ノミの一生

佐野心眼

ノミの一生

 まことに小さなお話でございます。


 とあるネズミの背中の毛の中で、とあるノミが産まれました。名は『ノミ助』と申します。産まれてこのかたネズミの体から出たことはございません。ネズミの毛の中でぬくぬくと育ち、ネズミの血をチュウチュウとんで、何不自由なく暮らしておりました。

「うい〜、心地ここちいいね〜。家は小さいけれども、暖かいし、呑み物にゃ困らねえ。こんな極楽ごくらくありゃしねえ。」

 毎夜のことでございます。夜中になるっていうと、ノミ助の家がチョロチョロと動き始めます。あっちのゴミ箱、こっちのゴミ箱、何か美味いもんはないかっていうので、方々をあさりだしました。

 当然、夜の暗がりの中でございます。辺りはほとんど何も見えません。そこへいきなり、何処からか声がしました。

「おう、ノミ助!呑兵衛のんべいのノミ助じゃねえか。今夜もご苦労だね!」

「わあ、びっくりした!なんだ、ゴキ太郎じゃねえか。驚かすんじゃねえよ。俺はノミの心臓なんだからな。」

 ノミ助に声をかけたのは、近所に住むゴキブリのゴキ太郎でございました。

「ああ、驚かして済まねえ。毎夜毎夜のお仕事、ご苦労さん。」

「別に俺は何にもしてねえよ。俺の家が勝手に動いて、勝手に働いてんだからねえ。」

「するってえと、お前さん、何かい?ニート⁈」

「…ん〜、まあ、ニートなんてかっこうのいいものなのかねえ。俺はただこの家に住んでチュウチュウと血を呑んでるだけだからねえ。」

「それを『ニート』ってんだよ!」

「あっ、そう⁈俺『ニート』っていうんだ。知らなかったよ、そんな仕事があるなんて。」

「いやっ、だから仕事じゃねえよ!仕事がねえからニートなんだよ‼︎」

「…ああ、そう。つまり、俺は無職ってことかい?」

「ええ⁈今まで気が付かなかったのかい?俺をごらんよ。毎日毎日自分の足でえさを探して、あっちをウロウロこっちをウロウロ、汗水あせみずらして必死になって働いてんだよ。

 それに比べてお前さんはどうだい?一日中呑んだくれて、家にこもったっきり少しも出で来やしねえ。少しは家から出てみたらどうだい?」

「いや、俺はこれでいいんだよ。俺は動かなくとも、家が勝手に動いて、勝手に餌を食って、丸々と太って、それで俺に栄養たっぷりの美味しい分け前をくれる。こんな素晴らしい仕組みは他にありゃしねえ。」

「いいご身分だねえ。俺もそんな暮らしがしてみてえや。」

「そうだろう?ほら見ろ、何だかんだ言って俺のことがうらやましいんだろ?住んでる所も銀座だからな。」

「そら、お前が銀座に住んでんじゃなくて、ネズミがたまたま銀座に住んでんだろ?道一本向こうに行きゃ築地じゃねえか。そのネズミも、たまには築地にも顔を出すだろ?そしたら住所は築地になるじゃねえか。」

「そいつは俺が決めることじゃねえ、家が決めることだ。」

「偉そうに言うんじゃないよ。俺は自分の足で、銀座でも築地でも好きな所に行けんだからね。」

 そうこう話をしておりますと、暗闇くらやみの向こうに“ピカッ”と二つ光るものがございまして、その光が、そろりそろりと近付いてまいります。

「おい!ゴキ太郎。ありゃネコじゃねえか?」

「ああ、どうやらネコみたいだなあ。食われるといけねえ、俺はおさらばするぜ。」

「おい!ちょっと待ってくれよ‼︎……ああ、行っちまった。まったく、すばしっこい野郎だな。しかし何だな、俺の家は餌に夢中で、どうやら危ない状況が分かってねえらしいな。しょうがねえ、俺が教えてやっか。

 やい、俺ん家!ネコがそこまで来て、お前さんを美味そうにジーっと見てるよ。もたもたしてっとネコにパクッとやられちまうぞ。お〜い、俺ん家‼︎」

 ノミ助の声があまりにも小さいので、ネズミにはまったく届きません。狙いすましたネコはパッと身を伸ばしてネズミの腰から下をガブリ‼︎

 間一髪、ネコの口から逃れたノミ助はピョ〜ンとネコの背中に飛び乗りました。

「ほ〜ら、言わんこっちゃねえ。あれだけ教えてやったのに…。

 ああ、ああ、俺の家が…長年住んできた俺の家が…飲み込まれちまったよ…。困ったなあ、これからどうすっかなあ?

