散らない桜が散りますように

隠れ豆粒

散らない桜が散りますように

「拳君、みてみて! ここも満開だよ!」

「うん。今年も綺麗に咲いたね」

「私も一回桜になってみたいなぁ」

「どうして? 桜はすぐに散ってしまうよ」

「だって、桜は皆に綺麗っていわれるし、皆を喜ばすために散るんだよ? とっても優しいと思うんだよねぇ」

「そうだね。僕も桜みたいに優しくなりたいよ」

「拳君は、桜にならなくても優しいよ?」

「そうでもないよ。でも、桜にならなくても優しくなれたらいいね」


 桜が咲くたびに、思い出す。僕の桜を散らせてくれた、女の子のことを。幻のような日々のことを。



 どこからか、ピアノの音が聞こえてくる。耳を澄まさなければ聞こえないような音だけれど、僕の耳にはしっかりと届いている。たしかなメロディとなって。どこかで聞いたことのあるメロディだ。

 ――ああ、そうだ。大切な人が、よくピアノで弾いていた曲だ。なんという曲名だったっけ……あれ? 大切な人って、誰だ?


「また音楽室にいたんだ。●●はピアノ好きだね。その曲、何ていうんだっけ?」

「●●●だよ。もうさ、私の名前と同じなんだから、覚えてよね」

「●●●っていうんだ。おぼえたおぼえた。そういえば、●●はその曲しか弾かないよね。他の曲弾けないの?」

「弾けるけどさ、この曲って何回聞いても感動するっていうか、飽きないっていうか、そんな感じしない? それに、丁度夏の夕暮れ時が合うんだよ」

「まあ、そうだけど……」

「ほら、特にここ! この部分が一番好きなの」

「たしかに、分からなくもないけれど、僕は一番最後の部分が好きかな。ほら、●●●って感じするからさ」

「結局●●●は全部が素晴らしいってことだよ」

「そうだね」

 ●●? ●●●? 思い出せない。


 目を開けると、白い天井が目に入った。どこもかしこも白色の部屋。僕がいた場所は、病院だった。


僕は三日前に、交通事故に巻き込まれたらしい。よくあるような車同士の衝突事故だ。その車のうちの一台が僕に向って突っ込んできたのだという。頭を強打したために記憶が曖昧になっていて、約二年分の記憶を失い、中学三年生くらいまでの記憶しかない、らしい。だから、目が覚めたときはどうして病院にいるのだろうと思ったし、病室に見知らぬ女の子が来たときは、どう対応したら良いのか分からなかった。


「拳君、久しぶり」

 少し控えめなノックが三回聞こえたあとに病室に入って来たその女の子は、僕の知らない制服を着ていた。名前を知っているということは、多分同級生だろう。

「えっと……君は……?」

 見舞いに来てくれるということは、それなりに親しかった子かもしれない。

 彼女は少しだけ微笑んで、けれど悲しげな表情をしていた。

「やっぱり、思い出せないの? まあ、記憶が曖昧になっているって言うのは聞いてたからさ、もしかしたらって思ったんだけどね……」

 彼女の表情から、少しずつ笑みが消えていくのが分かった。僕は必死に思い出そうとするが――

「……ごめん。君のことは、まったく思い出せない。君と僕は親しかったのかな?」

 彼女は僕の目を真っ直ぐに見ていた。僕は彼女から視線を逸らし、俯いた。

「うん、親しかったよ。とても。私たちはね、たくさんの時間を一緒に過ごしたし、一つの約束も交わした。それも思い出せないの?」

「本当に、ごめん」

「拳君が謝る必要はないよ。でも、憶えていて欲しかったかな……」

 彼女の声は無理矢理明るく振舞っているようで、聞いている僕の方がとても息苦しかった。それ以上に彼女は辛いだろうと思うと、息が吸えなくなるような感覚に陥った。

「あの、名前を教えてくれないかな? もしかすると、名前を聞いて思い出すかもしれない」

 彼女は椅子から立ち上がり、僕を見下ろした。

「……私は…………教えない。お願い。思い出して。私は、貴方に思い出して欲しいの。……だから、貴方が退院したら、もう一度一緒に過ごしましょ」

 彼女はそう言うと出口の方へと向って行き、一度だけ振り返った。そして、またね、とだけ言って出て行ってしまった。彼女の瞳からは、僅かに涙が流れていた。


 【名前を思い出せない女の子】が病室から出て行って、息苦しさも治まりつつあった。窓の外には濃紺の空と、ちらちらと輝き始めている星が幾つか見えた。

 不意に、【名前を思い出せない女の子】の切ない表情が頭をよぎった。あの、微笑んでいるけれど悲しそうな表情が。治まりつつあった息苦しさが、一気に込み上げてくる。

 ――苦しい。

 つい最近まで親しかったのかもしれない女の子のことを思い出せないということは、とても苦しい。自分にとっては見知らぬ女の子同然なのに、どうしようもなく息苦しくて、辛い。

