6 花盗人と金木犀

 アカネとカオルが秘密を共有してから、三日が過ぎた。

 決して二人の関係性は以前とは変わらない。それまで関係を頑なに持たなかった二人が突然仲良くなれば、周囲は当然違和感を覚えるし、その先で秘密が露見してしまうかもしれない。二人は互いの秘密を守るために、それまで通りの距離感でいることを余儀なくされた。

 それでも、以前とは決定的に違うことが一つあった。それは、アカネの内心を苛む黒い感情が消え失せたことである。

 それは、自分しか知ることのできない特別なカオルを、アカネが手に入れたからである。

 彼女があれだけ愛おしそうな表情を向ける相手は自分だけ。そう思えば、金木犀の香りも少女達に囲まれるカオルの姿も、些細なことに過ぎない。金木犀の香りなんて特に、もう焦燥を煽る要素ですらなかった。

 だって、金木犀はもうどこにもない。彼女が二人の秘密として所持している、折れた枝以外には。

 神が勝手に定めた運命がやってくる手段はない。ここにいるのは、彼女が選んだ運命だけなのだ。

 その日の夕飯のことである。アカネはいつものようにカオルの三つ隣の席に座ろうとした。しかし、広い食堂の何処にも、あの優美な姿は見当たらない。夕飯の時刻は既に過ぎており、彼女にしては珍しい遅刻だ。仕方がないので、アカネはミチルとイチカの正面の椅子に座ることとなった。

 随分と珍しいが、そういうこともあるのだろう。もしかしたら、授業に疲れて眠っているのかもしれない。教室でうとうとと居眠りをするカオルの姿を想像したアカネは、思わず笑い声を零した。ここ三日間、アカネの機嫌は最高潮である。機嫌が良ければ、脳裏を過る想像は自ずと明るく、幸せなものになっていくものだ。

 アカネが笑ったのを見て、ミチルが不思議そうに小首を傾げた。アカネの挙動に気をとられたのだろう。手元のスプーンから、折角掬ったスープがだらだらと零れ落ちていた。零れた先が服ではなくご飯の器だったのが、不幸中の幸いである。


「アカネ、なんだかご機嫌ね」

「まあね」

「何かいいことあったのぉ?」

「小テストが満点だった」

「なぁんだ、いつものことかぁ」


 イチカはつまらなそうに唇を尖らせたが、アカネは得意な表情を崩さずに、寧ろ見せつけるように笑ってやった。

 しっかり授業を聞いていれば満点をとれる小テスト如きで、アカネの機嫌はここまで上向かない。誇らしいことに変わりはないが、それでも要因は全く別の場所にある。

 二人との談笑を楽しんで、どれだけが経っただろうか。そろそろ夕飯も完食に至る、というところで、アカネは食堂中を何気なく見渡した。やはり、何処の席にもカオルの姿が見当たらない。

 アカネは、平常を装って、何気ない口調で二人に問いかけた。


「ねえ、カオルのこと知らない? 何処にも見当たらない様だけど」

「え、ああ。本当。カオルさん、まだお話してるのね」

「お話?」

「知らないの? カオルさんの元に、今日運命の人が訪れたの。その方との面会で食事が遅れているのよ」

「……は?」


 ミチルの言葉に、アカネは手に持っていたスプーンを勢いよく落とした。スープを掬っていたスプーンは、その液体を撒き散らしながら、無慈悲に床に落下する。けれど、アカネにはそれを目で追う余裕さえなかった。

――カオルの元に運命の人? そんなもの、いるはずがない。だって、展示されるはずだった金木犀の枝は、アカネの手によって全て折られたのだ。彼女の運命が、彼女を見つける手段など、ないはずなのに。


「なんで……金木犀、折られたんじゃ……?」

「それがね、カオルさん、金木犀を折られる前に少数だけど花を摘み取ってポプリを作ってたんですって。金木犀より効果は薄いけれど一応、って展示したら、なんと、運命の人が現れたの! 何だか、普通に出会うよりもっと素敵だと思わない? 流石カオルさんだわ」


 興奮した様子で言葉を綴るミチルは、とうとうスプーンから離して頬に手を添えた。そんな友人の様子も、アカネの視界には入らない。彼女が口にした言葉が、衝撃的すぎて仕方がなかった。