 …ん?待てよ、なんだかここはネズミより毛がフカフカしてて暖かいな。家も前より広くなってるし、住み心地抜群だねえ。そうか⁈どうやらこれは神様仏様の思し召しに違いない。『捨てる神ありゃ拾う神あり』ってね。どうやら良い引越しが出来た。」

 ノミ助がネコに引っ越して七日ほど経ちました。相変わらずノミ助はフワフワの毛に包まれて、美味しい血を呑んで幸せな暮らしをしておりました。

 しかしネコっていう生き物にはどうも困った習性がございます。大きな道路でも平気でピューッと飛び出してまいります。ノミ助のネコも例外ではございませんでした。沢山の車が行き交う大通りを、今にも渡ろうとしているじゃありませんか。それに気付いたノミ助の小さな心臓はもう破裂しそうなくらいバクバクしております。

「おいおい、よせよ。あっちからもこっちからもトラックがビュンビュン走って来るじゃねえか。こんな所を向こうまで走って渡るなんざ、正気の沙汰さたじゃないよ。せっかくいい物件に巡り会ったのに、俺までお釈迦しゃかになっちまう。お〜い、俺ん家、後生ごしょうだから渡るんじゃないよ!」

 言い終わるが早いか、ポ〜ンとネコは勢いよくまっしぐらに大通りへ飛び出しました。ノミ助は、もう生きた心地がいたしません。ネコは5、6台の車をギリギリのところで上手くかわして、反対側の歩道まであと少し、あとほんの少しの所までやって来たとき、ドーンとトラックにねられてしまいました。

 ノミ助は「ギャ〜!」と小さな声で叫びながら、ネコから振り落とされ、宙を舞って、奇跡的にそこで散歩をしていたイヌの背中に着地いたしました。

「ああ、ああ、まただ…。また俺ん家が…、あんなに住み心地の良かった俺ん家が…ぺったんこになっちまったよ。何で俺ばっかりがこんなひどい目に会うんだろうねえ…。世の中、神も仏もありゃしねえじゃねえか、畜生!こんな不幸な人生なんか、俺はまっぴらだ。」

 ノミ助がおいおいと泣いておりますと、イヌの毛の森の向こうから声がいたしました。

「お前さん、何かあったのかい?」

「どうもこうもありゃしねえや。最初に住んでた俺ん家が食われて、次に引っ越した先の家もついさっきつぶれて無くなっちまった。俺はこれからどうやって生きて行きゃいいんだ…」

「それだったら、お前さんここに住めばいいじゃないか。」

「え?ここ⁈」

「そうだよ、ここだよ。」

「ここはどこ?あなたはだ〜れ?わたしはだ〜れ?」

「何馬鹿なこと言ってんだよ、この人は。ここはイヌだよ。あたしゃ『おノミ』ってんだよ。お前さんは?」

「俺は『ノミ助』ってんだ。…ってことは、ここは俺の新しい家ってことかい?」

「まあ、そういうことになるねえ。ここで会ったが百年目だ。あたしと夫婦になりな!」

「お前、体もでかいけど、態度もでかいねえ。」

「嫌なら出てお行き!」

「わ、分かったよ、ここに置いておくれよ。地獄に仏とはこのことだ。俺の運もまだまだ捨てたもんじゃねえやな。有難ありがたく『ノミの夫婦』になろうじゃねえか。

 …こうして落ち着いて見渡すと、イヌってのは随分ずいぶんと広いねえ。お屋敷やしきというか御殿ごてんというか、ここなら子育ても楽に出来るってもんだ。」

 夫婦になったノミ助とおノミは、どんどんと卵を産みました。やがて卵はかえってノミの大家族となります。生まれてきた息子達や娘達を見て、ノミ助はしみじみと自分の人生を振り返ります。

