09. カワウソ少女

 私はカワウソ少女だ。

 カワウソが来るぞ、と嘘をつき続けた結果、本当にカワウソが現れた時には誰からも信じてもらえない。

 うぉーん、こんなことなら、カワウソが来るなんて嘘を――。


 一度たりとも、言ってないよ!

 そりゃ、いろいろ皆を騙してきたけどさ。

 カワウソが枕元に出て来て、「お前もカワウソになるぞう」なんて珍妙な話をするわけない。

 信じる方がおかしい。


 現実は嘘より奇なり。

 奇妙も度が過ぎて、自分ですら未だ夢を見せられているみたい。

 家に帰ったらカワウソなんて霧と消えていて、いつもの生活に戻れる気もしてくる。


 直立して喋るカワウソは、最初からいなかった。

 全ては受験勉強で疲れた私が見た幻覚なのだ。


 家の玄関に辿り着いた私は、一端荷物を肩から下ろして、ドアに鍵を差し込む。

 幻よ、消え去れ。

 ウエルカムバック、現実。


 ロックを外し、ドアを開けると、非現実の象徴が気をつけの体勢で私を待っていた。


「おかえりー」

「うぉーん」


 膝から崩れ落ちそうになるのを、なけなしの気力を以って踏み止まり、キッチンへ荷物を運ぶ。

 袋の中を覗きながら、私の周囲を駆け回るミャアについては、極力考えないようにした。


「うわぁ、変なの買ってきたねえ。これ、野菜?」


 無視だ無視。

 たまに夕方から酔っ払っているオヤジを駅で見かけるけど、あれも何かが見えているのかな。

 虚空に向かって、「おいっ」とか「てめぇ」とか。

 私の症状もよく似ている。酒なんて飲んだことないけどね。


 買ってきた物を整理したあとは、自室へ上がってスカートだけ着替えた。

 母の帰りは九時半くらいだろう。夕飯は私の当番なので、ちゃっちゃと片付けることにする。


 卵スープとサラダを二人分、先に作り、豚肉多めの野菜炒めに取り掛かったところで、我慢の限界が訪れた。


「ねえねえ、次は何を作るの? デザートはある? あっ、ボクの分は少なくても大丈夫だよ」

「もうっ、喋りっぱなしじゃない! ちょっと静かにしてよ」

「だってぇ、楽しみなんだもん」


 我ながら人がいいと思うけど、晩御飯もせがまれるのを予想していたので、少し多く準備してある。

 殺虫剤が鞭なら、食事は飴だ。

 両面から責めれば、ミャアも大人しくなろうという作戦だった。


「これ、分かる?」

「毛むくじゃらの野菜。美味しくなさそう」

「自分も毛だらけのくせに、そんなこと言うんだ」


 ミャアが言うところの野菜を半分に切り、断面を見せつける。


「ああっ、美味しいやつ! 名前知ってるよ、きゅーいだ!」

「そう、昼間つまみ食いしてたよね」

「見てたの?」

「もちろん。他人ひとのキウイを食べるのは、いいことかな?」

「悪いこと……だと、思う……けど……」

「そうそう、いけないよねえ」


 はしゃいでいた元気もどこへやら、ミャアはこうべと一緒に、耳まで前に垂らす。

 蓋をするように、ちっちゃな耳をペタンと。


「ものすごく美味しそうだったから……」

「だから?」

「匂いが甘かったんだ。我慢しようと思ったんだよ?」

「このキウイ、ミャアに全部あげてもいい」

「ほんとに!?」


 勝ったな。

 綾月家のルール、ここでしっかりと頭に入れてもらおう。

 約束を守るなら、ミャアの分の夕飯も作る。守らないなら、ご飯もオヤツも抜き。

 私の通告を受けて、カワウソがブルッと身を震わせた。


「一つ、他人の物は盗らない」

「きゅーいも?」

「キウイもミカンもダメ。つまみ食いは一切禁止します」

「分かった。盗らない」

「一つ、私が家事や勉強をしているときは、静かにする」

「が、頑張ってみる」

「一つ――」

「まだあるの!」


 最後の三つめは、ルールというより警告だ。

 私や母や、紗代なんかに迷惑を掛けた際には、厳罰で臨むことにする。

 殺虫剤の刑だ。

 どぎついカラーリングの缶を指し、極刑を浴びたくなかったら大人しくしろと脅した。


「それが危険なものだっていうのは、ヒゲにびんびん伝わってくるよ」

「超危険。ヤババ・マキシマムなんだから」

「それは分からない」


 ともかくも一定のラインを引いたことで、ミャアも少しは分別を持って行動するだろう。

 一日中、ミャアへの対策を考えたことで、ようやく冷静に頭が働くようになってきた。


 さして実害は無いのだ。変に怯えなければ、愛玩動物となんら変わりないと思う。

 神出鬼没なのは厄介だけど、猫だって似たようなもの。紗代の飼っている猫も脱走癖があり、やたらと家出するそうだし。


 朝食同様に、出来上がった料理をミャアと向き合って食べる。

 カワウソ用にはスープとキウイ、加えて私には野菜炒め。

 美味しいを連発するミャアはうるさくて仕方ないが、これくらいは目をつむることにした。

 賑やかなのは悪くない。


「ねえ、昼は嘘を止めに来たの?」

「そうだよ。ぎゅふふ」


 変な含み笑いは、キウイのせい。すっかり気に入ったみたいだ。


「確かに作り話で誤魔化そうとしたけど、些細な嘘じゃん。それでもアウトなの?」

「んー、あれくらいは大丈夫そうかな」

「なら、止めなくてもいいよね。何でも正直に話すなんて、逆にトラブルの元だもん」


 笑いを堪える紗代の顔が浮かび、口許がへの字に垂れ下がる。

 誠実さも、時と場合によりけりだろう。嘘も方便って言うじゃないか。


「正直より良い嘘は無いよ。その場しのぎは、最後に不幸を呼ぶんだ」

「ミャアにしては、難しいことを言うんだね。でもさ――」

「練習だよ。いざという時に嘘をつかないよう、日頃から練習しとかないと」

「えー」


 今ひとつ得心がいかないまま夕食を終え、洗いものを済ませて二階へ上がる。

 下校からこの方、考えることが多くてスマホの電源を入れていなかった。

 充電しようとバッグから取り出し、念のためにホーム画面を映すと、珍しく着信のアイコンが点灯している。


 “話したいことがあるんだ。暇な時を教えて”


「勝巳か……」


 彼からのメッセージへ「今ならOK」と送ったところ、すぐに返信が届いた。

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