第26話  野獣と美女② ~バトルパート~

 ――『さいきょう』とはなんだろう?


 男子なら誰しも一度は夢想する問いに、幼い頃の彩斗は一つの答えを出した。

 幼稚園の仲間が、たくさん集まっての討論だった。声変わりもまだしていない小さな彩斗は、その中に混じり、うんうん唸りながら、みんなの激論の中で腕を組んでいた。


『やっぱさ、でっけー奴がさいきょうじゃねえの?』


 誰かが言った。


『いや、分身できる奴だと思う』

『確かにー、たくさん増えたら倒せないよな』


 誰かが反論した。


『バカじゃねーの、炎吐けるのがさいきょうだよ。デカい奴も分身もイチコロ』

『おれも炎吐ける奴かなあ』

『及川は? 何かさっきから唸ってるみたいだけど』


 それまで腕を組んでいた彩斗は、呟くように言った。


『……ボクは、動きが素早い奴だと思う』

『なんで?』

 

 一人が尋ねる。


『だってさ、動きが速かったら攻撃が当たらないよ。それに相手が動くより先に攻めたら、それだけで相手を倒せるし』

『なるほどなー』

『え、じゃあどのくらいの速さがさいきょう?』『ピストルよりは速いんじゃないの』『弓矢、とか?』『音がすげえ速いって聞いたことあるよ』


 その頃の彩斗は、『速度』こそ最強の鍵だと考えていた。そしてアルシエル・ゲームに巻き込まれ、数多の人々や魔物を観るうち、強者に共通するものを、薄々とだが理解しかけている。

 闘技に必要なものは、魔法や武装も重要だがそれだけでは足りない。『速度』だ。最高の武装をし、最高のコンディションを整え、最適な地形を選び、最善の行動を行い――その上で、より速く相手より行動できた者が、勝利を掴み取れる。

 それは、何も動きが素早いというだけではない。行動を取るための思考が速く、躊躇いが一切なく、全てにおいて神速である者が、何者をも超える強者となる。


 ゲヘナを撃つ間もない。スララがリコリスを伸ばす間もない。

 もしもそんな存在がいたら、到底叶わないだろうと、彩斗は思っていた。



†   †



「――え?」


 一筋の閃光が、彩斗の右腕に食らいついた。

 声を発したときにはすでに終わっていて、自分の身に何が起こったなど、まるでわからない。

 それほど瞬時に、彩斗は危機に陥っていた。


 まさに閃光。闘技開始の光の銛の残滓が宙に溶ける間もなく、ガルムが疾駆。彩斗の右腕に、牙を食い込ませたのだ。


「うああああ!?」


 喉の奥から思わず悲鳴が出る。ぐん、とガルムが噛み付いたまま疾走した。背後にあった岩に直撃し、恐ろしいほどの衝撃が彩斗を襲う。肺から根こそぎ空気が洩れた。防御も抵抗もする間などない。それどころか、視認することも不可能な攻撃だった。

 瞬速――右腕に噛み付かれたまま岩に叩き付けられた彩斗は、ほとんど張り付けのような形になっていた。


「ヒュウ――」


 噛み付いたままのガルムの口から、風のような音が鳴る。その直後、鋭い牙の合間を縫って、冷気が吐き出された。

 見る間に霜と氷が彩斗の右腕を覆う。パキパキパキと小さな音を響かせながら冷気はわずか数秒で広がり、岩を覆い尽くし、彩斗の右腕ごと完全に固定した。


「な――」


 とっさに、彩斗は右腕を動かそうとしてがびくともしない。あわてて奥歯を噛み、渾身の力を込めてみても、氷に包まれた右腕は一ミリも動くことはなかった。


「弱い者をいたぶる趣味などない。手加減した。右腕はさほど傷を負っていまい」


 噛み付いた腕から離れ、ガルムがささやいた。


「じゃがゲヘナはこれで使えまい。おぬしはこの闘技中、ずっと張り付けの人形のままとなる」

「そ、そんな――」


 顔色を真っ青に染める彩斗を前に、くつくつとガルムは笑う。


「今日に至るまでいくつかの闘技を観てきたがの、闘技中三度使えるゲヘナは、必ず右腕から発射される。腕輪のある、右腕からな」


 ガルムは自身の右前足を軽くとんとんと地面に突き、


「そこに『例外はない』。ゲヘナは、右腕から放たれる。――ということは、右腕そのものを封じてしまえば、もうあの黒い業火は出せんということじゃ」


 長く赤い舌をぺろりとさせて、ガルムは楽しそうに笑む。


「悪く思わんでほしいのう。歳を取ると、正々堂々などいう言葉からは無縁なのじゃよ。相手の弱いところを読み、長所を殺し、こちらは最大の攻撃で、殲滅する。ワシのいくさとはそういうもの。おぬしたちは――」

