第6話 溢れる感情

 梅雨の時期が迫ってくる。外に出ると、生ぬるい膜に包まれた。あと一週間くらいで梅雨入りだと今朝のニュースで流れていた。ということは、自転車もしばらく乗り回せなくなる。

 六月に入ってから、クラスの雰囲気が異様に歪んだ気がする。覇気がなく、体育祭ではなく梅雨が間近なせいだと言い聞かせた。

 変わったことと言えば、席替えが行われ、今度は窓際の一番前。後ろの生徒にますます申し訳ない。平等たるくじ引きの結果だ。

 ぎりぎりに教室に滑り込むと、古賀と世良が睨み合っていた。

「どうした?」

「一ノ瀬! 聞いてよ、古賀が」

 教壇前を通ろうとしたとき、すぐに違和感の正体が分かった。滑ったのだ。氷上でもないのに。靴の裏から水音がし、ぬるぬるしている。

「こいつ、オリーブオイルをそこにぶちまけたのよ!」

 『そこ』とは、俺が体勢を崩した『ここ』だ。教壇から漏れた液体は一番前の席にまで迫っている。

 教壇めがけて流したオリーブオイルは、誰を狙ったのか一目瞭然で。頭に血が上るときは、一気に波が押し寄せる。本物の波と違うのは、在るべき場所に返らないことだ。

「お前、何がしたいんだよ。体育祭といい、これといい」

 低い声がさらに低く出てしまい、見ないふりをしていた生徒たちからも緊張の糸が直線に伸びる。

 廊下で足音がした。教室の前で止まり、引き戸が古い音を立てて開く。

「あれ? 何してるの?」

「バカ! 来るな!」

「え?」

 担任は床の液体に気づきもしない。教壇に足を乗せ、俺のときのように、踏ん張りもなかった。

「先生!」

 教室内からは耳が痛くなるような悲鳴が起こる。滑る床に足を取られ、身体を教卓にぶつけると、床に頭を打ちつけた。酷く、鈍い音だった。俺は頭を打っていないが、先生の痛みが伝染したように後頭部にひやりとした痛覚が走る。

「先生、先生! くそっ!」

 とにかく何とかしなければ。意識はあるものの、痛みに悶え、目を開こうとしない。

 肩と足に手を差し入れ、先生を抱き上げた。滑る足下をなんとか堪えると、静まり返った教室を後にした。

「何の騒ぎだ」

 運悪く、廊下で宿敵の五十嵐と遭遇する。騒ぎを駆けつけてやってきたというより、星宮先生目当てでうろついていたんじゃないかと勘ぐりたくなる。

「どいてくれ」

「おい、みさき先生はどうしたんだ」

「後ろの古賀と揉めて頭を打った」

「貸しなさい」

 両腕を差し出し、一歩迫った。よりいっそう、星宮先生が小さく見える。俺は両手に力を込め、先生を抱きすくめた。

「うう…………」

 苦しげに喘ぎ、何かを話すが声にならず、俺の耳に届かなかった。

「五十嵐先生は古賀をお願いします。俺は星宮先生を保健室に連れていく」

 横を素通りし、揺らさない程度には小走りで向かった。

 はっきりと理解した。五十嵐は星宮先生に好意がある。そして俺を嫌っている。俺を見る憎々しげな目は、邪魔な存在を消したいと心から願っている目だった。

 保健室のドアを開けると、空きベッドに星宮先生を寝かせ、事情を説明した。

「頭を打った場合は、下手に動かさないこと。焦ってしまうのは分かるけどね」

 保健室ではどうにもならないため、養護教諭は救急車を呼ぶ、と出ていってしまった。

「星宮先生……」

 名前を呼ぶと、一ノ瀬君、と息に乗った。

「今、救急車を呼んでるから。大丈夫」

「…………っ……、…………」

「ん?」

 首を傾げると、先生は悲しんでいるのか笑っているのか判別できない顔で、俺の手を握った。

 本当は布団を握りたかったのかもしれない。すぐに離されるだろうと放っておいたが、一向に離される気配はない。養護教諭はまだ帰ってこない。勇気を出し、両手で先生の手を握ってみても、嫌がる素振りはしなかった。

 大きく息を吸うたびに髪が流れ、耳が露わになる。右耳の耳たぶに、似つかわしくないものを発見した。ピアスの跡だ。塞がっているようだが、二度目の衝撃に頭がくらくらした。ちなみに一度目は、ゲイバーから出てくるところを目撃したときである。

