オオサカノスタルジー

潯 薫

オオサカノスタルジー

 大学を卒業してから、もう何年も大阪には戻っていない。出身は大阪に違いないのだが、生まれは福岡だし、中・高と神戸の私立に通っていた。大学も京都だった。だから、大阪だけが故郷と言うわけでもないのだが、私のアイデンティティは、関西でも近畿でも、京阪神でもなく、大阪の街にある。


 福岡から大阪へ家族で引っ越してきたのは、父親の転勤がきっかけだった。大阪府八尾市の郊外の一戸建て、かなり古びた借家住まい。幼稚園に入園する前のことだった。


 二人の弟はそこで生まれた。生粋の大阪人。私はそれが羨ましかった。私は両親と同じ福岡の生まれであり、ここでは異邦人だ。両親の影響で博多弁を、近所の友だちとの交流で大阪弁をごちゃまぜに喋る、中途半端な大阪人。


 小学校六年生の時に、大阪市天王寺区のマンションに家族で引っ越した。そこは、やたらと焼肉屋の多い街だった。


 いたるところにハングルが溢れていた。煤けた灰色と茶色い錆と、吹き溜まりに寄せ集められた油っこいゴミと、強烈なアンモニア臭の街だった。


 お世辞にも綺麗な街とは言い難かったが、妙にそれが肌に馴染むのか、私はとても好きだった。



 ※   ※   ※   ※   ※



 東京で就職した会社はエンジニアを客先に常駐させる、SESという業態の小さなソフトウェア会社だった。賞与がまともに出ないのは当然のこと、残業代も支払わない癖に、ごま油をたっぷりと搾り取るように働かせまくるブラック企業だったが、心身共にタフだったお陰か潰れず生きていたし、がむしゃらに働いて、なんとか生活も出来ていた。


 そうやって働き詰めで、気付けば十年以上、大阪には寄り付いてもいなかった。


 その間に弟二人もそれぞれ独立し、両親は父親の定年を期に、故郷である福岡へと帰っていた。大阪のマンションは売り払われ、実家が勝手に大阪から福岡へと変わってしまった。もう、足がかりとなる大阪の拠点は無くなってしまっていた。


 しかし、それなりに仕事で信頼を得て、抱えた部下と共にシステム開発を推し進める立場にやりがいを感じていた私は、大した感慨を覚えることもなく、時は過ぎていった。


 ある日、客先の仕事の都合で大阪へと出張することになった。リリースしたシステムに対して変更要望がある、と呼びつけられての打ち合わせ。プロジェクトの予算は既に無く、要員体制も縮小段階に入っていて、とてもそんな変更要望を受けることは出来ない。エンドユーザーもそれを承知で横車を押したいがためにホームへ呼びつけているのだが、こちらもそれを唯々諾々と受けるわけにはいかない。要望をことごとく断って、「火に油を注ぎながら」沈火させるという、無茶振りの過ぎる使命を遂行するために出向く。実に気の滅入る役割だった。


 前泊が許されたので、移動日当日は大阪の街をぶらぶらと探索してまわれた。大阪を離れて、十三年ほど経っていた。2009年3月のことだった。



 ※   ※   ※   ※   ※



 今をありのまま暮らす大阪の人にとっては当たり前の風景も、十三年も離れていた私にとっては、全てが驚きだった。


 十三年ぶりの大阪は、ノスタルジアとエキゾチシズムに満ちていた。


 歌舞伎座、南海なんば駅、日本橋高島屋、通天閣。懐かしくも特徴的な景色の欠片がジグソーパズルのピースのようにあちこちに散りばめられた、……だけど、全体としてはまるで見覚えのない知らない町。


 それは、決して強くはないけれど、拒絶感すら感じさせるものだった。ここは、もう、あんたの世界とはちゃうんよ、と。


 地下鉄の路線図に今里筋線なんてものが増えているし、中央線に乗ったら、近鉄電車の車輌が走っているし、ミナミには謎な形の建物がわらわらあるし、街並みも店も、何もかもが見知らぬものに置き換わっていた。


 大阪という名のパラレルワールド。


 ビジネスホテルが桜川で、翌日のミーティングが堺筋本町だったこともあり、必然的にミナミで徘徊することになったが、同行したメンバーの強い要望で、まずは新世界の串カツ屋へ。


 なんだかステレオタイプな大阪のイメージだとは思いつつも、素直に従った。私は私で学生時代に友人と何度も利用した新世界のあの串カツ店がまだあるのか、確かめてみたかったのだ。


 行ってみると新世界は、昔ながらの下町情緒を感じさせる店もあるにはあったが、間口の狭い店を押しのけるように、派手で大きな店が軒を連ねていた。そして、至るところにビリケン様がいた。


 街並みが一変しているため見つけられないだけなのか、それとも残念ながらもう無くなってしまったのか、記憶の中の店は見つけられなかった。


 串カツの次は、道頓堀でお好み焼きだ。同行したメンバーのどこまでもステレオタイプな大阪のイメージには驚くばかりだった。しかし、メンバーの中では一番の若輩だった私は渋々黙って従うよりなかった。

 それでも「きちんとプロが焼いたお好み焼き」を久しぶりに食べることができたのはよかった。東京のお好み焼き屋は客に焼かせる。あれだけは、まったくの謎だと常々思っていたからだ。いや、大阪の店だって、バイトが焼くわけだから、せいぜい「セミプロ」なわけだが。でも、客に焼かせるよりはぜんぜん良い。具材だけ渡してあとは客が焼けってのはどうにも……。その手間賃分、返せって気持ちにもなるわけで。


 道頓堀もすっかり変貌していた。いかがわしい風俗店なんかが堂々と店を構えていたように記憶していたが、そこは電飾だらけの観光名所と化していた。加えて、小洒落た遊歩道が堀に添って整備されていたのには驚かされた。


 どこへ行っても、何を見ても、すっかり異邦人と化していた。そして、大阪の地を離れて十三年来、一度も感じたことのない感情が私の中に湧き上がってくるのを感じた。私は大阪の地に戻ってきたことで、ホームシックにかられていた。


 もはや「私の大阪」は……、帰るべきあの原風景はどこにもない。あそこへは、もう二度と帰れない。私は波のように押し寄せる郷愁の思いに打ちのめされた。


 ふと目をあげると、御堂筋線から千日前線への乗り換え通路の途中に、積年の汚れが浮いたタイルがあった。それは中・高六年間の通学で、何度も何度も目にしてきたシミだった。そのタイルのシミが見覚えのある、あの頃のままの姿だったことで、私はようやく、ここが私の大阪に違いはないのだと気がついた。



 ※   ※   ※   ※   ※



 東京駅に到着して初めて、大阪ではまったく不要だったコートの前をかきあわせた。(なんて空気が冷たいんだろう)


 そう思ってみると、大阪は暑かったなぁ。

 いや、熱かったんか。


 そうか。


「あんたの世界とはちゃうんよ」


 あれこそが、めっちゃ心のこもった「おかえり」やってんな。


 らしすぎて。らしすぎて。

 気ぃついたら、泣いとった。



 ※   ※   ※   ※   ※



 あれから、さらに十数年。

 また更に大阪の街は変化していることだろう。


 それでもええ。

 私のアイデンティティは、大阪の街にある。


 ありがとな。どんどん変わりながらでかまへんから、ずっと元気でおってな。

 ほんで、またふらっと帰った時には、「おかえり」って言うたってな。


 ほなな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

オオサカノスタルジー 潯 薫 @JinKunPapa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