「共闘者に忠告。不要な会話は闘技において唾棄すべき。速やかに敵対者βを排除し、勝利を獲得せよ」


 マルギットの言葉に、ガルムは苦い顔をする。


「わかっておるわい。まったく、マルギットは必要最低限のことしかしようとせぬ。つまらんのう」

「彩斗っ!」


 とっさに駆け寄ってこようとするスララに、ガルムが目を向ける。


「まあよい。ゲームは長いからの。体力を温存しておくためにも、速く終わらせるとするか」

「――っ!」


 一瞬だった。

 スララが身構える時間もない。瞬き一つする間に、ガルムは疾走と噛み付きを終わらせていた。

 胴体にスララは牙を受ける。ガルムは噛み付いた後に大きく首を振って彼女を飛ばした。受け身など取れず、転がっていくスララ。そこへ――ガルムが旋風のように、再び躍り込む。

 刀剣よりも鋭く、槍よりも鋭利な爪牙が宙に翻る。速すぎるガルムの動きは、スララは捉えることができない。一瞬前にはスララの先にいたガルムの痩躯が、次の瞬間には消え、現れたと思ったら視界の外。来ると気配を察した瞬間には、猛烈な勢いと共に、更なる爪牙がスララに叩きこまれていた。


 一秒のうちに十数を超える攻撃だ。

 しかし――スララはひょこりと立ち上がる。


「す、すごい速さだった~。全然視えない~」

「……ふむ。やはり無傷か」


 リコリスの鎧に覆われたスララは、超速のガルムの爪牙ですら通さない。いくつもの攻撃を受け、盛大に弾き飛ばされても、彼女の体には、小さな傷の一つ出来てはいなかった。


「さすがに鉄壁じゃのう」


 ガルムが関心を乗せて言葉を吐く。


「殺人鬼のナイフならともかく、ワシの爪や牙も効かぬか。やれやれ、この爪と牙で今まで引き裂けなかったものはないのじゃが。まさかこんな可愛いお嬢さんに防がれるとは」

「可愛いだって。ありがとう~」


 のほほんとして笑うスララに、ガルムは長い舌をぺろりと出す。

 どちらも無傷。互いの攻撃は当たらないか通じない。奇しくも夜津木・サイクロプスを踏襲した光景に、一瞬だけ空気が弛緩する。

 しかし――。


「敵対者βの能力を確認。種族はスライム。打撃と斬撃に対する防御の完全性を把握。同時に敵対者βの攻撃速度を掌握。問題なし。フェイズ1の終了。引き続きフェイズ2に移行する」

「やはりワシだけでは倒せぬと判断するか、マルギット」

「肯定」

「では、そろそろ二人で戦う段階ということじゃな」

「肯定」


 マルギットの応答に、思わずスララが身構える。

 リコリスが通常の三倍以上に伸びた。くねくねうねる半透明の鞭は彼女の周囲を守るように円を描き、全方向から来ても、対応できるようにしている。


 一度リコリスに触れれば、たちまち捕縛しようという構えだ。スララのリコリスは彩斗との練習によって、夜津木・サイクロプスと戦ったときより反応が速くなり、あのときより俊敏性で勝る。