視界がぼやけて、幾つもの雫が僕の瞳から落ちてゆく。


 その夜、僕は睡魔が訪れるまで、涙を流していた。



 拳君が事故に遭ったことを知ったのは、事故に遭ってから三日後のことだった。それまでの三日間は、彼のことが心配で夜は眠れず、高校では睡魔に襲われ、二時限目までの時間を睡眠に費やした。それから学校が終わるまでずっと拳君のことを考えていた。彼は疑ってしまうくらいに優しくて、いつも笑顔で、とても強い子だ。そんな彼が事故に遭うなんて……。


 今日は彼のお見舞いに行くつもりだ。

 放課後になると、駅に近い店でゼリーを買って、電車に乗って拳君が入院している病院に向った。

 病院に着いて拳君のいる病室を受付で訊き、エレベータに乗って四階へ上がった。エレベータの中も、四階の廊下も、驚くくらいに静かだった。

 私は拳君のいる病室――四○三号室へと向った。ノックを三回してからスライドドアをゆっくりと開けた。どこもかしこも白い部屋だった。いかにも病院という感じだ。

ベッドの上では上半身を起こしている拳君がこちらを見ていた。私はゆっくりと近づき、声を掛ける。

「拳君、久しぶり」

 彼は少し困ったような表情をして口を開いた。

「えっと……君は……?」

 先程受付で、彼は記憶の一部をなくしているということを聞いていた。

「やっぱり、思い出せないの?まあ、記憶が曖昧になっているって言うのは聞いてたからさ、もしかしたらって思ったんだけどね……」

 彼は苦笑いに似たような笑みを浮かべていた。

「ごめん。君のことは、まったく思い出せない。君と僕は親しかったのかな?」

 私は拳君をしっかりと見つめた。そうすると、彼は少し気まずいといったように俯いた。

「うん、親しかったよ。とても。私たちはね、たくさんの時間を一緒に過ごしたし、一つの約束も交わした。それも思い出せないの?」

「本当に、ごめん」

「拳君が謝る必要はないよ。でも、憶えていて欲しかったかな……」

彼は一度だけ私を見て、少し苦しそうに口を開いた。

「あの、名前を教えてくれないかな?もしかすると、名前を聞いて思い出すかもしれない」

 私は一瞬迷って、決める。そして立ち上がり、彼を見下ろす。

「……私は…………教えない。お願い。思い出して。私は、貴方に思い出して欲しいの。……だから、貴方が退院したら、もう一度、一緒に過ごしましょ」

 私はそう言って病室の出口へと向った。そして振り返り、またね、とだけ言ってドアを閉めた。

 拳君の姿を見て安心してしまったから、ショックの方が莫大に大きかった。涙が止まらない。


 病院を出て駅に向って歩いているとき、ゼリーを渡すのを忘れていたことに気がついた。病院へ戻って渡そうという気にもならない。


 私はその夜、拳君にあげるつもりだったゼリーを、涙を流しながら食べた。

そして、大切なことを、現実を、突きつけられた。今度はそれを受け入れるのに、涙を流した。



 事故に遭ってから退院までの三ヶ月間、一週間に二回のペースで【名前を思い出せない女の子】は僕の前に現れた。彼女は僕の前に姿を現すたびに、少しずつではあったが笑顔を取り戻していった。

退院三日前も彼女は現れた。

 初めて僕の病室に入ってきた時とは違う、元気だが落ち着いた音でノックが三回聞こえると、彼女が笑顔で現れた。この頃には、僕も彼女と他愛のない話しをして笑いあうのを少しは楽しみにしていた。

「どう? 元気にしてた?」

 彼女はそう言いながら、ベッドの前に置いてあるパイプ椅子に腰を下ろした。

「まあね。君はどう? 高校での生活は?」

 僕は彼女の名前を思い出せていないので、「君」と呼ぶのが当たり前になっていた。

「んーまあ、つまらなくはないわね。あ、そうだ。これ、一緒に食べよう」

 彼女はそう言って学校の鞄から、みかんゼリーとコーヒーゼリーを出して見せた。彼女は、僕がみかんゼリーが好きだということは知っていたのだ。そして、彼女もみかんゼリーが好きだということがなんとなくわかったた。

「さあ、じゃんけんよ。勝ったほうがみかんゼリーで、負けたほうがコーヒーゼリーね」

 なるほど。あえてみかんゼリーをひとつしか買わなかったのか。そして、彼女はお互いがコーヒーは苦手だと言うことを、知っているのだ。

「分かった。絶対に負けないよ」

「せーの、最初はグー、ジャンケンポイ!」

 僕はグーを出した。彼女はパーを出していた。

「やったー! ということで、私はみかんゼリーね。はい、拳君はコーヒーゼリーね」

「うん。ありがと。こういうときって必ずジャンケンに負けるんだよなぁ」

 僕は付属のミルクをコーヒーゼリーにたっぷりとかけて、一口パクリと食べた。

「あれ? 以外と美味しい。ミルクを入れたからかな? ……いや、でもこんなに美味しい物ではなかった気がするなぁ……」

 僕がそう言うと、彼女はコーヒーゼリーを取り上げて、一口パクリと食べた。

「……うぇ!苦いじゃん!」

「あはは、騙された!」

 僕がそう言うと、彼女は僕にコーヒーゼリーを返し、二口続けてみかんゼリーを口に放り込んだ。

「はぁー死ぬかと思った。今度からはしっかりと貴方を疑うことにするわ」

「僕は本当に美味しかったから言っただけだよ」

 彼女はムスッとして僕を見た。

「嘘吐き! 騙されたって言ったじゃない!」

「あはは、ばれた?」


 ゼリーを食べ終えると、彼女が今日高校で授業を受けた教科をそのまま僕に教えてくれた。これは結構前から習慣のようになっていた。記憶を失ったぶんだけ覚えなければならなかったが、(自分で言ってしまうが)僕は頭が良いほうなので苦痛ではなかった。


