フラクタル?

フジイ

フラクタル?

                             

『集計の結果、お題は「おとぎ話」になりました!』

 風呂場の前でだらだらと服を脱ぎながらおもむろにポケットから出したスマートフォンの画面にLINEの通知が入った。

 所属している文芸サークルのお題が決定したという連絡だ。この「おとぎ話」というテーマをどう用いようと自由なのだろうか。縛りとしては機能しないくらい抽象度が高い。自由は難しい。自分にはそういう自由を歩く足がないし実のところ小説はもう半年以上書いていない。散文を書くのも随分と久しい。欲を言えばもう少しお題は具体的であって欲しかった。

 ぼうっと眺めていると画面が暗くなり代わりに手の汚れが白く浮かび上がった。風呂に入ってさっさと寝ようと思った。その前にスマートフォンを濡れたタオルで拭いた。

 浴槽に入ると汗が止まらなくなるため滅多に浸からない。だが今日は疲労が取れるかもしれないと思い浸かることにした。疲労が余計に出るから避けていたのだったと、入ってから思い出した。明日は予定が特にないから気にしないことにする。

 それより「おとぎ話」だ。どんな作品が当てはまるだろうか。『赤ずきん』? 「童話」「昔ばなし」との差は? 判然としない。後で調べよう。お湯に浸かって数を数えるように思い浮かぶタイトルを列挙する。『赤ずきん』『白雪姫』『ラプンツェル』『はなさかじいさん』『かちかち山』『雪の女王』『女王の教室』『星の王子様』『テニスの王子様』『幸せな王子』『ぐりとぐら』『うろんな客』『うたのおにいさん』『現代社会』『労働』『オリンピック』『現実』『ニューヨーク』『お風呂に入っていい? というのを「ニューヨークシティ?」と言って通じるかどうか』……意識がぼやけていく。後半はもう関係ないものしか浮かんでいない。こんなことを考えていても仕方ないだろう。長めの欠伸をして狭い浴槽に体を沈めていく。


 すると遠くから、音が聴こえた。ピンポンパンポンと形容されがちな音。ドミソド。浴室ではくぐもっているからそれっぽい別の音にも思えた。自分はおそらく寝ぼけているしこれは幻聴かもしれない。両親は寝ているため家の中の音ではないだろう。すると続いて声がきこえてきた。

 はっきりしないが過去に何度か聴いたことがある声と読み方だ。アナウンスの合図の音も読み上げる速度もとても遅い。やまびこのように後から小さくこもった音が繰り返される。

 これは市からのお知らせだと気づいた。光化学スモッグが発生したときや警報が発令されたときに聴こえることが多い。それ以外だと行方不明者情報の場合もある。しかしこの時間帯に行方不明者のお知らせをするだろうか。

 じっと耳を澄ませても内容を聴き取ることはできなかった。ポンパンポンピン。ドソミド。なにも聴き取れずに放送が終わってしまった。手足の皮もふやけておまけに音も意識もふやけているようだった。風呂上りに時計を見ると二時を回っていたので可能な限りはやく就寝できるように努めた。


 翌朝目が覚めてすぐに小説を書かなければと思った。とはいえ寝ている間にアイデアが浮かぶわけがなかった。締め切りの遥か前から考え始めないと創作はできない人間なので急がなければならない。予め自分を脅迫しておくのだ。

 シリアルを食べながらテレビを見てネタを探す。おとぎ話ならニュースではなく教育テレビだろうと思いチャンネルを回した。すると女性に必要以上に嫌われている女優が「桃太郎」の読み聞かせをやっていた。聞き流しているとしばらくして別の番組に代わったのでテレビを消す。

 代わりにスマートフォンを取り出して「おとぎ話」を検索してみる。ネット辞書のようなものには「桃太郎」が代表例として挙げられていて違和感を持った。メルヘンチックなものを想像していたからだろうか。「おとぎ」の意味を調べ直す。これといって何か思い付きはなかった。

