1-3





 余計なことにくちばしを突っ込んでは、厄介事を背負い込む。

 思い起こせば風吹は、昔からお節介なたちだった。彼女の両親もまたお人好しで、迷子を見つければ最後まで責任を持って親を探したし、捨て犬や猫に出会えば、すかさず連れ帰って面倒をみたりもしていた。そのような人たちに育てられたからだろうか。風吹は道端に落ちている生き物を、放っておけない癖がついてしまったのだ。





 よろよろと足取りの怪しい男に肩を貸して、歩くこと十五分。青いレンガ調の外壁が特徴の賃貸マンション、その五階、最上階の一室が風吹の自宅である。

 玄関の鍵を開けて男を部屋に通すと、風吹はそのまま彼の背を押し、浴室に向かった。


「まずは、シャワー浴びようか」


 男に寄り添ってここまで来る間、風吹は彼から漂ってくる悪臭と戦っていた。

 明らかに長い間風呂に入っていないのだろう、すえた匂い。

 風吹は、きっと美しい人というのは、なにもせずとも常に薔薇の香りでもするのだろうとの幻想を抱いていたのだが、そんなことはなかった……。どれだけイケメンだろうとも、臭いときは臭い。良い勉強になった。

 一人暮らしの住まいにしては贅沢なことに、風吹の部屋はバスとトイレが別になっている。男と共に脱衣所に入り、風吹は風呂場へ続くガラス戸を開けた。


「その服は、脱いだら、カゴの中に入れておいて。洗濯してあげるから。石鹸やシャンプーは、置いてあるのを適当に使っていいからね」


 ひととおり説明すると、風吹は男を残して脱衣所を出た。

 ふと下を見れば、汚れた足あとが玄関から点々と続いている。


「……………………」


 風吹はフローリングワイパーを持ってくると、黙々と床を磨いた。


 ――よく考えたら、適当に食べ物を買ってあげるくらいで良かったんだよなあ……。


 なにも家に連れ帰らなくても。

 今にも死にそうだった男を前に相当テンパっていたのか、まともな判断ができなくなっていたらしい。

 冷静になって考えれば、女が一人で暮らす部屋に見知らぬ男を連れ込むなんて、かなり危険な行為といえる。


 ――でも、なんとなく……あの人は安全な気がするんだよなあ。


 考えが甘いだろうか。掃除の手を止めてため息をつくと、風吹はボサボサになっていた自分の長い髪を、ヘアゴムで縛り直した。

 床を綺麗にしてから、浴室へ様子を見に行く。脱衣所に男の姿はなく、代わりに風呂場のガラス戸に人影が写っていた。男は向こう側にいるらしい。

 風吹が指示したとおり、男の着ていた服は洗濯カゴの中へ放り込まれている。埃まみれのそれをひっくり返したり広げたりしてみるが、タグはどこにも見当たらなかった。洗濯表示が確認できないが、手触りからして綿だろうから、洗濯機に投げ入れ、「普通コース」で洗ってしまう。

 しかしそういえば、いつまで経ってもシャワーの音が聞こえてこない。


「……どうしたの?」


 ガラス戸の手前から声を掛けるが、男からの返事はなかった。


「開けるよ……?」


 空腹のあまり、貧血でも起こしたのだろうか。心配になってガラス戸を開けると、男は全裸で棒立ちになっていた。風吹は驚くが、まあ風呂場で裸なのは当たり前だし、そんなものを見てキャーキャー言う歳でもない。

 というか、ちゃんと事前に断りを入れたのだから、隠しておいて欲しかった……。それとも、自分の持ち物に相当自信があるのか。だから見られても構わないのか。むしろ、見て欲しいのか。

