第40話 案内人

 利用者のほとんどいない図書室に、シャーペンの芯が削れるカリカリという音が空気をひっかく。時折誰かの足音が、砂浜に寄せては返す波のように近づいては遠ざかった。

 昨日は冬樹の手伝いで来れなかったものの、こうして図書館でする勉強もいつの間にか肌に馴染んで身についている。去年の今頃と比べると思わず口端が上がってしまう。中学の頃は毎日がバスケ漬けだったからなおさらだ。

 少々振り切れ過ぎな気もするけど、心の持ちようで人はこうも変わるらしい。


「……よし、合ってた」


 俺は小テストの最後の設問に丸を付けて小さく声を漏らした。配点に従って採点するとぴったり八十点。平均は越えているだろう、そんな感じの点数だった。しばらくぶりの復習範囲にしてはまあまあできたほうなんじゃないかと思う。

 こうして四月初めに勉強したことをおさらいしているのは、中間テストが来週まで迫ってきているからだ。内申点を上げておくに越したことはないし、大学によっては学内のテスト結果も合否に関わってくる。

 それに、二か月近く積み上げたことがどれだけ通用するのかが知りたかった。

 昔から地道にやることは嫌いじゃない方だ。バスケの時がかなり顕著で、入部した頃からガンガン頭角を現していた怜王に食らいついて振り落とされないようにするために必死で練習した。

 両親が長く家を空ける時に冬木に預けていたこともあって、アパート『ファミリア』の駐車スペースの一角にはバスケットゴールが今も鎮座している。

 さっき言ったことに反するみたいでも、案外人の本質は変わらないかも知れない。

 そんなことを考えているとさっと影が差した。


「お疲れ様です」


 顔を上げると、優しげな空気感をまとった林がにこりと微笑んだ。『デ・ローザ』で提供している、ハーブティーみたいな不思議な匂いがふわふわと辺りに舞う。

 図書委員として仕事をしている、そんな林の労りが心にしみる。


「林こそお疲れ様。ここにいるってことはもしかして」

「はい。今日のお仕事はおしまいだそうです」


 スマホを点けてみれば下校時刻の三十分ほど前といったところ。遅くまで練習に励む運動部向けに設定された閉門時刻までは学校の施設はどこでも使えるが、最後に施錠するのは担当の教員だ。図書委員もその日にやることが終わればそこで解散という仕組みのようで、ここで勉強していても遅くまで残っている姿は見なかった。


「そっか。帰ろうか」


 俺は頷いて手元に広げた勉強道具を鞄に詰め込んだ。貸出カウンターの奥に荷物を取りに戻った林と出入り口で待ち合わせる。


「よ、よろしくお願いします……」

「はは、気が早いよ」


 鞄の紐を握ってどこかぎこちない歩き方をする林に笑いかけた。空を仰ぐと黒々とした分厚い雲が覆っている。天気予報は夜遅くにかけて激しい雨だった。



『自分のパソコン持ってないの?』

『はい。どうしましょうか』


 アカウントを作ろう、という話になって最初の壁として立ちふさがったのはハード的な問題だった。聞けば家にあるパソコンは父親が仕事で使っているノートパソコンが一台だけらしく、他にインターネットにつながる機器は人数分の携帯しかないと言う。

 現代にしては珍しめなんじゃないかとは思いつつも、林のネットへの関心の薄さの理由を垣間見た気持ちになった。


「わがままを聞いてもらって申し訳ないです……」

「謝らなくていいって。俺も持て余してたからさ」


 そんなことが判明した夜。ちょっとした押したり引いたりがあって、結果だけ言えば俺の部屋にある無駄にスペックの高いパソコンを使うことに決まった。スマホで撮ってアップするのも最初はいいだろう。でも、どうせなら林の描いた絵をなるべくそのままの形で発信したかった。だからこれは俺のエゴなんだ。

 ゆくゆくは林自身に環境を整えてもらってアカウント移行するにしても。

 俺の部屋に来ないと作品をアップできないのがネックだけど、そこは林にとっては問題じゃないらしい。


「田崎くんを、信用していますので」

「まだ大したことはしてないんだよなぁ」

「そんなことはないですよ」


 林の自宅は学校の最寄り駅から一駅ほど離れた場所にあるらしい。いつもは自転車通学をしているようで、林の自転車に二人分の荷物を載せて俺が押して歩いている。それを『ファミリア』の屋根付き駐輪場に停めて回り込んだ俺は、『デ・ローザ』に顔を出した。

 客の入りはまばら。同僚のお姉さんにテイクアウトの注文をする。


「林はなに飲む?」

「おすすめでお願いします」

「分かった。椎葉さんブレンドをポットで。給料にツケといて下さい」


 椎葉が古めかしいレジスターを操作すると子気味いい金属音が鳴った。にししと目が笑っている。いくぶん年の離れた彼女は『ファミリア』の住人の一人でもあった。


「ブレンドね。春人くんはクラスメイトを連れ込んでナニをするのかな~?」

「何もしませんよ」


 幸い、林は店内を見るのに没頭していて世俗に擦り切れた椎葉の言葉が耳に入らなかったようだ。俺は身をひねるように意味深なワードを回避し、目をキラキラと輝かせている林の肩をたたく。


「ブレンド頼んどいたから、できたら二階の二○一号室まで持ってきてくれないか。鍵は開けておくから」

「あ、分かりました」


 こくこくと縦に首を振った林に背を向けて店を出る。去り際に「ねえ、春人くんとはどんな関係なの? ねえ?」という椎葉の声がした気がするけど無視だ無視。

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