緑玉の天寵

第一章 泥の姫

01. ヴァルハラの開門※

　神聖帝国（しんせいていこく）千年の歴史は戦いの歴史だ。

　神聖帝国は常に貪欲に外敵を求め、勢力を拡大してきた。

　二百年前には第一大陸および第二大陸の覇権を確かなものとし、周辺の小国全てを勢力下に収めた。平和な時代の到来を予見した者も多かっただろう。

　そこで突如起こったのがリニョン王国の分離独立。神聖帝国の領土の半分をもぎ取って生まれたリニョン王国は、百五十年の栄華の末、再び神聖帝国に併合された。

　多くの火種を残したままに……。

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「先帝より正当なる皇位を受け継ぎしイオストラ・ミュトラウス・レイカディアより偽帝へ告げる。直ちに玉座を真なる皇帝に明け渡せ。」

　先帝ミュトラウス十五世の遺児であるイオストラ・オーネ・レイカディアが西の都アンビシオンで挙兵したとの一報が届いた時、皇宮を満たした空気は驚愕よりも納得の色を帯びていた。

　帝位の返還を求めて聖都カテドラルを訪ったイオストラが望みを果たせないままアンビシオンに帰ってから、半年が経過していた。

　アンビシオンはかつてのリニョン王国の都。そしてイオストラはリニョン王国併合の際に神聖皇帝に嫁いだ王女の孫に当たる。

　五十年前に撒き散らされた火種の一つが小火（ぼや）を生じたのだ。それが当初の神聖帝国中央の見立てであった。

　ところが小火では収まらなかった。反乱軍は怒涛（どとう）の勢いで東へと勢力を拡大し、ビクティム要塞を占拠した。

　皇帝ミュトラウス十六世より迎撃を命じられた第二皇子ライフィスは意気揚々（いきようよう）と西進し、ビクティム要塞東のレムレス平野で反乱軍と激突した。

　両軍は拮抗した。反乱軍は思いのほかに規模が大きく、また高度に組織化され、訓練も行き届いていた。どうやら現地の正規兵が反乱に加わっているらしい。かつてリニョン王国であった地域が丸ごと反旗を翻したようなものだった。

　反乱軍の討滅を容易いことと見て功に逸（はや）っていたライフィス皇子は仰天し、苛立ちを募らせた。一進と一退を繰り返す戦況は、彼には非常にじれったく感じられた。

　膠着（こうちゃく）状態を破ったのは、ヴァルハラの開門だった。

　想定外の事態に動揺する両軍の中を、ヴァルハラより出（い）でた百の怪物が駆け抜けた。

　ヒルドヴィズル、神の兵、あるいは不枯（ふこ）の者。古（いにしえ）より様々な名で呼び習わされた彼らは、人と同じ形を持ちながら人外の膂力（りょりょく）と理外の魔力、そして不老の肉体を持つ兵器である。

　戦線は瞬く間に瓦解。反乱軍は潰走した。

　指揮系統を失って要塞へと逃げ帰る反乱軍を、ヒルドヴィズル達は容赦なく追撃した。

　ビクティム要塞は突然のことに対応しきれなかった。敗走の報が届く頃には既（すで）に、要塞から敵影が見えていた。

「門を閉めろ！」

　追撃する敵と混然一体となった味方を受け入れることはできない。激しい葛藤（かっとう）の末に発せられた非情な指令は、様々な人の葛藤を経て緩慢（かんまん）に門へと到達し、門は軋みを上げて閉じ始めた。

　敗走する兵士たちに、それがどれほど残酷な光景に映ったことか。

　しかし敗走者たちの絶望を汲む余裕は要塞内の誰にもなかった。逃げ散る兵士を撥（は）ね飛ばして迫るヒルドヴィズルの姿は圧巻だった。

「踏み砕けぇ！」

　獣の如（ごと）き咆哮をあげる巌（いわお）の巨躯を先頭にして楔（くさび）型の陣形をとるヒルドヴィズルの群れは、正に災厄。突進を受けた人体は容易くちぎれ飛び、踏み砕かれた大地に無残な屍（しかばね）を晒（さら）した。

　防壁の上からその様子に臨（のぞ）んだ兵士たちは残された理性を総動員して遠距離狙撃銃を構えたが、直後に熱と光の中に消えた。

　遠距離狙撃銃でも射程の外となる遥か遠方。ごく常識的な体格の女性が自分の背丈を超える銃を肩に担ぎ、片手で握った引き金を無造作に引く。巨大な光弾が撃ち出された際に生じる甚大（じんだい）な衝撃を身一つで全て吸収し、微動だにしない。ポニーテールに結った金の髪の揺れだけがその衝撃の大きさを示した。

　放たれた巨大な光弾は過（あやま）たず防壁の上の兵士を呑み込んだ。

　後に残ったのは熱せられた石の防壁と、僅（わず）かに残る人の影だけだった。

「北側狙撃手（そげきしゅ）の排除を完了。」

　巨大銃の女は誰にともなく呟いた。

「了解した。味方の支援砲撃に移行せよ。」

　奇妙な幾何学模様を内包する光の円が、女の耳元に浮かんでいた。そこから届いた低い声に了解の意を伝え、女は再び銃を構える。

　恐るべき威力の砲撃に晒されて冷静さを失った狙撃兵たちにヒルドヴィズルの接近を阻むのは困難だった。怪物の群れは騎乗動物を遥（はる）かに凌（しの）ぐ速度で野を駆ける。

