特別授業

真花

特別授業

 井上先生は四時間目の授業を十分早く切り上げて、特別授業をすると言った。

 手にはお皿。

「はい、先生が今持っているものが何か分かる人」

「給食のお皿でーす」

 手を挙げるより先に松野が答える。

「そうですね、給食のお皿。では、これにご飯を乗せて食べられる人」

 はい、はい、はーい、五年二組は手の林になる。

「はい。では、実はこのお皿は今朝、犬のフンを乗せて運んだ皿です。このお皿でご飯を食べられる人」

 しーん。先生が犬のフンとか言っていいのか。松野ですら何も言わない。

「どうしてでしょうか?」

 学級委員女子の鬼怒川が手を挙げる。

「犬のフンが付いていると、汚いからです。病気になっちゃいます」

 そーだそーだ、教室中が一体感の応援。

「そうですね。でも、先生は洗剤を使ってこのお皿を百回洗いました。これでどうです?」

 またも教室はしーんとする。いや、松野が声を上げる。

「俺は、食べれちゃうもんね」

「嘘つき。絶対食べたくないでしょ」

 女子の横槍にいつもなら負けない松野が弱気に引っ込む。

「はい。最初の汚いのが、よごれ、頭では取れているのが分かっていても気持ち的に嫌なのが、けがれ、です」

 先生はそれを伝えるために特別授業をしたのか。

「で、今日の給食のお皿が一枚、これと同じ、犬フンと洗浄をしたお皿に替えてあります」

 なんでそんなことをするのだ。いや、言っているだけでそんなことは出来ない筈だ。

 皆が皆、隣の子と顔を見合わせている。

 さ、と手が挙がる。図書委員木下だ。

「それは、誰の皿か先生は知っているのですか?」

「秘密です」

 クラスがざわざわする。俺かも、お前じゃねーの、言い合い始める。

「はい。これが疑心暗鬼という状態です。さて、その一枚の犬フン皿が提供された人は、意地悪をされているとも言えますが、特別であるとも言えます」

「先生、特別ってのは悪いことをされるときには使わないよ。それは差別だよ」

 野村はときにシャープなことを言う。本当にそうだと思う。自分が犬フン皿に当たったら、それはいじめだし差別だ。

「野村くん、素晴らしい。差別というのは特別扱いの中の、酷いものを言います。特別に他人を蔑む行為です。しかし、ここで重大な違いが差別と犬フン皿にはあります。それは、差別は特定の相手に対して行うのに対して、犬フン皿は誰がそれを被るのか分からない状態にあるのです」

「じゃあ、それはテロです」

 鬼怒川は明らかに怒っている。

「先生が生徒にテロをしていいんですか」

「それはダメです。でも今皆さんは、テロをされるのが自分かも知れない、いや、きっと自分だと思ってしまっていませんか?」

 確かにそうだ。僕こそがそれをされると警戒している。

「これがテロリズムが人々に与える効果なんです。疑心暗鬼がもう一歩進むと、自分こそが被害者に次はなる、という思い込みが始まります。この段階で、皆さんは自分が特別にテロを受ける人であると考えています」

 今度は誰も反論しない。

「全員が特別と思っているために、結局テロをする側から見たら、全員が同じになります。さて、ちょっと気持ちを切り替えて下さい。今度は全員にそれぞれの欲しいプレゼントを渡すとします。でも、プレゼントはそれぞれ違います。値段も大きく開きがあるでしょう、どう思いますか」

 木下が手を挙げる。

「みんなに一番嬉しいものを届けてくれているから、みんなが特別」

「その通りです」

 嬉しそうな木下。

「プレゼントでも結局全員が特別になります。渡す内容が違っても、結局みんなが喜べばそれは特別が全員に行き渡った、普通になるのです。ここで、テロへの構えとプレゼントの特別を比較してみると、特別というのは良くても悪くても、それが当たり前になったら普通に成り下がると言うことが分かると思います」

