第四話 鳥籠の理想郷


 ――――その崖から見えるもの全てが、小さなひとつの世界であった。


 里の中央には、遠く離れたこの崖からも見上げるほどそびえる巨木が、まるで玉座に鎮座する王のごとたたずんでいた。


 その巨木の根元にはさまざまな建物が密集しており、遠目からでも活気が見て取れるほどである。


 そして、そこらかしこにゆったりと飛び回っている蛍の群れが、まるで星空のように光り漂う。


 無数の輝きに、ほんのりと漂う白霧。それらが合わさり、どこかおぼろげな夢中の光景を映し出しているかのようだった。


 外界からの来訪者を阻む惑いの霧は、里を覆うように形成されていた。


 男と少女がいる崖の後方から、ぐるりとあの中央の巨木の向こう側まで漂っていることだろう。


 空はどうかというと、やはり霧によって覆われていた。


 だが太陽の光は遮られ衰えつつも、この里へ光の恵みを降らしているようだ。


 おぼろげに漂う白霧に、樹々や建物の幹色が映える。息吹く自然が静かな風に揺らされ、濃薄さまざまな色の葉が、波立つように弾んでいる。


 誰もが聞いたことも想像さえもしなかった幻想が、伝承の一節にうたわれるにたる御伽おとぎのような光景が。


 いま、確かに男の目の前にあったのだ。


「どう? 外界に比べここは、きっと何もかもがかけ離れているはずよ」


 言葉を失っていた男に、少女はしたり顔で話しかけてきた。


「おれは自分が何事にも動じなくなったと思っていたが、さすがに度胆を抜かれた」


「ふふ、そうでしょう。ここから里を見下ろすのがわたしは大好きでね、いつもお父様の目を盗んで家から抜け出してきているのよ。今日だってそう、でも七日も前から森の中から人の気配が消えないから気になって、きまぐれで少し寄り道してみたの。きっと帰ったら叱られるわね」


「そのきまぐれに、おれは命を救われたのか」


「そういうこと。わたしはとびきりなの、魔女の中で実力も、きまぐれさもね。常命の存在はいつかは死ぬ、だからそのまえに好きなことをしなければ、この世に生まれた意味がないわ」


 少女は目を細め、遠方を見入る。


「やりたいことをして死ぬ。それこそ人が生きる意味よ」


 飄々ひょうひょうとした態度はなりを潜め、少女の表情はえらく険しく、神妙であった。まるで、自分に言い聞かせているように。


「だから、わたしは嬉しい。あなたが人として生きる選択をしてくれたことが」


「……」


 曇りのない紅き眼でじっと見ながら、少女は男に微笑んだ。


 だが男は声が出なかった。心を蝕む罪悪感が、それを許さなかった。


「あなた、剣士なのでしょう? その大きな剣、振って見せて欲しいな」


「なんでそんなことを」


「いいからいいから。命の恩人の他愛ない願いよ、別に何かが減る訳ではないでしょう? それとも、人を斬るにはいささか大仰おおぎょうな剣は飾りだとでも言うのかしら?」


「なんだと? ……いいだろう、だったら望みどおりに見せてやる。離れていろ」


 男は眉に皺をよせ、十字剣クレイモアを慣れた手つきで華麗に抜き放った。深く息をため、両足でしっかりと大地を踏みしめ、剣を構える。


 次の瞬間……十字剣は意志を持ったかのように、空に黒閃を描き出す。


 渓流の水の流れのような、なめらかな静。濁流の嵐のような、苛烈な動。


 緩急をついた剣の舞は、ただ適当に剣を振るっている訳ではない。


 細身の体の中にある鍛えに鍛え上げられた筋肉と、自在に大きな剣を操る技量があってこそ成せる技であった。


 剣にも多少の見識がある少女は、すぐにそのことを理解した。


「驚いたわ。わたしの見立ての何倍も、どうやらあなたは強いみたいね。あの怪物に臆することなく挑もうとしたのは、あながち蛮勇というわけではないのかも」


「……意外なものだな。あれだけ魔法を使える身で、剣の知識もあるのか」


「この里では女は魔法を、男は剣を主に習う。だから剣を振るったことはあまりないけれど、目が肥えているから良し悪しぐらいは分かるわ」


「妙な風習だな。何に優れているかなどの適正に、性別など関係ないだろうに」


 男の言葉に、少女の目の色が濃くなった。


「……へぇ、やっぱりあなたは面白い人ね。わたしもそう思うわ、慣習に従って才能を枯らすのはとてももったいないもの。でもそれが、この里の掟よ。鉄なんかよりもよっぽど固い、鋼鉄の掟。そうして何千年もの間、この小さな世界は回ってきた」


