第二次世界大戦次の軍艦の居住性の東西

醍醐

軍艦の居住性

第二次世界大戦時の大日本帝国と大英帝国の軍艦、特に巡洋艦には大きな違いがある。

そう、居住性の違いである。

たとえば、日本は戦闘能力を第一に考えるため(軍艦なのでそれが当たり前だが)居住性は最低限、二等兵などの居住性はそれ以下であることも普通であった。

書名は忘れてしまったが、元乗組員が書いた著書で戦前に四等兵だった著者がハンモックすら使えず、配置場所であった砲塔内で寝ていたという記述があった。

(記憶違いだったらすみません。)

現に、イギリス人から飢えた狼などというニックネームを付けられた『足柄』という例も存在する。

一方、イギリスは装甲の厚みや火力を削ってまでも居住性を高めていた。架空戦記などでは、英国艦と戦闘する際に他の列強と比べて装甲が薄いと記載されている場合が多いように思う。

(火力は、アメリカあたりが強すぎる気がしなくもないが)

この違いはなぜだろうか?

筆者は、運用面と人という面から考えてみようと思う。

大日本帝国海軍が、本土周辺、遠くとも第一次世界大戦で手に入れた領土であるマーシャル諸島辺りまでを作戦海域と想定しており、長くとも3ヶ月で寄港できたからである。

ただ、漸減邀撃作戦を長らく研究していたのなら、駆逐艦や潜水艦の居住性ももう少しマシにすればよかったと思うが。

また、大日本帝国海軍は脳筋的な考えや精神論を振りかざす輩も多かったと思う。陸軍よりはマシだと信じているが。

水兵辺りは、消耗しても徴兵すればいいと思っていた連中もいたかもしれない。精神的なケアなんぞ、ほとんどの幹部が考えもしなかっただろう。

対して、大英帝国海軍は、当時本国のあるヨーロッパだけでなく、紅海やインド洋、南シナ海等というヨーロッパから見れば辺境の地まで展開する必要があった。

なぜか?

それは、スエズ、シンガポール、香港等等交通や経済的に重要な要所、インドを始めとする植民地等を守る必要があったからだ。

しかし、世界中に植民地を持っているなら休むべき港もたくさんあり、居住性を損なう必要は薄いと考える方も居るだろう。

だが、当時の世相を考えるとイギリス人は植民地人がたくさん居る土地で心ゆくまで休めただろうか?

仮に休めたとしても、司令官や艦長など、艦の幹部だけで大半の将兵は休めなかったかもしれない。

おまけに、世界各地に十分な規模の港を作る財政的余裕が乏しかったのかもしれない。

筆者が考えるに、極東だけでみても満足に休めたのは、シンガポールとオーストラリアぐらいではないだろうか?

そこで休むと後は小さな港や補給を受けるだけで本国に帰還しなければならない。

水兵らの健康や精神的疲労も深く考えなければいけないだろう。

それらを損なわないためには、長い航海でも士気と健康を損なわせない高い居住性が求められたのであろう。

以上のことから、運用スタイルの違いと水兵に対する見方の違いから居住性に対する差が生まれたと考える。

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