 だが、スララの万全の守りを見ても、ガルムとマルギットは顔色一つ変えない。

 それどころか、


「全力で応じる前に、一つ言っておきたい」


 ガルムがスララと、やや離れた位置にいる、彩斗に顔を向けて言う。


「今からワシとマルギットは全力を出す。だがこちらとしては、観衆場の他のペアどもに手の内を見せたくはない。そこでじゃ。提案がある」

「それは、なぁに?」


 代表してスララが聞く。


「――降参しては、もらえんか」

『っ!』


 予想外の問いかけに、彩斗とスララが目を見張る。


「ワシたちはこのアルシエル・ゲームで優勝を果たすじゃろう。今日までの闘技において、全員を観察して確信した。ワシたちは、このゲームにいる、誰よりも強い」


 ガルムはそう断言した。


「繰り返そう、ワシらは誰よりも強い。よってこれから行われる戦いは、時間の無駄でしかなく、普通に続けることは皆にとって無益なものじゃ。ゆえに、まず彩斗、スララ。おぬしたちに問おう。――降参してもらえぬか?」


 彩斗の全身が総毛立つ。スララが一歩下がりながら警戒する。


「……それは、本気なの~?」

「もちろん。酔狂でこのようなことは言わぬよ。若者をむやみやたらにいたぶる趣味はない。温厚なのだよ、ワシは。だから無駄な時間を使うよりは、速く闘技を終わらせる方を、ワシは――」

「ふざけんな、てめえっ!」


 罵声が響いた。

 それは、観衆場からの複数の怒鳴り声だった。



「言うに事欠いて、俺たちより強いだと!? 何様のつもりだ!」

「降参したらあたしたち、石化するでしょ! ぶっ殺すわよこの老いぼれ犬っ!」

「全身の毛を抜いて斬り刻んでやろうか、ああっ!?」

「雑魚どもは黙っておるが良い」


 観衆席の一部が、あまりの言い分に絶句した。


「ワシはもう老齢なのじゃ。このような時間の無駄遣いのゲームをして、余生を減らしたくはない。早く故郷に帰り昼寝がしたい。うららかな陽光の下、清き湖のそばで安眠をするのが、何よりの楽しみなのじゃよ。それを、邪魔してほしくない」

「て、て、て……っ!」


 てめえと言いたいらしい観衆場のペアたちが、魔法を放とうと手をかざす。だが決戦場を隔てる障壁がある上、観衆場のあちこちでガーゴイル達が目を光らせ、動けない。

 ガルムはそんな彼らにも、思いつきを提案する。


「そうじゃ、確かこのゲームで優勝すれば、願いの叶う本が貰えるということじゃったな。ではワシらが優勝した暁には、それで石化したおぬしらを、元に戻すと約束しよう。……じゃからの、改めて、全てのペアたちに提案しよう」


 ガルムは何の臆面もなく言い切った。



「――皆のものよ、降参してくれぬか?」



 今度こそ誰もが無言で硬直する。あまりの提案に。図太いを越えて清々しいほどの提案を前に、ある者は呆れ、ある者は怒り、ある者は失笑するか、黙殺した。

 しかしその沈黙を引き裂くように、声を走らせた者がいる。


「その提案は認めない」


 魔神アルシエルだった。支配者である彼女はバルコニーの上から、ガルムを見下ろすと、


「お前たちはわたしの用意した戦闘の玩具。動く人形。最高の武闘を躍るための駒でしかない。お前たちは最後の一組になるまで戦って、戦って、戦い抜くことしか許されない。ゆえに、その提案は、認めない」

