第三十五話 白き混沌にて


 

 スクートは無意識のうちに、リーシュの手を取ろうと腕を伸ばす。


 だがしかし、互いの手が交わろうとした瞬間、戸惑うようにスクートの手が止まった。


 彼の手からは忌まわしい呪いの血が流れていた。投げ飛ばされ地面に叩きつけられた衝撃で、スクートの手の皮は剥けてしまっていたのだ。


「はやく!」


 それでもなお、毒血に怯むことなく手を伸ばし続けるリーシュの姿に……スクートの胸のうちより溜め込んだ感情が激流のように溢れ出る。


 逃げるように君の元から去ったというのに。どうして君は、まだその名前でおれを呼ぶ。


 どうしてそんなにも君は……怒っているのか、悲しんでいるのかわからない顔をしているんだ。


「……邪魔をするな。おれは、死ななければならない」


 その差し伸べられた手をとる資格など、おれにありはしない。


「いいえ。あなたは生きなければならない義務がある」


 その義務を果たせば、いずれ君が生きる権利を奪ってしまうだろう。


「……見ろ、あの化け物に吊るされた遺体の数々を。見覚えがあるはずだ。奴らはおれを探している」


 ここでおれがあの化け物に喰われれば、全てが元通りになる。白い霧のように散りに消え、黒で書かれた文字などひとつもない真っ白な白紙のように。


「ええ、知っているわ。でもね、彼らがこの惑いの森を越えてミスティアにたどり着くなんて万が一にもない。百人でも、千人でも、あるいはそれ以上でも。彷徨さまよい果てるか、あのように喰われて死ぬかの二択よ」


 雑兵では確かにそうかもしれない。だが君は悪夢で見たはずだろう。あのおぞましい男の、得体の知れなさを。


「悪夢の主は必ずミスティアにたどり着く。あの男の前では、万が一さえも絶対になってしまう」


 ミスティアであの悪夢が再現されれば。君が死んでいなくなるようなことがあっては。


 きっとおれは、もう人間でいられなくなる。


「――――そのときは、わたしがあの男をほふってみせる」


「なっ……」


「たとえあの男が万の軍勢を率いてきても、わたしには打ち破る力がある」


「口ではなんとでもいえる。君がずば抜けた才覚を持つ魔女だということは知っている。だがまるで、そんな神のような所業がひとりの人間にできるはずが……」


 やめてくれ。おれを引き止めないでくれ。これ以上引き止められたら。


「わたしを信じて」


 君の顔を見ていたら。


「おれと君は、聖騎士と魔女。互いに交わってはいけない運命だ……」


 ……たくなってしまう。


「お前の主を! わたしを信じろっ、スクート!!」


「――――っ!!」


 どうしようもなく、生きたくなってしまうだろう。


 スクートはすくんだ手を伸ばす。リーシュの手に触れた瞬間、スクートの身体はまるで綿わたのように浮き上がり、次の瞬間には導かれるようにほうきへとまたがっていた。


「ヲヲヲ――――ヲヲ!!」


 五本の氷杭を打ち込まれ沈黙していた怪物が、うめき声と共に再び動き出す。


「まだ動けるのか、あの怪物は」


「それが霧喰らいと呼ばれる、正真正銘の化け物の力よ。死も、そして滅びも知らない……遥か昔、ミスティアと共に生まれ落ちてから今に至るまで、霧喰らいは生き続けている」