「先生……死んだら嫌だからな」

 大きい呼吸の後、甘い匂いがした。俺の匂いでも薬臭い部屋の香りでもない。紛れもなく、星宮先生からする匂い。

 もう少し、あと少し嗅ごうと顔を近づけていくと、星宮先生が俺を見ていた。

「……………………」

 苦しそうな息遣いでも、俺から目を逸らそうとしない。先生は何を考えている? 俺は、自分の考えにもまっすぐに受け止めきれない。

 嘘であってほしいのに、欲に餓えた身体は目の前の肉を欲している。誰でもいいわけじゃない。ましてや男の身体だ。誰でもいいなんて、有り得ない。

 保健室の扉が開き、養護教諭はもうすぐ来るからと伝えた。俺は顔を上げ、生半可な返事をした。

 俺は今、何をしようとした?

 顔を近づけて、甘い匂いを嗅ごうとして……。

 未だに繋がったままの手に調子に乗った行動は、頭に銃弾がのめり込んだんじゃないかというほど衝撃だった。自分で撃った弾に驚愕した。

「ほら、あなたは教室に行きなさい」

 ある意味、空気を読んでくれた養護教諭にお願いしますと告げ、見られる前に手を離した。これが当たり前の距離だ。手を繋ぐなど、見られたら未来に関わる大惨事だ。俺は未成熟高校生の気の迷いで済んだとしても、教師の立場は潰すことになる。

 教室に戻ると、五十嵐はもういなかった。代わりに、委員長たちが教壇を掃除している。半分くらいが見て見ぬふりだ。拭きたくないというより、古賀と関わりたくないと雰囲気が物語っている。

「古賀は?」

「五十嵐に連れていかれた。星宮先生は?」

「保健の先生が救急車を呼んだ」

「そんなにひどいの? 意識は?」

「ある。念のためだってさ」

 無駄にうろうろして気を紛らわせたくても出来ず、席に着いた。黒板には、大きく自習と書かれている。本当は、担任の授業だったはずなのに。国語の教科書は開く気にもならなくて、無関係な数学の本を出した。

 この後の授業は何事もなかったといつも通りの授業が行われたが、古賀が戻ってくることはなかった。

 放課後、荷物をまとめていると、遠慮がちに世良が話しかけてきた。

「今日のクラブはどうする?」

「琥珀糖を作るんだろ?」

「うん、まあ」

「煮え切らないな」

「だってさあ、あんなの見せられたら……俺は悪くねえってさ。高校生にもなって、バカよね」

 その通りだ、体育祭のときとは意味が違う。同じ迷惑でも、今回は人命が関わってしまった。反抗期なんて言葉で許されるものじゃない。

 調理室には、初めて見る顔が一人落ち着かない様子でいた。

「あの、近江といいます。スイーツクラブに入りました」

「一ノ瀬です。よろしく」

「よろしくお願いします」

 思い出さないようにしていたのに、誰かを彷彿させる黒縁眼鏡はなんだ。上げた手を下ろしてもおかしな行動になるので、目の前の砂糖をひっつかんだ。

「とりあえず作るぞ」

「琥珀糖って誰かにプレゼントしてもいいかもね」

「…………それだ」

 贈り物にはぴったりだろう。和菓子のわりには日持ちもするし、軽い。

「誰にあげるのよ」

「家族とか。世話になってる人」

「てっきり星宮先生に渡すものだと思ったわ」

「はあ? なんで出てくるんだよ」

「好きなんじゃないの?」

 好き。どういう感情だ。好きとは。

 親に対する好き、薫子さんに対する好き、横で砂糖の分量を量る世良に対する感情。最後に浮かぶ、担任のはにかんだ笑顔。一気に身体が熱を作り、俺は調理台の上で力が抜けてしまった。

「嘘だろ…………」

「え、ちょっと間違った?」

「いや、間違ってない…………あ」

 調理台を蹴ってしまった衝撃で、グラニュー糖がボウルになだれた。季節外れの綺麗な雪景色だ。世良は無言で元に戻す。それがいい。俺も見なかったことにする。新人の近江も、空気を読むのが上手かった。

