第19話  入浴のアルシエル

『天空宮殿トルバラン』は、主に三つの階層に分けられる。


 最も下の位置にあるのが、牢屋のある第一層。

 ペアたちが時間の大半を過ごす牢獄の層。明かりは薄く、自由はなく、ペアたちは鉄と石の匂いのする空間で、次の闘技までひたすら過ごすことになる。


 その上部、コロシアムと観衆場で構成されているのが、第二層。

 広大かつ闘技のためのフィールド。岩と石、砂ばかりの決戦の舞台。いくつもの石像群が観衆場に佇立しており、あまりに精巧な石の人形に、人は不気味さと同時に畏怖を抱く。


 そして、第一層。支配者の層。アルシエルのいる層だ。

 ペアたちが垣間見られるのはコロシアムの上部からせり出しているバルコニー部分だけで、その奥までは見ることができない。アルシエル・ゲームが行われる天空宮殿トルバランにおいて、最も重要かつ、秘密に満ちた層となる。

 石の番人ガーゴイルが生み出されるのもここだ。ペアたちの食事が作られているのもこの層となっており、大宝物庫と呼ばれる、エレアントに存在する魔法具の多くが納められているのも、この層に位置していた。



 その第一層の隅。四泉浴場と呼ばれる部屋の中で、アルシエルは優雅に腰掛けていた。


 服は何も着ていない。

 普段着用している黒いウェディングドレス調の衣装は、部屋の端に無造作に置かれ、下着も同じく脱ぎ捨てられていた。


 広い浴場だった。天空宮殿トルバランには全部で八つの浴場があるが、その中でも四泉浴場は二番目に広大な敷地を誇り、アルシエルが最も気に入る場所の一つとなっている。

 透明なガラス張りの向こうはエレアントの景色が一望できる。山々の稜線、月の明かり、満天の星々の輝きが心ゆくまで鑑賞するできるようになっている。その光景もあって、アルシエルは一日に五回、ここに訪れることもある。


「ふふ……」


 浴槽の縁に腰掛けていたアルシエルは、おもむろに湯の中へと裸身を滑りこませた。

 足から頭頂部まで一気に潜り、数秒の後、美しい顔だけを覗かせる。

 長い橙色の髪の幾筋かが、白い首筋に張り付いていた。前髪からぽたり、ぽたりと、いくつか雫が落ち ていく。


 静かだ。

 耳に届くのは雫の着水音しかない。

 闇と星と月の明かりしか存在しないエレアントの夜景を眺め、思わずアルシエルは長い呼気を吐く。


 ゲームは順調だった。

 誰もが天空宮殿トルバランから逃げることも叶わず、日夜闘技のために死力を尽くし、悩み、考え、闘争の中に身を委ねている。


 ゲームはまだ序盤、余裕を見せているペアもいくつかあるが、じきにその余裕もなくなっていくだろう。負ければ石化のゲームは、人や魔物の精神を削っていく。長く続けば続くほど、それは顕著になる。中にはそれを克服する者も現れるだろうが、それはアルシエルの中ではどうでもいい。目的が果たせれば、それでいい。


「いい夜だ。雲がないのが素晴らしい。昨日はろくな夜景が見られなかった。今夜はよく眠れそうだ」


 ちゃぷり、と両手で湯をすくって弄ぶ。手で持っていた茜色のペンダントを、何度かかざして落下させた。やがてそれに飽きたアルシエルは、一糸まとわぬ姿のまま、立ち上がった。

 橙色の長髪を振り乱す。

 軽く上半身を仰け反らせる。

 前髪から落下した一つの雫が、鎖骨の辺りに滴り落ちる。それは豊かな双丘の間を経由し、ゆるいカーブを描いて、細いくびれを横切ると、深い茂みの中に吸い込まれていった。


 吐息を一つ。

 耳元の髪をゆったりと掻き上げ、首を軽く動かす。アルシエルは満天の星空と月明かりの地上を、より近くで見るべく、ガラス張りの壁の方まで歩いて行った。


 衣装こそまとっていないが、そうして歩く時も茜色のペンダントだけは手で握っている。

 『ダジウスの輝石』と呼ばれるそのペンダントは、アルシエルが魔神たる所以の魔法具であり、これを手離すことはない。この茜色のペンダントはいつでもアルシエルのそばにある、なければならない至高の魔法具だった。


