第三十五話 出会い

「う、」

 わぁ、という下品な呻き声は、かろうじて飲み込めた。


 そんなはずはないのだが、空気まで穢れているような気がして、懐から取り出した扇子で口を隠す。


「去年もアレでしたけど、今年もなかなかですね」

 隣に立つ背の高い男が、こちらもうんざりしたような声を上げた。


 二人は、窪地を見下ろしていた。

 窪地にいるのは、まだ成人したばかりで、子供といったほうがしっくりくる少年達の集団だ。

 真新しい揃いの白衣と袴は、着るというより着られており、まだその身に馴染んでいないように思われた。

 それもそうだろう。彼らが、その白衣を着るようになって、まだひと月と経っていない。

 彼らは、今年、渾天院に入学した新入生たちだった。

 それが、窪地の中で、蜘蛛によく似た妖と対峙している。


 今日は、『公開討伐訓練』の日だ。新入生が、彼らだけの力で妖の集団を退治する訓練だ。

 それを、少し離れたところから、教官と上級生が見守る。

 訓練成果を見せるため、と銘打っているものの、その実、新しい小隊を編成するときの参考にされるのだ、と言うことは、どんなに噂に疎い新入生でも知っていた。それ故、情けないところは見せられないと気合が入る。


 彼らのそのお披露目の相手に選ばれたのが、『鋏角蟲』。

 鋏角蟲は、蜘蛛によく似ているものの、小さくても猫ほど、大きいものであれば、人の背丈を越えるほどにまでなる。大きな顎と鋭い八本の爪はもちろん、その尻から吐き出される粘着性の粘液が厄介な妖である。


 その鋏角蟲が、地面に開いた穴から次々と湧き出てくる。

 これを退治しきるのが、新入生に与えられた課題だった。


「毎年思うのですけれど。教官殿達はよくもまぁ、このような場所を見つけてきますよね」

「藤谷先輩の時は、何でしたか」

「私の時は、『蝦蟇がま』でしたね。あれは、皮が厚くて、難儀したものです。……近衛様の時は……」

「私の時は、『磯目いそめ』でした」

「あぁ、あれも……」


 『磯目』とは、ミミズのような姿の妖である。ただ、ミミズと異なり、この世の理から外れた斑らの目と、小さな鋭い牙が円形に並んだ口を持つ。

 『磯目』も『蝦蟇』も、そして『鋏角蟲』も。それらのどれも、見た目は気持ち悪いものの、訓練された者には脅威にはならない小物である。

 新入生達は、突貫ではあるものの、ひと月、渾天院で訓練を受けている。だから、このような妖など、恐れるに足るものではないのだが。




「うわ、うわあぁぁぁ!」

「ひぇっ! 来るな、来るな!」

 ――だが、ひと月。いくら渾天院の訓練が厳しいとはいえ、たったひと月なのである。


 生家が武家で、妖と接する機会のあった者もいるはずだが、おもしろいくらいに窪地の中は混乱していた。


「お前達! そいつを僕に近づけるんじゃない!」

 中肉中背。筋肉よりも脂肪の方が多そうな少年が、ふくふくとした手に持った刀を振り回し、周りの者に命令を下す。


「あそこにいるのは、小倉家の?」

「そのようですね。……周りにいるのは、近習でしょう」


 伊吹と藤谷が言葉少なに会話する。言葉が少ないのは、口を開けば彼を批判してしまいそうだからだ。


 小倉何某は、足の多い虫が苦手らしく、かわいそうなくらいに動揺していた。鋏角蟲達を近づけまいと、せわしなく指示を出す。だが、それはあまりにも場当たり的で、良手と言えなかった。


