第46話 涙が落ちた先で

 そっと柔らかい何かがまぶたの上をなぞっている。

 そんな曖昧な感覚に意識を揺さぶられて、俺は目を覚ました。眼鏡がないせいでややぼやける視界で、ベッドサイドにいる人物が引っ込めかけた手を掴む。


「桐ケ谷……?」


 にしては小さいな、と思っていると手は逃げていった。

 そっと控えめな申告がなされる。


「……わたし、です」

「林だったか。ごめん」


 ベッドのふちに座って眼鏡をかけると、確かにそこにいたのは林だった。時間はけっこう経っている。風邪で寝込むと体感時間がおかしくなるのは昔からだ。また冬木が気を回して中に入れたんだろう。

 うつむくと目がじんわりと痛んで、手でこすると涙で濡れた。林がまぶたを触っていたのはこれがあったからか。


「俺、もしかして泣いてた?」

「はい……寝言はなかったんですけど、涙がぽろぽろと」

「はは、かっこ悪いとこ見せちゃったな」


 向かいのチェアに座った林は気まずそうに教えてくれた。俺は袖でぬぐって涙を完全に取り去る。体温計で熱を計ると、まだ微熱があった。俺が喉を潤す間も林は何かを聞きたそうな雰囲気をずっと保っている。

 林が小さく呟いたのは、俺に聞く準備ができてからだ。


「……どうして泣いていたのですか?」


 その問いがごまかしや、へたな建前を欲したものでないことぐらい、すぐに理解した。俺が泣いていた理由に深い訳があると考えて、それでいてなお踏み込んでくる。個人と個人を隔てる線を越えて俺の奥にあるものを汲もうとする、そんな問いだった。

 俺は不思議とそれが不快に思えなかった。それは林自身が時折見せる、俺の言葉をとても大切なものとして扱う姿勢にあるのかもしれない。

 それか林が中学でバスケ部にいた時も、高校デビューで紺野グループにいた時も、関わることがなかったタイプの人だからかもしれない。

 ともかく、俺は林の問いに真摯に答えたかった。


「実はさ」


 俺はバスケをしていたことを……辞めるに至った事件を含めて、隅から隅まで林に話した。ぶつぶつと断片的に話していたせいで、話し終える頃には腿の上に乗った腕の影も見えなくなっていて、それに気づいた俺は明かりをつける。

 ずっと喋っていたせいで少ししゃがれた喉を潤し林の真向かいに座った。林はまるで鏡のように静かに俺を見つめる。


『夢から覚めるまで』


 その本来の意味を頭の隅が理解しつつあった。

 この話は、そう。俺が遠く離れて高校デビューをする前の話。

 言い換えるなら夢を見る前。猫が夢と現実の狭間を行き来する前の話だ。

 猫は切望のあまり画家になる夢を見た。

 俺は現実バスケから逃げだして姿形を変えた。


「だから林は……」


 あの物語と俺の本質的な違いはそこにある。

 俺は事件の汚名を着せられてバスケから逃げ、紺野にフラれてイケてることから逃げた。そこにある喪失感は猫のそれと似ているようで違う。

 そして掛け違えたボタンに気づいて、俺の中にわだかまっていたモヤモヤが晴れた気がした。

 俺は確かに夢を見ていたんだろう。

 イケてる格好をして、楽しい仲間と騒いで、紺野と付き合ってリア充を謳歌して。けれど夢だけ見ていられる訳じゃない。物語には現実もちゃんとあった。

 俺は『ベルエポック』で、林になんて言った?


『あのストーリーの中で、その試行錯誤がキーになっていると俺は思う。色んなことを試しては失敗する。でもそれが逆に不思議だった。その夢に向けた熱意をどうして主人公は現状に向けなかったんだ? 狩人と画家を両立させる道とか、あるいは画家として大成する方法を考えた方がよっぽど現実的なはずなんだよ。けど主人公はそうはしなかった』


 結果としてどちらも失ってしまった俺にはあまりに自虐が過ぎる言葉だ。ブラックジョークにもほどがある。今の俺は狩人バスケ選手でも画家リア充でもない。

 ただ目を覚ましただけのただの人だ。


「……俺にあの本を渡したんだな」


 林はやや目を見張って、それから儚げに微笑む。

 その笑顔には自虐が含まれていた。


「ひどいですよね。『感想を聞かせてほしい』だなんて」

「そんなことは……ないさ。改めて考えさせてくれたよ」


 あの時ああしてれば、なんて陳腐な発想だけどそう思わずに羽いられない。バスケを続けていたら? フラれても食い下がっていたら? グループから抜けなかったら?

 しかし同時に物語は、過去は戻らないものだと雄弁に語ってもいた。

 今目の前にいる林の夢もいつか覚めてしまうんだろうか。

 それを恐れた林が、俺を見出したのは想像に難くなかった。


「逃げ出してばかりの俺で、案内が務まるかな」


 俺は林を間違った方向に導いてしまう可能性を危惧する。おまけに門外漢の俺の手元にあるのはどこまで信頼できるかも判然としない情報ばかり。そんな状態で役を全うできるとは到底思えなかった。


「そんなことはありません」


 林はそんな俺の弱気に否定を重ねる。

 柔和そうな口元がやけにはっきりと言葉を紡いだ。


「田崎くんは逃げてばかりと、自分のことを言いますけどわたしはそうは思いません。今もこうして悩んで過去と向き合っています。そうして乗り越えたからこそ、今の田崎くんがいるのだとわたしは思います」

「……そっか」


 その林の言葉をそのまま受け取ることはできなかった。けれどそんな風に林は思ってくれているのだと心に留める。

 林が言うように乗り越えることはできるんだろうか。


「また来週、ですね」

「ああ」


 玄関でローファーを履いた林がどこか歯切れ悪く言ったのに、俺は中間テストのことを重ねた。テストがある間は委員会も休みになる上、林も絵を描いてる余裕もないだろう。割と話している間柄なのに意外と接点がなかった。


「今週末さ、桐ケ谷と一緒に勉強会するんだけど林も来ないか?」


 帰り際の背中にそう持ち掛ける。


「桐ケ谷さんが良ければ……ぜひ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る