「美麗な五角形の星座だ。あれは何という由来だったか」


 月明かりが差し込むだけの浴場の中、アルシエルの珠肌はよく映える。女性として必要な曲線の連なりと共に、乳色のきめ細やかな肌は余人が羨むほどのものだ。燃えるような橙色の長い髪、艶めく唇と相まって、妖艶な色香を放たずにはいられない。


 幼少の頃はよく声をかけられた。少女の頃はよく告白された。そして成年を迎えた後は、絶世の美女と呼ばれることも珍しくはない。


 普通なら幸福のはずだ。

 けれどもアルシエルの中には、幸福という言葉はない。アルシエルには果たすべき目的があり、そのために時間を費やしたのであり、それを達成したときこそ、初めて己を幸福と言うことができる。


 ちゃぷり、ちゃぷりと水音が鳴る。

 ペンダント『ダジウスの輝石』の紐を振り回し、何度か湯面に波紋を広げたアルシエルは、ガラス張りの壁に軽く手を添えた。


 薄っすらとだが、そこには魔法陣が描かれている。それを細い目で眺める。

 この世界、エレアントでは強力な魔法を使うとき、魔法陣と呼ばれる法陣を使う。血液を使って編まれたその法陣は、魔力を込めることで発動させることができ、様々な効力を及ぼすことができた。

 アルシエルの目の前のガラスは魔法陣で強化されている。同じような強化の魔法陣は天空宮殿トルバランのそこかしこに描かれており、石の番人ガーゴイルにも同様の魔法陣は描かれ、だからこそ番人として強力な力を保持することができていた。


 魔法。

 奇跡や欲望を現実に呼び起こす大きな力。

 そしてそれを極めた、至高の存在を、エレアントでは『魔神』と呼んでいる。


「もう少し、今日はこの浴場にいるか。自然にできた夜景こそ、この世で最も美しい」


 魔神アルシエルは、妖艶な笑みを口の端に作った。

 手を一閃させ、衝撃波を作り出す。舞い上がる湯の欠片と、いくつも生まれる空気の揺らぎ。


 けれどもそれは、気まぐれな動作だった。アルシエルは不意に、乳色の背中を湯に投げ出し、裸身を水面に浮かばせる。

 緩やかな弧を描いて、無数の飛沫が立ち上った。均整美を保った二つの丘陵が、大胆に揺れていく。


「アルシエル様。よろしいでしょうか」


 そのとき、浴場の入り口から声が聞こえた。

 アルシエルの入浴の邪魔を許されている者は、天空宮殿において一人しかいない。

 魔神が目を向けた先にいるのは、身の回りの世話を任されている、メイドの少女だ。



「シャノンか。入ってこい」


 裸身をゆったりと湯に浸からせて、アルシエルはメイドの少女を呼んだ。

 綺麗な顔立ちの少女だった。はちみつ色の髪は緩くウェーブが掛かり、肩よりやや長く伸びている。体は細く、肌は白磁を思わせる色素で、黒を基調とした衣装に良く映えていた。


 種族はエルフ。尖った耳のそばには貝殻の髪飾りがあり、揺れるときらびやかな光を発していた。

 折り目正しい礼をした後、シャノンはアルシエルのそばまで歩いてくる。


「今日、ペアの中で起こった騒動を報告いたします」

「ああ。聞こう」

「本日は四つの暴動と一つの事件がありました。暴動はガーゴイルたちが鎮圧。ペアには制裁を加え、骨を砕いたのち再生いたしました」

「四つか。昨日よりは少ないな」

「はい。ですが事件の方はそれなりに残虐です。ペアのワストーとグルゲン、及びそれぞれのパートナー、ベヌウとカトブレパスが、他ペアに氷漬けにされました」


 アルシエルは首を傾げた。


「ワストー? グルゲン? 誰だそいつらは」

「武器の強奪派の二人です。事件は闘技の時に起こりました。彼らには全身に斬り裂かれた痕と噛み付かれた痕があり、犯人は、武器の強奪に反感を抱いていた者か、何らかの恨みを持っていた者と思われます。……氷漬けにした犯人を、特定し、処罰いたしますか?」

