第三十八話 風波

 伊吹との話し合いが終わった後、楓は勇輝の手を取ると、無言でずんずん進んで行った。


 その足取りから、寮へ帰るのだとわかる。

 楓は一言も話さない。だから、勇輝も何も言わなかった。


 そもそも、勇輝は怒っているのだ。

 小姓のように扱われて。人前で、あんな、恥ずかしいことを宣言されて。

 だから、勇輝は怒っていることを主張するために、楓に話しかけない。いつもだったら、楓の機嫌を取るためにいろいろするのだろうが、今日、怒っているのはこっちなのだ。だから、楓が勇輝の機嫌を取らなければならないはずだ。


 だというのに、楓は何も話そうとしなかった。繋いだ手は、痛いくらいに握られている。だが、真っ直ぐ前だけを見て、ずんずん進むのだ。


 まるで、怒っているのは自分だと主張するように。


 講義棟を出るまで、勇輝は強気だった。

 楓が謝ってきても、今回ばかりは許せないとカッカしていた。


 だが、講義棟を出て、道場の横を通る頃には、――物理的に外が寒かったのもあって――少し頭が冷えて、言い過ぎだったかもしれない、と思うようになってきた。


 確かに楓の言動は許せないものがあった。だが、それに過剰反応をして、「顔も見たくない」なんて、言い過ぎだったかもしれない。嫌なことを言われたとはいえ、怒りちらすのは、年長者として恥ずべきことだ。


 ……もしかして、勇輝がそう言ったから、楓は今、振り返ろうともしないのだろうか。

 「顔も見たくない」と言った通りに、顔を見せてくれないのだろうか。


 寮の入り口に差し掛かった時には、勇輝は「楓が謝ってきたら、大人な僕は許してやろう」という気になっていた。

 まだ、怒ってはいる。だが、自分はそんなに狭量ではないのだ。楓が素直に非を認め、謝るなら――そして、きちんと近習として扱ってくれるなら、許してあげなくもない。


 勇輝は、「自分は怒っている」と主張するように口をへの字に曲げていたが、それには多大な努力が必要になりつつあった。


 寮の階段を登る頃には、への字口は消え、だんだん不安になってきた。

 だって、楓が何も話さないのだ。なのに、ずっと手は繋いだままだ。

 楓が何を考えているのかわからなくて、勇輝は心配になってきた。

 怒っているのはこっちなのに。先に嫌なことをしたのは楓の方なのに。


 そんなことを考えているうちに、楓の居室へと辿り着いた。「入れ」なんて、端的な言葉で楓が入室を促す。

 だが、この部屋は今、勇輝の部屋でもある。だから、楓が許可を出す必要もないはずだ。なのに、わざわざ宣言したせいで、勇輝は楓の領域に入るのだと殊更意識してしまった。


「楓様、お帰りなさいませ」


 帰ってきたのに気がついた青羽が、二人を出迎えた。楓はそれに返事することなく、端的に問いかける。


「風呂は」

「……準備できております」


 語尾に「が……?」をつけなかったのは、青羽の近習としての有能さの表れだろう。優秀な近習は、主人のすることにいちいち疑問を挟まない。青羽はひと目見て楓の機嫌が悪いことを察し、次いで勇輝に視線を投げかけた。


 何をしたんだ、と目線で問いかけられるが、怒っているのはこっちだよと口の動きだけで返すと、やれやれと言わんばかりに首を振られた。


 楓は、勇輝を脱衣所まで引っ張っていく。


「ちょ、楓!?」


 どういうつもりだと思わず声をかけるが、やっぱり楓は黙ったままだ。

 青羽の後ろから、松風や辰馬も心配そうに顔を出す。だが、その顔もすぐに脱衣所の扉に阻まれて見えなくなってしまう。ピシャリと音を立てて、楓が扉を閉めたからだ。


「……楓?」


 勇輝が声をかけると、楓がギロリと睨み上げてきた。


「お前が無邪気に喜ぶから、近習ごっこに付き合ってやっていたが……」


 そんなことを言われて、反射的に言い返してしまう。


「何それ! 僕は最初から、『近習だったら』って言ってたよね!」

「『近習』でも、『小姓』でも、呼び名はなんでも構わん。お前は俺の近習ものになるのを了承したのだろう?」

「僕は、構うよ。『近習』と『小姓』じゃ、全然違うじゃないか」


 勇輝の言う通り、『近習』と『小姓』では、仕事の内容が全く違う。そのことを指摘したが、楓はそんなことと一蹴する。


「俺は、お前が側にいれば、呼び名はなんでも構わんのだ。お前が喜ぶから、『近習』としていただけだ」


 実際、楓には近習が十分すぎるほどはべっている。勇輝が一人、増えたり減ったりしたところで、生活に何ら変わりはないのだ。

 なのに、なぜ、勇輝を近習にしたか。それは、勇輝を自分の庇護下にあるものだと、声高に主張する為だけに他ならない。

 その楓の思考を、勇輝はいまだに理解できない。それは、自己防衛本能からの理解の拒絶であったが、勇輝はそれを自覚していなかった。


「お前が、近習が嫌だと言うなら、近習ごっこはもう終わりだ」

「――っ!!」


 「楓のものじゃない」と主張する事は、近習を辞めると言う事と同義である、と言うことに、今更ながらに気が付く。自分が言い出した事であるのに、楓の口から言われると、衝撃だった。