「特別が普通ぅ?」

 松野が不満の声を上げる。

「でもみんなが特別ならみんなが同じってのは分かるかも」

 環境美化委員早川の反論に松野が抗議する。

「みんなが違う特別なのに、みんな一緒って何だよ」

 あ、分かった。一緒なんじゃない。手、挙げようかな。でも。

 迷っている内に野村が指される。

「つまり、みんな違うけど同じ、それは平等ってことだと思う」

 冴えてるー、の声が掛かる。野村は続ける。

「犬フン皿が誰かが使わなくてはいけないなら、それが均等に誰かの所に行く可能性があるのも平等だし、プレゼントがみんな欲しいもので、全員が特別なのも平等」

「そうですね。みんな同じ平等さと、みんなが違う平等さがあります。それは同居します。犬フン皿とプレゼントが同時に貰えるように」

 なるほど。でもあまりよく分からない、実感が出るまで時間が掛かりそう。

「平等は与えられるものでありながら、集団が作り上げてゆくものでもあります」

 先生は教室の端から端までをひとまとまりにするようなジェスチャーをする。

「だからこそ、本当の意味で特別な誰かに、それぞれがなって欲しいと思います」

「それってどうするのー?」

 教室の後ろの方から声。

「与えられた特別は、平等に飲み込まれます。自分で作るか、勝ち取るか、そうやって特別を得て下さい」

 鬼怒川が妙な顔をして手を挙げる。

「私が、私を自分で特別にしていいんですか?」

 彼女はそれを禁じられているのか? 濁った空気になる。

「もちろんです。自分の人生の主人公であることからは逃れられませんが、だからこそ自分を特別にする権利があります」

 鬼怒川の目が潤んでいる。小さな声で「私が主人公」と呟いたのが聞こえた。

「でもそれは集団の中では主人公に常になれる訳ではないのはもう分かりましたね。それでも尚、特別になって行って欲しい」

 はーい、の声もなく、皆が真剣に先生の話を聞いている。

「でも忘れないで欲しいのは、犬フン皿も特別だったと言うこと。どう言う特別を得るかは選ばないといけない。特別なけがれにもなれてしまう。先生は君たちにそれぞれの特別になって欲しい。人生の主人公であることを存分に味わって欲しい」

 いつの間にかみんなの姿勢まで良くなっている。

「今日の特別授業を終わります」

 一礼する先生に僕は拍手をしてしまった。呼応するように教室中が拍手の渦になる。授業にこんなことが起きるのは初めてだ。

「それと」

 拍手がピタッと止む。

「犬フン皿はありません。でも君たちの頭の中には確かにさっきまでありました。それが想像力です。上手く使えば素晴らしい武器になります」

 そうでない使い方もある。僕は先生の言葉がすごく届いた気がして、ほくそ笑んだ。



 卒後十七年と言うのに特別に意味があるのか幹事に尋ねたら、二十代最後の年だから、と涼しい顔をして言われた。彼がそれを意識しているのかどうかは定かではないが、結婚相手を探す同窓会になる予感がする。それとも未婚なのは僕ばかりで大抵の同窓生が既婚なのか。

 貸切の居酒屋に時間通りに到着したら、もう殆どのメンバーが揃っていた。

 奥の奥の席に井上先生が居る。

 特別授業のことを久しぶりに思い出す。

「人生の主人公であることから逃れられない、だから特別になる権利がある」

 大学に入る頃までずっと座右の銘にしていた。

 若い僕は運動は苦手、絵も音楽もいまいちだったが、勉強は上位だった。そこで、苦手なところで勝負するのではなくて、得意なところを伸ばそうと考えた。それが特別な誰かになる近道と考えたのだ。

 今思えば安直だが、学力は選択肢を増やしてくれた。

 大学からは課題とサークルとバイトの連続で、主人公で特別ということを考えもせずにいつか就職先を決めていた。自分の人生を決める肝要な時代にその銘を忘れていたのは不思議だ。