「放っておけ」


 アルシエルは湯船の中で薄く笑った。


「そのようなペアこそアルシエル・ゲームにはふさわしい。精々実力を発揮し、他のペアに恐怖を植え付けさせることだ。フフ……」


 湯を指先で軽く弾き、アルシエルは飛沫を飛ばした。弾かれた湯の弾は、浴場の隅にあった観賞用のガラス細工を砕き、甲高い音を奏でた。


「他に報告はあるのか? なければ私はゆっくりと湯に浸かりたいのだが」

「いえ、ありますが……その」


 珍しいことに、シャノンは口ごもったまま、アルシエルの顔色をうかがった。魔神は緩やかな動作で、メイドの少女を見る。


「どうした。何か問題でもあったのか」

「それが……」


 一瞬だけ、ためらうような間を空けて、


「アルシエル様を殺すために、決闘を申し込みたいと言うペアが現れまして……」


 一瞬だけ、アルシエルは怪訝な表情をした。


「決闘? 私とか? ……フフ。面白いではないか。すぐに連れて来い。相手をしよう」

「……ですが、そのペアは人間も魔物も醜い輩です。アルシエル様と対面させるのは失礼かと」


 そのとき、急にアルシエルの声が冷えた。


「聞こえなかったのか? すぐに連れて来いと私は言った」

「……申し訳ありません。ご命令に従います」


 冷酷な瞳を受け、シャノンはすぐに命令のために動いた。アルシエルからガーゴイルを操るための魔法陣を手の甲に付与してもらい、浴場を出て行く。





 しばらくして、シャノンとガーゴイルに引き連れられやって来たのは、小太りの男と豚のような面の魔物だった。


 どちらもシャノンの言うとおりの外見だ。小太り男の方は短足胴長で、手入れのされていない髭をみっともなく伸ばしている。腕は毛むくじゃら、服装も前がはだけて胸の剛毛が見えており、全体的に不清潔といった印象を与える。

 オークも似たようなもの。潰れた豚のような顔面は醜悪さといった言葉が適切で、体躯も猫背、腕は太く、脚は短く、虫歯だらけの歯から、ふかーふかーと吐息が漏れていた。


「お前たちか。私を殺したいというのは」


 裸身のまま、湯から立ち上がりアルシエルは言う。

 男とオークは、あまりに魅惑的な彼女の肢体に、はじめ呆然としていたが、やがてニタニタと笑いだした。豊かな双丘、妖艶な曲線美。彼らは互いに目を合わせ、極上の料理でも目にしたかのように瞳をぎらつかせる。