 そうは言っても、楓は自分を見捨てない。

 そうタカを括っていたのだろう。


「そ、れは――」


 勇輝の言葉が途中で途切れる。それに構わずに楓が言葉を重ねた。


「俺は今から風呂に入る」


 話が終わっていないのに、風呂?と思ったが、それは話の続きだった。


「お前は、自分で選ぶんだ。――このまま、きびすを返して脱衣所ここから出ていくなら、俺は今をもって、お前に関わらない。俺は、伊吹隊も辞める。お前も、俺の近習をやめて、ただの勇輝に戻る。どこかで会っても、俺とお前はただの他人だ」


 それは、絶縁を意味していた。その決意の重さに、勇輝は怯む。


「だが、それが嫌だと言うなら、風呂場に入って、俺の背中を流すんだ」


 楓はそこで、言葉を切った。勇輝の瞳をじっと見つめる。そこには、どこか熱望するような色があった。


「そうするなら、俺はもう、遠慮しない。お前も、諦めて全て俺のものになれ。――俺じゃない。お前が決めるんだ。俺は、お前の決定に従う」


 楓はそれだけ言うと、もう言う事は全て言ったとばかりにさっさと服を脱いで浴室へと入って行った。


 脱衣所に一人残された勇輝は、すぐには動けなかった。




   ◇ ◇ ◇




 実際、楓のこの行動は、一種の賭けだった。

 勝算があったわけではない。だが、ああ言えば、勇輝はきっと自分のことを切り捨てられないだろうと踏んだのだ。


 楓は、浴室の中に置いてある、小さな木の椅子に座って待った。

 腰に手拭いをかけただけの姿だったが、寒くはない。浴室には温かい湯気が充満していたからだ。


 楓は、自分の家の持つ力に自覚的だった。

 この浴室も、風呂を用意する近習も、全て自分の家の持つ力のおかげであると言うことをよく理解していた。


 だが、勇輝は。彼女はそれを「いらない」と、一度は蹴った。それでも、今、自分のそばにいるのは、楓が懇願したからだ。彼女の情に訴え、我儘を言い、それを受け入れてもらったからだ。


 それならば。勇輝には、家の権力をちらつかせるよりも、情に訴えた方がいいと踏んだ。


 絶縁は、本気だった。だが、それほどまでに強い言葉を使えば、勇輝は尻込みするだろう、と言う打算もあった。そして、勇輝は自分がどれほど我儘を言っても、離れていかないだろうと言う願望に近い確信もあった。



 ――果たして、楓は、賭けに勝った。




 カラリ、と軽い音がして、ヒヤリと冷たい風を感じた。

 それは脱衣所からの風だった。不快であるはずの冷気を受けて、楓は叫び出しそうな喜びを感じた。


 振り返ると、湯文字ゆもじをつけた勇輝の姿。顔を真っ赤に染めて、自分の体をいだくようにして立っていた。


「楓、あの……」

「いい。何も言うな」


 楓は恥ずかしがる勇輝の腕を取って、引き寄せた。


 緊張からか、冷えた体が心地よい。自分かえでのことで、こうやっていっぱいいっぱいになる勇輝を見るのは、優越感が刺激されることだった。


「どうせ、お前はウダウダと余計なことを考えて、録な結論に達しないんだ。それなら、黙って俺に身を任せた方がマシだと思わんか」


 楓が揶揄からかうように勇輝の目を見つめると、勇輝はさっと目を逸らした。それは、嫌悪ではなく羞恥からの行動で、その様子は楓を満足させるのに十分だった。


 楓の中に、もう先ほどまでの苛つきはない。こうやって、自分の腕の中に勇輝が収まっているのだ。これ以上のことがあるだろうか。


 楓は、こうやって勇輝が自分の腕の中にあるだけで満足だった。これがどのような感情であるのか、楓は知らない。そもそも、楓は「好き」と言う感情もよくわからないのだ。


 楓の好きなもの。鰆の西京焼き。茶虎の猫。よく晴れた春の午後。


 それらと、勇輝に向ける感情が同じであるわけがない。だから、勇輝に「自分ゆうきのことが好きか」と尋ねられた時、答えられなかった。


 鰆が好き、猫が好き、勇輝が好き――?


 この想いは、そんなものと全く違う。そのことだけ楓はわかっていた。そのことだけしか、楓はわかっていなかった。

 だから、楓は行動で示す。自分の執着を、欲を、切望を込めて、勇輝に口付けた。少しでも、この想いが伝わればいいと思って。その楓の行動に、勇輝はおずおずと応じた。

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