第二十話 ベルングロッサの使命


「やっと見つけた。子供の頃に読んだきりだったから探すのに手間取った」


 いつの時代に作られたかも分からないほどに色褪せた一冊の古書。


 フレドーの机の上でナタリアはおもむろに書を開くと、ある一説を指さした。


 空を裂く一対の巨翼。纏うは鋼を凌ぐ、強靭な鱗。大木を小枝のように薙ぐ尻尾、城壁を風化した脆岩かのように粉砕する大爪。


 吐く息はあらゆる存在を、灰へと帰す獄炎。


 そして蛇の眼のような双眸そうぼうは、眼下に這いずる生けとし生ける者すべてを平等に見下す。


 ドラゴン。それは幻の存在ではなく、ミスティアが興る前、それもはるか大昔より我が物顔で大空を翔けていたという。


「お前は信じられるのか、ナタリア? このドラゴンとやらの存在を」


 霧に覆われたミスティアでは、空など拝む機会もない。


 その空を自在に飛び回る凶悪な生物の存在など、フレドーにとっては想像すらできない伝承だとしか考えられなかった。


「信じたくはない。でもこの本は地下書庫の奥底に眠っていた。あそこに置いてある本に虚実が書いているとは思えない」


「あの場所に、か」


 アロフォーニアの大樹には、地下書庫という隠された空間が存在する。


 そこにあるのは偉大なる先人たちが遺した大いなる知識。


 一万年前の歴史書、長すぎる時を経て人々の記憶から失われた古代魔法が記された魔道書。


 ミスティアに生まれた代々の天才たちが記した、独自に開発した魔法や霊薬の製法。


 どれもが保管する価値のある代物だ。そして常人には過ぎたる知識であるがゆえに秘匿され、選ばれし者だけが知の深淵を覗くことができる。


 だがその全てを理解できる者は、いまも昔もミスティアに存在したことはない。


 古書の一部は、あろうことか誰も読むことができない未知の古代文字で書かれているのだ。


 言語ならば避けては通れぬ文字の法則性が一切なく、そもそも古代文字は揺らぐようにぼやけており、正視することさえも叶わない。


 解読の魔法を使おうものなら、文字のぼやけがより一層酷くなるという。


 難解を通り越し、まるで読ませるつもりがない古代文字。空前絶後の天才であるリーシュ・クロスフォードさえ、「時間を持て余した暇人が、後世を困らせるために書いた奇書」とさじを投げた。


 だがそんな決して読めざる書物も、先人たちは地下書庫へ隠した。ならば、管理し後世へと遺していかなければならない。


 いずれ、真実がひらかれることを信じて。


 それが知識の管理者たる七炎守に課せられた……ふたつの使命の内のひとつなのだから。


「しかしだ、どうしてこんなものを俺に? こんな化け物を俺が倒せるかどうか知りたいのか?」


「……勝てるわけないでしょ。飛んでいる相手をどうやって斬りつけるの。やっぱり兄さんの頭には筋肉がつまっている。わたしが見て欲しいのは、その次」


「確かにいまのおれでは難しいだろうな。だがおれはもっと強くなる、いずれこのドラゴンとやらも殺せるぐらい……ん?」


 フレドーは軽口を叩きながら読み進めていくと、次第に目を細め眉間に皺が寄っていく。


「生物ということわりより逸脱いつだつしているの者らの血は、光を喰らうほどの漆黒であり、泥のようによどんでいる。黒血は生あるもの全てをみしばみ、命を吸い尽くす。まるで、呪いのように」


 到底読み流すことのできない一文が、古書には記されていた。


「これは……」


「先日の一件のとき、ムヴィスはスクートの血に触れたそうよ。不本意だけど、あいつに聞けば何かわかるかも。毎日牢屋から出せと叫ぶ元気はあるようだから、古書に記されている事とは勝手が違うようだけど」


 書に記されたとおりの効果がスクートの血にあるのであれば、いまごろムヴィスは物言えぬ屍になっているはずだ。


「明日の朝、あのほら吹きを叩き起こして聞いてみよう。あれとは顔を合わせるのは気が進まないがな。しかしだ、リーシュもいったい何を考えているのか。迷い込んだよそ者を拾い、あろうことか従者にするまでは百歩譲って理解できなくはないが……」


「思考の順序が違う。リーシュは得体の知れない黒い血が流れているからこそ、自分の従者にしたのよ」


「なぜにそんなことを」


「決まっているわ。興味が湧いたのよ。より分りやすく言うのであれば、面白そうだったから」


「昔からぶれんな、まったく。だが今回ばかりはきまぐれの範疇はんちゅうに納まりそうもない。……ムヴィスの話次第では、最悪の場合ではあるがスクートを斬らねばならない。もっともそんなことをすれば、俺はリーシュに殺されるかもしれないがな」