 アルシエルはそんな視線など無視して、


「お前たちに名乗る機会を与えよう。まずは人間の男。名は何という」

「……おれは、ボイルという傭兵でさあ。アルシエル様」

「オーク。おで、オーク。ふひふひ」


 下卑た笑みを浮かべるボイルと、片言で呟くオークに、そばにいたシャノンが顔をしかめた。

 けれどアルシエルは、体から雫を滴らせたまま、薄っすらと笑みを浮かべるのみ。


「私に決闘を挑むとは、度胸があって良い事だ。どれ、相手をしてやろう。ガーゴイル、シャノン。下がれ」

「え、いえ、しかし……よろしいのですか?」

「もう一度だけ言う。下がれ」


 シャノンとガーゴイルは、互いに不安そうな顔を浮かべると、やがて距離を取った。

 さすがにボイルとオークは面食らう。まさか本当に受けて貰えるとは思っていなかったらしい。


「……いいんですかい? おれたちは、それなりに準備をしてきたんですがね」

「ふひふひ。オーク、万全。アルシエルは、殺す」

「やってみるがいい」


 悠然と、両手を広げてアルシエルは宣言する。


「私は魔神アルシエル。お前たちに容易く滅ぼされるほど弱者ではない。むしろお前たちに問おう。入念に準備をしてきたのだろうな。本当に私を殺せる確信を得て来たのだろうな。もしも私を打ち損じたとき、どのような罰が待っているか、想像できなかったわけがあるまい?」


 優雅に手を広げ、朗々と豊かな声量でアルシエルは言う。

 そこには油断も慢心も存在しない。挑まれれば相対する、殺す覚悟がある者ならば喜んで応じてみせるという、魔神としての気概、支配者としての剛毅、そして己の力に対する絶対的な自信が、彼女の瞳に込められている。


「……やばい、油断してくれると思ったのに、隙が……隙がねえっ」

「ボイル。計画と違う。お前、アルシエルは必ず油断すると言った。間違いだったか」

「うるせえ、おれは、おれは……っ」

「さあどうした?」


 美麗な顔に粘りつく笑みをたたえ、アルシエルは甘美にささやく。


「私は見ての通り、丸腰だ。いかなる剣も盾も持たない。シャノンとガーゴイルは見物させている。殺せる機会は今しかない。なのに殺さないのか? 挑まないのか? それほどお前たちは浅はかな決意で、ここまでやってきたというのか?」


 細く美しい指をボイルとオークの首筋に添え、妖艶にアルシエルは笑ってみせる。


 ボイルたちは、震えた。確かな自信の元にやってきたときの気持ちは、すでにない。

 その時点で彼らは悟ってしまった。ほんのわずかにでも油断してくれれば、他のペアから奪った武器で何とか出来る。アルシエルを討滅できると信じていた確信は、アルシエルの妖しい微笑を前に砕けて四散する。


「では始めようか。一度決闘を申し込まれれば、私は拒まない。そして撤回もさせない」


 添えた指が離れていく。

 赤い三日月のように、アルシエルの口元が歪んでいく。

 愉悦を奥底に溜め込んだ魔神の瞳。そこから、ぞっとするほどの殺気が放たれ――。


「くそっ、オーク! やれ、アルシエルを殺すぞ、動けっ!」


 萎えそうな心を必死に叱咤し、ボイルは魔神へと突貫する。

 悪くはない斬撃だった。懐からボイルが取り出した大斧は材質、太刀筋、込められた魔法の力も一流で、見た目と反して敏速と言って差し支えない一撃。

 隣で動くオークも、疾風迅雷、目の覚めるような剛撃を叩き込んだ。残像が幻のように走り抜ける。一瞬で距離が詰められ、分厚い棍棒が叩き降ろされる。


 思わずシャノンが口で手を覆った。ガーゴイルがぴくりと動きかけた。それほどボイルとオークのペアは『意外なほど』速い動きを見せたのであり、大抵の相手ならそれで終わっていた。

 醜い外見と粗野な物言い。彼らの戦術は戦う前に相手に不快感や油断、負の感情を呼び覚ますために作ったもの。 相手に万全の体勢を作らせず、嫌悪を抱いたときにできたわずかな隙を狙って、見た目とは裏腹に強烈な一撃をお見舞いする。

 それこそが彼らの使う『必勝』の戦術だった。


 しかし――。


「驚いた。速いし、重いな。お前たちの攻撃は」


 先ほどまでと、全く変わらない外見のまま、アルシエルは感心した。


「な……馬鹿な……っ!」


 指一本。

 というよりは、爪だけでアルシエルは剛撃を受け止めていた。ボイルの強烈な大斧の一撃も、オークの疾風のような打撃も、どちらもわずか一センチに満たないアルシエルの美麗な爪に阻まれ、そこから毛ほども動かせない。