 再びテレビをつけると乙姫が裁判にかけられていた。もちろんそういう番組なのだろう。そういえば「浦島太郎」も「おとぎ話」なのか。乙姫が渡した玉手箱の煙を浴びると三百年分時間が経つので普通は死ぬところ浦島太郎はたまたま風が吹いたおかげで老化するに留まったと検事が言っていた。こんな想像力があればどんなによかっただろうか。教育テレビでなくとも十分に面白いアイデアだ。そういうものが降りてくるのを待ってはいけない。もっと考えないといけない。と思いながら眠くなってきて布団に転がった。


 夕食の時に母親が「そういえば最近また増えたね、放送が」と言いだした。

「行方不明になるおじいちゃんおばあちゃんのお知らせは結構あったけど最近のは異常気象のだろうね、いつもちゃんと聞こえるわけではないからわからないけど」と母は言う。

「光化学スモッグか」と父が聞く。

「かもね」と母が答える。

「行方不明だとして死ぬほどあつい今どこかに出かけたりするかな」と訊ねると、

「老人って温度の感じ方おかしいって聞くし、おばあちゃんの家とか下の階のエアコン壊れてるみたいなんだけど平気そうにしてるっておじいちゃん言ってたし」と言われた。序に「親父もエアコンつけて仕事しなよ」と還暦オーバーの父親に苦言を呈しておいた。

 食後に検索を掛けて市のサイトを確認する。意外にも行方不明者情報や気象警報、不審者の情報は公開されている。まず気象情報のアラームの可能性を調べた。しかしあの時間帯に発令された情報は特にない。天気情報の載ったサイトに飛んでみても結果は同じだった。

 次に行方不明情報を見てみるとまず同じページに不審者の情報が山ほど書かれていた。面白いほど数多くの情報が載っている。圧倒的に五十・六十くらいの男性または女性が挙げられている。男児や女児に声を掛けたり腕を掴んだり逃げてもしばらく追いかけたり。下半身を露出したり。車で追いかけてくるという報告もあった。無数に不審者は存在するらしい。本当にこの地域での事件なのか。現実感がまるでなかった。刃物を持っている人間も山のように目撃されているようだ。この街の人々はなにかと戦っているのだろうか。

 夢中で不審者情報を見ていたのですっかり行方不明者の方を忘れていた。不審者と比較すれば圧倒的に数は少ないが確実に行方不明者は出ていた。殆どの情報には追記として無事保護されましたと書かれている。時間を確認すると昨晩あの時間に男性の行方不明情報が出ていた。『身長:百五十㎝台 体格:痩せ 年齢:七十代 髪型:白髪 服装:ズボン・運動靴 その他:丸顔・マフラー・眼鏡』と書かれている。服装が文字通りなら上裸だ。しかも真夏にマフラーをして出かけたことになる。老人の温度感覚がおかしいといのは本当かもしれない。この老人はまだ発見されていないようだ。そういう人がどれだけいるのだろうか。調べてみるとここ十年は年間八万人が行方不明になっているらしい。流石におかしいと感じたので資料をよく読むと所在確認数という項目があり殆どは発見されていた。平成二十八年に限定すると行方不明届の数から所持確認者数を引くと九百八十五人残った。どうやら昔はもっと本当に所在が分からない人というのは多かったようだ。こんなことは奇をてらう作風の人はみんな知っているだろう。特別の情報でもない。もっと突き詰めて調べている人はいる。ただこの酷暑に上裸マフラーでいなくなった老人はおそらく過去にいないだろうと思った。これこそ「おとぎ話」らしい話かもしれない。


 食後の眠気と格闘しながら履歴書を書き終えてから証明写真のストックがなくなっていることに気づいた。時計を見る。夜十時。心の底から面倒だったが日中行くよりマシだと思い着替え始める。引き続き「おとぎ話」のアイデアは降ってこない。スーツを着て外に出るとやはり気持ちの悪い暑さに満ちていた。夜から外出することが珍しいので子供じみたわくわく感を覚えたが後から現実として自分は履歴書に貼る証明写真のために喪服みたいなスーツを着て最寄駅に向かっているのだと思い出した。気持ちの悪さが増した。