 ポプリなんて、そんなもの、彼女は持っていないはずだ。持っていたにしたって、展示する理由がない。運命の人というワードに不信を抱いていたのは、カオル本人なのだから。

 もしかしたら、教師にあの枝が見つかって、強制的に展示されてしまったのかもしれない。否、だとすればそれはポプリなんかにはならない。ポプリは、展示をするには少々小ぶりすぎる。もし教師がアレを見つけても、金木犀だということが一目で分かるように、折れた枝を綺麗に飾って、それを作品として展示するに違いない。


「私達、さっき面会室をそっと覗いてきたけれど、素敵な人だったよぉ。きらきらしてて、格好良くて。王子様、って感じ」

「……でも、運命の人って、現れたら面会するのが決まりでしょ? 逃げられないし。カオルは嫌がってたんじゃない?」


 イチカが頬を綻ばせながら零した言葉に、アカネの心臓は騒がしくなっていく。床に放置されたままのスプーンが、照明に照らされて光を反射している。それが妙に冷たく感じたのは、内心に生まれた動揺と、確かな疑念の芽のせいかもしれない。


「ううん。カオルさん、とぉっても幸せそうだったよ」

「そうね。何処からどう見ても相思相愛、お似合いカップルって感じ。出会うべくして出会った、みたいな」

「まさしく運命だよねぇ」


 ミチルとイチカは、その瞳に恍惚とした色を浮かべながら会話を続ける。恋愛一色の甘ったるい会話は、先ほどまで幸せの絶頂にいたアカネを、一気に最底辺まで叩き落す。

 そんな馬鹿なことがあるはずがない。だって、カオルは私の、私だけの。

 動揺した心が大きく揺れる。アカネは無言で椅子から立ち上がった。その只ならぬ様子に、ミチルとイチカだけでなく、周囲の少女からも好奇の眼差しを向けられる。それすら、今のアカネとっては問題にすらならない。

 アカネは、勢いよく食堂を駆けだした。勢いよく扉を開けてしまい、それに伴って激しい音が食堂に響き渡る。静かになさい、と婦長の鋭い注意の声が背後から聞こえてきた気がするが、アカネの耳には届かない。

 面会室は、食堂から然程遠くない場所にある。そこは、外に出ることができない患者と外部の人間が接触することのできる唯一の部屋だ。

 特殊な硝子に遮られており、患者と外部の人間は直接触れあうことはできない。マイクとスピーカーを通して会話が行われ、余程のこと――つまり、患者の運命を名乗る者が現れない限りは、患者は面会室で誰かと会話をすることがない。硝子に遮られているとはいえ、外気は花痣病患者にとっての猛毒だ。運命を名乗る人間は厳しい身体チェックを二度受け、三度念入りな消毒をされる。それでも自分の運命の少女と出会うことができるのは硝子越しなのだから、リトルガーデンの患者への気遣いは相当念入りである。

 そんな、滅多なことでは使われない面会室に、カオルがいるだなんて! 信じられない。信じたくない。けれど、食堂や廊下に、カオルの姿は無かったのだ。

 廊下を無我夢中で走ったアカネは、面会室の前まで辿りついた。閉ざされた扉を、控えめに開く。僅かに開いた隙間から中を覗き見れば、スピーカーを通して響き渡る男性の低い笑い声が廊下に溢れた。それに混じって、少女のころころと鈴が転がるような愛らしい笑い声も聞こえてくる。

 それは聞き間違いようのない、カオルの声だった。


「カオルさんの金木犀は、本当に良い香りがした。金木犀の香りに混じって、嗅いだことのない素敵な匂いがして。ああこれが運命の香りかって、直ぐに分かったんだ」

「まあ、嬉しい。毎日心を込めて育てたの。木そのものではないから、見つけていただけるか不安だったのだけれど……本当に良かった。枝が折られても諦めずにポプリにした甲斐があったわ」


 人形のように麗しい少女は、部屋の中央に用意された豪華な椅子に座っている。少女らしい白くて柔らかい両手を合わせて、その顔には、見たこともないような、きらきらと輝いた笑顔を浮かべて。

 少女は、カオルは、酷く愛おしそうな、熱の籠った声で、硝子越しの男性に囁きかける。


「ねえ、運命って、本当にあるものなのね」


――その言葉を聞いた瞬間に、アカネの中で、何かがプツリと音を立てて切れた。

 カオルは、あの枝を、二人だけの秘密を、ポプリにしてしまったらしい。そして、誰かに言われたわけではなく、自分の意思でそれを教師に提出して、展示したのだ。運命の人と出会うために。