 アルシエルにはさしたる力を込めた様子もない。まるで虫けらが目の前に通っていたから軽く腕を振ってみたかのように、ごく軽い動作で、小指を突き立てたまま、涼しい顔でアルシエルは受け止めている。


「見た目と実力がずいぶん違う。なるほど、良い武器を使っている。それを使いこなす実力も持っている。強い戦士だよ、お前たちは」

「嘘だ……馬鹿な、こんな!?」


 驚愕にボイルの顔が歪む。

 ぐっと、アルシエルは小指に力を込め、弾いた。

 それだけでボイルが吹き飛ぶ。オークが回転しながら宙を舞う。衝撃に風が起こりシャノンのスカートがわずかにめくり上がった。湯船が盛大に荒れ、いくつもの波が発生する。


 壁際まで飛ばされ、呻くボイルたちに、アルシエルが小さく微笑む。


「残念だったな。しかし、これで牢屋に戻ってもらうのも、悪いだろう」


 そしてアルシエルは言った。自分の配下へと。


「ガーゴイル」

「ハい」

「二人を私の前まで運んでこい。乱暴には扱うな。なるべく優しく連れて来い」


 ガーゴイルは一瞬、石の表情を怪訝にして、ボイルとオークに向かっていった。そして順彼らを担ぎあげると、アルシエルのそばにそっと降ろす。


「お前たちに、私へ決闘を申し込んだ褒美をやろう」


 恐ろしいほど柔らかい声音で、アルシエルは言う。


「褒……美?」


 呻きながらも、ボイルやオークは訳がわからない。てっきり制裁されると思っていたのにその対応、思考は完全に混乱して、互いに顔を見合わせるしかできない。


「なぜ……意味がわからない……」

「お前たちはこの私に決闘を申し込んだ。敗れはしたが、その熱意は敬意に値する。ゆえに、褒美をとらせよう。そうだな……褒美の内容は、」


 アルシエルは、ずっと傍らで見ていたメイドの少女へと、視線を巡らせる。


「シャノン。今から服を脱げ」

「……え?」

「もう一度だけ言う。衣服を脱いで、私の隣に立て」

「アルシエル様……?」


 シャノンは戸惑いの声を出したが、アルシエルの視線に押されて、仕方なく指示に従った。十数秒かけて、彼女は言われた通りの姿になる。


「ガーゴイル、蓋のある大きな箱を二つ運んでこい」

「ハい」


 意味がわからないのはアルシエル意外の全員が共通だ。ガーゴイルが出て行った間、シャノンは腕で前を隠して何度も目を瞬かせ、ボイルやオークは混乱の極致の顔、彼らは呆然と、アルシエルの指示に困惑していた。

 やがて両肩に金属の箱を抱えながら、ガーゴイルが戻ってきた。


「仰せの通りの物を持ってきましタ。コレでよろしいでしょうカ」


 とても大きな箱だった。蓋を含めて全体が鋼でできており、剣や槍でも簡単には壊せないほど硬質な箱だ。


「良い。シャノンの隣に置け」


 アルシエルは持ってこさせた二つの箱のうち、片方をシャノンの前へ、そしてもう片方を、ガーゴイルの前に置いてみせた。そして、


「シャノン。ガーゴイル。箱の中に入れ」


 ごく自然な声音で口にする。シャノンとガーゴイルは訝しげな顔をする。しかしそれでも主の命令には逆らえない。それぞれが大きな箱へ入り込むと、アルシエルはゆっくりとその蓋を閉めていった。


「いったい、何をする気で……?」


 戸惑い顔のままボイルが呟く。


「簡単なことだ。今から私は、この二つの箱をシャッフルする。その後、好きな方をお前たちに選ばせよう。その箱に入っていた方――それを、お前たちへの褒美とする」

「え……っ!?」


 驚愕でボイルたちは満たされる。箱の中からガタゴト、と動きがあったが、やがて諦めたように静かになった。


「な、なんだそりゃあ……!? 褒美って、どういうことですかい!?」

「褒美は褒美だ。お前たちに授けると言っている。シャノンとガーゴイルのうち、当たった方を、お前たちに授与するということだ。後はお前たちの自由。触れるなり、犯すなり、好きなようにすればいい」