「……まいったのう。余生が減ってしまう」


 困ったように呟くガルムに対して、アルシエルは泰然と言葉を添える。


「優勝者に授与される『想示録』は、不死の願いも叶えることができる。自力で勝ち抜き、不老という褒美を得ればいい」

「おおっ、そんなことも可能なのか! それは朗報じゃの!」


 目を輝かせた後、ガルムはスララと、彩斗に振り返る。


「……そういうことじゃ。人間の少年。スライムの少女。提案は撤回させてもらう。おぬしたちはワシたちに倒されることになるが、これも運命と思って、諦めてくれ」


 話は終わった。そうとばかりに、ガルムの目つきが変わる。

 それは狩りをする者の眼。戯れに興じる老犬ではなく、獲物を引き裂き、蹂躙する残酷な獣としての凶光が、瞳に宿る。

 それと同時に、マルギットが優雅に両腕を振って、軽やかに声を紡ぎだす。


「フェイズ2へ移行。共闘者の精神と、肉体の安定を確認。『操糸術ファムテール』の発動――開始」


 緩やかに振られた腕の先に、きらびやかな光が現れる。

 幻想的かつ神秘的に現れた蛍火めいた光は、幾千もの小さな螺旋を描き、虚空をたゆたい、やがて細く長い筋へと収束していく。


「操糸術ファムテール、装着」


 虚空から現れたのは――糸だ。光の糸だ。眩く光を放つ幾筋もの糸は、ガルムの右前脚、左前脚、次いで右後ろ脚に左後ろ脚と、四肢の全てに巻きついていく。


「……っ!」


 何をするのかと身構えるスララの前で、ガルムは吠える。低く、短く、小さな唸り声から、はっきりとした咆哮へ徐々に大きくなる。


「おおっ、おおおっ、ワシの体に力が満ちてくる。フフッ、これが、この体の感覚こそ、まさしく『全盛期』の感覚よ……っ!」


 嬉々として吠えるガルムの周囲で、旋風が巻き起こる。光量を増した明かりの中、マルギットが作り出した光の糸が、どくり、どくりと、まるでガルムの四肢から全身に渡って、何かを注ぎ込むように、脈動をし始めた。

 やがて一際光が強くなり、徐々に収まったとき。老いの証だった白毛は消え失せ、艶めいた氷色の体毛だけで覆われた、若々しいガルムが現れる。


「あれは――」


 スララが呆然と呟きを発する先、雄々しく気高く吠えたガルムが、幾分高くなった声を出す。


「生命とは、不完全じゃ。いかなる生物いのちも生まれたときには未熟。しかしながら成長することによって技能は伸び、不可能は可能へと塗り変わる。しかし悲しいかな、年月を減るほど肉体は衰え、思考は鈍り、研鑽したはずの技能は摩耗してしまう。生物いのちが最も輝く瞬間はまさに一瞬。全盛期と呼ばれる期間は、あまりに短すぎる」


 それ自体が強靭な刃に勝る牙が、荒々しく光っている。


「しかし、マルギットの世界はその限界を超越した。『操糸術ファムテール』という破格の神秘を操り、生物を、命を最も力強い時期――『全盛期』の状態のまま戦わせることを可能にした。――わかるかの? この生命の輝きが。感じるだろうか、この生命の脈動が。これこそが、何百何千という人間の英傑を退けた、全盛期のワシの姿よ」


 低い唸りが地上を這う。

 ただそれだけで、決戦場の空気がガルムの支配下に置かれる。


「では始めようかの。おぬしたちにとっては最後の戦いを。最強とは如何なるものか、思い知れ。瞬きしてはならぬぞ。一度目を閉じれば、その間に勝負は終わっている」


 言葉が終わるかどうかといった瞬間――。

 ガルムが消えた。

 その直後、スララが空高く巻き上げられる姿があった。


「っ!」


 彩斗が息を呑む間にも、ガルムは跳躍してスララを追う。

 恐ろしいまでの跳躍力だった。脚を踏み込む時間などない、初動と加速に至るまでの間はほぼ皆無。逆さまの流星となって跳んだガルムは、一秒の間に数十を超える爪の斬撃をスララへと放った。


「――きゃ」


 無数の斬撃が奔り、けれど半透明の膜が遮断する。リコリスの鎧に覆われた彼女は、マルギットの加護を受けたガルムの攻撃ですら防いだ。だがガルムはそんなことは想定済みだとして、着地と同時に、あぎとを大きく開けていく。


 そして吐き出されたのは――冷気だ。一瞬で空気を極低温に至らせる氷の息が、スララへと吹きかけられる。

 スララは、リコリスを盾のように変え防ごうとしたらしかった。しかしリコリスの盾に氷の息が達すると、たちまち表面が冷たく氷結していく。

 最初は中央部だけだった氷結が見る間に広がり、全方位へ、端から端にまで完全に盾を氷漬けにする。


「り、リコリスが……っ」


 盾と体を繋ぐ房にまで氷の侵食が伝わりかけ、とっさにスララはリコリスの盾を分離させて下がった。

 その直後――凍った盾を突き破り、砲弾めいた勢いで、ガルムが突進してきた。


「あっ……」


 スララはその動きを捉えることができない。頭突きをもろに受けて大きく仰け反ったスララは、傷こそないが衝撃を殺しきれず、後方の岩にまで飛ばされる。土煙が立った。それをリコリスの鞭で吹き払い、短くなった方のリコリスを伸ばしつつ、彼女は起き上がろうとしたが――ガルムが再び息を吸い込み、凍える息を吐き出した。


