第三話 黒白、邂逅す



「しっかり掴まっていて、飛ばすわよ」


 無数の氷片が雪のように舞い散るなか、白肌の少女はものすごい勢いで箒を走らす。


 視界の一点に向かって、世界が急加速していく。


 男は振り落とされないように、かつ黒い血が付かないように気を付けながら、少女の腹へと手をやった。


 十歩さきも満足に見えないというのに、樹と樹の間を器用にすり抜けて箒は飛んでいく。


 まるで少女は、全てをわかっているかのように。


「ヲヲヲ!!」


 これだけの速さで飛んでいるというのに、枯れ木の怪物は樹々をかき分け追ってくる。


 あれほどの鈍重な動きであれば瞬く間に見えなくなるはず。だがどういう訳か、徐々に距離は縮まりつつあった。


「ありえん、どう考えても奴が追いつける速さではないぞ……!?」


 さらに目を凝らして見れば、風でも動かぬはずの白霧が、怪物の腕に吸い寄せられていた。その霧を糧にしているのか、破壊されたはずの右腕が少しずつ再生している。


「この森は、距離感に方向感覚、時間の流れさえもあやふやにする。そしてここは奴の、の庭。ある程度は自分が思うがままに操作できるのでしょうね」


 男の疑念に、少女はさも当然といった様子で答える。


「なんだそのふざけた能力は、逃げ切れるのか。おれなど助けている場合ではないのでは?」


「ふふ、このままただ逃げるだけでは無理でしょうね。でも大丈夫、今日は月が満ちる日じゃないわ。欠日ならば、奴も本気を出せない」


 つつましく笑う声と共に聞こえた言葉には、絶対の自信が含まれていた。


「クロスフォードの呪いよ。……集いし魂たちの異空へと、我らをいざなえ――――!」


 少女は詠唱と共に紺碧こんぺき色の光を放つ指輪をかかげた。


 指輪がひときわ大きくきらめき、空気が弾けた音が聞こえたかと思うと、ふたりを取り巻く世界の色が変わった。


 目に写る全てが、深く濃い青色となり、あらゆる物体の輪郭がうねるようにぼやけている。


 その世界に音はなく、声も出ない。


 空気がないのか、息も吸えない。


 だが不思議と苦しくはなかった。


 男が後ろを振り向けば、追ってきているはずの怪物の姿は見えない。


 そうしてどれほどの時間を過ごしたのか。


 再び空気の弾ける音が聞こえ、世界に色が戻った。


「ふたりで使うと結構疲れるわね。もう大丈夫、撒いたわよ」


 少女の言うとおり、霧喰らいと呼ばれる怪物の気配は消え失せていた。少女と男は箒から降りると、ふう、と一息ついた。


「助かった、感謝する……と言えばいいのだろうか」


 死を望んで白霧の森に入り、得体の知れない怪物に襲われ、生への欲求を見抜いた少女に男は助けられる。


 目まぐるしく移り変わる状況に、どう言葉をかけていいのかわからないほど、男はすっかり混乱していた。


「うんうん、素直でよろしい。顔の見てくれはいいのだから、あまり凄んだ表情はしないほうがいいと思うわよ」


 大人しそうな外見をしながら、少女は随分と飄々ひょうひょうとしていた。自身を気まぐれと評することだけはあるのかもしれない。


「助けてもらった身で無礼かもしれないが、お前は何者だ? このような場所にいたんだ、ただ者ではないだろう」


 現実離れした真っ白な外見に、あの怪物に使った異能の数々。


 男のいた世界でも似たようなものはあれど、少女ほどの実力を持つ者は見たことも聞いたこともなかった。


「うーん、どう伝えればいいのかしら。外界の住人にとって、わたしのような存在はすでに滅び去った種族のようなものだからね」


 少女は神妙な面持ちで思考にふけりだした。先に見せた飄々とした態度はなりを潜め、その姿はまるで賢者のようだった。


「……魔女。そう伝えればいいのかしら」


 一瞬、男の吸う息の音が大きくなった。


 ――――魔女。


 かつて正教国の騎士であった男が、その存在を知らぬはずがなかった。


 もう何千年も前の話である。はるか昔の教会は、人の身でありながら神の法を犯すの行使者を、異端と断じて狩り尽くした。


