第20話 結実

 月日は流れて季節は巡り、光が亡くなってから2度目の夏が終わろうとしている。

 あの時32歳だった私は34歳になり、短かった髪は腰の少し上辺りまで伸びた。

 相変わらず企画二課の課長として仕事に打ち込む毎日だ。


 今年の春、早川さんと田村くんが結婚した。

 早川さんは二課の主任に、田村くんは一課の課長に昇進して、ますます仕事に励んでいる。

 そんな早川さんが来年の早春にお母さんになる。出産後も仕事を続けるそうだ。



 この2年間で門倉と会ったのは3回だけ。

 破産するほど戻ってきて口説き落としてやるなんて言っていたけれど、年末年始や夏期休暇でなければこちらに来る暇もないほど、今の職場は忙しいらしい。

 この夏の休暇はこちらに来る都合がつかなかったそうで会わなかった。

 転勤したばかりの頃は頻繁に届いていたメールも、最近ではあまり来なくなった。ここ数か月は電話もない。

 2年も経てば心変わりしても仕方ない。誰かいい人でも見つかったのかな。


 私は自宅と職場の往復をするだけの毎日で、仕事が終わって夜遅く帰宅した後、リビングのソファーに座って缶ビールを飲む。

 話す相手のいない一人の禊は寂しいものだ。ビールを飲みながら、光のことや門倉のことを考える。


 テーブルの上には光の3回忌の案内状。

 早いな。あれからもう2年なんだ。

 今でも最後に会った日の光のことを鮮明に思い出す。私の中で光はいつも、優しい目をして笑っている。



 1年前、光の1周忌で藤乃と会った。藤乃と会ったのは大学卒業以来だったと思う。

 法要の後で思い切って声を掛け、近くの喫茶店に入って話をした。


 私と付き合う前から光のことが好きだったと藤乃は言った。

 私と光が結婚して夫婦関係がうまくいっていなかった時、藤乃は光からいろいろと相談されていたそうだ。


『私から誘ったの。やっぱり好きであきらめられなかったから』


 友人の私に対する良心の呵責より、光を奪いたいという気持ちがどんどん強くなって、何度も光を誘惑したと藤乃は言った。

 最初のうちは拒んでいた光も、私との夫婦関係がうまくいかないことへの不満やストレスが溜まり、私への当て付けのような気持ちで藤乃の誘いを受け入れたんだそうだ。


『だけど光は、私の向こうにいつも瑞希を求めてたんだと思う。何度も瑞希と呼び間違えられたし、私のことが好きだとは一度も言ってくれなかった』


 二人は私たちの暮らしていた部屋で何度も抱き合っていたらしい。


『光はきっと瑞希に止めてもらいたかったの。泣いて怒ってうろたえて、愛してるから行かないでって言って欲しかったんだと思う』


 すべてを失ってしまうかも知れないような危険をおかしてまで、私の愛情を確かめたかったんだろうと藤乃は言った。

 あっさりと離婚の申し出を受け入れた私に、光は激しく失望していたそうだ。そして自ら私との関係を壊してしまったことを激しく後悔して、藤乃とも距離を置くようになったらしい。


『結局、私はどんなに頑張っても光に愛してもらえなかった。きっと光は瑞希の代わりにそばにいてくれる人なら誰でも良かったんだ。でもホントは、そんなことしてる自分が許せなくて苦しくて、瑞希に抱きしめてもらいたかったんだと思う』


 今となってはもうどうすることもできない過去の話だ。光がどれだけ私を求めて自分自身の心を傷付けていたのか、改めて知ったような気がした。


 喫茶店を出て別れようとした時、藤乃が『ごめんね、瑞希』と呟いた。

 藤乃も光を想って私に嫉妬したり、どんなに愛しても愛されないことに悩んだりしたのだと思う。


 誰もが愛する人に愛してもらえたら幸せになれるのに。

 人を想う気持ちはまっすぐだったり歪んでいたり、曲がっていたりこじれていたり、本当に複雑だ。

 何が正しくて何が間違いなのか。

 どの道を選べば幸せな未来を歩けるのか?

 その答はどこを探せば見つかるんだろう?