 その証拠に、近習達に死角が生まれ、そこから接近を許してしまった。

 目の前に出てきた大型の犬ほどの鋏角蟲に、ひぇぇ、と情けない声を上げてへたり込む小倉何某。

 いくら成人したてとはいえ、武家の長男があれでは、と伊吹が内心思ったときだった。


 ひょうと綺麗な風切り音を立てて、鋏角蟲に矢が刺さった。

 ギャッと一声鳴いて、動きを止める鋏角蟲。その隙を突いて、後ろから近習が鋏角蟲を成敗した。


「今の矢は、良かった。誰が射たのでしょう」


 藤谷の言葉に、伊吹も射手しゃしゅを探したが、混戦の中、見つけることはできなかった。




   ◇ ◇ ◇




 混乱している中、才覚を表すものもいる。


「うおぉりゃあ!」


 一際大きな声を上げて、鋏角蟲を両断のもとに切り捨てたのは、大槍を持った体格のいい少年だった。


「あの子は……」

「……あぁ、アレは、八幡で蟒蛇うわばみを討伐した功で推挙された者ですよ。さすが、推挙されただけあって、恐れがない」


 その噂は、伊吹も聞いていた。木こりの息子で、山にでた蟒蛇を粗末な斧で退治したとか。

 その話を聞いた時は、噂ゆえ誇張されているのだろうと思っていたが、この動きを見ていると、あながち大げさな話ではないのかもしれない。


「荒削りだが、よく動く。使いい兵になるでしょう」

「…………」


 藤谷の言い方に感じるものがあったが、伊吹は何も言わなかった。


 伊吹と藤谷の関係は複雑だった。

 学年では、藤谷の方が一級先輩となる。だが、家の格は伊吹の方がずっと上だった。いずれ、藤谷は伊吹の下に就く。

 だからと言って、先輩の顔を立てぬわけにもいかない。

 それで、伊吹は先輩として藤谷を立て、藤谷は将来を見据えて伊吹を立て、お互いどこか踏み込めぬところがあった。


(あの子の力は惜しいが、藤谷先輩が『使う』とおっしゃったなら、きっと使い潰されるだろう)