 気がつくと、空はいかにも黄昏時というような色に変わっていた。

「じゃあ、今日は帰るわ。退院の日は日曜日だよね。迎えにいくからね」

「うん。ありがとう」

「うん。またね」


 【名前を思い出せない女の子】が出て行ってから少し経って、僕は溜息と同時に出てしまいそうになった辛い心を無理矢理押し留めた。

 もうこんなに仲良くなったのに、あちらは僕の名前を知っているのに、僕は彼女の名前を知らない。いや、思い出せない。

 ああ、だめだ。また涙が込みあげてきてしまった。一緒にいるあいだ笑顔を振舞っているのは、彼女を悲しませたくないからだ。でも、無理矢理に笑顔を作っても、疲れるだけだ。

 ――退院してからは、素直に笑えるように、自然に笑顔を作れるようになりたい。


 結局その夜も、睡魔が訪れるまで涙を流し続けた。


 翌朝はすっきりと起きれず、朝食を済ませてから一時間程食休みをして、それから二時間程眠った。今は夏だったが、病室はクーラが効いていてとても涼しかったし、瞼が重かったので、すぐに眠ることができた。


「また音楽室にいたんだ。●●はピアノ好きだね。その曲、何ていうんだっけ?」

「●●●だよ。もうさ、私の名前と同じなんだから、覚えてよね」

「●●●っていうんだ。おぼえたおぼえた。そういえば、●●はその曲しか弾かないよね。他の曲弾けないの?」

「弾けるけどさ、この曲って何回聞いても感動するっていうか、飽きないっていうか、そんな感じしない?それに、丁度夏の夕暮れ時が合うんだよ」

「まあ、そうだけど……」

「ほら、特にここ!この部分が一番好きなの」

「たしかに、分からなくもないけれど、僕は一番最後の部分が好きかな。ほら、●●●って感じするからさ」

「結局●●●は全部が素晴らしいってことだよ」

「そうだね」

「●●●って●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●って●●だよね?」

「うん。●●●って●●あるんだよね」

「●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●」


「アアアアアアアアアアア!」

 ……?夢を見ていたようだ。なんか、とても大切な夢だったような、でも恐ろしかったような……もう忘れてしまった。

「どうかなさいましたか!」

 突然ドアが開いて看護士さんが現れたので、一瞬心臓が止まったような気がした。

「……すみません。変な夢を見てしまって……」

 看護士さんはホッとしたような表情をして「なにかあったらすぐに呼んでください」と言って出て行ってしまった。

 服が汗でぐっしょりと濡れていた。気持ち悪い。僕はベッドから立ち上がり、クローゼットに仕舞ってあった服に着替え、窓を開けてからベッドに戻った。

 何回か深呼吸を繰り返して、心を落ち着けてから読みかけだった小説を開いた。ミステリ小説なのだが、とても難しいトリックがでてきて面白い。今読んでいるところは、トリックを仕掛けた犯人を追いかけているところだ。

 ――逃げ続ける犯人を、彼は必死で追いかけた。力尽きるまで、子供が蝶々を追いかけるように、追って、追って……。角を曲がったところで見失ってしまった――。

 ん? なにかが引っかかるような……。僕はもう一度読み返す……。「追いかけるように」多分この言葉だ。この言葉が何故か頭にもやもやと残る。なんだろう?


 考えてみたけれど、引っかかる理由には思い至らなかった。



 退院当日の前日に読みかけだった小説も読み終わり、僕は母が持ってきてくれた私服に着替えた。身体の傷もすっかり良くなり、戻らないものは、高校に上がってからの記憶だけだった。

 一階の受付前のソファに、【名前を思い出せない女の子】は座っていた。僕が歩いて行くと、こちらに気がつき、立ち上がった。

「退院おめでとう、拳君」

 僕はできるだけ自然に笑顔をつくった。

「うん。ありがとう」

 僕は母に、車で待っているように頼んで、彼女と一緒に病院の庭へ向った。夏の日差しが久しぶりに僕を照りつけた。

そして、大きな木の下にあるベンチに腰を下ろし、青く澄み渡っている空を見上げながら、独り言のように言った。

「僕は、明日からすぐに高校へ行かなくちゃいけないのかな?」

 彼女は少し抑えた声で言った。

「ええ。明日からはまた高校に行かなきゃね。拳君は私以外とほとんど仲良くなかったから、私の名前を他の人から聞くっていうことはないと思うけれど……」

「そうだったんだ……。まあ、友達はひとりで充分だよ」

 彼女はクスリと笑った。

「同じことをよく言っていたわ。そういうところは変わらないのね」

 彼女の笑顔はとても自然で、とても美しく、整っていた。僕はそんな笑顔をつくることができるだろうか。ついその笑顔に見惚れてしまっていて、本当は十秒くらいだったかもしれないが、気がつけばお互いの瞳を見つめていて、時が止まったように感じた。