 そして人ならざる魔法の行使者……魔物と呼ばれる邪なる存在を世界の果てへと追放し、唯一なる神と人の時代がいまに至るまで続いている。


 そんな聖書に記された一説を、男は思い出す。


 いま男の目の前にいる少女は、人の世界に存在してはいけない異端であった。


「どうもあなたは知っているようね。まあでも、安心して。わたしが人を食べるような化け物には見えないでしょう?」


「見えないな。お前はおれに比べれば、ただの人間だ」


 何気ない一言であるはずだが、少女は初めて男に驚いた顔を見せた。


「……へぇ。あれほど強大な魔法をいくつも見て、あなたはわたしのことを怖がらないのね」


「お前こそ、おれのことが平気なのか? こんな黒い血が流れているというのに」


 男と少女は互いに恐れてはいないのかという、なんとも妙な会話をしていることに気付き閉口する。


 そのとき、極度の空腹に耐えかねた男の胃袋が、我慢の限界だと言わんばかりに腹の音を鳴らした。


 予想だにしていない不意打ちに、少女の顔が思わずほころんだ。


「……笑うな。もう何日も飲まず食わずだ」


「でしょうね。ほら、わたしのおやつを分けてあげるわ」


 どこから取り出したかは定かではないが、少女はいつの間にか林檎の入った袋を持っていた。


「魔女は客人に毒林檎をもてなす……なんて言われているらしいけど。ほら、このとおり。毒なんて入っていないわよ」


 少女はひとかじりすると、穏やかな笑みを浮かべながら林檎を男に手渡した。


 食べ物が己の手の中にある。その事実を脳が間を置いて理解すると、男はまるで獣のように食らいつく。


「毒……?」


 林檎をひとつをまるまる食べつくした男は、ふと疑念に駆られた。箒に乗っているときに、毒である黒い血がかかってないのかと。


「言うのが遅れてすまないが、おれの血は付いていないか? 信じられないかもしれないが……おれの黒い血は毒だ」


「ああ、それで身体が少しひりひりするのね。でも大した問題じゃない、わたしにとってはね」


 少女の口元がうたを紡ぐように動いた。周りの空気の色が変わり、そして弾けた。


 するとどういう事だろうか、怪物の一撃を喰らったはずの男の身体から痛みが消え去った。


「これは……」


「ついでにあなたの傷も治しておいたわ。かなりの重傷を負っていたみたいだけど、随分と平気な顔をしていたのね」


「言っただろう、おれは化け物だと。そう簡単にはくたばれない」


「くたばれない、か。なかなか面白い身体をしているのね、あなた」


 それは男にとって初めての経験だった。人外である自身を、面白いと評されたのは。


「おかわり、いる?」


 男は無言で頷いた。


 一心不乱になって林檎をほおばる男を、少女は何かを考え込みながら興味深く観察していた。


「ねぇ。太陽の下を歩くのって、どんな気持ちなのかな?」


 ふと、少女は男に問いを投げかけた。


「どんな気持ちといわれてもな……。まあなんというか、清々しい気分にはなる」


 急になぜ、そんなことを聞くのか。男の疑念は、次の少女の一言に吹き飛ばされる。


「わたしは太陽を見たことがないの。この白霧の森に住んでいるから」


 林檎を食べる男の口が、止まった。


「外の世界が、教会が恐ろしいからか?」


「もちろん、それもある。でもそれだけならば、霧の外へ遊びに行くぐらいはできたでしょうね」


 少女は、空さえ見えぬ白霧の天蓋てんがいを見上げ、諦観と共に口を開く。


「わたしは太陽に嫌われているの。この白い肌は、太陽の光があたれば……たちまち焼き焦げる」


 少女の言葉に、男は自分の耳を疑った。


「膨大すぎる魔力の代償……だとか。わたしの一族は、みな白肌と力を授けられて生まれてくる。望まずとも、押し付けられたようにね」


 少女もまた、男と同じく……望まずして化け物じみた力を与えられた、呪いを背負う者であった。


「……嘘をついているようには見えないな」


「ふふっ、信じてくれるの?」


「お前は嘘をつく人間には見えない」