 それではせっかく推挙されたのに、惜しいと伊吹は考えた。

 伊吹の小隊は、去年の三年生が抜け、力に欠けていた。それ故、彼の膂力は欲しかったが、こちらの都合で若い芽を潰すのは忍びない。


 他に、誰かいないものかと窪地を見回す伊吹の目に、一人の少年が止まった。




   ◇ ◇ ◇




 その少年は、最初、特に目立つことがなかった。


 鋏角蟲の見た目の気持ち悪さに浮つく新入生の中にあって、落ち着いているな、と思ったくらいだった。


 落ち着いて、基本通りに刀を振る少年。


 最初は、その赤い髪に目が引かれたのだろうと思っていた。

 だが、違和感が拭えず、伊吹は見るともなしにその少年を見続けた。


 混沌とする窪地にあって、少年の周りだけ静かだ。

 彼が構え、剣を振るうと、妖が一匹、絶命する。

 それを何度も繰り返しているうちに、伊吹はあることに気がついた。


「藤谷先輩、あの子……」


 伊吹が指差したところを見て、藤谷は「あぁ、富田流ですね」と軽く答えた。


「富田師範は、一年生の剣術を指導されていますからね。あの子も、よく稽古を積んだようですね」


 藤谷が言う通り、赤毛の少年は富田流と呼ばれる流派の太刀筋をしていた。


「なかなか肝が座っていますね。とても落ち着いている」


 そう呟く藤谷はまだ気が付かない。他に期待できそうな新入生は……と、目線を外そうとする。


「そうじゃありません、先輩。気がつきませんか?」

「何を、でしょう」

「どうして、先輩は彼が富田流だとわかったのですか」

「それは……、太刀筋を見たら、わかるでしょう? 彼は富田師範と同じ太刀筋をしている」


 藤谷が言う通り、赤毛の少年の太刀筋は、教本にでも出てきそうなくらい、お手本通りだった。

 彼が刀を構え、型通りに振るうと、その太刀筋に吸い込まれるように妖が移動してくる。


 構え、振るい、絶命させる。また、構え、振るい、絶命させる。


 彼がしているのは、妖退治というより、型の稽古だ。彼だけ、道場にいるような静謐さが漂っている。


「いや、あれ……? おかしいな」


 見ているうちに、藤谷も違和感を覚えたのだろう。困惑したように、眉根を寄せる。


 赤毛の少年は、二人の困惑をよそに、納刀した。

 戦場で何を、と思うまもなく、彼はぐっと腰を落とす。そして、一瞬、刃が煌めいたかと思うと、妖が両断されていた。


「あれは、岡崎抜刀術!」


 抜刀し、一閃させ、納刀する。抜刀し、一閃させ、納刀する。

 刃が春の日差しを受けてきらめくたびに、妖は縦に、横に、両断されていった。


「……先輩。ここはんです。その意味、わかりますか」


 伊吹は、藤谷に問いかけたが、彼は呆けたように赤毛の少年を見るばかりだった。

 伊吹が気づいたことと同様のことに、気がつき始めた者が何人かいるのだろう。同じように赤毛の少年を見て、ざわついている集団がそこここにあった。


 赤毛の少年の太刀筋は、一見して目を引くものではない。

 何故なら、基本に忠実で、お手本通りの型を繰り返しているだけだからだ。


 だから、気にも止まらない。


 だが、ここは道場ではない。足元は低い草が生い茂り、そこここに石や岩が転がっている。そして、対するのは、師範や練習生ではなく、妖である。妖は、剣術の試合のように正面からだけでなく、どこからでも飛びかかってくる。また、一対一、正々堂々などという概念は存在しない。


 そんな環境で剣を振っているのに、彼の太刀筋は揺れなかった。道場で師範が見せてくれたように、綺麗な所作で刀を振るう。

 それがどれほどありえない事なのかは、周りの新入生を見ればわかるだろう。

 赤毛の少年同様に、いや、彼以上に一つの流派を鍛錬した者もいるはずだが、誰がどの流派であるかなど、わかるわけがない。岩に足を取られたり、体勢を崩したりしながら、刀を振っているからだ。


 伊吹たちが見守る中で、彼の太刀筋がまた変わった。


「次は、中条流か……!」


 藤谷が驚嘆したような声をあげる。彼の目は、もはや赤毛の少年に釘付けだった。

 伊吹も、彼の一挙手一投足から目が離せなかった。


 感心して見ているうちに、大小二匹の妖が、彼へと近づいていった。

 赤毛の少年からは、小さい方は大きい方の死角になっていて見えないようだ。


 二匹が飛びかかる体勢になり、これはまずい、と伊吹が思った時だった。


 ひゅうっと音がして、小さい方が矢に斃れる。赤毛の少年は、危なげなく大きい方を斃すと、次の獲物へと向かって行った。


 矢には気がついているはずだったが、それに対しては何の反応もしなかった。

 赤毛の少年が特に反応もしなかったものだから、見ている者達も、矢のことはすぐに忘れたようだ。


 だが、伊吹は気になって、矢が放たれたところを探した。それは、ただの第六感だったが、探した方がいいと告げていたからだ。




 そして、伊吹は程なく、射手を見つける。


 弓を構えた人物が、先ほどの射手だと断定できたのは、その顔だった。

 赤毛の少年と面差しが似通った黒髪の人物が、少年の近くにいたのだ。無関係だと思う方が無理があるそっくり具合だった。


 黒髪を観察していると、赤毛を支援することに専念しているようだった。

 弓矢だけで討伐できる小物は絶命させ、そうでないものは、時には命中させ、時にはあえて外し、赤毛の元へと送り込んでゆく。


 そうやって送り込まれた妖を、赤毛はお手本通りの型で屠っていく。


 黒髪自身は、自分の身を守るより、赤毛の支援をすることを優先しているようだった。


 その証拠に、黒髪の死角から、妖が一体近づいて行った。

 鋏角蟲が、グッと身を沈め、飛びかかる。

 伊吹が思わず、危ない! と小さな悲鳴を漏らした時だった。

 ばちん! と音がして、鋏角蟲が、何かに阻まれた。黒髪にその顎門あぎとを届かせることなく、地面に転がる。

 黒髪は、音を立てて転がった鋏角蟲に冷静に矢を射かけ、赤毛の元へと送り込む。

 そして、今までの例に漏れず、お手本通りの綺麗な大上段からの振り下ろしによって、鋏角蟲は両断された。


(あれは、結界か……!)