「……えっと、これから、色々なことを教えてもらうと思うから、宜しく」

 彼女は少し頬を赤らめて、こちらこそ、と言った。


 そのあと、三十分程他愛の無い話しをして、彼女とは別れた。

 母の待つ車に向う途中、追いかけっこをしている子供達が病院の門の前を通った。昨日から、追いかけるという言葉が頭の中に引っかかる。



「おまたせ」

 そう言って車に乗ると、母は目尻に皺を寄せて笑顔をつくった。

「さあ、帰りましょう。今日はゆっくりと休みなさい」

 僕もつられて笑ってしまった。

「三ヶ月間たっぷりと休んだよ」

 母は車の鍵を捻りエンジンを動かすと、シートベルトの確認をしてから車を出した。


 久しぶりに家に帰ってきたのだが、あまり自分の家という感じがしなかった。その理由には思い当たる。約二年分の記憶を失っているからだ。二年間のあいだに変わったものが多いのだろう。リビングのテーブルも、洗濯機も、電子レンジも違っていた。

 自分の部屋も、大きく変わっていた。高校に進学してから買ったと思われる参考書や高校の制服、勉強机の上に置いてあるちょっとしたフィギアなど、記憶にないものばかりだった。

 ――まあ、少しずつ慣れるしかないか。


 しばらくのあいだ部屋の片付けをしたり、のんびりと小説を読んだりしていると、インターフォンが鳴った。それから少しして、母が僕の部屋に来た。


「貴方にお客さんよ」

 そう言って母がどくと、後ろから見覚えのあるような、ないような同級生らしき人が現れた。

「久しぶりだな、拳」

 誰だっけ。

「……あれ? 優斗?」

「ああ、そうだよ。俺のことは憶えていてくれたか」

「まあ、優斗とは中学からの仲だからね。僕が失くした記憶は高校に上がってからのものだってきいてるし。……それにしても、随分と大人になったなぁ」

「いや、お前中三の俺と比較するなよ。それに、拳だって顔つきは大人だぞ? 鏡でも見てこいよ」

 彼とは中学生の時に知り合い、一番の親友だった。お互いの性格から、名前を逆にしたほうが良いのではないかと、よく言っていた気がする。


 とりあえず優斗を招きいれ、それから鏡を見てみた。……たしかに、随分と変わったものだ。目つきが全然違うじゃないか。まあいいや。


今は高校が違うらしいが、よくふたりで遊びに行っていたと優斗から聞いた。そんな時はきまって僕が先に待ち合わせ場所に着き、優斗は必ず五分遅れて来ていたそうだ。まあ、そんなことは忘れてしまったけれど、優斗は楽しかったと言っているので安心だ。

「そういえばさ、拳ってまだ文芸部続けてるのか?」

 そんなことを言われても、今日退院したばかりだぞ。

「そんなこと分かるわけないよ。記憶が無いんだから」

 優斗は苦笑して、ごめんごめん、と言った。

「まあでも、中学からやってるから、多分今もやってると思うよ」



「お前の作品さ、以外に面白いんだよなぁ。次はどんな小説にするつもりだ?」

 僕は少し考えてから答えた。

「今まではSF系だったから、今度は感動系にしようと思う。内容は考えていないけれど、良い作品ができそうなんだよなぁ」

 優斗は立ち上がり、伸びをした。

「おう。楽しみにしてるぜ」

 リビングに行って少しだけお茶をしてから、彼を玄関で見送った。そしてしばらく空を眺めた。昼の日差しはとてもきつく、改めて夏を感じた。



そういえば、この時期といえば夏祭りだ。今年も優斗と一緒に行くのだろうか。いや、高校に上がってからは【名前を思い出せない女の子】と一緒に行っていたかもしれない。どちらにしろ、楽しめればいいのだが。



 アラームの音がいつもより小さく聞こえる気がした。なにか雑音みたいなものが聞こえる。寝ぼけていた頭が戻ってくると、雨が降っているのだと理解した。梅雨が明けてからは雨が降っていなかったので、草木も喜ぶことだろう。

 ――ああ、そうだ。今日からは拳君も高校に戻ってくるんだ。

 私は嬉しい気持ちになり、素早く制服に着替えて、いつもより三十分程早く家を出た。

 雨の日には必ず早く家を出る。それは高校に上がってからの習慣になっていた。途中にある公園の東屋で、小説を読んで時間を潰すのだ。

 公園に着くと、まずは雨の音を楽しみ、それから東屋で小説を読んだ。この時間は、一番心が落ち着く。前までは小説を読まずに目を閉じて過ごしていたのだが、そのまま眠ってしまい遅刻してしまったことがあったので、それからは小説を読むようにしているのだ。

 しばらくすると、急に雨が激しくなった。東屋にも雨が入り込んできたので、小説を鞄に仕舞った。それから少しのあいだ東屋の屋根越しに空を眺めた。そうしていると空に吸い込まれそうな感覚に陥る。とても、心地好い。