「む、無茶苦茶だ、あんたっ!」

「褒美は豪勢に。そして誠実に。それが私の信条だ。ではいくぞ」


 アルシエルが軽やかに腕を振ると、箱が凄まじい速度で回される。まるで大きなお手玉のように回された金属箱は、とてもではないが視認することなどできなかった。先のボイルたちの突進を超え、音速を超え、ほとんどでたらめと言っていい勢いで箱は回されていった。

 そして、嬉々とした表情で、アルシエルはどさりと金属箱を置いた。


「さあ! どのような結果になるか、私も楽しみだ! ……あ」


 ふと真顔になると、彼女は箱に向かって語りかけた。


「すまない、シャノン。少し派手に回しすぎた。大丈夫か?」


 どちらの箱からも応えはなかった。どうやらあまりに激しい勢いに、ガーゴイル共々気絶してしまったらしい。


「まあいい。ボイル、オーク。選べ」


 びくりと二人が身をすくませた。


「え、選べと言われても……そんなこと……」

「私の褒美が受け取れないというのか?」

「いや……しかし、アルシエル様……」


 ボイルもオークもあまりの事態についてこられない。本当に褒美なのか、気まぐれの冗談なのか、それを判断することも彼らには叶わない。


 蠱惑的なまでの微笑をたたえ、アルシエルが言う。


「おっと。言い忘れていたが、ガーゴイルは凶暴だ。もしも選んだ箱にガーゴイルが入っていた場合、お前たちは暴れられて死ぬだろう。この石の人形は、私が支配しなければただの殺戮人形。お前たちは助かりたければ、シャノンの箱を選ぶしかない」


 サアっと、ボイルたちから血の気が引いた。


「そ、そんなっ……」

「褒美の受け取りを拒否すれば殺す。このまま選ばなくても殺す。さあ、選べ。今すぐ選べ。そして私の褒美に感激するがいい」


 体を震わせ二人は怖気づく。

 どちらも手を伸ばしたりはしない。二人の体には鳥肌が立っていた。息遣いが乱れている。途方に暮れるボイルとオークに対してアルシエルは、



「10数えるまでに決めなければお前たちを殺す。早く選べ」

「そんな……っ!、ま、待ってくだせえ!」

「――10」


 数え始めたアルシエルにボイルたちは顔を真っ青にする。

 どちらか選ぶべく箱の前に立つが物音一つ聞こえない。石の人形であるガーゴイルが動けば音が聞こえるのだろうが、全く中から音は聞こえてこなかった。


「お、オーク。お前、どちらか選べ。あのシャノンとかいう女を引き当てろ」

「無茶だ、ボイル。おで、わからない。この箱、中の気配すら感じられない、特殊な箱」

「9」


 アルシエルは冷酷に数を減らしていく。焦るボイルとオークから汗が滝のように流れる。まくし立てるようにボイルは、


「とにかくどちらか選べ。早くしろ。おれは、おれは、こんなところで死ぬわけにはいかないんだ。シャノンを当てろ、早く!」

「8」


 オークは動けない。血走った目をきょろきょろさせ、この場の打開策となるものを探し、どうにか切り抜けられるかと見回すが、どうにもならない。


 ボイルが焦れる。青い顔のままオークの体を揺すり、急かし、どうにか責任を押し付けようとするが、豚面の魔物は現実逃避のように顔を巡らせるばかりで何も応じない。


「7」


 ボイルの拳がオークの顔に突き刺さった。硬い床に豚面の魔物が倒れる。けれどオークは、伏して怯えた表情をするだけだ。

 だらだらと、ボイルの顔から、手から、あちこちから凄まじい勢いで汗が噴き出していく。


「オークっ」


 パートナーである魔物は応えない。


「オーク、選べ。早くしろ。怖くておれは箱に手がつけられない。こんなの無理だ、オークっ」

「6」


 段々と数字が減っていく。その数字の値、それ自体がボイルとオークの残り寿命だ。ボイルは床に倒れたオークに被さり、肩を激しく揺らすが彼は引きつった顔のまま呼吸するのみ。