 黒髪の周りには、強力な結界が張ってあった。黒髪の腰に、鉾鈴があるところを見ると、黒髪自身で張ったのだろう。


 黒髪は、結界で身を守り、赤毛の支援をする。赤毛は、黒髪により調節された妖を順番に、だが確実に討伐してゆく。それが、結局は黒髪の周りの妖の掃討につながり、黒髪はますます支援に専念できる、という循環が生まれていた。


 だが、これは、黒髪の結界に対する自信と、赤毛の刀の腕に対する信頼がなければなし得ない作戦だった。


 それに気がついた時、伊吹が感じたのは、羨望だった。


 伊吹とて、戦場で他人に背を預けることがある。

 だが、これほど無条件に相手を信頼したことはあっただろうか。


 という特殊な条件はあるものの、それだけでは説明のつかない信頼感がそこにはあった。

 それを理解した時、伊吹の口は動いていた。


「先輩。あの二人を、私達の隊に入れましょう」

「いや、確かにあれは凄いですが、基本しかできないようでは……」


 そう言って渋る藤谷を、半ば無理やり説得し、伊吹は二人を入隊させたのだった。




   ◇ ◇ ◇




 その公開討伐訓練から、一年。季節が一巡ひとめぐりし、新たな後輩を迎え、隊の再編が行われた。

 そこで伊吹は、一番隊の隊長に任ぜられ、その伊吹に大輝は『先駆』に任ぜられた。


「あの時、藤谷先輩は、最後まで渋っておられたんだよ。でも、自分の直感を信じて大輝達を小隊に誘ってよかった」


 ふふっと笑う伊吹に、大輝は照れたように顔をしかめた。


「あの時のことは、もう忘れてください。


 そう。大輝はあの時、刀の振り方をわかっていなかったのだ。

 それまで、危ない橋を渡ったことも、殴り合いの喧嘩をしたこともあったが、武家出身でない彼は、刀を見たことも触ったこともなかった。


 渾天軍に入る一ヶ月前から、養家で教えられたのと、渾天院の師範に習ったことが、その時の彼の全てだった。


「あの頃は、教えられた通りに刀を振らないと、切れないと思っていましたからね」


 そして、実際、教えられた通りに振るうと、切れた。だから、大輝は実直なまでに型通りに刀を振っていたのだ。


「そんな大輝が一番隊の『先駆』とはね」

「そういう伊吹さんだって、一番隊の隊長じゃないですか」


 そう言って、二人、目を見合わせて笑った。


 大輝が、『伊吹さん』と自分の名を口にするたびに、伊吹の心に温かいものが満ちた。

 藤谷先輩とは、最後まで『藤谷先輩』、『近衛様』だった。伊吹がどれほどお願いしても、彼はけじめだと言って、この呼び方を改めようとはしなかった。


 だが、大輝は、――それに勇輝は、言葉を交わしたその時から、『先輩』と慕ってくれた。


 そこは、近衛の家の力により、誰も踏み込まなかった処女地だった。

 呼び方一つで何を大げさな、と他人は言うかもしれない。しかし、伊吹にとって、それは大きな一歩だったのだ。


 『近衛』でもなく、『渾天院一の英傑』でもなく、『伊吹』を呼んでくれる二人。


 彼らは、事あるごとに、伊吹に小隊に誘われたことを幸運だと周りに言っているようだったが、それは伊吹の方こそだった。


「うまくはできないかもしれないけれど、それでも全力で一番隊隊長を努めようと思う。……助けてくれるかい、大輝」


「過ぎた謙遜は、嫌味にしかならねぇっすよ、伊吹さん。……でも、まぁ、あんたが本心ではそう思ってんのも俺は知ってるし、俺達以外にはそんなこと言わねーから、よしとしますか」


 と、まるで保護者のようなことを言う大輝。


「こちらこそ、あんたのご期待に添えるように、全力を尽くしますんで。あんたがやりたいことが、やりたいようにできるように、俺を好きに使ってください」


 ニヤッと笑ったその表情は、一年で少年から青年に変わっていた。


「俺はあんたの『先駆』だ。あんたの手足で、あんたの剣だ。手足はあんたを裏切らないし、剣は折れないと誓う。だから、せいぜい、便利に使ってくれ」


 その言葉は、伊吹の胸の中の深いところまで落ちていき、小さいが、確かな明かりを灯した。

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