 変わらない気持ちとか、確かな愛情とか、揺るぎない絆とか、『絶対』と呼べるものなんてない。

 大切な人が変わらずそばにいてくれる今日は幸せだと思う。一緒に過ごせることが当たり前になりすぎて私たちが見失ってしまったものは、きっととても大切なものだったんだろう。

 光とはもうそれを一緒に見つけ出すことはできないけれど、次に人生を共にする誰かとは、同じ過ちをくりかえさないようにしようと思う。



 翌週土曜日。

 なんとか仕事の都合をつけて、光の3回忌に出席した。大学時代の友人の姿もチラホラ見える。

 この2年間、私は光のお墓を何度となく訪れた。

 少し寂しくなった時に光のお墓の前で手をあわせると、頬を両手で優しく包まれるような不思議な感覚を覚えた。もしかしたら光がいるのかな、なんてことを考えて思わず笑みがもれた。

 今日も光はどこかで私たちを見守っているんだろうか。

 手をあわせて心の中で光に話し掛ける。


 光、あれからもう2年も経ったんだね。

 私は相変わらず仕事ばっかりだけど、あの頃と変わったことは……強いて言えば髪が伸びたかな。

 忙しくてなかなか髪を切りにいけないうちに伸びちゃったから、ついでに伸ばしてみたんだけどね。瑞希にはショートよりロングの方が似合うって光は言ってたけど、今もちゃんと似合ってる?

 約束は半年だけだったけど、私は今日までずっと光だけの瑞希だったよ。

 光が生きているうちに、もっと優しくできたら良かったな。光はあんなに私を愛してくれたのに、私は光にその半分も返せなかったかも知れない。

 ごめんね。だけど本当に大好きだった。優しい光が大好きだったよ。

 光のことはずっと忘れない。

 忘れないけど……私もそろそろ、次の一歩を踏み出してみてもいいかな?

 とは言っても最近連絡もないし、向こうはもう私のことなんて、なんとも思ってないかも知れないんだけど……。

 今更もう遅いって言われるかもね。

 あんまり自信はないけど、次に会えたら勇気を出して素直に気持ちを伝えてみようかな。

 門倉ならきっと、私と一緒に光をずっと覚えていてくれるはずだから。



 3回忌の法要の後の会食も終わり、出席者が挨拶をして席を立ち始めた頃、光のお母さんが私を呼び止めた。


「瑞希ちゃん、ちょっといい?」

「はい、なんですか」


 お母さんは光が生前使っていた部屋に私を案内して、タンスの引き出しの中から箱を取り出した。

 懐かしい……。二人で行ったテーマパークでお土産に買ったクッキーの箱だ。


「これ、開けてみて」


 なんだろう。

 そっと蓋を開くと、中には二人で撮った写真が数枚と、お揃いで買ったキーホルダー、そして映画の半券が入っていた。

 その写真の中では、大学時代の私と光が肩を寄せ合って笑っている。

 お揃いのキーホルダーはテーマパークで買ったもの。そして初めて二人だけで出掛けた時に見た映画の半券。

 光、こんなの大事に取ってたんだ。

 そしてその奥には、綺麗にラッピングされリボンのかけられた小さな箱が入っている。リボンと包装紙の隙間には、メッセージカードのようなものがはさまれていた。


「離婚した後、瑞希ちゃんの誕生日に渡したくて買ったみたい。でも会う勇気がなくて渡せなかったのね」


 リボンと包装紙を外し赤いベルベット調の箱を開くと、中に入っていたのは小さなダイヤのついたピアスだった。


「あ、これ……」


 結婚してまだ間もない頃、一緒にショッピングモールに行ったことを思い出した。

 ジュエリーショップで見掛けたダイヤのピアスがとても気に入って、欲しかったけどあの時は新入社員の私たちにとっては値段が高いのであきらめた。

 別のものかも知れないけれど、もしかしたら光はその時のことを覚えていたのかも知れない。


「どうしようかと思ったんだけどね。このままここで眠らせてるより、瑞希ちゃんが持っててくれた方が光も喜ぶんじゃないかなって。あっ、もちろん瑞希ちゃんが迷惑でなければよ」

「迷惑なんかじゃないです」


 別れても誕生日には私のこと考えてくれてたんだな。どんな気持ちでこのピアスを選んだんだろう?