 しばらくの間、男は黙々と剣を振り続けた。その光景を少女は興味深く観察している。


「あなた、名前は?」


 少女の問いに、男は瞬時に凍りついたかのように動きを止めた。


「おれに……名前はない」


 自分は、少女ら魔法の一族をこの地に追いやった末裔だ。


 マルグ・エストリアという、騎士であったころの名前など、どうして名乗れようか。


「まさか。わたしの読んだ本が正しければ、奴隷とやらにも名前ぐらいはあるはずよ。それともここ数千年の間に、名前という文化すら消えてしまったのかしら」


 男の表情は暗く、うつむいていた。そしてうめくように、恨みがかった重い声で呟いた。


「この身体に流れる血が赤から黒になったときより、おれが人ではなく化け物になったあの日より……おれは名前を捨てた。てざるを得なかった」


「ふうん、なるほどね」


 少女の次の一言に、無名の男は大きくたじろいだ。


「じゃあ、わたしが名前を付けてあげる」


「なに?」


「ひとつ質問。あなたはきっと強い。とても、とってもね。でもそれだけ強くなるには理由があったはず。それを教えて欲しいわ」


 少女のまどろむかのような微笑。とても年相応とは思えない、絵に描かれた肖像を切り抜いたような、そんな神秘的なものであった。あるいは、魔性と言うべきか。


「……力無き者を理不尽や不条理から守るため。それだけが、おれの生きる理由だった」


 幾重にも絡まった糸がほどけるように、男の口はひとりでに動いていた。


「ふむ、守るために強くなったと。いいじゃないの。私利私欲のための強さなんて、たかが知れているものね」


 少女は目を閉じ、顎に手をのせて考え込んだ。やがて少女の頭の中で何かが弾けたのであろう、ぱっと目を見開き男の手をとって、こう告げたのであった。


「スクート。それがあなたの新しい名前よ。これは古い魔女の言葉で、盾を意味するの。自分の為だけには戦えない、生まれながらの守り手にはふさわしい名前のはずよ」


「スクート。スクート、か」


「どう、気に入ってくれた?」


「……ああ」


 スクート。少女に告げられた名を、男は口の中で何度も転がした。次に問うたのは、男であった。


「お前の名は?」


 少女はその問いを待ちわびていたのだろう、満面の笑みで答えた。


「わたしはリーシュ。リーシュ・クロスフォードよ。退屈な日々を持て余し、毎日のように深窓から飛び出そうと画策している箱入りの一人娘」


 リーシュは崖のふちまで歩いていくと、スクートに振り向き両手を広げ、期待のこもった眼で彼を見つめ笑う。


「ようこそ異邦の世捨て人よ。私は歓迎するわ、スクート……あなたのことを。ここは魔女の里、ミスティア。霧によって外界より隔絶された、あの世でもこの世でもない、もうひとつの小さな世界」


 森の奥から一陣の風が吹き抜けた。男の背を、前へと押すかのような風であった。


 つばの広い真っ白な三角帽子から垂れている、リーシュの紡いだばかりの絹のような長髪が、風を包み込むようにぶわりと舞い上がる。


「約束どおり、わたしはあなたに救いと居場所を与える。あなたには、わたしの従者になってもらうわ」


「……従者? それは、守人という意味か?」


「ええ」


 男は目を点にし、数度まばたきした。


「待て、おれの黒い血は……毒だと言ったはずだ。何かの拍子に血がかかってしまったら、おれは盾ではなく刃になってしまう」


「もちろん、わかっているわよ。でもスクート、あなたにとって……何より生きる意味になるはず」


 どうにもリーシュは、本気のようであった。


「それにこれは、わたしのためでもあるのよ。黒でもなんでもいい、わたしのただただ白く無為で退屈な人生に……彩りを与えてちょうだい」


「おれの素性は、あまり褒められたものではないぞ。特に、お前たちのような存在には……」


「かまわないわ。どのような出自であったとしても、わたしはあなたを許す。さあ、返事を聞かせてちょうだい」


 スクートにとってその一言は、まるで神の救いの言葉であった。


 また何かのために、生きることが許される。


 本当の意味で、救われることができるのだから。


「……わかった」


 霧に囲まれへだたれた小さな世界、そのほとりにある崖の上。若葉が風になびく中、白き魔女と黒き剣士は契りを結んだ。



※ここまで読んでいただき、ありがとうございました。もし続きが気になりましたら、ぜひブックマークをお願いします。読み応えのある物語を、約束しましょう。


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