　出鱈目（でたらめ）に放たれた銃弾は虚しく地面を抉った。稀にヒルドヴィズルに向かったものは見えない壁に当たったように弾き落された。

「豆鉄砲ね。」

　楔型（くさびがた）陣形の後方。明るい茶の髪をした少女はくすりと笑って指を鳴らした。瞬間、得体の知れない高揚感が化け物たちの群れを満たした。楔の猛進が速度を上げる。

　絡繰（からく）りの稼働に合わせて閉じてゆく両開きの門は、要塞に逃げ帰る途上の兵士たちから見れば残酷なほど素早く動いていたが、要塞内の兵士たちから見ればひたすら緩慢だった。化け物たちの突進が閉門速度を上回る恐怖が、要塞内の兵士たちに蔓延（まんえん）している。

　ヒルドヴィズルの群れの先頭が到達する寸前に、門は運動を終えた。兵士たちは歓喜の声を上げる。誰の指示を待つこともなく、先を争うように閂（かんぬき）をかけに動いた。外側の味方のことなど、もはや誰の意識にも上らない。

　門全体が不吉に揺れた。兵士たちの歓声は即座に遠ざかり、不気味な沈黙が下りる。門に何かがぶつかる音が、耳障（みみざわ）りに響いていた。

「早く閂をかけろよ。」

　引き攣（つ）った声で誰かが言った。

「焦るなよ。この門はリュウガメの突進にだって耐えられるんだぜ……」

　兵士たちは互いに強張った笑顔を向け合った。閂をかけるために門に近付いた兵士もまた笑っていたが、全身が細かく震え、急（せ）く気持ちに反して作業が難航した。兵士自身の震えもさることながら、門そのものが大きく揺れている。

「死ぬの……死ぬの……。みんな、死ぬの……」

　どこからともなく響く女の声が兵士たちの恐怖心を異様に煽（あお）り、冷静な作業をさせてくれない。

「やめろよ……。誰だよ！」

　一人の兵士が泣き崩れる。周囲の兵士たちの反応は様々だった。同調して叫び出す者、大声で彼らを責める者、奇異な視線を向ける者……。奇妙なことに、この声には聞こえる者と聞こえない者がおり、内容も人によって様々だった。

「門を開けば助かるわ……。あなたはただの兵卒じゃない。」

「ねえ、何をしているの？　そいつ門を開けるわよ。敵の回し者ではないかしら？」

「開けましょうよ。降伏するの。」

「ほら、閂をかけるふりをして、今にも門を開くわよ……」

「どうせ、門はすぐに壊されるわ。」

「徹底抗戦に決まっているでしょう？　皆殺しにされるわよ。」

　笑みを含んだ女の声が、一人一人の兵士に違う言葉を囁きかける。一人が門を開けようとしたのを皮切りに、門の前は疑心暗鬼の巷（ちまた）と化した。

「やめろ！　門に近付くんじゃない！」

「早く閂をかけろ！　早く！」

「俺がやる。」

「開ける気だ！　押さえろ！」

　メキリ、という小さな音が、惑乱を切り裂いて響いた。兵士たちは一様に沈黙した。門を閉ざし続けようとする絡繰りの破壊音を響かせて、ゆっくりとした開門が始まった。門の隙間から、巨大な手が滑り込む。俄（にわ）かには信じがたいほど高い位置に現れたそれを目にして、兵士たちに蔓延した恐怖は爆発した。

「押せ！　門を開かせるな！」

「槍だ！　隙間から槍を差し込んで殺せ！」

　皆が皆、思いつくままに叫んでは実行する混乱の中、晴天の空から雨が注いだ。額から流れ落ちる液体を拭った兵士はその赤さと鉄臭さに驚いて空を見上げた。落ちてくる男の姿を目の表面に映したまま、兵士の首が宙を舞う。

　世界から再び音が消えた。男の靴が地面を打つ音が、妙に高く響いた。頭頂部付近で結った長い黒髪が遅れて揺れる。

　男は無言で得物（えもの）を振った。男の身の丈を超える大きさの黒く歪（いびつ）な鎌が、優雅なまでにゆったりと、兵士たちの首を一薙ぎにする。誰も反応できなかった。ゆったりと見えたのは恐怖に拡張された意識の結んだ幻像だった。

「死神……ラタム……」

　恐怖に縛られた兵士の目に、降り注ぐ血の雨はより一層鮮やかな赤を帯び、濃厚な死の香りを立ち昇らせた。

　死に彩られた空間に泰然（たいぜん）と立つ男の背後で、城門が破滅的な音と共に破れ落ち、巨大な人影が要塞へと踏み込んだ。

　膨れ上がった筋肉に覆われた肉体と、その上に乗った恐ろしげな顔、そして怪物めいた登場の仕方は、兵士たちの士気を根こそぎにした。諦めがしめやかに要塞を覆いつくした。

　ビクティム要塞は異様な静けさの中で陥落した。

　反乱軍はさらに西へと後退、フロルに本拠地を移した。

　敗走する反乱軍の中に、その旗頭（はたがしら）たるイオストラの姿は確認できなかった。