第三十九話 紅葉賀

 明け方のキンと冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。


 これから起こることに緊張している体の熱が、幾分か冷めないかと思ったが、緊張は上回ったままだ。


 馬上にいる楓を見上げる。だが、楓も緊張しているのか、視線を前に向けたまま勇輝の方を見ようとしなかった。


 今日の楓は、いつもの白衣びゃくえ姿ではなく、色付く紅葉で染め上げたかのような赤の狩衣に、艶めく葡萄を彷彿させる紫の狩袴かりばかまで身を包んでいた。

 その手には、弓。黒塗りの見事な弓を携えて、立派なくらの上に跨がる姿は、瑞々しい若木を思わせた。


 楓の隣には、青羽が控えていた。青羽も今日の『紅葉賀』のために、立派な着物を着て、馬に跨っている。その様子を見ると、やはり楓と青羽は信頼で結ばれた主従なのだと実感する。


 周りにはたくさんの人や馬がいるのに、皆、身動みじろぎするのすら忘れたようにその時を待っていた。


 遠くのほうでは、人の立てる音や犬の鳴き声、それに多数の獣の気配がしている。だが、まだそれは遠くの気配にしかすぎなかった。

 遠くの騒がしさとは対照的に、こちらは静かだった。気配を殺すかのように、人も、馬も皆動かなかった。


 山は紅葉で真っ赤に染まっている。薄曇りにけぶる中でも、その色鮮やかさは失われない。


 太陽が稜線から離れ、何となしに空気が温んだその時だ。


 犬の鳴き声がはっきりと聞こえ、それに追い立てられた鹿が藪から飛び出して来る。


 それは、立派な角を持った雄の鹿だった。


 鹿の姿を認めた人々の視線は、この宴の主催者――三条家当主へと集まる。その視線は、どことなく期待を孕んだものだった。

 例えるなら、そう。餌を前に「待て」をしている犬のような。目の前の獲物にかぶりつきたくても許可がないから動けない、けれど、すぐに許可が出ると知っている忠犬のような視線だった。


 三条家当主は、その視線をたっぷりと集めた後、かたわらにくつわを並べている楓に目で合図をした。


「楓。一ノ矢はお前が射れ」

「はい」


 合図を受けた楓は、人の群れから一騎、駆け出した。静かな山に、馬の駆けるどどっ、どどっと言う音だけが響く。

 彼が繰るのは見事な栗毛の牡馬。立派な体格のそれを見事乗りこなし、人馬一体となって鹿へと肉薄していく。


 鹿は楓に気がつき、躊躇するように一瞬、その動きを止めたが、楓が単騎と侮ったのか、迫りくる犬に怯えたのか、そのままこちらへ突っ込んできた。


 その姿を見ても、楓に動揺はなかった。

 落ち着いて馬を走らせると、馬上でスッと矢をつがえる。


しょぅ!」


 勝負は一瞬だった。鹿と楓がすれ違う。

 その瞬間、楓の手からひょうと矢が放たれた。その矢は一直線に鹿の首を貫く。矢を受けた衝撃で、鹿の足が乱れる。


「お見事!」

「天晴れ!」


 周りから歓声が上がる中、鹿は惰性でしばらく走った後、どうっと倒れた。倒れたまま、ジタバタともがいているが、立ち上がれそうにはない。


 楓が馬のくつわを回して、悠々と陣へと戻って来る。その顔は、獲物を仕留めた達成感と、重圧の中、見事に己が力量を見せることができた満足感で輝いていた。


「我が息子ながら、天晴れ! ――さぁ、各々方。いずれ世代が変われども、今はまだ我らの時代。このような若輩に負けてはおられませぬぞ。存分にその腕、見せていただきましょう!」


 その当主の声が合図になったかのように、風下から次々と鹿が飛び出して来た。鹿を追い立てる背子が鳴らす鐘の音や犬の鳴き声であたりが一気に騒がしくなる。


「二番手は、我が!」

「いや、私が!」


 そう言って、馬に乗った貴人が駆け出していく。先ほどまで静かだった山が、途端に喧騒に包まれる。



 「巻狩り」が始まった。




   ◇ ◇ ◇




 『紅葉賀』は、紅葉の季節を楽しむ秋の宴だ。三条家では、楓の生まれた日に併せて毎年行われているらしい。

 三条家の紅葉賀に招かれるのは、勿論、三条家に縁のあるものばかりで、当然、武人が多くなる。それでただの紅葉狩りではつまらないと、山へ行って狩りをし、その後、獲った獲物で宴を開くようになったのだそうだ。


 こんな宴の流れは、一般的とは言い難いが、三条家は所領の山の豊かさを、招待客はその技量を見せることができ、双方に好評なのだとか。


 うだつの上がらぬ武家の三男坊が、紅葉賀で腕前を見せ、貴人の側仕えに取り立てられ、頭角を表したと言う話は、珍しい話ではない。それ故、腕に覚えのある武家の三男や四男が、借金をしてでも参加したいと思うのが、この紅葉賀なのである。


 『紅葉賀』では、巻狩りが行われる。巻狩りとは、大勢の『勢子せこ』が犬と共に獲物を射手のところまで追い立て、仕留める狩りの一種である。人と犬と馬と、獲物と。それらの気配が入り乱れ、普段静かな山は、お祭り騒ぎの様相をていしていた。

