四日目3

 空を分厚い雲が覆っていた。今にも雨が降り出しそうなほど、黒く濁っている。シアンの光だけが、天使に包まれるような温みを放っていた。その温みでさえ、輝きでさえ、鬱陶しく思える。俺は赤い唾と砂利を吐き捨てた。焼けた装束を投げ捨てる。替えならいくらでもある。惜しむ必要などない。肩一帯に刺すような熱い痛みが残っている。だが、そこを見てもなにもない。

 肉体が癒えるより、精神が癒えるほうが早い。

 そんな人間であれば、どれほどよかったことだろう。

 右目が疼く。殺そう。殺してやれ、と。俺は頭を振った。うるさい、黙れ。貴様の思い通りになどなってたまるか。

 もう、あの日の悲劇は起こしたくない。

 帰宅したのは、あれから一時間ほど先のことである。

 この部屋だけ夜の闇を引きずっているかのような静けさと暗さだ。扉のガラスから暗い部屋を覗くと、ランプに火を灯すことなくうろうろするヒュウガの姿があった。火の灯し方を知らないのだろうか。それにしても、軟弱で生活力皆無な人間である。

 扉を開けるなり、彼は俺の方をがばっと向いた。人の姿をじろじろと見るなり、ほっとため息をつく。


「遅かったではないか。俺の中のベスティアが騒いでいたから、てっきりなにかあったんだと……」

「大きなお世話だ。それにしても、よく家に帰ってこられたな」

「当たり前だ。ベスティアが囁くからな」

「まったく、便利な神さんだな。ほい、パン」


 そう言って、俺はパンを渡した。月に一度の、クルミの入ったパンである。ヒュウガはそれを受け取るなり、パンと俺を見比べた。


「リュークの分は……」

「帰り道で食ったに決まってんだろ? こちとら叩き起こされて飯も食えんで腹減ってんだよ」


 犯人を突き止めるべく躍起になっていたからか空腹を感じなかったが、いざ解決するとどっと腹が減るものだ。それはヒュウガも同じであろう。

 窓台に積まれたイブリア火花を右手に取り、フックの先のランタンに火を灯す。ぼんっと火花が散ると、部屋はぼうっと照らし出された。


「嘘だろう?」


 振り返ると、部屋の隅に逃げた闇に溶け込んでいるヒュウガの姿。瞳だけが炎の揺らぎを映し、爛々と輝いていた。


「嘘って、なにがだよ」

「パン、食ってないだろう」

「食ったさ」

「いや、食っていない。黒きベスティアがそう言っている」

「なら、全然あてにならない神さんだな」

「人というのはな、嘘をつくとき、自然と不安になるものだ。今や盗賊でないお前に隠す技術など衰えているに等しいだろう」

「それはお前の独断と偏見だろうが」

「そういうセリフは、剣から手を放してから言え馬鹿者。

 ……お守り代わりなんだろう?」


 ふと視線を落とすと、俺の右手はナイフに触れていた。

 ……どうやら、これはヒュウガの勝ちのようだ。

 ソリアから手を放し、どかっと腰を下ろす。


「……それがどうした。別に関係ないだろ?」

「それでは俺も食いづらいだろうが。だから、」


 ヒュウガは俺の前にしゃがみ、パンをちぎろうとした。それを俺は制する。


「お前に恵んでもらうほど俺は貧相じゃねぇよ」

「恵んだのではない。俺が食いきれないから捨てたのだ」

「俺はごみ箱かよ」

「数少ない食糧を捨てるようなマネ、民が赦すとでも思っているのか?」


 あまりにも横暴な言い草に、俺は苦笑した。それに誰かさんの面影を感じたからだろう。


「しゃあね、勿体ねぇから食ってやるよ」

「そうしろごみ箱」

「お前……!」


 半ば押し付けられるようにして食べたパンは、久々のクルミ入りということもありおいしかった。ヒュウガも気に入っているようなので、もらったのがなおさら申し訳ない。謝ると、彼は気にするなとすました顔を見せた。悟ったように、俺の分のパンの行方も、帰りが遅かったわけも追求することはない。それが、彼なりの気遣いなのだろう。

 食事を終え、俺は寝転がった。夜はまだまだ遠いが、どうせ今外に出たところで民の怒りを買うだけだ。聖剣を見ると、また鈍色に淀んでいる。ヒュウガはなにも言わず聖剣を手に取った。見る見るうちに元の輝きを取り戻していく。これを見るたびに、この世界の人間はこんなにも穢れているのかと、ヒュウガの世界の人間はこんなにも清いのかと改めて思う。神がはびこっていないだけで、こんなにも変わるのかと思う。

