02. 獣道に一歩を踏み出す

 神聖帝国は第一大陸の三分の二の領土を誇り、第二大陸の過半を植民国とする大国である。


 聖国せいこく乱立らんりつの時代を終わらせた神聖大帝たいていに端を発し、以後千年にわたって彼に由来する皇朝が続いている。


 その裏には常に聖教会せいきょうかいと呼ばれる組織が見え隠れしていた。聖教会は失われた古代の技術を門外不出として握り込み、国家に対する優位性を確保していた。


 聖教会の保持する力の最たるものがヒルドヴィズルと呼ばれる兵器だった。門外不出故に何者なのか定かではない。死して神に召し上げられた兵士であるとか、人体を切り刻んで怪しげな物質を取り込ませたものであるとか、実は人間に似た魔物なのだとか、憶測だけが乱れ飛んでいる。

 彼らは外観上ヒトと異なるところはない。しかし能力はヒトを逸脱している。拳で地を割る膂力りょりょくのみならず、条理を無視して奇跡を起こす不思議な技も使う。致命傷は致命傷たりえず、傷の治りも早い。歳を取ることもなく、殺されない限り永遠に生き続ける。

 ヒルドヴィズルは神聖帝国の危機に際して姿を見せ、その都度つど敵を蹂躙じゅうりんした。

 今回もまた、彼らは神聖帝国の敵を打ち砕いた。


 レムレス平野とデセルティコ砂漠を隔てる中央連峰ちゅうおうれんぽうの、知る人も少ない獣道を、少女が一人歩いていた。優美な剣は彼女の歩行を補助する杖となり果て、鞘に施された繊細な意匠いしょうは土に埋め固められていた。


 一つにまとめられていた濡羽ぬればの髪は今や乱れきっている。高価な軍服は随所が破れ、血と汗と土とで汚れていた。首から下げた宝玉が、少女の歩みに合わせて揺れる。疲れ切った外見の中で、湿り気を帯びた漆黒の目は爛々らんらんとした怒りに燃えていた。

 彼女が反乱軍の旗頭、正当なる玉座の主、イオストラ・ミュトラウス・レイカディアである。


 座るのに良さそうな木の根を見つけると、イオストラは倒れ込むようにして腰を下ろし、深い息を吐いた。

 息を整えるうち、疲れに押し込められていた怒りがふつふつと湧き上がる。


「まさか、ヒルドヴィズルが出てくるなんて……」


 イオストラは忌々しい気持ちを言葉にして吐き出した。


「まさか、ということはないだろう。」


 首から下げた緑色の宝玉が眩い光を放つ。イオストラの目の前に、男が一人現れた。イオストラは忌々しげにその男の名を呟く。


「エルム……」


 不気味なほど美しい男だった。受ける光に合わせてくるくると色を変える目が、座り込んだイオストラを面白そうに見つめている。


「まさか、だ。連中が国内のもめごとに干渉した例は、これまでなかった。国外からの侵略には容赦ないが、クーデターにも革命にも無干渉だったではないか。」


「勝った暁には聖教会を解体するつもりなのだろう? なら連中にとってお前は敵だ。せんだってもヒルドヴィズルに襲われただろうに。」


「ああ。だが、むしろあれで納得していたんだ。」


 聖教会が国内の争いに介入した例はない。だがそれでも、クーデターや革命は一つたりとも成功しなかった。神聖帝国建国以来、千年以上に亘って一つの皇朝が続いている。聖教会が裏で動いていたのではないかと、イオストラは疑っていた。ヒルドヴィズルから襲撃を受けたことで疑念は確信に変わった。


「いかに敵と認識しても、聖教会が表立って排除に動くことはない。連中は卑怯卑劣にして慎重だ。だから暗殺は警戒していたが、我が軍を正面から叩きに来るとは……」


 イオストラの言葉を聞きながら、エルムは天に向けた人差し指で繰り返し円を描いていた。彼の指先の動きに合わせて緑の霞が細く渦を巻き、よじれるうちに澄んだ水の球を形成する。もう一方の手には無闇むやみに豪華なカップが握られていた。


「私は神聖帝国の外敵と認識された、ということだろうか?」


 イオストラの声に不安が混じる。敵と断ずる相手からであれど、神聖帝国の敵と認識されるのは耐えがたかった。


「まあ、はたからはリニョン王国の残党が暴れているようにしか見えないものな。」


 エルムは呑気に答えてカップに水を注ぐと、イオストラに差し出した。イオストラは手ぶりで受け取りを拒否した。エルムは苦笑してカップを地面に置く。


「リニョン王国はすでに神聖帝国の一部だ。神聖帝国が併合したのだから。外敵扱いはあんまりではないか。」


「お前はそう思っているのだろう。だが、リニョン王国と神聖帝国を分けて考える人間は決して少数派ではない。政府中枢では特に。大体、お前の仲間ではむしろそちらが主流では? リニョン王国の復権! リニョン王国万歳!」