 その他の狩り方では、気配を殺し、獲物の痕跡を探し、根気強く待つ必要があるが、巻狩りにはそれがない。多数の勢子と犬によって追い立てられた獲物を、馬で追い、仕留めるのは爽快である。それ故、貴人、特に武人に好まれている。



 だが、その近習達にとっては――。




   ◇ ◇ ◇




「う、く、おぉぉ」

「んんん〜〜」


 勇輝と楓の介添えである松風が、それぞれ鹿の前足と後ろ足を持って、ぷるぷるしていた。

 最初に楓が仕留めた牡鹿。それよりもはるかに小柄な、小鹿とでも言えそうな鹿を二人で陣にまで運ぼうとしているのだ。だが、二人の頑張りに反して、その小鹿は毛ほども動いていなかった。


 死んだ動物が、こんなに重いとは勇輝は知らなかった。

 妖とは違った重さに、これが命の重さか、とどことなく神妙になってしまう。

 神妙になっても、小鹿は寸毫すんごうも動かなかったが。


 勇輝は知らなかったが、これは重いと言うよりも持ちにくいのだ。死後硬直も始まっていないため、グニャグニャして、どうにも安定しない。その上、獲物――戦利品でもあるため、引き摺っていくわけにもいかない。それで、松風と二人、苦戦していた。


「お前ら、何してんだ」


 そこに辰馬が現れ、三人がかりでようやっと小鹿を陣へと移動させることができた。


 肩で息をする二人に、竹筒が差し出される。その中の水を、喉を鳴らして飲む。

 ぷはっと息つくと、勇輝ははしたなくも狩衣の脇から手を入れ、服の中に風を送った。涼しいどころか寒い季節だが、これだけ動けば汗もかく。


 狩衣が泥や汗にまみれ始めているのを見て、「あー、借り物なのに」と小さく呟いたら、それを辰馬は耳聡く聞いていた。


「借り物? 楓様が、着物を仕立てるとか仰っていなかったか?」


 それは、勇輝にとって訊ねられたくない事だった。辰馬の疑問に、勇輝の眉間にシワがよる。


「おい、不細工になってんぞ」

「うるさいな。いいの。……仕立てるって言われたけど、遠慮したんだ」

「何でだ? 折角だから、作って貰えばよかったのに」


 辰馬が能天気ともいえる一言を漏らす。何を作るか知らないから、言える言葉だ。


「……楓が仕立てるって言ったのは、女物なんだよ。そんなの着てたら、近習の役目が果たせないだろ」


 はぁ、とため息混じりに勇輝が返した。


 勇輝は、武家の養子になったと言えど、その家はあまり位が高くない。それゆえ、渾天院規定の服以外は、録な衣装を持っていなかった。


 『紅葉賀』の打ち合わせをしている時に、そのことが発覚し、楓が衣装をあつらえると張り切り出した。だが、楓が仕立てようとした衣装は、女物だった。それを着て、巻狩りが行われている時は屋敷で待っていろと言われたのだ。


 もちろん、勇輝はそのことを承諾しかねた。自分は近習なんだ、側にいなくてどうすると楓と喧嘩になりかけた。だが、「楓の側にいたいんだ」と泣き落としたところ、あっさりと女物の着物を諦めさせることができた。

 それで、今日は、青羽の昔の衣装を借りて、巻狩りに参加している。


(あぁ、でも、こんなに大変なら、屋敷にいてもよかったかも……?)


 巻狩りの大変さは、始まってからの一刻で、いやと言うほど身にみた。


 楓たちは騎乗し、近くに追い立てられてきた獲物を狩るだけでいいのだが、下働きのものはそうはいかない。


 獲物を追い立てる者。

 その進路を邪魔しないように気を付けて主人についていく者。

 仕留められた獲物を、陣に運ぶ者。

 その獲物が臭わないうちに、さばく者。

 ツノなどの戦利品があれば、仕留めた人物ごとに整理しておく者。


 ざっとした働きだけでもこれだけあるのだ。


 近習の中で、ある程度、役割分担がなされていたが、それもある程度だ。人手が足りなくなれば、手伝わざるを得ない。お互いが融通しあって、巻狩りが滞りなく行われるように近習達は朝から走り回っていた。


 しかし、騎乗した者にとっては、そんなこと思慮の外のことだ。彼等はこの山狭しと縦横無尽に駆け巡る。それに、二本足で付いていくのは、なかなか骨が折れることだった。


 騎乗した者たちは、下など見ない。視線は遠くか獲物を見ている。


(全然、目、合わないな……)


 せっかく、一緒にいられるよう、狩衣を選んだと言うのに。

 楓は、近習たちの方へちっとも目線を動かさない。それは、仕方がない。なぜなら、楓は常に父親を探していたからだ。きっと、父親と一緒に狩りができるのが、本当に嬉しいのだろう。その瞳はきらきらと輝き、頬は興奮で赤く染まっていた。


 楽しそうでよかった、と思う反面、その楽しいことを共有したいと思う。

 それは、勇輝の思い上がりだろうか。近習の身分で、主人と同じ思いを共有したいなど。


 でも、楓が楽しい時も、寂しい時も、いつも一緒にいて、その気持ちを分け与えられたら、そんなに素敵なことはないと、勇輝は心の奥底で思っていた。

 だから、今、楓が遠くへいってしまったように思えて、寂しいのだ。


「次、行くぜ」


 辰馬にそう促されて、重い腰を上げる。


 巻狩りはまだ始まったばかり。

 近習であることを選んだからには、この労働から逃げるわけにはいかない勇輝だった。

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