 封筒から取り出してメッセージカードを開いた。

 淡いピンク色のカードには、青色のインクで短いメッセージが書かれている。


《瑞希、誕生日おめでとう。

 本当にごめん。今も愛してる。》


 最後に会った日の光を思い出して涙が溢れた。


『嘘でもいいから、愛してるって言って』


 光はあの時、もう会えないことをわかっていたからそう言ったんだと思う。

 ずっと一緒にはいられないから、この世を去る前に一瞬だけでも、愛し合っていた頃の二人に戻りたかったんじゃないか。

 私のために嘘をついてくれた光の優しさが、今更ながら胸に染みた。


「瑞希ちゃん、この2年間ありがとう。何度も会いに来てくれて嬉しかった。光も喜んでると思う」

「いえ……」

「でもそろそろ自分を解放してあげて。光はもう瑞希ちゃんを幸せにはしてあげられないけれど、瑞希ちゃんを幸せにしてくれる人はいるでしょ?」



 別れ際に光のお母さんが言った。


「ついさっき、瑞希ちゃんの同僚だっていう背の高い男の人が光に会いに来てくれてね。光の分まで瑞希ちゃんを幸せにしたいって。食事を勧めたんだけど遠慮されて……これから光のお墓参りに行くって言ってたわ」



 光のお墓の前に背の高い後ろ姿を見付けた。久しぶりに見るその姿は、紛れもなく門倉だった。

 ゆっくりと近付くと、門倉は手もあわせず何かを語りかけるような目で光のお墓と対峙していた。


「お墓の前なんだから手くらいあわせたら?」


 門倉は少し驚いたように私の声に振り返る。


「なんだ、いたのか」

「今来た」


 門倉の隣に立って光のお墓に手をあわせた。


「今日が3回忌だったんだってな」

「うん。さっき終わった。門倉は?」

「小塚さんから連絡もらってな。なんとか都合ついたから寄ってみた」

「ここに来る前に光の実家に寄ったんだって?お母さんから聞いたよ」


 風が吹いて私の長い髪がなびいた。

 辺りの木がざわざわと葉を揺らす。


「一応けじめとしてな。そろそろ篠宮を俺に任せてくれって、こいつに言いに来たんだよ」

「……忘れてたんじゃなかったの?」

「忘れるか、バカ。そろそろ行くぞ」


 駅までの道のりを並んで歩いた。

 門倉と会うのは今年のお正月以来だ。


「ずっと忙しかったの?」

「ああ。盆休み返上するくらいな。おまえは?」

「相変わらず」


 交わす会話は以前より言葉少なく感じる。門倉が隣にいることがなんだか不思議だ。

 駅の自動券売機の前で、門倉は運賃表を見上げた。


「おまえいくらの切符買うんだ?」

「420円。門倉は?」

「とりあえず420円だな」


 とりあえずってなんだ?

 そう思いながら電車に乗って、私の自宅の最寄り駅に戻った。

 門倉はこの後どうするつもりなんだろう?


「おい」

「ん?なに?」

「久しぶりに禊でもするか」


 禊はもう必要ない。

 私はもう光と過ごした日々を悔やんではいないし、次の一歩を踏み出してみることにしたから。


「それはいい」

「禊はもう済んだのか」

「光のお母さんに言われた。そろそろ自分を解放してあげてって。それで、私の同僚の背の高い男の人が、光の分まで私を幸せにしたいってさ。誰だろうね」


 立ち止まって見上げると、門倉は大きな手で私の頭をポンと叩いた。


「誰だろうな」


 歩き出した門倉の手が私の手を握った。私の手をスッポリと包む大きな手だ。


「お腹空いたね。焼肉行こうか」

「おー。おまえのおごりで高い肉な」

「任せとけ」


 手を繋いで歩きながら、門倉との間に起こったいろいろな出来事を思い出した。

 何度も励ましたり、背中を押したりしてくれた。

 いつも私を一番近くで見守ってくれた。

 つらい時は抱きしめて頭を撫でてくれた。

 私を一番わかってくれるのは、いつも門倉だった。


「なぁ篠宮」

「ん?なに?」

「俺んとこ来るか?」

「え?」


 俺んとこってどこだ?門倉は今、神戸に住んでいるはずだけど。


「……神戸?」

「いや、俺また来月から本社に戻るから」

「そうなの?」


 それは初耳だ。しかし転勤が多いな、門倉は。


「もう部屋決まったの?」

「これから」


 部屋も決まってないのに俺んとこ来るか?って……何?