 エルムは侮蔑を含んだモノマネをして見せた。イオストラは憮然と下を向く。


「聖教会もそう考えた、と?」


 手近な草を握り締め、引きちぎる。


「馬鹿な。旧リニョン王国は無関係だ。正当な皇帝が玉座に戻ろうとしているだけだ……!」


「そう主張して連中が手を引くと思うのなら、直接言ってみると良い。」


 馬鹿にするようにエルムは言う。イオストラは未だ残る激情を呼気として体外に吐き出した。

 疲れと焦りで混乱して物事の優先順位が解らなくなっている。今重要なのは聖教会が介入してきた理由を明らかにすることではない。自軍とはぐれて山中に孤立したこの状況から脱することだ。


「とにかくビクティム要塞に戻らないと……」


 胃袋が情けない音を発した。イオストラは顔を赤らめて腹を押さえ、慌てて話を続ける。


「要塞が包囲されてしまえば、戻るに戻れなくなる。」


「それは大変だ。なら急ぐと良い。」


 鮮やかな赤い色をした奇妙な塊が、エルムの掌の上に形成される。


「問題がある。」


 イオストラは何とか腹を黙らせようとして背筋を正した。


「と言うと?」


 エルムが木の幹に軽く触れると、その場所に尖った枝が突き出した。手折たおった枝を、謎の塊に突き刺す。


「現在地が解らない……」

「あっはっは!」


 イオストラが正直に言うと、エルムは腹を抱えて笑った。


「お望みならまばたきのうちにビクティム要塞まで送ってやるが?」


 ひとしきり笑ってからなされたエルムの提案を、イオストラは黙殺した。荷の中から地図を引っ張り出して広げる。ヒルドヴィズルに追われて逃げまどった道順を思い返し、自分の現在位置を探る。

 苦心するイオストラの傍らで、エルムは掌の上に火の玉を浮かべて謎の塊をあぶっていた。肉の焼ける匂いが周囲に漂った。


「川があって……斜面があって……ううん……」


 迷走するイオストラの指とは全く離れた位置に、トンと静かな音を立てて、白くしなやかな指が降り立った。イオストラは指の主をにらみつけた。エルムはにこりと笑ってイオストラに焼肉を差し出した。


「頼んでない。」


 イオストラはきっぱりと拒絶を突き付ける。


「サービスだ。受け取っておけ。」


 エルムの笑顔はいかにも胡散臭い。だが、空腹なのは事実だった。最後に食べたのは何だったか……。イオストラの無精を責めるように、盛大に腹が鳴る。


「ほら。」


 エルムがまた肉を勧める。イオストラは渋々と受け取った。一齧りして目を白黒させる。


「不味い……」


 イオストラは正直に言った。味が付けられていないだけではない。そもそも、肉としての質が低い。


「水とタンパク質と脂質と無機塩類とその他色々を適当に混ぜて作った肉もどきだからなあ。塩いる?」


 エルムに言われてイオストラは首を横に振った。頼みもしないのに出て来た肉もどきは受け取れる。だが、要るかと問われて要ると言えば、それはイオストラが自らの意思でエルムに願ったことになる。それは看過できない。


 苦労して味なし肉もどきを頬張るイオストラに苦笑を投げかけて、エルムは地図に視線を戻した。


「このまま獣道に沿って行けば、途中で川沿いの山道に合流する。道に沿って西に向かえ。要塞が見えるはずだ。」


 エルムが示した道筋は、確かに要塞へと続いているようだった。


「行こう。」


 イオストラは立ち上がる。筋肉が上げた小さな悲鳴を無視して獣道に一歩を踏み出す。


「もう少し休んだ方がいいんじゃないのかい?」


 エルムの甘言はイオストラの歩みを阻まない。端正な口元に、ゆっくりと笑みが広がった。


「素直に頼ればいいものを。」


 疲れ切った体を引きずって歩く苦労が無駄だったことを知った時、彼女はどんな顔をするのか。


「可哀そうになあ……」


 忍び笑いを残して、エルムは空気に溶けるように姿を消した。


 緑色の霞が帯をし、イオストラの歩みに尾を引いた。

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