがロンドンのどの場所でも見られる、日常風景であった。
そんな蒸気機関都市ロンドンのシンボルとも言える建築物の一つ、
その膝元とも呼べる場所にあるウェストミンスター橋の上を、紙袋を携えた黒外套を纏った男がランベス地区に向けて歩いていた。
彼は目深く下げていたフードを軽く持ち上げ、目的地である建物を確認する。
白い蒸気が立ち込める中に聳え建つ、荘厳な館。まるで王侯貴族の邸宅のような、大きく広く美しい館である。
周囲を取り囲むように黒い柵が建てられており、他の建物とは一線を画す雰囲気を見せていた。
その館は、イギリスに住む魔術師を統べる魔術協会──時計塔が所有する建物だ。
建物の中では、時計塔研究機関、時計塔取締局、時計塔魔術学校という三つの機関が、あの独立した二棟の館とその地下に収められている。
彼は、その建物を目指して進む。
そこに、彼の仕える主が居るからだ。
歩いて十五分程もすれば、橋の上から眺めていた目的の建造物の前に、黒外套を纏った彼は立っていた。
中へ踏み入ると、肌に感じる空気が変わる。
結界である。
黒い鉄柵に沿うようにして、敷地内全体に悪しきものを弾く結界が張られているのだ。
その結界により、蒸気や煤煙で汚れた大気が僅かに浄化され、この敷地であれば特殊な遺伝子改良を施した花でなくても、きちんと咲くことが出来る。
現に彼の目の前の前庭には、色とりどりの薬草や魔術用の花が咲き誇っている。それは、今のロンドンでは、決して見ることの出来ない光景だ。
彼は二棟ある内の一つ、時計塔取締局の方の扉に進んだ。
回転扉を開け、まず目に飛び込んでくるのは、巨大な真鍮製のアーミラリ天球儀である。中央に浮く球体の周囲を、三つの円環がクルクルと回っている。
それを中心にして、緩やかなカーブを描いた階段が対になって、二階、三階へと続く。
三階までは吹き抜けになっており、一番上の天井にはキラキラとしたシャンデリアが輝いていた。
彼がまだ生きていた時代には無かった、カットグラスの造形美は、いつ見ても溜息を吐くほど美しい。
そんな一階ロビーには、魔術師だけでなく一般人も歩いている。彼らは皆、魔術師に様々な助けを求めてやってきている。
それは、街に蔓延る異形や幽霊の討伐であったり。
あるいは、身体を壊した家族を助ける為であったり。
魔術研究に人生の全てを捧げる魔術師が、人を助けるということは本来ではありえない話だ。常に魔道に邁進する必要がある魔術師にとって、他人に構う暇は無駄な時間でしかない。
ただし、どんなものにも例外はある。
時計塔取締局は、まさにその例外の魔術師が所属する機関なのだ。
彼はその人々の間を通り抜け、この建物の中で二つしかない
ゆっくりと上っていく中で、彼は階下を見下ろす。
床には星空の意匠が施されたカーペットが敷かれており、彼は上から見るこのカーペットが好きだった。
このロンドンでは美しい星空を眺めることは、不可能だからだ。
最上階——三階で降り、右手側の廊下を歩いて行く。
廊下には、等間隔で扉がある。その扉の先にある一室一室は、個人研究室と呼ばれる部屋になっている。
この組織に所属している魔術師の中で、魔術工房や家を持っていない魔術師にのみ貸し与えられている部屋である。
扉に掛けられた銅プレートに書かれている名前を目で追いながら、彼は彼の仕える主の名が記された部屋の前へと辿り着く。
目深にかぶっていたフードを取り払い、ぱたぱたと軽く外套を叩いて煤を落とす。
フードの下から露わになったのは、目鼻立ちの整った美しい中性的な顔と、高い位置で結われた絹糸を紡いだような
まるで、絵画の中から現れたかのような美青年だった。
あるいは、もしこの場所が社交界の舞台であれば、女達は目を眩ませて、迷わず彼へ声を掛けてしまうだろう。それほどまでに、顔立ちは整っていた。