 少し広い道路沿いに出ると出来たばかりのドラッグストアがやけに明るい。車も多く停まっていた。駐車場にはいわゆるヤンキーファミリーのような方々も見受けられ子供が騒ぎ親がドスの利いた声で怒鳴る様子が目に付いた。ファミリー予備軍のセミ・ヤンキーとみられる地元の中高生くらいの男女も奇矯な声で騒ぎながらたむろしていた。

 住んでいる家の周りの住宅街はいかにも閑静といった風だ。以前は道路沿いの道も車の音こそうるさくても人が騒ぐことは無かった。ドラッグストア一軒でここまで変わるのだろうか。夏の夜は明かりがあるところに人々が集るという現象を風物詩にはしたくないと思った。花火や祭りはすでにそういう現象と言えるのかもしれない。車の光沢がすべてカナブンの表面のように思えた。実はこの店舗が本当に蜜(ドラッグ)を売っていて静かな街の人々を狂わせようとしているのかもしれない。蜜を舐めた人はだんだん体が小さくなり虫に形が近づいてゆく。世界的に珍しい品種に成るので完成した人間虫を転売して儲けようとしている団体の陰謀だ。という「おとぎ話」はどうだろうと思った。書きたくなかった。それにこういう設定はありきたりだろう。少なくとも「おとぎ話」ではない。


 照明写真機内は更に暑い。自分の顔が二種類画面に表示されている。作り笑いに見事に失敗し引きつった口元。撮影開始前に何か面白いことを考えれば上手く笑えると思ったが何も浮かばなかった結果が目の前にある。マシな方を選択した。

 外が心なしか涼しく感じるのは写真機と駅が熱を閉じ込めたままだからだ。そういえば最寄駅からの帰り道に何かしら考えつくことは多い。今日も何かを思いつくかもしれない。なんてそれを意識した途端何も浮かばなくなる。邪心は良くない。ぼーっとしていた方がいいこともあるのだろう。

 ドラッグストアを横目に住宅街の方に入っていこうとした時だった。目の前に工事現場の誘導係がよく身に付けている反射材が肩に付いた服を着た集団がいる。よく見れば全員が老人だということがわかった。腰が曲がっている人や普段着の人もいた。計五人全員老人に見える。おそらく間違いはない。内二人は誘導用の光る赤い棒も持っている。光ってはいない。不審者だとは思わないまでも非日常的な光景だと感じた。「おとぎ話」のネタにはなるかもしれない。


 突然、カン、と唐突に音が響く。

 前方からだ。高温が強いがどこか甘さのある音。拍子木……? 歩きながら目を凝らすと先頭のおじいさんが両手で持っているのがわかった。柄の部分を糸で繋いである。おそらく拍子木で間違いないだろう。なんだ火の用心かと納得しようとしたが家でこんな音は聞いたことがなかった。回覧板や掲示板にパトロールについて見たこともない。帰りがあまり早くないからこの習慣も知らなかったのだろうか。

 前を行く五人は歩みがとても遅い。追い抜こうとも考えたが中途半端な距離感で動いているため小走りしなければならないだろう。余計な汗はかきたくなかった。たまにはゆっくり歩くのもいいだろうと思いそのままペースを揃えた。一緒に曲がり角を曲がった。

 それからも老人たちはゆっくり進み続けた。時折拍子木は鳴らされる。特に決まったタイミングで鳴らされている様子はない。集団の移動ルートはまるで自分の家に用事があるのかと思うほど一致していた。用事があるとは思えないが。地域の活動に親が関わっているという話はほとんど聞かない。それを叱りに行く集団なのだろうか。角を曲がる。

 先に老人ホームがあるのか。老人のシェアハウスがあるのか。ない。曲がり角を曲がる。

 成り行きとはいえこうしてゆっくりと歩くのは新鮮に感じる。普段歩く速度が速すぎるのだろう。見慣れているはずの住宅街の家々がよく見えた。この家の壁には模様があったのか。何枚かに一枚は側溝の蓋がずれていた。家々の窓を見ても電気はついていない。寝るのが早いのか。老人が多い住宅街だからかもしれない。