 さあ、そろそろ行かなければ遅刻してしまう。拳君にも高校の場所は伝えていたから、多分もう登校しているだろう。

 私は青色の傘を開き、のんびりと歩き始めた。

 学校に着いたとき、拳君が校門の前で待っていた。彼は私に気がつき、小さく手を振った。私はそれに応えて小走りで彼のところまで行った。

「おはよう、拳君」

「おはよう。ずっと見ていたけれど、中学からの友達は誰もいなかったよ」

 拳君はそう言いながら歩き始めた。私は彼の隣に並んだ。

「そう。実は、私も同じなんだ。だから、拳君が戻ってきてくれて心強いよ」

 昇降口に入ると、彼にクラスと番号を伝え、上履きに履きかえた。

「じゃあ、私は二組だから、しっかり四組に行ってね。席は多分分かるから」

 彼は少し緊張気味に、うん、と言って四組へと入って行った。

 私は二組に入り、自分の席に着いた。担任が教室に入ってくると皆静かになった。

 ――拳君は大丈夫だろうか。



 高校には一日で慣れてしまった。授業の内容も、高校にしては簡単だなと思った。

 今は帰り道で、隣には【名前を思い出せない女の子】が歩いている。

「拳君、学校には慣れた?」

「うん。なんだか、中学とあまり変わらない気がする」

 彼女は少しだけ残念そうにしている。

「どうしたの?」

「なんでもない。ただ、私が教えることはもうないかなって……」

 彼女は、僕に色々なことを教えるのを楽しみにしていたのかもしれない。

「あの……僕がなんか悪いことをしたなら、ごめん」

 彼女は立ち止まり、僕を少し睨んだ。

「まだなにも言ってないのに、自分が悪かったみたいなの、やめたほうがいいよ」

 そう言うと、彼女はひとりで歩いて行ってしまった。……うむ。女心というものは、難しいものだ。

「追いかけないのか?」

 突然後ろから声を掛けられ、びくりとしながら後ろを向くと、優斗が立っていた。

「あ……。優斗」

 彼はニヤニヤしながら僕を見ている。

「追いかけなくて良いのか?」

 ん? 追いかける? まただ。なにかが引っかかる。

「拳、聞いてんの?」

 僕は慌てて答えた。

「ああ。うん。なんか、難しいなって……いや、なんでもない。追いかけるよ」

 僕はもう少しと優斗と話したかったけれど、小走りで彼女を追いかけた。そして、隣に並んだ。

「ねえ、ごめん。今度から気をつけるから」

 彼女は微笑んで、よろしい、と言った。そして、更に笑みを大きくした。

「じゃあ、今年の夏祭り、一緒に行こう」

 なぜいきなりその話しに変わるのかは理解できなかったが、機嫌が戻ったなら良かった。

「うん。いいよ。えっと、そうだ。今年はさ、花火大会も一緒に見に行こうよ」

 僕は機嫌を損なわれないように、更に良い提案をした。彼女は目を輝かせた。

「うん!絶対に行こうね」

 

 彼女とも別れて、ひとり道を歩いていると、つい溜息が漏れてしまう。やっぱり、どんなに頑張ってみても自然に笑顔をつくることはできない。でも、前よりは自然になったように思う。いつか、【名前を思い出せない女の子】の前で、心から笑えるようになりたい。それが今の僕の目標だ。そして、彼女を悲しませたくない。これは心からの願いだ。



 拳君と廊下で喋っている内に、ひとり考え事をしていた。

 やっと八月の半ばに突入し、明日は夏祭りだ。拳君が退院してから一ヶ月間が過ぎた。拳君と過ごせているということが私を充実させているのだろう。この一ヶ月間がとても長いように感じた。私はいままでで、今が一番充実していると思う。記憶をなくした男の子に、寄り添って生きていく。なんだか映画みたいだな、と思い、ひとりでクスリと笑った。

「ねえ……」

 でも、映画みたいだけれど、真面目に接さなければならない。……そして……。

「ねえ、聞いてる?」

 私は慌てて応える。隣に拳君がいることを忘れていて、すっかり自分の世界に入っていたことに気がついた。

「ん? どうしたの?」

 彼はなにか言いたげな表情をしていたが、すぐに微笑に戻った。

「明日の夏祭りは、どこで待ち合わせをするの?」

「ああ、そうだったね。えっと……じゃあ、祭りの会場の公園は分かるよね?」

 彼はコクリと頷いた。

「そこの西側の入り口にしましょ」

「分かった。ありがとう」

 彼はそう言って、自分の教室に戻って行った。私も自分の教室へ戻り、次の授業の準備をした。

 私はクラスに友達がいないから、休憩時間は大体小説を読んでいる。でも、今は小説に集中できそうになかったので、窓の外を眺めて過ごした。


 授業中は、『大切なこと』を、いつ彼に話そうかと考えていて、内容が全く入ってこなかった。



 朝起きてから四時半になるまで、とても長く感じた。四時半は、【名前を思い出せない女の子】との待ち合わせの時間だ。言われた通りに会場である公園の西側にある入り口の前で待っていると、彼女は着物を着て現れた。

「おまたせ、拳君」

 彼女は少し恥ずかしそうに頬を赤らめて言った。

 彼女は今、濃い紫色の着物を着ていて、紅の髪飾りを装飾していた。彼女が着物で現れるとは思っていなくて、つい見惚れてしまった。元々綺麗で大人っぽい顔立ちの彼女が、今は更に大人に見えた。

