第九話 血を喰らう剣


 スクートが正式に従者に任命されてからおよそひと月。


 この日は早朝より夕刻に至るまでずっと雨が降っていた。数え切れぬほどの天の雫は、ただ静かにしんしんと木々の枝葉に触れ小気味よく揺らす。


 普段から里の住民の生活圏にも霧は漂っているが、今日はいつにもまして色合いが濃い。


 その白さはミスティアを囲む惑いの森より僅かに薄いほどである。長い雨は森より濃霧を呼び込み、魔女の里ミスティアはたちまち白一色に染まりゆくのだ。


 こうなると火急の用事でもない限り、わざわざ外へ出向く者は多くない。だからといって一日を怠惰たいだに過ごすほど、魔女たちは時間を持て余してはいないようだ。


 雨の日の日常。


 それは遠い先祖が書き残した古書を紐解いたり、煮えたぎった大釜で怪しげな薬を調合したり、本道である魔法の研究に没頭する。


 魔導の徒たるもの、魔法の鍛錬ができなくてもやらなければならないことは多々あるのだ。


 そう――――本来であれば。しかし何事にも例外は存在する。特に暇を持て余してやまない白肌の魔女は、本業より自身の好奇心にご執心であった。


 クロスフォードの屋敷の一室で、リーシュは興味津々きょうみしんしんといった顔つきであった。


 そんな彼女の視線の先には、ばつの悪そうな顔をしたスクートが十字剣を持ちながら座っている。


 スクートは左手で十字剣クレイモアの刃を、ぐっと力強く握る。そしてでるように剣先に向かって手を滑らせた。


「ふむふむ、なるほどなるほど……」


 リーシュにとって雨の日は退屈の権化である。


 舗装された道など満足に存在しないミスティアでは、雨天時は泥の楽園となる。数分も歩けば、足の周りはたちまち泥だらけになるだろう。


 かといってほうきで空を飛ぼうものなら、たちまち全身に雨がまとわりついて散歩どころではなくなる。


 つまるところ、雨が降っていては外に出ることなど不可能なのだ。


 そして晴れの日も、太陽の光に身を焦がす体質なため同義だ。しかしそんな退屈など微塵も感じさせないほど、いまの彼女の瞳は輝いている。


 しきりに頷き、眼前の未知を食い入るように見入っていた。


「あなたと出会ったあの日と同様、今日も黒い。真っ黒ね。しかも奇妙なほど粘ついている。まるで影が泥になったみたい。こんな黒い血が流れてるのに、スクートの肌は普通の人よりほんの少しだけ白っぽいだけ。不思議なものね、わたしの血は赤色なのに肌は絹のように真っ白よ」


 スクートの手のひらの傷口から染み出す、おぞましいほどに黒い血。本来の血の色である赤など僅かにさえ混じってはいない。


 だがリーシュの興味は、どちらかというと血の落ちた先にあった。


「そうまじまじと見るな。落ち着かないだろう」


「こんな光景を見せられて、わたしが黙っているとでも思ったの? 仕える主の性格ぐらい把握しておくのは、従者たる者として当然よ」


「ぬかせ」


 黒血は糸を引いて流れ落ちる。先にあるものは受け皿などではない。あるものはスクートの血の色と変わらぬ色を持つ、漆黒の十字剣であった。


 あらゆる万物は上から下へと落ちていくのが自然の摂理である。ならば血は剣を伝い床へと流れ落ちるだろう。


 しかし床に血痕はない。血の一滴たりとも落ちてはいないのだ。


「ねぇ、スクート。その剣はどうなっているの? 色んな本を読んできたけどこんな性質を持った剣は初めて知ったわ」


 十字剣は黒血を喰らっていた。血を垂らしても垂らしても、剣は際限なく血を吸収し続けているのだ。血の一滴さえも、こぼすことなく。


「定期的にこうして血を与えないと、風化した石のようにもろく砕けてしまうのだ。どういう原理かはおれも分からん。ただ与えられたものを、この期に及んで未だ使っているだけだ」