 カン。また拍子木が鳴らされる。普段スマートフォンを眺めたり音楽を聴いたりしながら歩いているからだろうか。デジタルは想像力を減衰させる。それが元々ある人ならばうまく使いこなすだろう。しかし頭が弱い人間は呑まれてしまう。曲がり角を曲がった。ふと横を見る。こんな家があったのか。しかし気づくとどこも電灯が弱い。そのせいで家の壁の色も判別できない。住宅街一体がとても暗すぎるような気がする。

 カン。聴くほどに耳に馴染む。心地よく思うようにさえなっていた。老人たちは特に会話をする様子もなくひたすらゆるゆる歩く。そういえば誰一人としてこちらを向いたり互いに言葉を交わしたりしていない。自分もただ歩いているだけでうしろは確認していないと気づいた。角を曲がる。

 カン。もう慣れた。とてもいい音だ。それから曲がり角を曲がり角を曲がってから角を曲がり角を曲がって角を曲がり角を曲がり角を曲がって角を曲がり角を曲がってから角を曲がり角を曲がって角を曲がり角を曲がり角を曲がって角を曲がり角を曲がってから角を曲がり角を曲がって角を曲がり角を曲がり角を曲がって角を曲がり角を曲がってから角を曲がり角を曲がって角を曲がり角を曲がり角を曲がって角を曲がり角を曲がってから角を曲がり角を曲がって角を曲がり角を曲がり角を曲がって角を曲がり角を曲がってまた角を曲がり角を曲がって先に見えてきたのは空き地だった。老人ホームもシェアハウスもないようだ。こんなところがあっただろうか。見覚えがない。

 カン。そういえばこんな場所もあった気がする。まだ家が建っていない。中途半端に雑草が生えている。工事が延期になったのだろうか。

 すると老人たちは空き地の前で突然足を止めた。倣って足を止める。それから拍子木を持った老人だけがゆらゆらと空き地の奥に向かって歩いていく。他の四人は動かない。自分も動かずそれを見届ける。

 そして二十メートルほど先に着いた老人は止まり体をゆっくりこちらに向けた。ちょうど空き地全体をちょうど半分に区切るくらいの位置だ。それから彼は自分の顔より高い位置まで腕を持っていく。それから拍子木が今までより強く鳴らされた。

 すると反射材を身に付けた二人が先に進んでいく。またゆっくりと時間が過ぎる。先に行った老人の少し手前に等間隔で左右に老人が立つ。残りの二人は少し進んですぐこちらを向く。位置は反射材付きの服を着た老人二人の直線上。

 カン。すると同時に手前の二人が手に持った棒を光らせ、回し始める。

「寝てるのか。気をつけろよ」急に誰かに話しかけられた。

「うん」と咄嗟に返事をしていた。後ろを振り向くと来た道一杯に人間が集まっていた。主に老人だがところどころに若者もいて先ほど見かけたヤンキーファミリーの親やセミ・ヤンキーもいる。子供はいないようだ。誰が話しかけてきたのかもわからない。なぜこんなところに自分がいるのかもわからない。

 カン。また鳴らされたので渋々左側に進んだ。進みながら後ろを見ると左右に分かれて人々が列をなしている。サッカーの入場の様だ。そういうことかもしれない。ひたすら前に進んでいく。時々振り返ると続々と着いてきているのがわかった。

 左側の老人の前に立つと右を向くように促された。どちらかといえば野球の試合前に観る光景だ。ぞろぞろと二つの列ができて向かい合う。誰も私語をしない。ただ粛々とコートに選手たちが並んでいくようだ。何が始まるのか自分にはわからない。周りの人間は知っているのだろうか。

 カン。特に言葉は無いがザッと音がしたので全員が姿勢を正したのだと思い身構える。横を見ると腰が曲がった老人はそのままで綺麗な線にはなっていなかった。

 すると反射板の付いた服を着た老人二人はおもむろにそれらを脱ぎ始める。流石に良くわからない光景だと感じる。いやそもそもなぜここに自分がいるのかもわからない。ただ何かに流されるままここに来た。スーツで。家に帰ろうとしたはずではなかったか。

 脱いだ服から老人は反射材をもいでいる。それから二つに折り曲げるとブチッという音が聴こえていた。するとものすごい光が放たれる。思わず目を背けた。そのまま恐る恐る目をあけて周りの人々を確認した。

 全員がその光を凝視している。

 カン!