 男は手元に残っている林檎を一息にほおばり、袋の中へと手を伸ばす。それからしばらく、森には林檎をむ音が響いた。


「いい食べっぷりだったわね。……さて」


 男が袋の中の林檎を全て食べ終わると、改まったように少女は男の目の前に立つ。


「――――あなたには、ふたつの選択肢がある」


 少女はそう話を切り出した。


「ひとつは白霧の森を出て、ここでの記憶を消して元の世界に帰るというもの。もうひとつは、わたしと共にへ行くこと。ふたつにひとつ、選びなおしはできないわ」


 男はいま、人生の岐路に立たされていた。


 家族や友人との再会、そして仇敵への復讐。その道は、想像を絶するほどの血が流れるだろう。


 男の出自はエストリア家という正教国の名門であり、精鋭ぞろいの騎士団を要すだけではなく、いち都市の管理さえ任されている。


 もし男がひとりでに復讐の道をたどり、その行いが明るみに出れば、エストリア家の地位が揺らぐのは必然だ。


 そしてもっとも最悪なのは、真実を知ったエストリア家が憤慨し、正教国に反旗をひるがえすということだ。


 そうなればもう、男の意志で争いを止めることはできない。そしてエストリア家は破れ、滅びるだろう。


 後に残るのは、死山血河しざんけつがと荒れ果てた故郷……最悪の未来だ。


 それが嫌で、男はここまで逃げてきた。


 ……マルグ・エストリアという騎士は。


 災厄が訪れたあの日、やはり死んだことにしておかなければならない。


「怪物に襲われているとき……お前は確かに言っていたはずだ。おれに、をくれると」


 長い沈黙を貫いた後、ついに男は口を開いた。


「ええ、約束するわ」


「――――お前は、おれを、救ってくれるのか?」


「あなたがそう望むなら」


 この少女ならば、本当にいま一度……自分に人として生きる道を与えてくれる。


 なんの根拠もない話だが、そんな期待さえ湧いてくる。


「おれを、魔女の里へ連れて行ってくれ」


 里のはずれでもいい。貧しくとも平穏に暮らせることができれば、男にとって救いとなる。


 全てを、忘れることができる。


「……着いてきて。案内するわ」


 男の決意を聞き届けた少女は、境遇に同情するかのような物寂しい笑顔を見せた。


 少女に連れられて、男は白霧の森を歩き進む。


 彼の心中は穏やかなものではなかった。


 希望も絶望も、全ての過去を捨て去り……かつて自身の先祖が虐げたであろう、魔女の庇護ひごを受ける。


 並々ならぬ事情があったとしても。恥も誇りも、もはやあったものではない。


 あるものは、半ば自暴自棄のような感情と、罪悪感だけであった。


 もうすでに、自分は目の前の少女をあざむいているのだから。



 ――――しばらくすると、とうとう視界の奥を常に遮る白霧も薄まってきた。


 心なしか光の通りがよくなり、明るくなったような気がする。いよいよ少女の、魔女たちが住むという秘境へと近づこうとしているのか。


「きっとあなたは心身ともに疲れ果てていて、一刻も早くふかふかのベッドで横になりたいだろうけど、ごめんなさい。その前に、あなたには見せておきたいものがあるの」


 男は少女に誘われるまま付いて行く。


 ようやく、深く白い霧が晴れた。木々の向こうからは、もはや懐かしくさえ感じる光の線が見え隠れしている。


 二度とこの目に焼き付くことはないと思っていた暖かな光が、いま再び男の目に飛び込んでいるのだ。


「さあ、こっちよ!」


 軽快な足取りで駆けて行く少女へ、男も遅れて追従する。


 森を抜けると、ちょうど先は崖になっているようだ。森から延びた舌とでもいえるような、そんな奇妙な地形である。


「さあ、着いたわ。これが私たちの里よ」


「こ、これは――――」


 沈んだ男の表情にがともる。


 少女に連れてこられた崖からの景観はあまりにも圧倒的であり、男の想像をはるかに抜きんでていたのだ。


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