仮初めの幸福

 

 目を覚ますと、広いベッドの上にいた。

 窓から射し込む月明かりは、部屋の中央の絨毯を照らしている。

 少しだけ寝ていたのだろう。

 誰がここに運んでくれたのだろうか。


 王城に居た時よりも広いこの部屋から出ると、長い廊下の向こうから人がやって来た。

 魔族の様だな、と思うと同時に、彼女の姿が消えた。

 次の瞬間現れたのは、スイの目の前だった。

 少し驚く程強い力で両肩を叩かれる。

 だが敵意は無い。


「驚かさないで!てっきり、貴方が敵対するのかと思った!ソウやベニも心配してて……」


 彼女は二本の金色の尻尾を有した魔族で、以前スイに料理を振舞ってくれたルナールだった。


「さあ、大食堂に案内するわ。私もあの村から呼ばれて来て、手伝ったんだから。起きたばかりだと思うけど、沢山食べて」


 スイは黙ってついて行く。

 歓迎されているな。

 それは勇者が希望となっているからだろう。

 しかし。

 それを負担に感じてはいけない。

 ミラが言ってくれた言葉達が、スイの中でずっと巡回している。それは血液の様に体中を巡って、スイの一部となっていく。

 希望は自分だけじゃない。

 自分を取り囲む小さな世界だ。

 その中にはミラやロイがいて、戦えなくてもステュやメリーもいて、デヴィスだっているんだ。当然、出逢ったばかりのマオや、ミチルだっているし、アランとフーガ、フェンリルのポチだっている。

 いや、それどころか、希望を抱いている各人こそが希望なのだ。だから、それらが集まったこの城は、まさに希望の城。ここから始まるんだ。


 そう考えると本当に身体が軽くなった。

 寧ろ自分は怠けていてもいいんじゃないか。

 いつもの怠惰な思考が押し寄せてくるほどだ。

 そうだ、救われたければ自分で救ってみせろ。守られたければ自分で誰かを守ってみろ。

 そうやっている内に世界は正常を取り戻すんだ。

 みんな勝手にやっててくれ。


「ふふ、なんだか良い表情してるわね。貴方って凛々しい顔立ちしてるけど、気怠い表情してる時が一番似合うわ」


 それは言い過ぎだろう。というか失礼だ。

 スイは憤慨する。もちろん、無表情のまま。



 暗くはない廊下だったが、その先の大きな扉から、一層明るい光が漏れていた。

 窓の外の静けさとは逆に、賑やかさが伝わってくる。

 心臓の音が強く聞こえた。

 もしかして、自分は楽しみにしているのだろうか。煩い声の輪に入る事を。

 驚愕だ。

 まるで自分の中で出会った、陽気なあの人格が表層に出て来てしまった様ではないか。

 なんて不気味な事だ。

 ゴムにでもなったかの様に、グニャリグニャリと変わっている。自分の中の何かが。

 しかしそれも、悪くないのかも。

 そう考えた時には、扉は開かれて、沢山の仲間達の笑顔に歓迎された。

 悪くないのかも。




 ――――――――――――――




 大食堂というだけあって、中は広かった。

 テーブルや椅子は取り払われているらしく、立食パーティのようだ。

 中には知らない魔族も沢山いる。そこに紛れる人族や亜人族は、少しの違和感もなく今を楽しんでいた。


「なあ、すごいだろう!スイ、彼は神に愛されているんだよ!どれくらい凄いかって、俺と同じ世界から来たスイにはよくわかるよ!」


 いや、正直あまりわからない、とスイは思う。

 ミチルが紹介している魔族の男は、どうやら葡萄畑を持っているらしく、ミチルの要望でシャンパンを作ったらしい。

 この世界にはワインはあっても、シャンパンは無かった。だからミチルはシャンパンが恋しくなって、彼に色々吹き込んだ様だ。

 なんでも、ワインに炭酸を注入するやり方ではなくて、瓶内で二次発酵させる製法が好みだとか、その時点でスイには意味不明だった。

 そして意味不明な話をするミチルは珍しい。子どものスイにわかるような、丁寧な会話ばかりが幼い頃の記憶にあったが、今日は余程気分良く酔っているのだろう、喋る事が突飛で途切れない。