 拍子木が一際は強く鳴らされた。途端に二人の老人はそれぞれに光を放つ物体を持ち上げた。それから見た目からは想像できない速度で空中に投擲した。思わず「はい?」と腑抜けた声を出してしまう。その声をかき消すように全員が。

「ヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲヲ」

 と叫び一斉にその光に向かって突撃を始めた。微動だに出来ない。

 なんだこれは。そういえば今まで拍子木以外の音は全く聞こえていなかったと気付いた。あの音にはそういう洗脳のような効果があったのかもしれない。そして急に音が戻った世界はあまりに騒々しくて思わず耳を塞ぐ。土煙が巻き起こっていて目に少し入った。そちらの目をこすりながら現状を確認した。

 騎馬戦やラグビーでしか見たことがないような地上での取っ組み合いが始まっていた。人々が狂っている。全員が光る反射材に向かって突撃し雄叫びをあげながら己が道を遮る相手をボコボコにしていた。暗がりなのでよく見えない。しかし中には刃物を持った老人や下半身を露出した男性も混ざっていることに気づく。今警察を多めに呼べばいいのかもしれない。急いで服を探ると今になってスマートフォンを家に忘れたと気付く。忘れたから現実から爪弾きにされたのか。そんなことはないだろう。おそらく選手のうちの一人だというのに一人ここから観戦していていいのだろうか。誰一人として人間らしい声を上げず獣じみた大乱闘を繰り広げている。あそこに混じる気にはなれなかった。

 死体のようなものは見当たらないが少しずつ人数が減っていく。わざわざ整列したのにチーム戦ではないことに途中で気づいた。不審者に分類される人種は来た道を走ってわらわらと逃げていくのも見える。特にルールは無いようだ。

 五分ほどで残りが三十人程度になった。比較するとおそらく百五十名は試合開始時点で参加していたのか。そこで一人見覚えのある老人に気づいた。正確には情報を見たことがあるだけだ。

 身長は百五十センチくらい。体格は痩せてガリガリ。年齢は七十代くらいだろうか。髪型は白髪。ただし想像以上に長髪で後ろに流している。漫画で強いキャラクターは大抵あんな髪型だ。服装はズボンに運動靴だろうか。半ズボンだ。靴もしっかり履いている。シューズにこだわりのある人が履くような一見歪な見た目の製品だ。その他には何が書いてあったか。眼鏡はしていないし丸顔かどうかは判別できない。きっと眼鏡は闘いの途中で落としたのだろう。そしてしっかり太く長い赤いマフラーを巻いている。見ているうちに自然とその老人を応援していた。

 格闘家なのだろうか。細い体ながらも一挙手一投足の動きが洗練されている。乱れがない。正確に他の老人の顎を打ち貫いていく。

 若者が何人か同時に飛びかかった時には、背の高い一人の股の間を潜り抜けて背後から羽交い絞めにした。不意を打たれた残りの若者は慌てて方向転換するが絞め落とされた男がその場に崩れて老人の姿は無い。キョロキョロ周りを見ている若者たちは順番に後ろを取られ倒されていった。

 何を観ているのか分かっていないが気づけばわくわくしていた。自分が参加していない事象に対してはどんなことも言える。スポーツでも舞台でも外から見ている分には何を感じてもいいし何を言ってもいい。だから娯楽として成立する。自分は全てを現実に預けている。流れに身を任せている。ただ楽しんでいる。責任を負わないから。

 残りは二人。投げた発光する物は二つ。ならばこの二人が勝者だろう。しかし気付いた。光はどこにも見当たらない。なぜだろう。そして残った二人は戦い始める。マフラーの老人とヤンキーの母親だった。