「そろそろ座っておくれ」

 幹事の槍北が号を飛ばす、席は決まっているようで、途中からは自由移動だとのこと。

 僕の向かいは知的な美人。誰だ。

「久しぶり」

 その声を聞いても分からない。これまで散発的に出席した同窓会では見たことのない顔だ。

「え、と、久しぶり?」

 彼女は微笑む。

「私、分からないかな? 鬼怒川だよ」

 え。委員長がこんな美人になるのか。

「峰川くんはすぐに分かったよ。面影と言うよりもそのまま大人になった感じ」

 美しさと言葉とに気圧されて、頭を掻いて誤魔化してみたが、何かそれも違うような気がした。

「ごめん、全然分からなかった。十七年ぶり、だよね」

「うん。多分参加した同窓会がこれまで被らなかったんだね」

 綺麗になったね。……とは言えない。

「鬼怒川さんは今どんなことしているの?」

「臨床心理士、って分かる?」

「え? 分かるも何も、僕、精神科医だよ」

 鬼怒川が目を見開く。

「びっくり、お隣さんじゃない」

「そうだね、同じ世界で切っても切れない関係」

 再び鬼怒川が微笑む。微妙な間で生まれた引力で、彼女に引き込まれる。

「どこの病院なの?」

「文京区のA病院だよ。鬼怒川は?」

「池袋のBカウンセリングセンター」

「検査じゃなくてカウンセリングメインなんだ」

「うん。分析系だよ」

 はい、注目、と槍北の声。中断された会話はまだ僕達の間に浮いている。

「ここで乾杯の音頭を井上先生にお願いしたいと思います。井上先生、どうぞ!」

 立ち上がった井上先生はおよそ時間が経っていないのかと思う程、往時のままだ。拍手が起こる。万雷。

「はい。卒業して十七年と言うことで、皆さんもめでたく三十路をもうすぐ迎えます。まっさらだった小学生時代から、それぞれの胸に青春を抱いて二十代を駆け抜けたと、皆さんの顔を見て確信しています。きっと今ならばあの日皆さんに投げかけた、主人公と特別の答えをそれぞれが持っていると思います。さて、ここにコップがあります。皆さんのコップを含めて全てのコップに、希望を入れておきました。ただし、一つだけ挑戦を一緒に入れてあります。誰のかは秘密です。はい。乾杯」

 かんぱーい。

 全員が手許の希望を飲み干す。座席が指定だったのは挑戦を誰かに入れるため? 様子を見ていると特に辛いものとか苦いものとかが含まれてるとか言った、ギャグ的挑戦ではなさそうだ。

 鬼怒川との間に浮いている近況の話題は、先生の言葉に負けた。

「ねえ、峰川くん、挑戦って誰のに入ってたんだろうね」

「僕のかも知れない。鬼怒川さんのかも知れない。でも多分それはもう少し経ったら分かるのかも」

 鬼怒川は首を傾げる。

「どう言うこと?」

「きっと、挑戦が必要なことが、目の前に現れるんだよ。そのときに、あ、先生が言ってたな、って」

 ふふ、と笑う。

「なるほど。主人公と特別のときと同じってことね」

「そう言うこと」

「おーい峰川ぁ、俺と飲もうぜぃ」

 開始早々ぐでんぐでんの松野が野村に半ばぶら下がりながら割って入って来た。まだ鬼怒川と喋りたかったけど長年の男の友情も捨て難い。

「いいよ、峰川くん、行って」

 咄嗟に、鬼怒川に連絡先を渡さねばと思う。

「松野、ちょっとだけ待ってて、すぐ行くから」

「おう、こっちだかんな」

 ふらふらしながら二人は行く。

「ねえ、鬼怒川、連絡先交換しない?」

「いいよ」

「今度またゆっくり邪魔の入らないところで話そうよ」

「うん。楽しみにしてる」

 松野と野村の一帯に飛び込みにゆく。頻繁ではないが定期的にこの二人とあと二人で五人のメンバーで飲む。だからわざわざ皆の居る今日にこのメンバーで固まらなくてもいいのだが、やはり居心地がいい。

 しばらくそこでうだうだして、井上先生に挨拶に行こうと思ったら、先生は寝ていた。

「先生、起きてください」

 体を揺する。反応がない。

 強く揺する。ん、と目が開く。

「先生、聞いてください」

「はい。どうしましたか」

「先生の特別授業での言葉が、僕の座右の銘になっていました。これをどうしても伝えたくて起こしました」

「そうですか。それは嬉しいです。峰川くんの答えが見付かっているといいですね」

「はい」

 言い終えると先生はまた寝てしまった。もしかしたら、忘れてしまうかも知れない。けど、伝えたかった。そして、僕の名前を覚えてくれていた。

 寝息を立てる先生をそっと置いて、僕は飲みに戻る。

 五時に始まり、七時半には閉会というスケジュールで、当然のように二次会がある。鬼怒川は二次会には行くのだろうか。会が終わるちょっと前にトイレで携帯を確認したら、その鬼怒川からメールが来ていた。