 竜血に侵された手を魔法で治癒しながら、リーシュは枯れ木の化け物の由来を語る。


 霧喰らいは天を仰ぐかのように腹部の大口を開く。風がうなるような音と共に、白霧が意思を持ったかのように大口の中へと吸い寄せられていく。


 ぐつぐつ、ぐつぐつと。水が蒸発する音が聞こえたかと思うと、霧喰らいの傷口から枯れた新芽が芽吹き、そしてみるみるうちに育っていく。


「しっかり掴まっていて、飛ばすわよ。どうにかしてあの怪物から逃げないと」


 リーシュはスクートを乗せているにも関わらず、まるでなんの負荷にもなっていないように急加速した。


 白霧といわおじみた木々が乱立する森を、リーシュはいっさいの迷いなく突き進む。背後からは霧喰らいの咆哮が、幾重にも反響し木霊する。


 逃げ場など、どこにもないと言わんばかりに。


「クロスフォードの呪いよ!」


 リーシュが紺碧こんぺきの光を放つ指輪に念を送ると、きらめきと共にたちまち世界は濃紺のなかへと沈んだ。


 青くうねる世界に音はなく、振り向けば霧喰らいの姿もない。


 リーシュと初めて出会ったあの時と、同じであった。


 ――――はずだった。


「ヲヲヲヲヲ!!!」


 音のない世界のはずなのに、いきり立った霧喰らいの咆哮が聞こえた。


 振り返り後方を一瞥するリーシュの顔には、明らかな焦りが見えた。


 濃紺の世界にて、さらにリーシュは箒を飛ばす。


 みるみるうちに一点へと視界が迫り、過ぎ去ってはまた迫りゆく。


 凄まじい速さでかっとんでいく途中、ふいに空気が弾ける音が聞こえたかと思えば、次の瞬間には世界に色が戻った。


「くっ――――干渉されたみたいね」


 そのときであった。白霧に紛れ、行く先の地面が波打つようにうごめいた。


「――――!? リーシュ、気をつけろ!」


「ええ、わかっている!」


 地面を割り、這い出てきたのは巨大な根の壁であった。無数の根はまるで蛇のように絡まりあい、見上げるほど高くそびえ上がる。その様子はまさしく天然の城壁であった。


「氷槍よ!」


 しかし万の軍勢を屠ると豪語した魔女の前を阻むには至らない。放たれた氷の槍は根の壁を突き破り、その風穴をリーシュは器用きように通り抜ける。


 だが、その先からも根の壁はせりあがってくる。同じように突破しても、次から次へと際限なく壁は現れる。


 だが臆することなく、リーシュは壁を打ち破りながら進む。


 そうして何枚もの壁を打ち破ったとき……。


 行く先の霧が唸るように渦巻き、密度が一段と濃くなった。


「ヲヲヲヲ――――」


 洞穴に流れるような風音と共に、霧の巨大な塊の中から……霧喰らいは現れる。


「馬鹿な、そんなことがありえるのか……!?」


「今日は満月……霧喰らいの力がもっとも強まる日。欠けた日ならばいざ知らず、全力の奴から逃げるのは一筋縄ではいかない、みたいね」


 これ以上逃げ回るのは不毛だと悟ったリーシュは、突破を諦め地面へと降り立った。それと同時にスクートも大地に足をつける。


「大丈夫か?」


 リーシュと顔を見合わせたスクートは、彼女が明らかに疲弊していることを察した。


「なんとか、ね。悪夢に潜り込む魔法を行使した代償が、まさかここまでなんてね……」


 多大な魔力を消費し、回復もままならずにスクートを助けるために奔走ほんそうしたリーシュの負荷がどれほどのものか、押して計るべきだった。


「……スクート。いまから言うわたしのわがままを聞いてほしい」


「わがまま?」


 ――――あの怪物の、嘆くような叫び声が近づいてくる。大木が嵐に揺れ軋むような音と共に。


 道をひらく樹々を割り、怪物はふたりのすぐ目の前まで迫ってきている。


「――――逃げて。満月ともなれば、あの怪物はドラゴンよりも強大よ。わたしはスクートを失いたくない。大丈夫……黙らせてから、必ず後から向かいに行くわ」


「なっ、待て!」


 スクートの返答も待たずにリーシュは箒にまたがると飛び上がり、霧喰らいに果敢に立ち向かっていった。

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