 ヤンキーの母が先に仕掛けるが圧倒的に動きが遅い。しかし老人は下手に動こうとしない。彼女には何か特殊な能力でもあるのだろうか。よく見ると老人の手を引こうとしているように見える。格闘ゲームで言うところの投げ技で相手を一撃で仕留める実力でもあるのだろうか。老人は相手の機敏とは言えない接触を避けながら自分の首に巻いてあるマフラーを解く。そして急にマフラーをたなびかせるように全力で走り始めた。背を向けて遠ざかる老人。ヤンキー母はそれを好機と手を伸ばしマフラーを引いた。張りつめて一直線となるマフラー。そして次の瞬間マフラーが消失した。

 直後ヤンキー母が吹っ飛ばされていた。マフラーが消えた瞬間に張りつめたマフラーに掛かっていた力が消えた。ゴムひもを引っ張り合って同時に離すと中心に落ちるが疑似的にそれが再現されたのだ。中心に向かって二人を引き寄せあう力が働いたのだ。なぜ自分が解説をしているのか。わからない。

 ヤンキー母はふらふらと立ち上がった。しかし攻撃する意思は感じられなかった。老人は一瞬で詰め寄り背後に回る。それから拳をストレートに放った。あっけなく戦闘は終了した。

 閑散とした空き地の真ん中に老人が立つ。やけに侘寂のある風景に思われた。老いの気配と死地を掻い潜ってきた猛者の佇まいが同居している。男ながら惚れ惚れする光景だった。生き様が滲み出るような存在。彼はこちらを睨んでいるようにも見えた。あれ?

 刹那、老人はこちらに向かって一直線に走ってきた。そうか。自分もこの闘いの参加者だったのだ。タンマ。負けました。みたいな言葉が出ればいいのになぜかうまく声が出ない。気付くと目の前に老人がいる。あ。丸顔だと思って目を閉じた。すると

「いい加減起きろ、体壊すぞ」


「え?」

 頭を小突かれて目が覚めた。見上げると父親が風呂場に顔を出していた。どうやら浴槽に浸かってそのまま眠っていたらしい。全身が熱くて仕方ない。

「お前、さっきも起こしに来たのにまだ寝てたのか」

「もう出る。流石にキツい」

 ああ。これではもうしばらく眠れそうにない。体中から汗が流れ続ける。拭いても拭いても止まらない。溺れる前に父が起こしてくれて助かった。

 さっきまで確かに夢を見ていた。しかしいつも自分は夢を覚えていられない。夢みたいな職業に就きたいと子供の頃から思っていたくせに見る夢は忘れる。もはや何が夢やら判別がつかない。というのは冗談だ。現実しかないのだ。因果を無視した奇跡が起きるおとぎ話みたいにはいかないのだ。結局三時になるまで体を冷まして汗が落ち着いたところで布団に入った。寝る前にふと瞼の裏に浮かんだのは夢の中で聴いたピンポンパンポンの音だった。夢か現実かははっきりしないがきっといいネタになる気がした。あの音は行方不明者のお知らせの時にも鳴っていたっけ……使える、はずだ。


「っていう感じなんですが、どうでしょうか……」

 文芸サークル『カシロドロコ』の編集会議は部員が増えて夜までかかるようになった。赤入れが終わった人や他に用事がある人は帰り自分と同期の大学四年生五人だけが残った。喫煙可のレストランに入って皆が煙草と酒を呷り始めた。自分は両方嫌いなのでしない。疲れてしまったのか内容を忘れたと言い編集長達は自分の作品を読み直していた。ここのピザは高いのに小さい。でもおいしい物は量まで求めるのはナンセンスなのだろうなと思った時だった。皆が口々に書評を述べ始めた。

