第12話

 春の穏やかな日だった。妻の病室を訪れ、

「立ち会えなくてごめん」と私は言った。

「気にしないで。どうせあなたが居ても何もできないんだから」

 妻はそう言ってクスクスと笑った。

 私は病院の売店で買ってきたプリンを袋から取り出し、

「一緒に食べよう」と妻の目の前にある真っ白な机の上に並べた。

「あなた、プリン好きだった?」

「嫌いじゃないよ」

「無理しなくていいのに。私の大好物だから買ってくれたんでしょ?」

「まあね」

「朝ごはんは?」

「買ってきた。会社で食べる」

「そう。じゃあこれ、二つとももらっていい?」

 妻はプリンを両手に一つずつ持ち上げて言った。

「うん」

「今日と明日で食べる」

 そう言うと早速一つ、プリンの蓋を開けて食べ始めた。

「明日は来れるの?」

「ああ、もちろん。ちょっと遅くなると思うけど」

「名前決めないとね。やっぱりこの前言ってた……」

 妻の話は、想像していた通り長く続いた。その場しのぎにと買ったプリンを取り上げられた私は、真剣に話を聞くしかなかった。

「明日の朝から、赤ちゃんね、私の病室で一緒だって」

「へえ、そうなんだ」

「ねえ、見てきた?」

「え?」

「赤ちゃんよ。新生児室、ガラス張りで見えるようになってるのよ」

「そうなの? 知らなかった」

「ちょっともう、なんか、相変わらずね、あなたもうお父さんなのよ」

 妻のその言葉が、頭の中で、いつまでも巡った。

 

 お父さん。

 お父さん。

 

 私は自分に言い聞かせながら、妻の病室から出て、新生児室を探した。

 二階建てのこじんまりとした産婦人科。新生児室は、病棟入り口の手前に設置されていた。ガラス張りの廊下から、新生児室の中を見渡し、妻の名前が書かれた名札を見つけ、その小さな箱の中で眠っている赤ちゃんを黙って眺めた。

 ほんのりと赤い頭部が覗き、体は白い布に包まれ、静かに寝息を立てているように見えた。時々、ビクッと体を震わす。同じような赤ちゃんが十人は並んでいた。隣で若い夫婦が寄り添い、自分たちの赤ちゃんなのだろう、小さな声で名前を呼びながら、指さしたりして、楽しそうに笑っていた。まさにお手本のような幸せが、隣に在った。

 私がそこに居るのは場違いのような気になって、逃げるように病院から出た。産婦人科は私と妻の卒業した中学校から近かった。しばらく歩くと、通学する中学生何人かとすれ違った。私は、彼らの未来を案じながら最寄り駅まで歩き通勤電車に乗り込んだ。

 朝陽が眩しく、眠気を残した瞳に鋭く食い込み、目が激しく痛んだ。硬く目をつぶると、娘の赤らんだ顔が思い出され、ふと、名前は、あれが良い、と思った。

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