『二次会サボって、二人で話さない? メール見ないかも知れないから八時までは待つよ』

 迅速に返信を送る。

『話そう。会が終わり次第待ち合わせたいから、場所を指定してくれればそこに行くよ』


 駅の向こう側の喫茶店が待ち合わせに指定された場所で、僕は胸を高鳴らせて急いだ。

「ここだよ」

 席から声がかかる。店は一席一席がボックスシートのようになっていて、隣の客の気配がほとんど気にならないような造りだ。カウンセリングをするのとは違うけど、比較的密封度の高さを要求する会話をする場所を彼女は熟知しているのだなと感心する。

「お待たせ。メアド交換しといてよかった」

 鬼怒川はどうしようかな、という目線を迷わせて、小さく決意をした顔になる。

「これが、先生の挑戦だと思う。級友とは言え、久しぶりに会った人を呼び出すなんて、勇気がとてもいることだよ。挑戦は私に入ってた」

「先生様様だね。僕は思うんだけど、挑戦って、誰に入ってるか分からないから、みんなが全員、自分にこそ挑戦が入っているって思うんじゃないかって」

「全員に入れた、よりもずっと効果が高く、挑戦をさせることになる、ってことでしょ?」

 ニッと笑う鬼怒川。同じ顔を僕もする。

「そう。だから、僕も挑戦をすることが今後あったときに、先生の言葉が背中を押してくれる。もう大人だから、先生の狙っていることも分かる」

「うん。でも嬉しいよね」

「嬉しい。さっき話しに行ったら、名前覚えていてくれたんだよ」

「私も」

 鬼怒川は委員だったし秀才だったから覚えられても普通だと思うが、集団に紛れていた僕が印象に残ってたのはすごいことだ。一瞬そう思ったけど、それでも鬼怒川も覚えられていることは嬉しいのだろう。

「先生の言葉と言えば、やっぱり特別授業のときの、主人公と特別、今日は先生はそれぞれの答えって言ってたけど、鬼怒川はどういう答えになったか聞いてもいい? それとも僕から話す?」

「うーん、先に峰川くん言って欲しいな」

 店員が注文を取りに来たのでコーヒーを頼む。

「僕ね。僕はさ、高校くらいまでは、ひとかどの人物になることが特別になるということだと思っていたんだ。でもひとかどって何だ、ってので取り敢えず学力を付けた。この国だと選択肢が増えるから。その頃に付き合ってた女の子が居て、当時知る限りでは治療法がない病気で、僕はそれを治すために医者になろうと決めた。単純な動機で突っ走り始めたときから、自分が主人公であるということを考えなくなった。特別な誰かにはなろうとはしていたけど、それは今考えれば職業的な特別さに過ぎなかったと思う。だから特別が職業と受験に吸収されてしまった」

「そうなんだ」

「で、大学に行ってちょっとしたらその子にフラれちゃった。いきなり医学部に行く理由がなくなってしまった。誤魔化すためだったのか、それとも面白かったからなのか、サークルとバイトに没頭するようになった。学業もある。気が付けばマッチング、国家試験。その間に精神医学と出会ってそれが面白くて、精神科医になることを決めた。で、研修医が終わって三年。僕の主人公と特別はどこに行ったのだろう、そう井上先生の顔を見たときに思ったよ」

 うんうん頷いていた鬼怒川は、それはさ、と掌を頰に優しくあてるような声を出す。

「峰川くんは、主人公であることを考えなくてもいいくらいに、主人公なんだよ。特別が職業的と言うのはそうかも知れない。特別な誰かと言うのはでも職業だけでは決まらないとは思う」