「文章が読みづらいと思う。読点をもっと打ったら?」

「内容がよくわからない」

「というかオチもないしスベってる」

「独り言を延々聞かされてるのも腹が立ってくる」

「自意識過剰でうるさい」

「オチがないね」

「中身あるのかどうかが大事だと思う」

「あと曲がり角って何回も言うところとかダサい」

「それな。確かに使い古された表現方法だよね」

「結局想像力がないからこんな文章しか書けないんでしょうが。やり直して」

「具体名詞を避けるのは何で?」

「ジャンルは?」

「急にバトル始めてしかも長すぎ」

「ちゃんと伏線があればマシかもしれない」

「なんでこの作品を書いたの?」

「ありがとう。参考にするよ。遅い時間まで済まんな」

 店員を呼び止めよくわからない名前の酒を注文する。出てきたのは人工的な青色の飲み物だった。ブルーハワイの味がするかもしれないと思い期待しながら飲むと瞬間頭皮が引きつるような錯覚を覚えた。アルコールを飲むと違和感は覚える。それ以上にグレープフルーツの味がすることが最悪だった。高校時代に体育や部活の後そこらじゅうでこういう香料が入った制汗剤の液体を体にびしゃびしゃ塗りたくっていた人間がいたからだ。放置したかったがお金がもったいないので勢いよく飲んだ。会計を済ませて外に出る。店の前で解散した。ここから一時間半この酔いの気持ち悪さと格闘しないといけないのか。終電で寝過ごさないようにしなければ。他のメンバーと駅前で別れて電車に乗り込んだ。熱気と湿気と居酒屋の臭いが立ち込めている。何も考えないようにした。酔いは着実に全身に回り過去にない感覚に襲われた。ボールの上に立ってバランスをとっているようだ。殆ど閉じた状態の目で必死に駅名を確認する。乗り換える。自分が普段いかに姿勢が悪いのかがわかる。酔いによって体幹がないことに気づかされるとは思わなかった。眠ってはいけない。乗り過ごせば田舎に取り残される。帰る手段は無い。ゴムでできた昆虫になって玉乗りでもしているようだった。結局終電だ。乗り換えに失敗しないようにしなければ。寝過ごさないようにしなければ。こういう義務が嫌いなのだ。念のため帰るルートを検索しようと取り出した携帯の電池は切れていた。充電器に繋いでたった今来た電車に乗り込んだ。

 終電で帰り家に着くと深夜一時を過ぎていた。眠気と戦いながらの一時間半はいつだって身体に応える。いつも通り玄関の前でがさごそとバッグの中を漁り鍵を見つけて中に入った。夜とはいえ酷暑続きで体がいやにべたついていた。タバコや酒の臭いも染みついている。このまま寝るわけにはいかない。

『集計の結果、お題は「おとぎ話」になりました!』

 風呂場の前でだらだらと服を脱ぎながらおもむろにポケットから出したスマートフォンの画面にLINEの通知が入った。所属している文芸サークルのお題が決定したという連絡だ。この「おとぎ話」というテーマをどう用いようと自由なのだろうか。縛りとしては機能しないくらい抽象度が高い。自由は難しい。自分にはそういう自由を歩く足がないし実のところ小説はもう半年以上書いていない。散文を書くのも随分と久しい。欲を言えばもう少しお題は具体的であって欲しかった。

 ぼうっと眺めていると画面が暗くなり代わりに手の汚れが白く浮かび上がった。風呂に入ってさっさと寝ようと思った。その前にスマートフォンを濡れたタオルで拭いた。

 浴槽に入ると汗が止まらなくなるため滅多に浸からない。だが今日は疲労が取れるかもしれないと思い浸かることにした。疲労が余計に出るから避けていたのだったと、入ってから思い出した。明日は予定が特にないから気にしないことにする。

 それより「おとぎ話」だ。どんな作品が当てはまるだろうか。『赤ずきん』? 「童話」「昔ばなし」との差は? 判然としない。後で調べよう。お湯に浸かって数を数えるように思い浮かぶタイトルを列挙する。『赤ずきん』『白雪姫』『ラプンツェル』『はなさかじいさん』『かちかち山』『雪の女王』『女王の教室』『星の王子様』『テニスの王子様』『幸せな王子』『ぐりとぐら』『うろんな客』『うたのおにいさん』『現代社会』『労働』『オリンピック』『現実』『ニューヨーク』『お風呂に入っていい? というのを「ニューヨークシティ?」と言って通じるかどうか』……意識がぼやけていく。




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