 やはり、俺は生まれる場所を間違えたのだ。


「俺、お前の世界がうらやましいよ」


 え? と間抜けな声を上げ、ヒュウガはこちらを見た。


「飢え死ぬこともないし寒さにやられることもない。差別も殺しも盗みもないし、神さんもいないなんて、サイコーじゃねぇか」


 ここではすべてが真逆である。死はすぐ隣にあるし、犯罪も起こり放題。裁く奴もいなければ、死体ばかりがそこここに転がっている。神を崇め、他者をいじめては快感を得る変態どもばかりが隣人だ。腐れた世界である。

 そう思い直すと、ヒュウガに申し訳なくなる。こんな腐った世界に彼を呼んだのは、紛れもなく力足らずの俺なのだ。


「そんなことないさ」


 剣を置いて、彼はそう呟いた。


「俺の世界もこの世界と大差ない。殺しも盗みも――もちろん、差別だって、すぐそばにないだけで毎日のように起こっている。神を仰ぐ者によって起こされる犯罪もあるし、もちろん飢えや寒さや暑さによって殺される人たちもいる。俺のまわりだと、他を傷つけることで自分の地位を保持し、悦に浸るような愚か者ばかりだ。リュークのが足元に死体が転がる世界なら、俺のは足元に死体が埋まった世界だ。……誰も、気づきやしない」


 ヒュウガの顔は陰影がくっきりつき、その前髪もあって目元は確認できない。ただ、その薄い唇はランタンの火によってか、酷く歪んで見えた。

 それでも、と彼は剣を立てかけた。


「……そんな世界に帰りたいと思うのが、俺は不思議でならないよ」


 笑んだような唇と、ため息の混じったような、自分自身に呆れたような声音だった。

 そう言ってのけるヒュウガが、逆に俺は不思議でならなかった。


「俺がもしそっちの世界に召喚されたら、絶対戻りたくねぇな。お前がいくらそう言おうと、俺はそっちの世界がうらやましくて仕方ねぇ」


 どんなにそちらの世界が腐っていようと、この世界よりはマシに思えてしまう。行ってみれば変わるものなのだろうか。いや、そんなはずがない。この世界に戻るくらいなら、あちらの世界にいたほうがマシだ。それこそヒュウガのように。

 そう言いかけて、俺は口をつぐんだ。無遠慮にもほどがある。

 口にせずとも、伝わったのだろう。ヒュウガは顔を歪めることなく、いつもの澄ました笑みを浮かべた。


「構わんさ。捉え方は人それぞれ。その程度気にするほど、俺は低俗ではない。

 そんなことより、テオ少年の証言……おかしくないか?」


 ヒュウガは眉を顰めて腕を組んだ。

 話を変えたのは、彼なりの気遣いであろう。呼んだのは俺であるというのに、いつも気を遣わせてばかりであるのが申し訳ない。だが、このまま心地悪い会話を続けるのも違うだろう。


「おかしいって、ヒュウガもそう思うか?」


 ヒュウガは頷く。


「アイツの言うとおりにしたのが間違いだったとは……いったいどういうことだ?」


 あぁ、と俺も頷いた。疑問に思ったのだ。テオ少年が神を貶し始めた時のことだから、「アイツ」とは神のことだろう。

 ならば、神の言うとおりにした、とは?

 それに、気がかりなのはそればかりではなかった。


「覚えてるか? テオの周り、なんか変な匂いがしなかったか? 甘いような……変なさ」

「匂いと言われても……俺は花粉症だからな……甘いのだから、あの砂糖の実の香りではないのか?」

「いや、違う。そんな単純に嗅いだことのある香りじゃないんだ」


 なんだか、よくわからない。複数のなにかを混ぜ合わせたような、奇妙に甘い香りだった。それも、どこかで嗅いだことのあるような……そんな匂い。


「だが、匂いでなにができるというのだ?」


 冷静なヒュウガに、俺は頭を抱えた。たかが香りでなにかができるわけではない。そうは思うが、妙に引っかかるのだ。


「どちらにせよだ」


 ヒュウガは遠くを見つめてこう呟いた。


「もうなにも起こらなければいいが」


 本当にそうだと、俺はランタンの灯りをぼんやりと見つめ過ごした。

 ――そのなにかが起こったのは、次の日のことであった。

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