「ちくしょう!」


 ボイルがオークを投げ出して叫んだ。


「あ、アルシエル様、すいません、ご容赦くだせえ。あなたは、怒ってるんですよね? だからこんなことするんですよね? おれたちは本気でアルシエル様を殺すつもりではなかったんです。ほんの出来心ですって。あ、あなたがもし怒っているなら謝りやす。すいませんでした! だから、だから、この物騒なお遊びを、やめにしてくれませんか」

「5」

「だ、だから出来心なんですって。それに、こんな美しいアルシエル様を遠くで眺めるだけなんて、すごくもったいないでしょ? おれは近くで見たかったんです。ほんとですよ。いや、オークは最初反対したんですけどね。アルシエル様は怒ると激しい火炎出すし、だから遠くでもいいって言ってたんですが、おれは、アルシエル様は素晴らしい絶世の美女なんだから、すぐ近くに寄りたい、お近づきになりたいって思ったんです。はは、それは男として当然の性さがだ。そうでしょ?」

「4」


 アルシエルは応えない。彼女がすることはボイルとオークの様子をただ見つめ、冷淡に、ただ一定の間隔で、数字を口にするのみだ。

 箱は動かない。中の気配はわからない。ボイルは自分の歯が鳴っているのに気付いた。




「あはは……まいったな。聞いてくれねえや、どうしよう。えーと、オーク。さっきは殴って悪かった。今から二人でどちらがシャノンなのか考えようぜ。なーに、おれたちが本気出せばそのくらいわかるはず。な、オーク。返事をしてくれよ、オーク。あはは……まったくもう、このアホ、すでに気絶してるじゃんよ」


 オークは倒れたまま白目を剥いている。

 いよいよ手段がなくなってきたボイルは必死に考える。そして思い返す。アルシエルは箱を高速で回していた。それらは全く見えなかった。しかしどちらかがシャノンが入った箱なのだ。確率は二分の一。決して低い可能性ではない。二つに一つはシャノンの可能性になる。中は裸の美少女だ。すごくそそる格好の少女が、どちらかに入っている。もし当てれば最高ではないか、天国ではないか。ボイルは天国がどちらなのか必死に考える。


「3」


 ボイルは思い出す。高速で動いた箱の初期位置とアルシエルの動かした光景を克明に思い出す。あのときアルシエルはシャノンの入った箱を左から最後には右に置いた。そうだ、初期位置とは違う位置においたのだ。それで合ってるはず。合っていれば一糸まとわぬ少女との対面になる。褒美だとアルシエルは言っていた。つまり普段からボイルが考えていることや、妄想していること、それらが好き放題にできるということだ。右を選べばその望みが叶う。こんないいことはない。だから、だから……


 ――いや待てよ? 本当に、シャノンは右だったのだろうか。


「2」

「あ、えっと、待ってくだせえアルシエル様。今考えてます。シャノンちゃんはどっちだったか思い出します。えーと、どっちだったかな、右の……はず。ですよね? ……はは、ちっとも返事してくれねえや。鉄仮面もここまでいくとすげえすげえ。でも、あの、さっきのガーゴイルの話は、嘘ですよね? だってそんなに凶暴な石の人形が、おれらを殺すなら、ペアの数が減っちまいますよ。アルシエル・ゲームって、ペアの戦いが醍醐味なんですよね。アルシエル様はそれが見たくてやってるんですよね? だから、見逃してくれたら、おれたち結構頑張ります。アルシエル様の期待に添えるように頑張っちゃいます。見たでしょ、さっきの攻撃。あれ、他の連中には見切れませんぜ。連戦連勝しちゃいますよ。はは……ははは……」

