Every drop in the ocean counts. 【2020年8月3日 H県T市 山本海斗】
ざぶん、という音と共に、山本海斗は海に飛び込んだ。
夏の日差しは一年前と変わらない。海面を突き刺すように差し込み、岩場だらけの海底を静かに照らしている。身を包む海水は記憶にあるものよりも少しばかり冷たい。
海斗は身を捻った。軽やかな音を立てて、きらきらと輝く気泡が昇っていく。
その先で海面が輝いていた。
ゆらゆらと揺らめくそれは、万華鏡のように形を変える。夏という季節を海に振りまいていく。
けれどそこに、彼女はいない。
「陽子、先輩」
海中で読んだ名前は、あぶくとなって消えていった。
海斗はゆっくりと海面に浮上した。
水面から顔を上げて酸素を吸い込む。慣れない手つきで水を掻いた。海での泳ぎを陽子から習ったのは一年前だ。たった一週間ちょっとの再会だった。
それでもちゃんと、体は泳ぎ方を覚えている。そのことに胸を震わせながら、海斗は海から岩場に上がる。
脱ぎ散らかした服の上に置いてあった眼鏡をかけた。ぼたぼたと溢れる雫に構うこと無く、近くのリュックサックに腕を突っ込む。取り出したタオルを頭にかけながら、スマホを探す。
ウミガメが表紙を飾る海洋雑誌を岩の上に放り出した。
皺と手垢に塗れた赤本を乱暴に雑誌の上へ重ねる。
皮が擦り切れたペンケースは岩場を少し転がって、色あせたシャチのキーホールダーが日差しを弾いて輝いた。
そうしてやっと、海斗はスマホを掴む。タオルで髪の毛を吹きながら岩の上に座った。
誰もいない海が、静かに波音を立てる。
それに背中を押されるように、海斗はスマホを叩き始めた。
おー、しー、いー、えー。彼女の鮮やかな声と共に動画投稿サイトの検索窓に文字を打ち込み、目的の動画を見つける。
それを開いた海斗は苦笑いした。
「9いいねじゃん」
頬を膨らませる彼女が目に浮かぶようだ。世間がまだ私に気づいてないだけですー。きっとそう言うに違いない。
鼻の奥がきゅっと痛くなった。海斗は何度か目を瞬かせた後、ゆっくりと再生ボタンを押す。
当たり前のことだが、一年経っても動画は何一つ変わってなかった。
海があって、波音がして、最後に一つカモメの鳴き声。おしまい。たったそれだけ。
――じゃあ分かった。なら賭けようじゃんか!
一年前の彼女の声が唐突によみがえった。10いいねきたら私の勝ち。来なかったらあんたの勝ち。不満げに尖らせた彼女の唇は鮮やかだった。それがずっと、海斗の網膜にこびりついて離れない。
そう。本当は、賭けなんてどうでもよかったんですよ。動画だって、どうでもよかった。
そして、先輩。あなたはそんなことさえもお見通しだった。
記憶の中の彼女に白旗を上げて、海斗は高評価のボタンを一つ押す。
同時にLINEの通知が鳴り響いた。表示された名前に、海斗は思わず両手でスマホを持つ。
『きたこれ! 10いいね!』
そう書かれたLINEのメッセージの下には、今まさに海斗が眺めている動画のスクリーンショットが貼られている。よほど嬉しかったのか、手書きツールで黄色の丸とクラッカーのスタンプが付されていた。
海斗は頬を緩め、スマホを叩いた。
『いや先輩、仕事中なのになんで動画見てるんですか』
『今日は自宅勤務! 次の雑誌に載せる写真の整理なう! 次号はイルカだよーん』
『次号は、って。またどうせ巻末コーナーなんでしょう』
『いいんだよ。雑』
『雑?』
『×雑 ◯雑誌記者一年目はこんなもん』
『雑誌記者なのに打ち間違い(笑』
『うるせーうるせー! てか、お前こそ忙しくないのかよ。もーすぐ医学部受験だろ』
『まぁ、そこそこです』
『いやー、やっぱおーしゃんを英語で書けるやつはヨユーがあんね!』
『言っときますけど、oceanは中学英語ですからね?』
『あ』
『また打ち間違いですか(笑』
返事の代わりに画像が送られてきた。
あの動画のスクショだ。先程と代わり映えしないそれに海斗が首を傾げていると、彼女のメッセージがぴこんと表示される。
『11いいねがついた!!!!!』
それがあまりにも無邪気で、真っすぐで、海斗は思わず声を上げて笑う。
返事の文面を打つ海斗の頭上を飛び越えて、真っ白なカモメが海に向かって羽ばたいていった。
海が太陽のきらり 湊波 @souha0113
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