「ほら、先生を運ぶの必死だったし。いきなりお姫様抱っこはびびった」

「や……、それは五十嵐への当てつけだ」

「五十嵐? あいつって星宮先生のこと好きなの?」

 星宮先生は先生付けで、五十嵐は呼び捨てだ。教育指導の教師はどれだけ嫌われているんだ。

「知らねえけど、いちいち俺のやることが気に食わないんだよ。一年の頃は俺の顔見るなり、何睨んでるんだって因縁つけてきたからな」

「そういえば……あの先生、星宮先生につきまとっているのは見ました」

「うそ、どこで?」

「校門のところです。一緒に帰りましょうって言っていて、星宮先生は迷惑そうにしていたけど」

 近江の言葉に、安堵した。嬉しそうだったなんて言われたら、絶望で暗黒に飲まれていた。

 寒天を溶かした液体を型に入れ、人工の色素で色をつける。グラデーションにすれば、空に浮かぶ虹だ。

 夜空をイメージし、濃い青と紫で色づけしてみた。本当は星も浮かばせたかったが、残念ながらなけなしの腕前はこれが限界だ。黒縁眼鏡の顔が浮かび、次々と場面が切り替わる。一番長く留まったのは、アルコールが入ったときの顔だ。あれは、教師の顔ではなかった。

「これで固めれば終わり?」

「ああ。簡単だろ」

「初和菓子にしてはこれくらいがいいのよ。難しいと作れないし。次はポルボロンを作りたいんだけどどう?」

「よく知ってんな」

 世良は得意気だ。分かりやすい。

「ポルボロンって、どんなお菓子ですか?」

「スペインの焼き菓子で、口の中に入れてポルボロンと三回唱えれば、願いが叶うと言われている」

 黒縁眼鏡の顔をできるだけ見ないようにして答えた。

「ロマンチックですね」

「俺は欲の塊だと思ったが」

「とにかく美味ければそれでいいのよ」

 世良は食い気の塊である。

「水島にも連絡を入れておくか」

 メールを入れ、今日はこれで解散となった。

 ラッピングのリボンは買うべきか、悩む。そもそも、俺みたいな仏頂面からもらって嬉しいのかも怪しい。リボンの色まで何がいいのかとか、目まぐるしく思考が回っている。

「あの……一ノ瀬先輩」

 校門には、先に帰ったはずの近江が立っていた。

「どうした?」

「途中まで帰ってもいいですか?」

「…………構わない」

 何のつもりなのか。多分、聞きたいことがあるのかもしれない。案の定、しばらく歩いてから人通りが少ない場所で、口を開きかけるが、声にしない。困った。俺も会話は得意としない。

「……クラブのことでも、何か聞きたいのか?」

 多分、違う。もしそうであれば、俺より同じ女子の世良に聞いただろう。

「今日、一ノ瀬先輩が星宮先生のことを抱いて保健室に行くところを見た人がいました」

「そうか」

「変な噂があったから、気になってしまって」

「何の噂だ?」

「星宮先生がゲイだっていう……ごめんなさい」

 よほど怖い顔をしていたのか、近江は縮こまってしまった。

「噂通りだったとしても、近江に何か都合が悪いのか?」

「……ご、ごめんなさい」

 なぜそこで謝るんだ。二度目だぞ。よほど俺が怖いのか。

「や……そうじゃない。あのな、人の趣味趣向に、ああだこうだ言うべきじゃない」

「私もそうだと思いますけど……一ノ瀬先輩も変な目で見られるから」

 も、って言ったか、今。

「あー、もう。俺もおかしい。その話は止めよう。その方がいい」

 近江に言ったつもりもなく、自分の心に言い聞かせた。

 今日は一日でいろいろ起こりすぎた。ただでさえ体育祭の事件が尾を引いているのに、綺麗に気持ちを折りたたんでいない状態で今日のあれだ。サンドバッグが目の前にあったら、本来の使い道を見誤ることなく活用しただろう。

 遠くでは黒に近い雲が空を覆っている。天候を理由に別れを告げ、家に戻った。

 鞄を机に乗せると、食事の準備もせずベッドに寝転がる。

 連絡先も知らないのに、無駄に端末に明かりを点してしまう。怪我の具合はどうなんだ、入院は必要なのか、食事はちゃんと取っているか。目の前で転倒して立てなくなるほど大怪我をしたんだ。そりゃあ狂うほど心配になる。

 抑えていた感情が、再び溢れ出す。

 まだ、俺は気づかないふりをしていたい。

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