「……その着物、素敵だね」

 彼女は目を逸らし、ありがと、と言った。僕は歩き出す。それに、彼女も続く。

「君はなにか食べたいものとかある?」

「んーそうだな……。夏祭りと言えば、わたあめかなぁ……」

「そう。じゃあ、並ぼう」

 彼女と僕は、わたあめ売り場の列の最後尾に並んだ。

 自分の記憶では、夏祭りには優斗としか来たことがないので、少し緊張していた。

 僕らの番がきて、僕はわたあめをひとつ注文した。

「あれ? 拳君は食べないの?」

「うん。僕はいいよ。口の周りに引っ付くのが嫌なんだ」

 僕はそう言うと五十円を払った。

「え?いいの?」

「うん。色々とお世話になっているから、これくらいはね」

 彼女は目を輝かせて、ありがとう、と言った。わたあめを奢っただけでこんなに喜んでもらえるとは。

 彼女は口の周りにつかないように、器用にわたあめを食べていた。――この光景、前にもみたことがある、ような気がする。

頭痛がした。僕は痛みを紛らすために空を見上げた。

だんだんと東の空が濃紺になり始めていた。僕の真上辺りが夜と夕方の境目みたいに色が違っていて、それを眺めていると、なにか、大切なものを思い出せるような気がした。 

丁度今は黄昏時だ。彼女は夕日に照らされていて、幻のように見えた。


「よくそんなに綺麗に食べられるね」

「そう? 普通に食べてるけど」

「僕は●●みたいに綺麗に食べれないから、わたあめは苦手なんだ」


 一瞬、記憶が蘇った気がした。

「拳君、大丈夫?」

 彼女の一言で、現実に引き戻されるような感覚に陥った。

「うん。大丈夫」

 僕はなにか、とても大切なものを思い出したような気がして笑顔で答える。すると彼女は驚いたように目を見開き、そして、美しく、自然に微笑んだ。

「拳君の本物の笑顔、やっと見られた気がする」

 彼女はそう言った。


 その後、彼女と僕のあいだには沈黙が続いたけれど、その沈黙はけっして壊してはいけないような気がした。



 夏祭りの帰り道。私は嬉しい気持ちで歩いていた。

 拳君が事故に遭ってから、彼が必死で笑顔をつくろうとしていたことは、もちろん分かっていた。私を悲しませたくなかったのだろう。そんな笑顔を見ていると、辛くなる。でも、今日のあの笑顔は、心から自然にでた笑顔のように思えた。やっと、彼の本物の笑顔を見ることができた。

 彼は今日、私との約束を果たしたように思えた。私はいま、とても幸せだ。

 ――あれ?

 拳君は約束を果たした。……私は約束を果たしただろうか。いや、拳君が事故に遭ってからの約四ヶ月間。私の名前を思い出せない彼は、辛い思いをしていたに違いない。私はまだ、約束を果たしていない。約束は絶対だ。たとえ相手が忘れていようと、関係ない。

 それなら、次合うとき――花火大会の日に、約束を果たそう。

 そして、とても、とても大切なことを、思い出してもらおう……いや、思い出して、受け入れてもらおう。許してもらおう。

 この日々を彼のために終わらせなければならない。



 夏祭りから三日後。今日は花火大会だ。【名前を思い出せない女の子】とは夏祭り以来あっていなかった。

 待ち合わせ場所に着いたのは、約束よりも十分早い、五時二十分だった。彼女を待っているあいだ、蚊に刺されたので虫除けスプレーを使った。その匂いは、夏を強く意識させた。


「お待たせ。遅れちゃってごめんね」

 彼女が現れたのは約束の時間を二十分過ぎたときだった。

「うん。じゃあ行こうか」

 向かう先は、僕らが通っている高校の、すぐ近くの大きな広場だ。そこが花火大会の会場だったのだ。

 毎年家から見ていたが、もっと間近で見てみたかったから楽しみだ。

 会場に着くまでのあいだ、僕と彼女はずっと喋っていた。それほど楽しみにしていたのだ。


「うわぁ。もっと早く来れば良かったね」

 彼女はそう言った。

 会場の広場は、既に人で埋め尽くされていた。広場の近くの道路まで、ぎっしりと詰まっていた。

「これじゃあ、見れないね。学校に行きましょ」

 彼女の切り替えが早くて驚いた。普通ならもっと、「どこで見ようか」とか、そんなことを話しあってから決めるような気がする。元々学校に行くつもりだった? もしそうだとすれば、混んでいるということを予想してわざと遅れてきた? ……いや、あまり疑わないようにしよう。