 魔法の天才リーシュ、剣の天才フレドー。常人から見ればどちらも化け物だが、フレドーは理解していた。


 目と鼻の先で殺し合うならばいざ知らず……もしリーシュが本気で殺しにきたら、きっと自分は数秒も持たないということを。


 そして、たとえ命を狙われようと――――フレドーにはなんの抵抗も許されていないということを。


 七炎守に課せられたもうひとつの使命。それはクロスフォードの血脈を、命を賭してでも守りぬけというものであり……地下書庫の保存よりも優先されるものであった。


「もし俺がリーシュに殺されても、あいつを恨むなよナタリア」


 兄が言い放った言葉の重みに、ナタリアは顔をしかめる。


「何を馬鹿なことを言ってるの、兄さん。……らしくない。いま兄さんが死んだら――――私はいよいよ手段を選べなくなる」


 ナタリアの顔には、血濡れた道さえも歩く覚悟が浮かび上がっていた。ムヴィスも、それに連なる者を排してまでミスティアを存続させようという、揺るがぬ意志。


 いつの間にか、そんな顔もするようになったか。


 呟きがフレドーの胸の内で弾ける。そして彼は、大きな過ちを犯したあの日の惨劇を思い返す。


 血だまりを踏み、呆然と立ちすくむかつての自分と同じ道を妹に辿らせるようなことなど……兄として、あってよいはずがない。


「……わるい。そうなると決まった訳でもないのに、先走ったな。そもそもリーシュはスクートの中に、好奇心以外にも何かそそられるものを見つけたのかもしれない。思考を置き去りにするほど突拍子に見えて、だが間違った選択をしないのもリーシュだ」


「そうね。でも、リーシュの友人として、七炎守の使命として。私達はスクートを警戒しないといけない。……あの男は危険、でも同時にミスティアの現状を打破する鍵にもなるかもしれない」


 スクートはこのミスティアにおいて、外界を知る唯一の人物だ。ムヴィスにとってあまりに都合の悪い人物だということは、スクートを殺そうとしたムヴィス自身が証明してしまっている。


「鍵、か。たしかにそうかもなぁ。だがナタリア、お前も見ただろう……スクートのまなこを」


「……ええ」


 あまりに黒く沈み、一片の光さえ垣間見えないスクートの眼。性根が腐った悪党のそれとは似ているようで違い、底なし沼のような漆黒は完全に心を閉ざしている拒絶にさえ見えた。


 過去にいったいどのような仕打ちを受ければ、人間はあのような目をするようになるのだろうか。


「過度な期待をするのは酷だろう。いまのスクートはあまりに不安定だ。針の上に立った薬瓶のように、ぎりぎりのところで正気を保っているように見えた。どこかで揺らげば、そのまま壊れてしまいそうなほどに」


「もちろん、壊れたついでにリーシュを害そうものなら……そのときは容赦しない。だから私はあの男を疑い、思考し、真意を読み解く。彼が何者であり、どのような過去があり、なぜここへ流れ着いたか。――――あらゆる可能性を、考慮して」


 リーシュという空前絶後の天才……その影に隠れがちだが、ナタリアもまた天才であった。魔法こそリーシュに及ばないものの、論理的思考で解を導き出すナタリアは、直感型のリーシュにはない大きな強みであった。


「ひとまずは様子を見る。兄さん、この件は私に任せて欲しい。鉄火場ならともかく、監視や策謀なら私の得意分野。それに、私なら心強いお友達にも手伝ってもらえる」


ふくろうか。たしかに、鳥であればスクートに気取けどられる恐れも少ない。わかった、お前に任せよう」


 ナタリアは自信に満ちた目で小さく頷くと、さっそく行動に移すべく部屋の扉へと歩き出した。


「……私はもう、兄さんに守られるだけの存在じゃない。それを、証明して見せる。兄さんも、リーシュも……死なせはしない」


 去り際にそう一言残し、ナタリアは部屋を後にした。こつこつと靴音が遠ざかり、やがて気配が消えたことを確認し、フレドーは口を開く。


「あいつも立派になった。まだ幼いものかと思っていたのは、馬鹿な兄の勘違いだったか」


 両親が死んでから、ナタリアの性格は変わった。甘えたがりで物静かであったはずの妹は、感情を殺してまで七炎守としてふさわしい器になるべく成長してきた。


 しかし兄としてフレドーは、ナタリアのめざましい成長を素直に喜べないでいた。内乱も両親の死もなければ、ナタリアはきっと……いまよりはずっと自由に生きれたはずだ。


 そしてフレドーは己の無力に歯噛む。自分が早々にミスティアを安定させることができれば、ナタリアはあれほどまでに気負う必要もなかったはずだと。


「だからこそ、俺は……不自由を強いられるこの世界の中に、せめてもの自由を作らなければならないのだ」


 残された猶予はあまりないだろう。限界を迎える前に、ミスティアの火種を取り除かないといけない。


 ムヴィスの思想が誤りだと証明し、そそのかされた者たちに気づきを与える。


 それも、一滴の血も流さずに。


「……スクート。お前の目に光が灯れば、あるいは」


 フレドーは続く言葉を、一瞬よぎった理想と共に飲み込むと、再び筆を握った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る