「グラスの中に煌めく白金、天に向かう小さな泡の一つ一つは、まるで果実が弾けたかのような香りを爆発させて、グラスから立ち昇る。幾多もの奇跡が重なって出来た一杯だ。今日という日に相応しい」


 周りを見渡せば、ミラもうっとりした表情でシャンパンを讃えていた。それをなんと、ツノの生えた魔族の女性と話し合っていた。


 彼女は本当によく変わった。


 壁際ではロイとステュが苦そうな顔で、酒を舐めるように飲んでいる。

 それに気付いたフーガが、二人に葡萄ジュースを差し出した。案外面倒見が良いのかもしれない。


 グラスを空にしたスイは、魔王城のメイドにすっかり馴染んだメリーから赤ワインを受け取り、夜風に当たろうと広いバルコニーへ出た。


 手すりに片腕を乗せ、もう片方の手に持ったグラスを、口元へ運んだ。

 その瞬間、立ち昇る香りが、スイに幻想を見せた。


 見渡す限りの花畑。すぐ側では顔の見えない少女が花を摘んでいる。傍に置いてあるバスケットの中身は、ベリー系のフルーツをメインに、色とりどり。

 後ろから覗き込むと、少女は振り向き、その手に持った花束を差し出した。


「ありがとう」


 受け取った右手にあったのはワイングラスで、香りだけは今見た幻想と同じで。

 ワインにも感動的な出会いがあるものだな。ため息と一緒に笑った。

 きっと、あの幻想の少女の正体は、スイの仲間の誰を当てはめても正しいと思った。

 少女は差し出した花束と共に「おめでとう」と言ったのか。「おかえり」と言ったのか。「がんばれ」かもしれない。


 口に含んだルビーの液体は、力強いアタックで、されどしなやかで優美に、体内を鮮やかに彩る。



「どういたしまして、なんてね。優しい独り言だね」


 またお前か。そう言おうとして口を開いたが、口内から再び、花束の様なワインの香りが漂って、思わず口を閉ざした。ブーケに添える言葉が乱暴ではいけない。


「本当に良かったよ。勿論まだ、何も終わっちゃいないんだけどね、君が現状に辿り着かない可能性もあったから、僕は危惧していたんだ。どんな道でも君の意思を切り拓く剣。それが僕の存在ではあるけれど、やっぱり幸福のオーラが僕は好きだよ」


 聖剣の精霊はスイの横で同じように手すりに腕を置いた。

 彼もスイが道を誤る事を心配していたのだ。すまない事をしたな、と思う。


「でも、彼との戦いは凄く良かった。不謹慎かもしれないけど、戦った意味は大いにあったよ。君だって気付いただろう?最高の剣だったよ。あれが君の至上。無の境地って所かな。ロイやデヴィス、ミチルともまるで違う剣、君だけの剣。怠惰な君の真髄にあったのが“無”って事なんだろう。無が有るって話もおかしいけどね」