「そうだね。学校なら眺めがいいかもしれないし、誰もいないと思う」

 僕らは花火大会が始まる前にと、急ぎ足で高校へ向った。



 着いてすぐに校舎内へ入った。

 屋上には、教員や生徒が大勢いた。

「思ったより人が多いね」

 これでは屋上も入れないかもしれない。

「音楽室で見ましょう」

 そう言って【名前を思い出せない女の子】は四階の音楽室へ向った。それは良い考えだ。

「うん。あそこなら静かに見れそうだね」

 僕はそう言って、彼女に続いた。


 音楽室にはもちろん誰もいなかった。彼女はピアノの前に座った。

「花火を見に来たんじゃないの?」

 彼女はピアノの上に両手を置き、こちらを見た。

「ええ。貴方は花火を見ていていいわ。私は、貴方にすべてを思い出してもらうためにここに来たの」

「すべてを、思い出しに……」

 やはり、待ち合わせに遅れて来たのは、ここに来るためだったのだ。

今の彼女は今までとは違って見えた。なんだか、真面目な表情で、けれど微笑んでいて、更に切なげな、一言では言い表せないような表情をしていた。

ドンという音が聞こえ、花火が上がり始めた。

「思い出して」

 彼女はそう言うと、ピアノを弾き始めた。僕はその曲を、知っていた。

「カノン」

 僕はそう呟く。カノンとは、曲の途中から、前と同じ旋律が次々と追いかけるように出てくる曲のことだ。追いかける。この言葉を聞くたびに引っかかっていたものは、これだ。

そしていま、この一瞬で頭の中に――彼女の笑顔が、彼女と出会った日が、一緒に過ごした日々が、蘇っていく。

 今度は彼女を真っ直ぐに見て、彼女の名前を呼んだ。

花音かのん

 彼女は、花音だ。彼女の瞳から、涙が溢れる。ほぼ同時に、僕の瞳からも、涙が溢れた。

「花音。いままで、とても辛かった」

「拳君、思い出してくれて、ありがとう」

「僕はすべて思い出したよ。君の名前も、約束も」

 彼女はそれから切ない表情になった。

「『お互いに苦しい思いをさせたら、それ以上の幸を返す』これが私たちの約束。私は貴方に苦しい思いをさせた。だから……」

 僕は心から笑って答えた。

「君はもう、僕を幸せにしてくれたよ。君はすべてを思い出させてくれた。それで充分だよ」

 彼女は大粒の涙を流した。そして、震えた声で、ありがとう、そう言った。



 花火大会も終わってしまって、いまはその帰り道だった。僕は彼女と会話なく歩いていた。会話がなくても彼女の気持ちが伝わってくるきがした。

別れる時、彼女はなにか言いたげな表情をしていたけれど、結局なにも言わなかった。

 今日を境に、僕は大きく変わったきがした。

 ――本当にありがとう、花音。君のおかげで、僕は今、とても幸せだ。


 すべてを思い出したはずだったけれど、僕は、一番大切なことを思い出していないような、そんな違和感があった。



 花火大会が終わると、夏はもう終わったような気がして、高校三年生の僕は受験勉強をしなければならないという気持ちに駆られた。

 それから夏休み明けに花音に会うと、なんだか浮かない顔をしていた。多分、なにか悩み事があるのだろう。

 そして、一日のほとんどの時間を受験勉強に費やした。そんな毎日を送っているうちに季節は巡り、景色は変わった。夏の足跡を残した九月に入り、もみじが紅葉を迎えたころに、比較的過ごしやすく、少しだけ肌寒い十月を迎えた。そして、時雨が降る初冬を迎えた。

