第2話 最後の竜
自分はいま、竜の背中に乗って空を飛んでいる。そんなこと、あり得ないことのはずだ。少なくとも、竜夫が二十四年間生きていた世界ではあり得ないことである。
だが、実際にはあり得ないはずのことが目の前で起こっていた。竜としか思えない巨大な生物の背に乗り、見知らぬ空を飛んでいる。このわけのわからない状況に陥ってから、それほど時間は経っていないはずなのに、あまりにも多くの出来事が起こりすぎて、言葉が出てこなかった。一体、自分の身になにが起こったというのだろう?
「どうかしたか? 異邦人よ」
竜が言葉を発した。その言葉は、間違いなく自分に向けられている。
いや、そもそも――
どうしてこの竜は日本語を喋っているのだろう? 自分を牢獄にぶち込んだ軍服や白衣の言葉はなに一つとして理解できなかったのに。
「わしが、どうしてお主の言語で喋っているのかが気になるのか?」
竜はこちらの心を見透かしたかのように言った。確かにその通りである。だが、いま現在、自分を取り巻く状況が意味不明すぎて、竜夫は竜の言葉に反応することはできなかった。
「わしが、お主が使っている言語で喋っているように聞こえるのは、いまわしが使っている言語があらゆる存在と通じることを目的にしたものだからだ。万能言語と言うな。異邦人のお主にも通じるかどうかは微妙なところだったが、その様子からすると問題ないらしい」
竜がこちらに目を向けてくる。明らかに人間とは違う厳めしいその目に、竜夫は本能的な恐怖を感じた。その目を向けられているだけで殺されてしまいそうだ。感じた恐怖によって後ずさりそうになって、自分がいま空中にいることに気づいて身体を留めた。
「はは、なにをそんなに恐れているのだ。お主のことなど食ったりはせんから安心せい」
「…………」
「なんだ、わしのことが信用できんか異邦人」
どこか不満そうな声を出す竜。その口調には、どこかユーモラスなものが感じられた。そのせいか、わけのわからないことが立て続けに起こって極限まで緊張と困惑と恐怖と絶望に襲われていた竜夫の心は少しだけ落ち着いてくれた。
「いや、そういうわけじゃないけど……どうして僕のことを――」
「わしがお主のことをどうして助けたのか気になるのか?」
「うん」
「お主が、異世界から呼び出されてきたからだ」
「……へ?」
この竜はいまなんと言った? 異世界からの呼び出し? なにを言っている? そんな漫画みたいなこと――
いや、いま自分は竜の背中に乗って空を飛んでいるのだ。そんなことが起こるのなら、自分が異世界から呼び出されるだって起こっても不思議ではない。
それに、自分が異世界に召喚されたのなら、軍服や白衣の言葉がまったく理解できなかったのも頷ける。別の世界であるのなら、日本語が通じるはずがない。言葉というのは、海を少し越えただけで通じなくなるものだ。なにもかも違う異世界で、何故か言葉が通じるなんて、虫のいいことが起こるはずがない。
「だから、僕を異邦人って呼んでるのか?」
「そうだ。不満か?」
不満ではなかった。というかその通りである。間違いではないものをわざわざ否定する余裕などいまの竜夫には微塵もなかった。
「いいさ別に。でも、どうして僕なんて召喚したんだ?」
竜夫は、どこにでもいる二十四歳のフリーターだ。卓越した技術も知性も身体能力もカリスマ性もなにもない。大学を卒業したあと、ふらふらと過ごしながら、バイトで生活費を稼ぎ、ちょっとしたことを楽しんで、ささやかに暮らしていた凡庸な人間である。そんな人間を、どうして――
そこで、竜夫はあることを思い出した。思い出したのは、最近流行っているらしい、異世界に召喚されたり、転生したりする物語のこと。その物語では自分のような人間が主人公であることが多いが――
そんな漫画にあるような出来事が、自分の身に起こったというのだろうか? 嘘みたいな出来事が起こったのだろうか? だが、現実に竜夫は竜の背中に乗って空を飛んでいるし、言葉が一切通じない場に来ている。この状況に陥ってから、嘘くさいものはなにもなかった。
漫画と違うのは、竜夫にはその手の物語ではお決まりのすごい力を与えられなかったことだ。竜夫はその物語のように、異世界に召喚されたにもかかわらず、なんの力も授かっていない。無力な存在のままだった。
それに、その物語のように自分を勇者として召喚したのなら、牢獄には入れないはずだ。一体、軍服や白衣はなんの目的があって竜夫を召喚したのか。
「そうさなあ……あの人間どもは、わしらが造り出した魔法を使ってみたかったんじゃないのか?」
「どういうことだ?」
「遥か昔、わしらはこの世界のすべてを支配し、頂点に立った存在だった。あらゆるものを生み出した。異世界の人間をこちらの呼び寄せる魔法もその一つだ。もともとは、増え過ぎた我らが新たな世界に踏み出すための手段を編み出す過程にできたものだったがね」
竜は、遠い過去を思い出すかのように言う。
「お前が……作ったのか?」
「作ったかもしれんし、そうでないかもしれん。なにしろわしらがこの世界のすべてを支配していたのは遠い昔のことだからな。忘れてしまったよ」
そう言った竜の言葉は悲しげだった。
「忘れたって……それ、どれくらい昔ことなんだ?」
「そうさなあ……あまり覚えておらんが、少なくとも人間が百世代ほど変わる時間は過ぎているだろう」
百世代。仮に五十年で世代が変わると考えたら、ざっと五千年だ。この竜は、それほど長い時間を過ごしていたのだろうか?