 自分で言った事を面白そうに笑う精霊も、今日は気分が良さそうだ。

 彼の言う通り、スイにも手応えがあった。

 あの時のスイなら、剣だけなら、誰にも負けなかっただろう。

 それは慢心ではない。どこか遠くから自分を見下ろしている、もう一人の自分が客観的にそう判断しているみたいな感覚だ。


「ま、今日はゆっくりと休みなよ。荒波に削られた様な君の精神は、いまようやく暖かい海に癒されているんだから」


 おかしな表現だな。そもそも自分の心はそんなにダメージを受けていたのだろうか。見えない所の事などわからん。

 スイが視線を向けると精霊は消え、開いた扉からバルコニーに出て来る者がいた。


「今、誰かと喋ってた?」


 ゆっくりと首を振る。


「そう」


 彼女はさっきまで精霊がいた所に来て、また同じように手すりに腕をのせた。ここに居座るつもりらしい。

 少しの沈黙の後、眠り姫、いや、目覚めた姫は、言葉を紡いだ。


「偶に、夢を見る。抜けるほど青い空を飛んでいて、私の前には漆黒の竜。私は彼に憧れてずっと追い続けていた。自分の紅色の鱗を黒く染めたいとも願ったりして」


 なんの話だろうか。

 横目で見ると、彼女の真紅の瞳は、闇夜の更に先を見通す様だった。


「そんな日々がずっと続いていたのだと思う。でも、ある日突然、巨大な竜巻と出遭った。大きな竜を二体、丸々呑み込むほどの規模。抗うことも避ける事も出来ず、この災害は必然なんだろうなって思った」


 それは本当に夢なのだろうか。

 マオの表情は、過去を懐かしんでいる様にも見える。


「気が付いたら洞窟の中。空腹を感じて、名前も知らない魔物を食べた。食べながら気付いた。自分の姿が竜ではない事に。そして、何より不安だったのは、漆黒の竜が見当たらない事。慌てて洞窟を飛び出した。何処に行ったのか。そしたら、案外すぐに見つかった」


 なるほど、とスイは頷く。リクハートから聞いていたマオとの出会いの話と繋がった。

 それでも、黙って先を促す。


「彼もまた、竜の姿ではなかった。でも、間違いなく私の先を飛ぶ、偉大な存在。それがデミアン、父様だと思った」


 彼女の話からすると、デミアンの元の姿は漆黒の竜で、マオは紅の竜、ということになる。

 アルバリウシスの外から来たのだろうか。

 人の姿で目覚めたのは何故か。二人の目覚めに時間差があったのは、デミアンの強大な力故だろうか。

 いや、そもそも彼女の話は夢の話だ。過去だという確証など何も無い。ただの妄想の可能性も高い。

 それでも、真実かわからなくても、どうしようもなくマオの話に惹かれている事に、スイは気付いていない。


「そんな私の道しるべの様な彼だったからこそ、失った時には絶望した。あの何も無い青い空に、たった一人放り出されたみたいに。行くべき場所も方角もわからず、飛び方すら忘れてしまった」


 だからあの時は凄くリクハートを恨んだ。マオは呟く様に言った。

 彼なりの善意が理解出来る今ならば、それほど恨まないとも言った。そしてまた、それでも彼の道は正さなくてはならない、とも。


「途方に暮れた私は、目を閉じて世界を見ることをやめた。自分の時だけを止めてしまった――冷凍睡眠コールドスリープで。膨大な魔力で発動させたから、二度と目覚めないと思った。それでも、次第に効果は薄れていき、二百年近く経ってミチルが召喚された時には、完全に目覚めてしまった」


 効果が薄れて玉座の間の扉が開く様になった頃、マオは眠り姫として目撃されたのだ。以前スイが魔大陸で聞いた話と合致している。


「ミチルは、私と沢山話をしてくれた。彼と話してると、自分の考えがまとまっていく様で、私が世界を変えたいと本気で願った時、ミチルは共に戦うと言ってくれた。父様を失った私にとって、それは本当に救いになる言葉だった」


 スイにはとてもよくわかる感情だった。自身も、何度彼の言葉に救われたことか。


「だから私は、必ずリクハートを引きずり下ろす。孤高の王が統べる世界ではなく、誰もが誰かを救い合う、優しい世界を目指す。例えどれだけ時間がかかっても……」


 俯いていた瞳は思い出した様にスイの目を見つめた。


「いや、貴方がいれば案外容易いかもしれない。貴方の周りに優しい人が集まる理由は、私にもなんとなくわかる」


 マオはとても柔らかく、そして自然に微笑んだ。


「よろしく、アルバリウシスの勇者スイ。私はもしかしたら、貴方を知る前から、貴方と出会うことを願っていた」


 論理的ではない言葉だが、スイにも同じ感情があった。

 だから頷く。


「必ず守ろう。この世界も、自分達の幸福も」



 温かい日々が、少しだけ訪れて。


 穏やかな日々は、少ししか続かなかった。


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