「いやあ、今まで色々大変な思いをして来たが、かかあも出来て、子供にもこんなに沢山たくさん恵まれて、立派なお屋敷に住んで、俺は幸せ者じゃねえか。」

 さて、ここで困ったのがイヌとその飼い主でございます。このイヌは家の中で飼われていたのですが、飼い主がイヌの様子を見ておりますと、どうもおかしい。かゆくて痒くてたまらないようで、体のあちこちをしきりにいております。それどころか、飼い主も何やらあちこち痒い。よくよくイヌの毛並みをかき分けて調べて見ますと、あちらにもノミ、こちらにもノミ。まるで黒胡麻を振ってかけたようでございます。これを見た飼い主はすぐにノミ取りスプレーを買って来て、自分とイヌの体中にシュッシュッとまんべんなく薬をかけました。

 こうなると今度はノミ達の方が堪ったものではありません。

「うわぁ、何だこれは⁈毒ガスじゃねえか!おい、おノミ、大丈夫か?」

「あたしゃもう駄目だよ。子供達は?」

「全員無事かどうかは分からねえよ。」

「早く、早くお前さんだけでも逃げておくれ…」

「おノミ、まねえ。堪忍かんにんしてくれ!」

「いいんだよ、さ、早く…。そこに小さなクマがいるよ。早くあっちへお逃げ…」

 ノミ助は渾身こんしんの力でピョ〜ンと小さなクマに飛び移りました。

「畜生!やっと所帯しょたいを持ったのに…。子供達も生まれて、広い屋敷に住んでいたのに…。また振り出しに戻っちまった。」

 しばらくノミ助が小さなクマで泣き明かしておりますと、イヌの飼い主がスマホを取り出しまして、クマの写真をパシャリと撮りました。

「何だ⁈こんなときに記念撮影なんかしやがって!はい、ポーズ…ってやってる場合か⁈

 あれ?俺の新居を箱に入れやがったぞ?あっ、ふたを閉じて密閉みっぺいしやがった!さては俺をここに閉じ込めるつもりだな。フン、そんなことしたって無駄だい。クマの血を呑んでりゃ俺は生きて行けるんだからな。

 …あれ?なんだか揺れてるぞ?ははあ、この音はトラックだな。クマを何処かへ運ぼうって魂胆こんたんか。クマってことは、行き着く先は動物園だな。動物園なら他にも色んな動物に寄生できるぞ。こうなりゃ新天地で暮らしていくまでよ。思う存分色んな血を呑んでやるから待っていやがれ!その後は『血のソムリエ』にでもなろうかな、へへへ。

 はあ〜、気が付きゃ血の酔いがめちまったなあ…。とりあえずクマの血でも呑むか。

 …あれ?呑めないねえ。…変だねえ。…何だい、こりゃ?中から綿が出てきやがった。…しまった、こいつはクマの縫いぐるみだ!…てこたあ、この縫いぐるみを売っ払うつもりで写真撮って箱に入れやがったんだな⁈ああ、そそっかしいねえ。慌てて逃げ場所を間違えちまった。

 …おや?何だかドンブラコドンブラコと揺れているねえ。さては今度は船に乗せやがったな。一体俺を何処まで連れてくつもりだよ?ハワイか?グアムか?サイパンか?タヒチなんてのも洒落しゃれてんねえ。えへへへ…。

 それより腹減ったなあ。空きっ腹の血は酔いが早いんだよなあ。佃島だったら近いから有り難えんだがなあ。ここまで長いことられてるってことは、佃島じゃねえだろうなあ。何処でもいいから早く着かねえかなあ。お〜い、誰か〜、助けてくれー!」

 ノミ助の小さな叫びは、誰にも届きません。

 やがて数日経った頃のこと、大海原でにわかに台風が発生いたしまして、ノミ助を乗せた船が大しけに巻き込まれます。ザブ〜ンザブ〜ンと幾度いくたびも大波を食らいますと、積み過ぎた船荷もろとも船はあっという間に転覆。積荷は崩れ、船内は水浸しの沈没寸前。そこへ追い討ちをかけるように、さらに大波がバシャ〜ン、ドドドーッ。船は縫いぐるみもろとも波に飲まれてブクブクブクブク……。

「いけねえ、呑兵衛のんべいまれちまった。」


 どれもこれも、ノミ助以外の者にとっては、小さなお話なのでした。

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