 気がつけばとても寒くなっていて、ちらほらと雪が降ることも多くなった。

 そのころには受験勉強で忙しかったし、寒すぎてなかなか外に出る気になれず、学校に行く以外はほとんど外に出なかった。


僕は受験勉強に追われていて、花音と顔を合わせることも少なくなった。たまに彼女に会って話しかけても、彼女は浮かない顔をしていた。なにを悩んでいるのだろう。



 入試が終わった。今日は卒業式だ。

受験が終わるまでのあいだほとんど花音と顔を合わせなかったから、今日会うのが少し楽しみだった。

 廊下で彼女を見かけたので、声を掛けた。

「花音、久しぶり。元気にしてた?」

 花音は僕を見て、微笑んだ。

「久しぶり、拳君。大学は受かった?」

「うん。花音は?」

 彼女は不思議そうな顔をして、それから浮かない顔をした。

「私は、受験、してないよ。だって……――」

 まだ悩み事でもあったのだろうか。受験をすることができない理由でもあったのだろうか。

「――やっぱり、なんでもない。それよりさ、もう体育館に行かなきゃじゃない? 卒業式始まるよ?」

「……うん。行こうか」

 なにを悩んでいるのだろう。早く解決して、元気になるといいのだが。


 卒業式が終わると周りは大号急だったけれど、僕はあまり感動できなかった。

 校門の前で友達と写真撮影をしている生徒が沢山いた。僕はその脇をこそこそと通って、家に帰った。


 中学最後の日だというのに、花音とは一緒に帰らなかった。今度はいつ会えるだろうか。彼女の連絡先を僕は知らない。



 卒業式から約一ヶ月経った。

 春が訪れて暖かくなり、とても過ごしやすくなった。

今日は始めて大学に通った日だった。とてもいい雰囲気の大学で、安心した。


高校の時の帰り道とは違う、川沿いの道を歩きながら、去年花音とともに過ごした日々を思い出した。苦しくて、だけど最後は幸せと感じられた、あの日々を。

「拳君!」

 道の向こうから名前を呼ばれた。花音だった。彼女は小走りでこちらに近づいてきた。

「拳君! 立派な制服だね。かっこいいよ!」

 花音はとても元気そうだった。悩み事は解決したのだろうか。

「花音、元気にしてた? 何か悩んでたのは、もういいの?」

「んーとね。そのことなんだけどねぇ……」

彼女はそう言うと、僕の手を引いて、帰り道ではない道に入った。

「どうしたの?」

「今日はね、私にとっては大切な日なんだ。だからさ、行きたいところがあるんだけど……一緒についてきてくれる?」

 僕は笑顔で答える。

「うん。いいよ」


 歩き出してから三十分は経ったはずだ。まだ着かないのだろうか。

「花音どこに行くつもりなの?」

 彼女は前を向いたまま口を開く。

「……私がいるところだよ」

 僕はつい笑ってしまった。冗談のつもりかな?

「君がいるところって、君はここにいるけど……」

「まあ、いいからついてきて」

 仕方なく言われた通りついて行く。

 やがて長い階段にさしかかり、ゆっくりと上って行く。

「この上ってお墓があるところだよね?」

 彼女は後ろに組んでいた手を前で組み直した。

「うん。そうだよ」

「誰かのお墓参りをするってこと?」

 少しの沈黙のあと、ある意味ね、と彼女は呟いた。一体どういうことだろう。


 階段を上りきるとたくさんの墓が目の前に現れた。彼女はそのうちのひとつの前で立ち止まった。

「ここだよ。墓石の文字を読んでみて」

 なぜか彼女は切ない表情をしていた。僕は戸惑いながらも墓石を見る。

「……高山家……」

「そう。高山家」

 僕は墓石と彼女を交互に見た。「高山」は彼女の苗字だ。

「ご家族がお亡くなりになったの?」

 彼女は俯いて切なげな笑顔を浮かべた。

「……私が、だよ」

 彼女の口から出た言葉を理解することができない。私が? ……花音が? だって君は――

「君はここにいるじゃないか。……変なことを言わないでよ」

 彼女は僕の瞳を真っ直ぐに見ていた。彼女の瞳から目が離せなかった。

「今日でもう、一周忌だよ」

「やめてくれ! 君はここにいるじゃないか!」

 いやだ。思い出させないでくれ――

「ねぇ、拳君。貴方が事故に遭ったとき、私も一緒に事故に遭ったじゃない。貴方は朦朧とした意識の中、私を起こそうと必死になっていた。貴方が三回目に私の名前を呼んだとき、私は意識を失くした。……死んだんだよ。貴方はそれを思い出したくないだけ。受け入れたくないだけなんだよ。でも、もう一年経つんだよ? ねぇ、お願い。受け入れて。あなたの中だけ時間が止まってるんだよ。……お願い……もう、目を覚まして」

 いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

 僕はその場に座りこむ。涙が溢れる。忘れたい記憶が蘇る。僕の中にある満開の桜が、時の止まっていた空間が、時を取り戻し、花びらが散ってゆく。

「……なら、君は……どうして、ここに?」

 僕は顔を上げ、彼女の瞳を見つめ直す。彼女の後ろには満開の桜の木が立っていた。

「あなたの中にいる、あなたの中の私。貴方の、夢の中の私。貴方は一年間眠ってるんだよ」

 一年前に、死んだ? 一年間、僕の時間は止まっていたのか? 待ってよ、夢の中?

 一瞬彼女が死ぬ間際の美しいくらい切ない微笑みが蘇った。

「僕は……夢を見ているのか? これは、夢の世界なの……?」

「僕は、僕は君がいない世界なんて嫌だ……だからまだ消えないで、もう少しだけ――」

 そう言いかけたとき、彼女の周りを桜の花びらが取り囲んだ。

「さようなら」

 彼女の声だけが聞こえる。

「花音!」

 そこにはもう、花音はいなかった。なんども彼女の名を呼んだ。声が嗄れるまで、なんどもなんども。

 彼女の立っていた場所には、桜の花びらが散っていた。


 次に目を開いたとき、僕は病室にいた。


 散らない桜が散りますように。目が覚めたとき、彼女の声が、彼女の笑顔が、そう言った気がした。



 桜のように綺麗な君がいない世界で、君が花びらのように散ってしまった世界で、僕は生きてゆくよ。長生きする桜の木のように。


 散らない桜が、散りますように。



完 





























「よかったよ」

 僕の小説『散らない桜が散りますように』を読み終えた優斗は小説がプリントされた紙を僕に返した。

「んーでもさ、やっぱり、ヒロインが死んでしまうことで感動をとるっていうのは好みじゃないな。誰も死なずに感動する小説をかきたい」

「たしかにな。今はそういう小説ばっかりだもんな。余命がなんとかとか、不治の病とかな」

「うん。でさ、これを花音本人に読ませていいと思う?」

「いいんじゃないか? 私を殺すなって言われるだろうね」

「たしかに。いくら小説だと言っても、やっぱり花音は殺したくないな」

「なんてったって、オマエのガールフレンドだもんな! でも俺は、散らない桜が散りますようにっていうフレーズ、結構好きだな」

「それはどうも」


 今年の桜は、花音と一緒に見に行こう。

 トラックに轢かれないように気をつけて。

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