 僕は峰川にこのことにまつわることを半分隠していて、その事実は僕を推して喋らせようとするけど、まだそこまでのことを話す間柄ではないと思って封じた。

「僕は主人公、か」

「君が特別なのは君が何かをしたからじゃない」

 耳に心地よい音波に乗って、同じ鬼怒川とは思えない、呼称も変わっているし、こころに波紋が走る。

「でもさ、鬼怒川さん、主人公で特別であるために色々なことをする人を見て来たよ。夜の街でお姉ちゃんにチヤホヤされる店に行くのは、きっとアルコールでもお触りのためでもなくて、主人公で特別と扱われるためにお金を払っているんだと思う。その資格も能力もない人ほど、職業的にへつらう相手に対して横柄になるのも同じだと思うし、出世とかで役職を得ようとするのも、特別さを加えようとする行為だと思う」

「君はそう言うこと、するの?」

「いや、しないけど」

「君がそういうことをしないのは、君が最初から君自身が特別だって、分かっているからだよ」

 僕は最初から特別?

 混乱した顔をしたのだろう、鬼怒川が笑いかけてくる。

「私の答えは、そう言うことなんだ。私って、お母さんが支配している家で育ったのね。大事なことは全てお母さんの言う通りにしないといけないのはもちろん、生きる方針まで奪われてたの。学級委員をしてたのはその結果だし、成績が良かったのは勉強しか逃げ場がなかったから。私は私の主人公じゃなかった。そしてそれはあの日先生が言うまで、永遠に続くものだと思っていたの。私は特別扱いをお母さんからされていたけど、それはけがれの方の特別さ。奪われていたのは想像力。あの日、先生は私のために特別授業をしてくれたんだって思った。それから、私は私が主人公の人生を歩むために頑張った。家を出たときに、やっとこれで自分の人生が本当に始まる、私が主人公の人生が始まる、って涙が出た。実家と縁を切るとかはしてないけど、緩くて遠めの付き合いにしようと決めてるの。だから、私にとっては主人公であると言う普通のことを取り戻すことは大きなストーリーで、特別をけがれからいいものにするのも重大な問題だった。主人公を取り戻した私は、仕事をする自分が特別だと最初は思っていたけど違って、何をしているか、そう言うこととは関係なく、私は私で特別たりうると悟ったの」

「だから、僕が最初から特別、ってことになるんだ。……確かに、僕は自分がけがれの特別だと言う風に思ったことは一度もない。でも、あのさ、変な話してもいい?」

 鬼怒川はゆっくり頷く。

「今、付き合っている人が居て、その人が、僕が医者だから付き合っている、僕の稼ぎを目当てに付き合っている、と言うのがミエミエなんだ。彼女は、僕のことを特別だ、って言うけど、その特別がどうにも違和感を伴う。花粉症の花粉のような、体に入れてはいけないもののような気がするんだ。彼女の言う特別に僕は納得がいかないのに、絡められているような気がする」

 鬼怒川は瞬きを三回してから、喋り出す。

「その特別は、彼女が君をどうしたいかを押し付けているだけだよ。もし、それに従うなら、君はもう人生の主人公には戻れない。素朴な自分という特別さに還ることも難しくなる。彼女が変わらないのなら、生きづらいと思うよ、その人とだと」

 自分が主人公であることよりも彼女が重要であればそれで出納は合う。だけど、とてもとてもそうは思えない。

「鬼怒川だったら、どう付き合う?」

「誰と?」

「僕」

「えっと」

「いや、シミュレーションだよ」

「カップルなら、主人公が二人居てもいいと思ってる。それぞれの特別さを大事にしながら、それぞれにとって一番特別な存在であって、自分にとって相手は自分の物語の主人公であるくらいに大切。そのためには、やっぱりお互いがそれぞれ主人公であり続けないといけないと思う」

 それが答えだ。

 間違いない。探し求めてはいなかったけど、答えを彼女は持っている。

 ただ特別な誰かになるために人生を費やした僕と、普通の主人公になるために人生を懸けた鬼怒川。

 きっと、職業的に特別とか、チヤホヤされる特別さとか、そういうのは社会を回す原動力ではあるのだと思う。それを求めないことを結論にするつもりはない。だけど、それは当たり前にあったとしても、別の次元でも特別さと言うのがあってもいいのだ。