「1」

「アルシエル様ぁあぁあああ――っ! どうか、やめてくだせえぇええええ! そうだ、召使いになります! 何でもします! 数字止めてくれたらおれとオーク、アルシエルの新しい手下になります! こう見えて故郷じゃおれは炊事得意なんですよ! どんな料理もすぐに作れます、最高の料理をアルシエル様に作って、あなたのために豪勢な料理並べちゃいます! だから、だから……うわああああっ! 数字を減らすのやめてくれ、やめてくれよおおォおおぉお――――――――――っ!」

「――ゼロ」


 絶叫もむなしく、冷酷にアルシエルは数字を減らし終えた。

 魔神の片手が伸びる。その先端の爪が死神の鎌のように伸びる。


 ボイルが、


 オークが、


 あまりに大きいアルシエルの紅蓮の爪の影に覆われて、次の瞬間――。



†   †



 湯船にアルシエルはゆったりと浸かっている。

 湯は壁際の猛獣像から止めどなく流れており、芳醇な香りが辺りに満ちている。窓の外は絶景。エレアントの夜景。山々の稜線と海と森林地帯の見事な調和に、満足そうな笑みを浮かべ、アルシエルは湯船に浮かんでいる。


「……終わったのでしょうか」


 シャノンは裸身のまま箱から出て、やや低い声で呟いた。

 激しく回された影響が残っている。シャノンはふらつきながらも、脱いだ衣装を拾い上げ、次々と着込んでいく。

 メイドの少女の着替えを鑑賞しつつ、アルシエルは、


「フフ、思ったよりも楽しめたな。こうまで人間とは醜くなれるものなのか。魔物も同じだ。これは病みつきになる」

「アルシエル様はこの世で最強の魔神。あなた様に仕えるのは光栄です。けれど、どうか、お戯れもほどほどに。わたくしの身が持ちません」

「そうだな。では次は趣向を変えてみよう。お前がいなくなれば、私も困る」


 薄く妖艶な笑みを貼り付けて、アルシエルはくつくつと笑う。その様子は楽しげで、ともすれば童女のように無邪気なもの。けれどその内には、殺人鬼も真っ青な嗜虐性が潜んでいる。


 シャノンは視線を床に移した。

 浴場の前には、気絶したボイルがいる。傍らには同じくオーク。どちらもが四肢をぐったりさせ、口から泡を吹き、白目を剥き出しにしている。そばには、『わざと』外したアルシエルの爪の痕。


「……アルシエル様、ボイルとオークは、殺さないのですか?」

「ああ、それだと不誠実だろう? 私はこの二人に褒美を寄越すと言った。それなのに殺してどうする。そんなことは愚か者のすることだ。私は優しい魔神。残酷ではない。勇壮な戦士たちには、報酬をもって応えるのが誠意というものだ」


 シャノンは黙って主の言葉を聞いていた。そうだ、確かにアルシエルは優しい。特に『今日の』アルシエルは格別に優しい。昨日など十五体のガーゴイルを、理由もないのに破壊した。アルシエルは日によって性格が変わるのだ。


 だから今日のアルシエルは優しく言う。うっとりとした笑みで、甘い響きをまとわせながら、彼女は問う。


「なあ、シャノン。私に決闘を挑むというペアは、ボイルとオークだけだったのか?」

「いえ、もう五組ございます。いずれもアルシエルを殺すと宣言しています」

「フフフ、それは楽しみだ。すぐに連れて来い。相手をしよう」


 そうして、アルシエルは新たな決闘者を呼び寄せる。魔神を殺すと意気込む強者を何度も招待する。


 その度にアルシエルは爪で、あるいは拳で、あるいは蹴りの一撃で挑戦者たちを屈服させていった。


 そしてその後、どのペアに対しても、同じ言葉を向けるのだ。


「お前たちに褒美を取らせる。この二つの箱のどちらかに、シャノンがいる。もう片方に、ガーゴイルが入っている。さあ、選べ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る