 彼女はアカネを選んだわけではない。アカネの腕の中に居るふりをして騙したのだ。

 アカネはただ、彼女に利用されたのである。彼女には、アカネではなくて、アカネが持っていたあの枝が必要だったのだ。


「あたし、貴方のことが好きよ」


 少女の声は、歌うような軽やかさを帯びて、男性にその二文字を告げた。

 白い頬が桜色に色づいた、その横顔。

 愛おしそうに細くなった、その橙色の瞳。

 何処か色めき立った、少女の無邪気さと無防備さ、そして何処か色気の漂う、その不思議な雰囲気。

 白いワンピース、切り揃えられた爪先、波打つ黒髪、透けるような白い肌、すらりと伸びた四肢、華奢な肩、細い腰、緩やかに膨らんだ胸、長い睫毛、形の良い耳、ふっくらとした柔らかそうな唇、すらりと高い鼻、柔らかい手、なだらかな輪郭を描く頬、人形のような顔、誰にでも笑顔を振りまく愛嬌のある性格、明るい笑い声、その身に纏った金木犀の香り。


 全部。


 全部。


 全部。


 全部、全部、全部、全部、全部、全部、全部、全部!


 憎らしくて、悍ましくて、疎ましくて、忌まわしくて、妬ましくて、厭わしくて、不愉快で不快で汚らわしい!


 なんて、なんて、なんて、なんて穢れた生き物なんだろう!


 あの穢れを知らない純朴な少女は、美しく清純な愛おしい少女は、何処に行ってしまったのだろう。

 消えてしまった。たった三日で。あんなに、あんなに愛おしかった世界が崩れていく。

 死んだ。もういない。だってあんなに愛おしかったあの女が、この世で何より憎らしい。

 最早あの女はカオルではない。金木犀の香りを纏っただけの、悍ましい生き物だ。

 殺さなければ。取り戻さなければ。あの、誰もが見惚れるような美しさを持った、自分だけの少女を、あの恐ろしい生き物から、今すぐにでも、取り返さなければ!

 脳内で鳴り響いた警報は、最早止まることを知らない。

 アカネは暫く、面会室の前で立ちすくんでいた。二人分の笑い声が響く度、拷問を受けているような気分になった。体中の臓器を手で無造作に掻き混ぜられている感覚がする。脳味噌を踏みつけられている気がする。心臓が握りつぶされて、誰かに嘲笑されている。

 その誰かというのは言うまでもない。

 あの女だ。

 あの女しか、いないのだ。


「それじゃあ、また今度来ます」

「ええ、楽しみにしているわ。なるべく早く、会いに来てね」


 呆然としている間に、二人の面会は終わりを告げる。名残惜しそうに硝子越しに手を合わせあった二人は、暫く見つめ合って、それから手を振った。男性が面会室から退出していく。それに合わせて、カオルは一つ溜息を吐いた。彼女の視線は、いつまでも男性が消えていった扉に向けられている。

 アカネは、面会室の扉を開いた。音を殺すことなどしなかった。大きく音を立てて開け放たれた扉の音に、カオルが一瞬肩を揺らす。彼女はその顔に大きな驚愕を浮かべて、それから、アカネの名を呼んだ。


「アカネ……」

「…………」

「ねえ、顔が怖いわ。どうしたの、アカネ。アカネ?」


 この期に及んで、彼女の皮を被ったソレは、そんな言葉を吐いた。

 アカネは一歩、面会室に足を踏み入れた。その一言で、ソレがカオルでないことを確信した。

 彼女はアカネのことをよく知っていた。アカネが思うよりずっと、カオルはアカネのことを知っていた。

 だからこんな簡単なことが分からないはずがない。

 単純で明快な『どうしたの』を理解できないカオルなど、カオルではない。

 ただの醜く悍ましい生き物だ。

 アカネは、早歩きで彼女との距離を詰めた。戸惑いを顔に浮かべたカオルのようなモノは、眉尻を下げて小首を傾げる。

 アカネは、静かに手を差し伸べた。ソレは、困惑したようにアカネの手を見つめ続ける。


「返して」

「え?」

「私のカオルを返して」


 地を這うような声が出る。その一言を聞いて、目の前のソレは一層戸惑いの色を深くした。けれど、最早返答は必要としていない。そんなものは要らない。カオルの声を模っただけの偽物の言葉は、耳を傾けるに値しないゴミ同然だ。