「……こんな得体のしれないものを? 魔女の観点から言って、血は強力な力を生む触媒でもあるの。禁呪の域にまでいけば、血を代償に恐ろしいほどの魔力に変換するなんてこともできるわ」


「つまり生き血をすするような得体のしれない剣など捨てて、まともな剣を使った方がいい。お前はそう言いたいのだな?」


「もちろんよ。里の鍛冶師に頼めば、同じ形の剣を打ってくれるはず。こんな大きな剣を注文すればそれなりに時間はかかるでしょうけどね」


「好意はありがたいが、その必要はない。雨が降り外へ出ることも叶わず、暇を持て余しているのであれば……せっかくだ、少し話をしよう」


 スクートは戻らぬ過去を思う遠い目をしながら、ゆっくりと語りだした。


「おれの身体は山のような大男でもないのに、身の丈近くもある剣を自在に振るうことができる。さらに言えば鉄や鋼程度の剣ではすぐに欠け、あるいは曲がり、下手すれば折ってしまう。それほどの膂力りょりょくがこの身体には宿っているのだ」


 スクートの体つきは特別なものではない。鍛えに鍛えて引き締まってはいるが、身の丈ほどの大剣を軽々と振るう力があるなど、見てくれからはとても判断できないのだ。


「おれのような怪力の戦士にはそれぞれ武器を与えられる。いくら力任せに振ろうとも、そう易々と欠けることさえもない特別な武器だ。さらに……」


 言葉を区切ると、スクートは剣の一点を指差した。目を凝らしてみれば、僅かに刃が欠けているように見える。


「この剣は血を糧に再生する」


 スクートは刃こぼれにむかって血を落とした。血は染みこんでいき、やがて欠けた輪郭に変化が現れた。


 湧水のごとく溶けた黒色の金属が輪郭より浮かび上がり、そしてゆっくりと意志を持っているかのようにうごめき、冷え固まっていく。


 ついに刃こぼれは消え、剣は傷ひとつないあるべき姿を取り戻した。


「……信じられない」


 普段はどこか飄々ひょうひょうとした姿勢を崩すまいとふるまうリーシュも、この時ばかりは呆気にとられた。


「鉄や鋼をはるかに凌駕りょうがする耐久に、たとえ欠けようとも折れようとも再生する。だが常人では持てないほど重く、対価として所持者の血を要求する。不可思議と謎に包まれた未知の鉱物を、かつて人は神秘と結びつけたのだろう。神が無力な人間に与えたとされる唯一無二の白鉄しろがねは、おれがいた国ではこう呼ばれている――――」


 ――――神授鋼しんじゅこう、と。


白鉄しろがね? スクートの剣は誰が見ても真っ黒なはずよ」


「かつては白かった。おれがまだ本当の意味で人間であり、真っ当な赤い血を宿していた頃は。そう、その日までは……」


 スクートの表情が苦しげに歪んだ。彷彿ほうふつした思い出したくもない過去を振り払うように頭を左右に動かすと、彼は再び語りだす。


「初めて剣に黒い血を与えられたとき、白刃はみるみる黒へと染まり変わった。……おれにとって剣は、誇りであり自身の在り方だった」


 光も見えぬ地下牢で、スクートはその有様を見せつけられた。


 まるでこれまでの生き方を、全て否定しあざ笑うかのような光景を。


「この剣はおれと共に黒に染まり、だが常におれのかたわらにあった。言わばもう一人のおれのようなものだ。だから、他の剣を使う気にはなれない」


 血を喰らい終わった十字剣の刃を、スクートはなぞるように指を滑らし確かめた。


 傷もほころびのひとつさえない。初めて彼の手に渡ったときと変わらぬ出で立ちが、そこにはあった。


 ――――ただ色という一点を除いて。


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