 鬼怒川の言うのは、存在の特別さだ。生まれたときからもう備わっている特別さだ。それをカップルで大事にし合うと言う。

 鬼怒川は黙ったまま僕を見ている。

 この人は世界と人の捉え方が、正しい。それは彼女の仕事のせいではないのは分かる、周りに心理士はたくさん居る。彼女の生育歴に因るものだけでも、先生の授業だけでもない、彼女自身が練り上げた彼女のこころの有りようが、この結論を生み出している。

 僕が間違っていた訳ではない、それはそれで答えなのだ。鬼怒川さんの答えと同居しうるものだ。

 でも、僕を自分の特別に嵌め込もうとする恋人は、間違っている。僕が僕の特別を生きるのには、傍らにあってはならないものだ。

 そしてその場所に居て欲しい人が分かった。

「鬼怒川さん」

「はい」

「今彼氏いる?」

「いないけど」

「僕、これから彼女と別れてくるから、二時間後にまたここに来て欲しい」

「え」

 強張った表情を雪が埋めるように飲み込んで、鬼怒川は頷く。優しく微笑む。

「待ってるよ」

「おし」

 僕は一目散に彼女マンションに向かった。今日のこの時間帯なら居るはずだ。携帯を鳴らす。

「何? どうしたの」

「あ、すっごい大事な話があるから、家にいて欲しいんだけど大丈夫?」

「何、何かあったの?」

「うん。あった、とにかく待ってて」

「分かった」

 三十分でマンションに付く。玄関に迎えに来てくれる。気立てはいいのだ。料理も上手い。

「おかえり、どうしたの?」

「別れてくれ」

「え?」

「君とはやっていけないと確信した。別れよう。もし君がイエスと言わなくても、僕は一方的に別れる」

 本気なのか、と言う表情はすぐに深刻な現実だと言う理解に変わる。

「何で?」

「君は僕の本体を全く見ていない。例えば明日僕がプータローになったら、関係は続けるかい?」

「私は見てるよ。でも、プータローじゃ嫌。ちゃんと就職してもらいます」

「見てない。その形骸化した愛情が、痛いんだ」

「見てるよ」

 半ベソになる彼女。

「ごめん。どうしてももう君とはダメなんだ。じゃあ、行くから。オートロックの番号変えなよ」

「ちょっと待って」

「何」

 バチーン、と左頬をはたかれる。

 それを認識した直後に右目を殴られる。眼鏡の上からだった。その後も何発も顔だけに執拗な打撃。十分くらいして、やんだ。

「死ね」

 捨て台詞にいっぱいいっぱいを耐えている気配が乗っていて、彼女なりに頑張ってくれていると思って、何もいきなりフることもなかったのかも知れないとちょっと考える。彼女はすぐに別れの土俵に乗ってくれて、ちゃんと別れてくれた。気立てのよさと言うのはこう言うときにも影響するのだな。でも、やっぱり、別れる方が正解だ。彼女は僕を見ていない。

 井上先生の挑戦は僕にこそ入っていた。

 メアドを渡すこと、別れること、そして、鬼怒川さんに待っていてくれと言うこと。

 また三十分、元の喫茶店に向かう。

 息を切らせてさっきの席に向かえば、鬼怒川さんが座っている。

「ボロボロの顔だね」

「ちょっとした修羅場になった」

「上手くいったの?」

「別れたよ」

「そっか」

 周りの席も殆ど人が居ない。僕達の席も、二人しか居ない。世界にもう、二人だけ。

 時間が緊じて、音が狭くなり、言葉を待っている。

「あのさ」

「うん」

「僕と、付き合ってくれませんか」

「もちろん」

 時間は元のスピードを取り戻す。BGMが切り替わる。遠くからガヤガヤとした声が聞こえる。

 鬼怒川さんの声が聞こえる。

「私達、これから二人の主人公。私にとって特別な人は、峰川くん」

「僕にとっては鬼怒川さん」

「でも、それは最初からそうだと言うことじゃなくて、時間をかけてそうなってゆく、の」

「うん」

「そして、第三の特別を探そう。きっとある筈だから」

「分かった」

 鬼怒川が手を差し出して来た。僕はそれを取る。生まれて初めて人の手に触れたかのよう。

 きっとこれも挑戦なのだ。

 先生の言葉が、縦横無尽に沁み渡る、夜。



(了)

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