「わわっ」


 本能的に回避を選んだスララは、すんでのところで直撃だけは避けた。だが彼女の退避した氷の息の射線上――無数の岩が、一瞬のうちに氷漬けにされていく。


「さ、寒い~」

「くくっ、直撃すれば寒いと感じることもないぞ?」

「それは嫌~」


 思わず寒さで自分を抱き締めるスララの前で、ガルムの姿が掻き消える。


「――! またっ!」


 幻のように消えるガルム。スララの視界から掻き消える。


 だが――いくらガルムが速くとも、リコリスの変幻自在さだけは、スララの大きな優位性。


「そう何度も同じ手は、食わないよっ」


 リコリスの先端が、伸びた。鞭のように、触手のように伸長した半透明の房は、瞬く間に太さをも大きく変じていった。

 二倍、三倍、四倍……元の十倍ほどにもなった極太のリコリスは、まるで棍棒だった。最初の闘技で戦った、サイクロプスの金属棒を思わせる。


 スララがその場で回転をする。真円を描いて巨大な棍棒と化したリコリスが地面を豪然と擦り上げていく。

 土煙が立ち上がる。

 濛々と、壁のように巨大な煙がそびえ立つ。


「ほう?」


 背後より爪撃を行おうとしたガルムが直前で手を止める。刹那、巨大な壁じみた土煙を突き破り、リコリスの槍が襲い掛かった。


「ほほっ、愉快な能力じゃのっ」


 どこか嬉しそうに疾走しながら、ガルムがリコリスの槍を掻い潜る。

 槍は幾度も形を変えた。刺突がかわされれば剣に、斧に、時には鎌になってガルムへ襲いかかる。形状の制約を持たないリコリスは、多種多様な武器に変じ、幻想めいた乱舞を叩き込む。

 けれどそれすら、ガルムには当たらない。

 いや、追いつけないのだ。


 消えたと認識した後にはガルムはスララの背後。少女が振り向く前に吐かれた凍てつく息が、迫るリコリスを凍りつかせる。

 爪の猛撃が奔り氷結したリコリスが粉微塵に砕け散っていく。スララはとっさにリコリスを伸ばし直そうとするが、その前にガルムが凍える息を再び吐く。


「スララっ!」


 思わず叫んだ彩斗の視線の先、少女は頬を凍てつかせながらも横に跳び、疾走。リコリスを盾状に変化させて迎撃に備えそうとする。


 その直後、ガルムが奔る。

 圧倒的な速度が迫る。

 スララは殺気を感じて、思わず飛び退こうとしたが、翻った爪牙はリコリスの盾を迂回し彼女の肩を狙い、脚を叩き、体勢が崩れたところで氷の息吹が彼女を襲う。


「きゃ……っ」


 スララが必死に盾を構築するが、二秒も持たずに凍った盾は牙で破壊される。同じ光景が何度も続いた。その都度彼女は二房のリコリスを交互に伸ばし、盾の再構築に勤しむが、ガルムの牙と爪が悪夢のごとく襲い掛かる。