 いや、それほどのものでもないだろう……などと失礼なことを考えながら、風吹はタオルを持って風呂場に入り、男の腰に巻きつけた。


「どうかした?」

「……なにをどうすればいい?」

「えっ?」


 質問の意味がすぐには理解できない。男は気まずそうに、ぼそぼそと続けた。


「……お湯はないのか」

「あ!」


 なるほど、この男はシャワーの使い方が分からなかったのだ。

 風吹は男を促し、空の浴槽の中へ移動させると、自分に背を向ける格好で縁に腰を下ろしてもらった。


「ええとね、ここをこうすると、お湯が出るからね」


 シャワーのコックを捻って湯を出して見せると、男の腰が驚きに浮いた。


「大丈夫、熱くないよ」

「そうではなくて……! お湯はどこから……!」

「ん? あなたの国にシャワーはない?」

「……………………」

「世界には色んなタイプのお風呂があるものね」


 黙ってしまった男の大きな肩に手をやって、再びバスタブに座らせると、風吹は説明を続けた。


「温度の調整は、この壁のパネルでやるの。下向き三角のボタンを押せば下がるし、上向きのボタンを押せば上がるし。どうかな? 熱くない? これくらいでいい?」


 黒い肌に少しだけシャワーの飛沫を当ててやると、男はむっつりした顔で頷いた。


「じゃあ、このまま洗うからね。じっとしていてね」


 不慣れな男に任せておいたら、どれだけ時間がかかるか分からない。乗りかかった船だと、風吹は男の入浴を手伝うことにした。

 まずは銀色の髪をシャワーで流す。滴り落ちるお湯は茶色く濁り、排水口へ吸い込まれていった。悲鳴を上げたくなったが、ぐっと我慢する。


「シャンプーするから、目を閉じてね」

「目を閉じろだと? そんな隙を見せるわけにはいかない」

「いいけど……。染みるよ?」

「侮るな。それくらい耐えられる」

「そう?」


 せっかくの忠告を鼻で笑った男の頭を、風吹はゴシゴシと洗い始めた。シャンプーは全く泡立たず、仕方なく一度流す。その途端、男が悲鳴と共に飛び上がった。


「なにをする!」


 男は目を押さえながら、風吹のほうを向く。股間にタオルを巻かせておいて良かったと、風吹はしみじみ思った。


「だから染みるって言ったじゃん……。ほら、座って! 今度はちゃんと目を閉じなよ?」


 風吹は男の両肩に手をやると、くるりと彼の体を回して、元どおり浴槽の縁に座らせた。それから洗髪を再開したが、男は先ほどと打って変わって静かだった。

 気になって後ろから覗き込めば、男は両手で自分の目の辺りをぎゅっと押さえている。まるで子供のようなその仕草に、風吹はつい吹き出してしまった。

 シャンプーは四度繰り返し、なんとか泡が立つようになった。体も同様にして数回洗い――局部はさすがに自分でやってもらったが、男はすっかり見違えるようになった。嫌な匂いはもうしない。


「はー、ピカピカになった!」


 風呂嫌いだった実家の犬を、三年ぶりに洗ったときのような達成感を抱きつつ、風吹は曇ってしまったメガネのレンズを、部屋着の腹の部分に押しつけて拭った。

 改めて見てみれば、男は引き締まった体をしている。顔も良ければ、スタイルもいい。

 そんな男が、なぜ行き倒れていたのか? 謎は深まるばかりだ。

 男には、兄や弟が泊まりに来たときのために置いてある着替えを貸した。他人の下着なんて嫌がるかと思ったが、男は特に不満を口にすることなく、身に着けてくれた。

 借り物の服を着た男が浴室から出てくる頃、風吹は台所のコンロの前でフライパンを振っていた。


「あ、服、やっぱりちょっと小さいね……。悪いけど、我慢してね」


 男に渡したTシャツはちょうど良さそうだが、ハーフパンツは裾が膝のかなり上までしかなかった。服の持ち主である風吹の兄弟も体格は立派なほうなのだが、男は更に大きい。百九十cm近くあるのではないだろうか。