「話の途中で、すまんが下りてもいいか?」
唐突に竜は言う。子供を乗せて遊んでいた父親が音を上げたような声だった。
「え?」
「実はもう、わしは長く生き過ぎて色々なところにガタが来ているのだよ。正直言うと、飛ぶのは結構つらいのだ」
竜夫の身体に伝わっている竜の身体は鉄のように硬くて力強く、確かに脈動が感じられる。とてもガタがきているとは思えない。
それに、この竜は牢獄の分厚いコンクリートのような壁をいともたやすくぶち抜いていたではないか。それだけの力があるのに、ガタが来ているだって? とてもではないが信じられない。そう思った。
いや、と竜夫はすぐに思い直した。この竜は少なくとも五千年は生きていたのだ。その人間にとって途方もない時間が、竜をどれだけ蝕んでいったのかはわからない。だが、それだけ長い時間、生きていたのなら、これほど力強い存在であってもガタが来てしまってもおかしくはないように思える。
「まあ、追ってくる気配もないし、そもそもいまの人間の兵器ではいまの衰えたわしでも追いつけんよ。それに身を隠す手段もあるしな」
竜はそう言って、大きな翼をはためかせながら下りていく。しばらくすると、竜夫の下から軽い衝撃が感じられた。どうやら竜は着地したらしい。
「悪いが、降りてくれんか?」
竜にそう言われ、竜夫は竜の身体から飛び降りて、竜の正面へと移動する。
目の前で竜を見ると、その巨大さが改めて理解できた。住宅ほどあるその身体を駆使すれば、自分のような人間など簡単に踏み潰すことができるだろう。その巨大さに少しだけ気圧される。しかし、恐怖は感じなかった。
「なんの話だったか――ああ、そうだ。どうして人間どもがお主を召喚したのか、だったな。確証はないが、人間どもはわしらの作った魔法を使ってみたかったのじゃないか?」
「どうしてそんなことを?」
「この世界の人間は、かつて存在したわしらの文明の遺物を発掘、解析、復元し、高度な文明を築きつつある。お主だって、未知のものを手に入れたとしたら、それを使ってみたくはならんか?」
見つけたものが明らかに危険なものでなければ、興味は湧くだろう。場合によっては、使ってしまうかもしれない。
だが、あそこにいた軍服や白衣は、未知のものを使っているようには見えなかった。なにか明確な意思を持って、あの場にいたように思う。
「しかし、妙なのよな」
「妙って、なにが?」
「わしの見立てでは、人間はまだ異世界召喚の魔法が使えるほど発達しておらんはずなんだ。これでもわしは、長い時間、人間の社会を覗いてきたからのう」
竜は昔を懐かしむような声を出した。少なくとも五千年は生きていたのだから、色々なものを見てきたのは確実だ。
「……ただ、あんたの見立てよりもこの世界の人間の進歩が速かっただけじゃないのか?」
「そうかのう……まあ、そうかしれんな」
竜は自分に言い聞かすように言った。
「とにかく異邦人よ。あの人間どもがなにを考えていたのだとしても、お主がこの世界に召喚されてしまったのは、覆しようのない現実じゃ。そして、言葉すら通じない見知らぬ世界にその身一つで投げ出されたお主はどこまでも無力だ。このままだったら、数日と経たずに路頭に迷い、そう遠くなく死に絶えるだろう」
竜の言葉を聞いて、竜夫の身体は硬直した。とりあえずあの牢獄から脱することはできた。しかし、それだけだ。竜夫を取り巻く危機は去っていない。いや、むしろ牢獄から逃げ出したことで、その危機はさらに強まったとも言える。あそこに留まっていたのなら、なにをされるのかわからなかったとしても、自由はなかったとしても、雨風は凌ぐことはできたのだから。
「なにが言いたい。僕をあざ笑いたいのか?」
竜夫はそう言って、歯をぎりと軋らせる。
「まさか。わしにそんな悪趣味はないよ。わしは、お前のことを助けに来たんじゃ。あそこから助けるだけ助けて、はいさようならと言うつもりはない」
「助けるって……どうして?」
「お主が別世界から来た異邦人だから、では駄目か?」
「駄目じゃないけど……僕を助けたところで、できることなんてなにも――」
「わかっておる。いまのお主にできることはなにもない。このままなら、さっきも言った通り、短ければ数日、長くてもひと月でお主は死んでしまうだろう」
「それをわかっているなら、なんで僕を助けた!」
無慈悲で不都合な現実を突きつけられた竜夫は怒りに駆られ、声を荒らげる。
「まあ落ち着け。わしだって、お主をなんとかできるからこそ助けたんじゃ」
竜の声は相変わらず落ち着いていた。声を荒らげ、怒りをあらわにした竜夫のことを気に留める様子もない。
「じゃあ、どうするつもりだ? そんなこと言うくらいだ。なにかあるんだろう?」
竜夫は竜の顔を見上げる。そのごつごつとした顔からは、表情は読み取れなかった。
「では、単刀直入に言おう。お主にわしの力を譲渡する。わしの力を得たのなら、その身一つでなにもないお主でもこの世界で生きていけるはずだ」
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