 破壊と再構築の速度が、吊り合わない。

 徐々に、彩斗の目にも明らかに、スララが追い詰められていく。

 スララとガルムの周囲が冷気で覆われる。凍てついた風が吹き荒れ地面には霜が走り、大気は青白く染まって雪結晶が無数に咲き乱れる。


「戦況に不利な要素なし。フェイズ2を終了。引き続きフェイズ3へ移行。ガルム、再強化」


 そして、死の宣告めいたマルギットの声が、戦場にこだまする。


 ガルムの四肢に巻き付いている糸が、燐光を放ち始めた。それは最初の時より激しく光り、雷光のごとき明度を帯び、ガルムを、瞬速の魔獣を、更なる次元へと押し上げる。

 爆発的な旋風が、辺りに轟いた。

 陣風を超え閃光めいた体当たりがスララの胴体へ命中する。

 傷こそ、リコリスの鎧で一つも負っていない。けれど大きく弾き飛ばされ、ほとんど戦場の反対側へと落ちていくスララ。

 ガルムが追いかける。林立する岩の隙間を縫うように走り、霜と冷気を引き連れ、彼は猛進する。


「フフ、冥府への土産に、我がパートナーの秘密を教えてやろうかの」


 薄く笑みを口に張り付けて、ガルムが駆け巡る。


「マルギットの世界では、人は二種類に分かれて生まれるらしい。一つは『騎士』と呼ばれる人間。腕力や脚力、魔力に優れた人種。一つは『人形師』と呼ばれる人間。他者の力を、全盛期へと回帰、あるいは先取りさせる人種。マルギットはその人形師の中でも、最高の存在。人らしい話し方を棄てることによって、操糸術ファムテールの極意を掴んだ超越者なのだよ」


 今のガルムは速いだけではなかった。体に冷気をまとっていた。神速で駆けるガルムの足元は即座に凍り、駆け抜けた箇所は極低温に晒され氷化粧を施される。


「マルギットの世界には残酷な泉がある。対価を差し出せば己の技能を飛躍的に高める悪魔の泉が。マルギットはそれに望んだのじゃ。誰よりも素晴らしい人形師になりたいがために、人らしい恋を捨て、人らしい感情を捨て、人らしい言語能力をも差し出して、彼女は最高の術を得た」


 だから強いと、ガルムは言う。彩斗たちが相手をしているのは人間ではなく、ガルムはもちろん、マルギットも人という枠から外れている。


 ゆえに化け物。


 強者を超えた強者。


 アルシエル・ゲームを、制覇する者。


「マルギット以外の参加者たちは、誰も彼もがまだ常識の範疇におる。人間を捨て、怪物になったマルギットを上回るのは、一人もおらぬ。ワシらは負けぬよ。マルギットが入る限り、いかなる者も立ち塞がることは叶わない」


 超速で駆け抜けるガルムは、速いというより美しいという表現が似合っていた。その四足が通り過ぎた後には冷気が巻き起こる。生じた霜と氷結晶が織りなす光景は、美麗な景色となって、見る者を圧倒する。

 凍結が織りなす極寒の疾走、音すら置き去りにして、ガルムは進み――。


「むっ……?」


 周囲を凍土にしつつ進んだ先で、彼は訝しげに声を出した。


 いない。

 スララがいない。弾き飛ばして戦場の端にまで落下させたはずの少女の姿は、どこにもなく、落下したとおぼしき痕しか目に映らない。


「どこにいったのかの? 隠れてもあのお嬢さんには、ワシを倒す手段などあるまいに――」


 その瞬間。

 背中に怖気を感じ、ガルムは素早くその場を退避した。


「ぬ」


 前と右と死界の左斜め後ろから、何かが猛然と迫ってきた。気配も予兆も、何一つない。それは完全にガルムの死角外から襲ってきた。瞬速で、それらをかわしたガルムだったが、直感で脅威は去っていないと判断する。


 左から。


 右斜め上方から。


 真後ろから、半透明の触手が、矢のように真っ直ぐガルムへと迫り来る。


 それらを立て続けに跳躍してやり過ごし、ガルムは一度周囲を見渡そうとしたが新たな角度から触手が伸びる。

 左右と斜め後ろ左方。それをかわしても右から二つと後方から三つ。全てを寸前で見切って避けたガルムは、確認して低く笑う。


 それはスララではない。

 彼女の姿は依然として、見当たらない。

 襲ってきたのは、水溜りのような粘性の固まりだった。それらは地面に、岩に、周囲のあちこちに貼り付けられ、わずかにうねうねと蠕動し、まるで意思があるかのように、ガルムの四肢を拘束しようと襲ってきたのだ。


「ほう……これはこれは」


 気配を探る。そうしようと思ったが、隙がなかった。触手は愚直にガルムを捕らえるべく殺到し続ける。


「あの娘、まだ奥の手を残していたか。可愛い顔して、なかなかやる」


 なおも様々な角度から迫る触手をかわしつつ、すれ違いざま凍らせながら、ガルムは感心する。


「本体はどこかの? 遠くはないはずじゃが」


 冷気が飛び、触手が空を裂いて飛来する。

 ガルムが呟いた直後――凍てつく息吹を吐いた。


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