 アカネの両手が、容赦なくソレの首を掴んだ。爪が白い肌に食い込む。眼前の美しい顔は大きく歪み、呼吸を求めて大きく開かれた口からは醜い呻き声が零れた。

 ソレの身体が床に倒れこむ。すかさずその体の上に座り込んだアカネは、目の前の少女の首を容赦なく締め上げた。

 ほら、見ろ。誰もが羨むカオルがこんなに醜いはずがない。彼女はどんな時でも微笑みを浮かべ、小鳥の囀りや鈴よりも清々しい声で喋る。こんなに歪んだ表情も、そんな呻き声も、一度たりとて出したことはない。

 アカネは彼女のことをよく知っている。ずっと見ていたから。だから、分かるのだ。

 これはカオルではない。こんなに醜い生き物は、カオルなどではない。断じて。


「ぐ、あ……っ!」

「返して、返してよ、私のカオル。ねえ、返して、返せッ!」


 呻き声を掻き消すように、アカネは叫び散らした。目の前で大きく見開かれた橙色の瞳が、大きく左右に揺れる。青白くなり始めた顔は無様だ。口から零れる声は、カオルの喋り声とはかけ離れている。もがき苦しむその姿は、いつだって優美なカオルとは到底思えない。

 当然だ。だって、この女は、アカネが愛したカオルではない。

 アカネが愛したカオルは、もっと美しい。運命などに左右されず、自分の選んだ運命と共に生きる。そんな、強かで、誰よりも麗しい少女だ。

 決して、あんな男に愛を囁くような女ではない。


「嘘吐き、嫌い、大嫌い!」


 消えろ、消えろ、消えろ、と、彼女の終焉を念じる事に両手に籠る力が強くなる。既に彼女は呻き声さえ上げることができずに、だらしなく開けた口をぱくぱくと動かすだけだ。

 アカネは、そんな彼女の様子を冷ややかに見つめ続ける。やがて、目の前の身体はもがくことすらしなくなり、ついには脈さえ止まった。それに気が付くまで、アカネはずっとその細い首を絞め続けていた。ふと死んでいることに気が付いて、手を退かす。首には、アカネの手の平の赤い痕がくっきりと残っていた。

 アカネの手の平には、思いきり首を絞めた感覚が生々しく残っている。未だ温かいその身体は、これから時間をかけて冷たくなっていくのだ。

 目の前にできた悍ましい生き物の死体を、アカネは暫く呆然と見つめ続けた。

 もう動かない。もう話さない。もう笑わない。

 ただ、これで彼女が醜くなることはない。

 美しいままのカオルが、金木犀の香りの良く似合うカオルが、お姫様だと持て囃されるに相応しいカオルが、アカネのものだと言えるカオルが帰ってきた。

 アカネは、静かに自分の手の平を握りしめる。そういえば、金木犀の香りがしない。彼女が金木犀の世話をしなくなった上、持っていたポプリを手放したせいだろう。けれど、脳髄には確かに刻まれている。忘れることはない。あの、確かな金木犀の香り。アカネが愛した、美しい少女の香り。

 アカネは、指一本すら動かなくなった目の前の少女の体を抱きしめる。

 あの日、あの時、図書館で抱きしめた時と同じ、華奢な身体が腕の中にあった。

 もう目の前の体は身じろぐことをしない。もう逃げない。その代わり、抱きしめることも、背中を撫でることもしてくれない。

 部屋に落ちた沈黙に、アカネは小さく瞬きを繰り返す。そうして頬を伝った生温い雫で、世界の何よりも簡単なことを思い知ってしまった。

 自分は、好きな人の運命にはなれない。どう足掻いても。

 だってアカネは、王子様ではない。誰もが理想とするような、童話の住人には、到底、なれない。

 あの金木犀の枝を折った時から、否、それよりもっと前から、アカネの役職は、王子とは程遠い、花盗人だったのである。

一度折ってしまった枝は、もう二度と戻らない。そんな簡単なことは、誰も教えてくれなかった。

 無音の部屋に、少女の悲痛の泣き声が響く。抱きしめた少女の身体からはぐったりと力が抜け、盗人の罪を表すかのような重さを訴えている。

 もう金木犀の香りは、何処にもない。それだけが確かな真実だった。

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