 それじゃあ行きたくても行けるわけがないのに。


「じゃあまだ門倉んとこ行けないじゃない。部屋決まったら呼んでよ。引っ越し祝いくらいは持ってくからさ」


 私がそう言うと門倉は立ち止まり、呆れた顔をしてため息をついた。


「……ホントにバカだな、おまえは……」


 門倉が私を抱き寄せて頬に軽く口付けた。

 突然のことに驚いて顔を見上げると、門倉は優しい目をして笑っていた。


「俺の嫁になれって意味だ。気付け、バカ」

「よ、嫁にって……急にそんなこと言われても……」


 いきなりそんなこと言われるとは思っていなかったから、どう答えていいのかわからない。


「おまえ俺のこと嫌いか?」

「嫌いじゃないけど……」

「じゃあ、好きか?」

「……うん……好き……」

「そうか、じゃあ決まりだな」


 ええっ、決まりなの?そんなにあっさりと?!


「ちょっと待ってよ」

「もうじゅうぶん待った。何年待ったと思ってんだ。よし、これから不動産屋行って部屋探すか」

「部屋って……」

「俺とおまえの新居」


 なんだこの急展開は?!全然ついていけない!!


「そういうことはもっと慎重に考えないと!」

「もうこれ以上待てねぇから。とりあえず返事しろ。おまえはどうしたい?」


 どうしたい?って……。

 付き合ってもないのに、いきなり結婚はないだろう。


「おまえは俺と一緒にいたいの?いたくないの?」

「……いたいけど……」

「俺もだ。好きだぞ、篠宮。大事にするから、ずっと俺のそばにいろ」

「……うん」


 スタスタ歩いていた門倉が急に立ち止まって踵を返し、元来た道を戻り始めた。


「……今度はどちらへ?」

「気が変わった。やっぱ今日はおまえんちに行く」

「えっ、なんで?!」

「決まってるだろ?」


 決まってるって……何が?!一体何をするつもり?!


「いい加減観念して俺のもんになれ。余計なことなんかなんにも考えられなくなるくらい、目一杯愛してやる。もう誰にも遠慮はしないからな」

「何それ、強引すぎ……!」

「安心しろ、ちゃんと優しくしてやる。好きだからな」


 門倉とこんな風に歩く未来も悪くないと思う。

 口は悪いけど優しいのは知ってる。

 何年経っても一緒に笑っていられるといいな。



 結局門倉に強引に手を引かれながら私のマンションまで戻ってきた。二人きりになるのは久しぶりだから少し緊張する。


「とりあえず……コーヒーでも淹れるから」


 キッチンに向かおうとすると、門倉は私の手を引いて強く抱き寄せた。


「篠宮」

「今度は何……?」


 無茶な要求でもされるのかとおそるおそる見上げると、門倉は私の頬を両手で包み込み、まっすぐに目を見つめる。


「改めて言うよ。愛してる。必ず幸せにするから、俺と結婚してくれ」

「……はい。末長くよろしくお願いします」

「おー。一生離さんからな」


 門倉の唇が私の唇に優しく触れた。唇をついばむような優しいキスをくりかえす。

 会社で倒れて入院した病室で門倉と交わしたキスを思い出した。

 あの時は悲しくて切なくて胸が痛かった。

 今は……とてもあたたかくて幸せな気持ちだ。


「門倉、待っててくれてありがとね」

「ん?あー……俺は気が長いからな」


 照れ隠しなのかな?気が長いんだねって言ったら、そうでもないって前は言ってたのに。


「ってかさ……呼び方な。おまえもいずれ門倉になるんだろ?」

「じゃあ……凌平?」

「なんだ、瑞希」


 くすぐったい気分で顔を見合せ、二人して思わず吹き出した。


「これから時間かけて慣れてけばいいよ。先は長いんだからな」




 一度結婚に失敗して苦い思いをした私たちは、今度こそ大切なものを見失わないように、お互いを大切に思いやることを忘れないでいようと思う。

 もう二度と帰ることのない大切な人を忘れることはないけれど、つらかった過去の記憶はもう振り返らない。


 最後に優しさと愛情で満たしてくれたことに感謝して。


 私は今、心の傷を癒やしてくれた優しい人と、幸せな未来へ続く新しい一歩を踏み出した。



 ─END─



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傷痕~想い出に変わるまで~ 櫻井 音衣 @naynay

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