彼はドアノブに軽く指を滑らせて
「ノエ、起きましたか?もう時刻的にはブランチですが、きちんと食べないと身体に悪いので、貴方の好きな」
「あ」
「え?」
彼の落ち着いた声に応えたのは、彼の仕えている主の声ではなかった。
扉を開けた先、二対置かれた黒革のソファの内の一つ。そこで枕を抱いた彼の主はすやすやと穏やかな表情で眠っている。
問題はその傍の人間だ。
その主の眠っているソファの傍に、唇と唇が触れそうなほど顔の距離を近付けた女が居た。
栗色の長髪とぱっちりとしたレッドアイが特徴的な、若い女だ。
彼は少しの間固まってしまったものの、すぐに彼女に黒い革手袋を嵌めた右腕を向けた。
「何故……」
そして、疑問を口にする。
部屋に施されている
つまり、目の前の彼女が開けることは、不可能でなければならないというのに。
女は特に驚くといったことはなく、じろじろと紙袋を携えている彼の頭から足まで、じっくりと観察するかのように見やる。
そして、呟いた。
「……あぁ、君がノエの手紙に書いてた
「っ私のことを……っ!」
彼が人ではないことを知っているのは、今眠っている主人以外にいない筈だった。
目の前の女から、その言葉が零れるまでは。
「まぁ一応ねー。……うーん、君は今、どうやって私がこの部屋の扉を開けたのか気になってる。どうかな?」
警戒している彼に対し、くすくすと彼女は楽しそうに笑う。その笑顔は、鮮やかな花が綻ぶかのような可憐さがあった。
だが、彼は硬い表情を変えない。
「確かに、気には、なっていますが」
「簡単な話だよ。私もここの鍵を知っているだけ」
「……何故、貴方は鍵を知っているのですか?……私のことも」
「んー、なんでだと思う?」
可愛らしく人差し指を頬に当てて、彼女は小首を傾げて彼へ笑いかける。
先程と変わらぬ、美しさの際立つ笑みだ。
男であれば誰もがドキリと胸を高鳴らせるような、柔らかで魅力的な微笑。
だが、この張り詰めた空気の中ではズレた反応である。
彼は、形の良い眉を寄せた。
何も答えない男に痺れを切らしたのか、彼女は口角を軽く上げて、つうっと片方の指先を自身の頬から口の端、そして顎の先端へ滑らせる。
「……そうだねぇ。実は私が、どこかの魔術師に仕えるスパイで?……魔術研究をする上で、邪魔になったこの子を殺しに来た、とかどうかな?」
にっと彼女が白い歯を見せた瞬間、彼は何も考えること無く女の傍へと近寄る。そして、構えていた右腕を振るった。
「はははっ、冗談だよッ!」
女は素早く袖口から小さな
小さな符にびっしりと刻まれている文字に、金色の光が宿った。
腕が符と触れ合った途端、パンッと彼の腕が風撃で弾かれ、空いた僅かな隙間に女は潜り込む。そしてもう一枚、金色の光を纏った銀符を、彼の胸部に押し当てようと手を伸ばした。
「——そこまで」
が、その符は彼に当たることなく、突然出現した黒い糸によって真横に吹き飛んで行き、白色の壁に突き刺さった。
壁に刺さると同時に、黒い糸も空気の中に解けるように解けて消える。
「……あらら」
彼女は飛んで行った先を見ながら、残念そうに肩を竦める。彼は飛んで行った符でもなく、女でもなく、ソファの方へ目を向ける。
そして、上体を起こしている主の名を呟いた。
「……ノエ」
一瞬人が見ただけでは、その顔立ちは端正な顔立ちの美少年に見えることだろう。だが、彼女は紛れもなく十八歳のまだまだ年若い少女である。
美しく可憐で、それでいて
だが、魔術師としては明確な欠陥を抱えた少女。
ノエ・ブランジェット。
時計塔取締局特務課に所属する異端の魔術師で、
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