 風吹はフライパンを火にかけたまま、男をキッチンと繋がっている居間に案内し、ソファに座らせた。

 

「ここんとこ残業続きだったから、買い物に行ってなくて、ロクなものがないんだけど……。炒飯で勘弁してね。もうじきできるから、それでも飲んでて」


 風吹は冷蔵庫からピッチャーを取り出し、コップと共に居間のローテーブルの上に置いた。


「ごめん、自分でやって」


 そう言い残して、風吹は慌ただしく台所へ戻っていく。男は目の前に置かれた飲み物をまじまじと眺めてから、ピッチャーの中身をコップに注いだ。


「冷たい……!」


 男が飲んでいるのは、風吹が昨晩作って冷やしておいた、なんの変哲もない麦茶なのだが……。

 男は感動に目を見開き、コップ一杯を一気に飲み干してしまった。

 その様子を、台所から一部始終を見ていた風吹は、呆気に取られた。


「あ……。えーと、好きなだけ飲んでいいからね」


 男は勢い良く聞き返してくる。


「いいのか……! こんな貴重なものを!」

「え? う、うん。そんな、すごいものでもないけど……」


 そうか、お腹が空いているだけじゃなくて、喉も乾いていたのか。もっと早く飲み物を勧めてあげれば良かったと、風吹は自分の気の利かなさを反省した。


「いっぱい飲んで。そこに入ってる分がなくなっても、別のお茶を冷やしてあるし。足りなくなったら言ってね」

「……!」


 男は風吹の申し出を聞くと、ぴんと背筋を伸ばし、震える手で麦茶を注いだ。そしてうやうやしくコップを掲げると、今度はその中身をじっくり味わうように喉に送っている。たかが麦茶を飲むのに、とんでもなく仰々しい。


 ――まあ、喜んでくれてるならいいけど。


 首を傾げつつ、風吹は男のための食事を完成させた。


「できたよー」


 冷凍ご飯一合分と卵とハムで作った炒飯、そしてインスタントのわかめスープを居間に運んでやると、男の青い瞳がキラキラと輝き出した。


「いただきます……!」

「はい、どうぞ」


 レンゲを持ってご飯粒を掬おうとする男の、斜め前に座ると、風吹はなんの気なしにテレビの電源を入れた。途端、男が腰を浮かす。先ほど風呂場でお湯を出したときと同じく、随分過剰な反応だ。どうしようもなく、ビビリなのだろうか。


「人が……!」


 男はテレビに近づくと、液晶画面をペタペタと触り、裏を覗き込んだ。


「ああ……。あの、あんまり画面に、指紋を付けないで欲しいな……」


 風吹がたまらず注意すると、男はキッとこちらを睨んできた。


「離れた場所の映像を送るなんて、俺の世界にだって、これくらいの技はある……!」

「そりゃそーでしょーねー」


 なにもわざわざ主張せずとも、よっぽどの未開の地でなければ、テレビくらいあるだろう。そして男の台詞にあった「世界」は「国」の間違いだろうとも思ったが、いちいち正すことはしなかった。少々のミスはあっても、これだけ日本語が達者なら十分だろう。


「さ、ほらほら、冷めちゃうから、ご飯食べて」


 風吹が手招きをすると、男はソファに座り直し、今度こそ食事をとり始めた。

 炒飯は炒飯だからどう作っても大きな失敗はしないが、外国の人の口に合うか心配である。ドキドキしながら様子を窺う風吹の前で、最初は恐る恐る口の中のものを咀嚼していた男は、徐々にがっつき出した。


「あの……美味しい?」

「美味い! こんな美味いものは、生まれて初めて食べた! お前は料理人なのか!?」

「いや、違うけど……。でも、ありがとう」


 どうやら気に入ってもらえたようだ。風吹は上機嫌で冷蔵庫から缶ビールを取り出し、開けた。



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