桂花陳酒

笹乃秋亜

桂花陳酒


 男が死んでいる。


 白いシャツと細身の黒いジ-ンズに包まれたヒョロ長い痩身。ガクリと膝をついて、蹲る様にして頭を垂れているので、顔は見えない──が、伏せた顔の下に赤黒い血溜まりがあるのは見える。近くに割れたワイングラス。 液体が床に飛び散っている。そして、男の薄い背中から、無数に伸びた、枝。

 それはシャツを突き破って生えており、白かっただろうシャツの背は、真っ赤に染め上げられている。それが死因だろうと言う事は、一目瞭然だった。枝は細かく分裂しながら、毛細血管の様に宙を埋め尽くしている。鬱蒼と茂った葉の中に、纏まって咲くオレンジ色の小さな花。この、甘い、芳しい匂いは──金木犀?


 何故、こうなった?


 そもそもこの男は誰だ?


 知らない。

 なぜ、僕はここに? いつから?

 そんなことより、僕の鼓膜に響いている、この曲は──……




「『トロイメライ』っていうのよ」

 振り返ると、楊河やながわ たまが静かに微笑んで、立っていた。

「弾いてみる?」

「いや……ちょっと見てただけだから。それに、僕にはピアノは弾けないよ」

「そう?素敵な曲よ」

 彼女は眉を八の字に下げて、少し残念そうにして首を傾けると、楽譜を机に閉まった。

 彼女は音楽家の家系に生まれた。彼女の父親は有名なピアニスト、楊河やながわ げんで、母親もまた音楽家らしい。そんな両親の血を見事に受け継いだ彼女は、幼少期からピアニストとしての才能を開花させていった。僕が彼女に初めて出会ったのは、小学校一年生の時だったが、その頃にはもう既に、彼女は大人が弾くような難しい曲を演奏していたのを覚えている。幼心に、僕は彼女の奏でる美しい旋律に酷く感動して、中学三年生になった今も、彼女を心の底から尊敬している。

「発表会の練習?」

「そう。『トロイメライ』を弾こうと思うの。私が一番好きな曲だから」

「へえ」

「貴方は、どうなの?絵画コンクールに出したんでしょう?」

「ああ……」

 言葉を濁して、僕は視線を宙に彷徨わせる。

 僕は絵を描くのが好きだった。絵画教室に通っていたりした訳じゃなかったが、絵画コンクールで上位の成績を残せる位の力はあった。彼女と違って、何もかもが平凡な僕の、唯一の取り柄のようなものだ。ただ、周囲を圧倒出来る程の天才的な画力はなく、単純に、絵がそこそこ上手いだけの人間なのだが。それでも、何故か彼女は昔から僕の絵をこの上なく好んでいた。会う度に、絵を描いてくれ、絵を見せてくれ、と僕にせがんできた。彼女の僕の絵に対する興味は、今でも変わらなかった。

「それなら何とか……最優秀賞取ったよ」

 と言うと、彼女は目を輝かせて両手を叩いて喜んだ。

「凄いじゃない!」

「そんな、君に比べたら……」

「そんなことないわ!本当に、おめでとう!やっぱり私の目は間違ってなかったんだわ!」

「ちょっと、ちょっ……声大きいよ、みんな見てるから、もう……」

 昼休みの教室は、多少人が捌けているとしても数人は教室内にいる。全員の訝しげな視線を肌に感じながら、僕は彼女に小さく耳打ちをするのだが、相変わらず彼女は僕の両手を握ってブンブン回しながら、子供のようにはしゃいでいる。その様が、飼い犬の帰宅を喜ぶ子犬の姿とどこか似ている気がして、ちょっと笑ってしまった。

 彼女は感受性が豊かで、己の感情に素直な少女だった。だから、僕の事も自分の事の様に喜んでくれる。ただ、リアクションがオ-バ-気味なのが難点だったが。それでも、彼女のひたすらに真っ直ぐで、純粋で、清らかな心が、真っ直ぐ心に響く、綺麗な音色を生み出すのだろう。内気な僕にとって、彼女は光のような人だった。そんな彼女が、僕は好きだった。




 ──……こんなこと、思い出しても辛いだけだ。


 なみなみと注いだ白ワインの水面を眺めながら、赤く腫れ上がった瞼を擦る。正しい飲み方ではないと分かっている。けれど、白ワインの華やかな柑橘系の香りを嗅ぐと、彼女の纏っていた香水の香りがふと思い出されるから。こうする事でしか、曖昧な記憶の中で、彼女を手繰り寄せる方法を知らなかった。

 飲み始めて数時間は経った。泥酔してグラつく視界に、愛しい人の後姿が霞んで見える。腰元に揺らぐその美しい黒髪を見る為に、僕は何度もグラスを呷る。

『──……交差点で、80代の男性がアクセルとブレーキを踏み間違え──……』

 ……五月蝿い。

『──……市内在住の楊河やながわ たまさん(23)が病院に搬送されましたが──……』

 五月蝿い、五月蝿い……!

『──……間もなく死亡が確認されました。』

 五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い、黙れ、黙れ黙れ黙れ、黙れ!!

 目の前を凪ぐ様に、腕を大きく振り払うと、テ-ブルの上のワイングラスが床に叩き付けられて、派手な音を立てて砕けた。

「……やめてくれ……」

 涙が止まらない。泣き崩れて、震える指先で、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔を抑える。左手の薬指の婚約指輪が、目の端を掠める。



「 『 愛してる 』」


 

 嗚咽に咳が混じり始める。初恋の種は、今や癌の様になって、獰猛に僕の胸を蝕んでいる。苦しい。苦しい、苦しい苦しい……!

「ゴホ、ゴホッ!」

 咳が激しさを増す。息が吸えない。過呼吸? 椅子から崩れ落ちた僕は、背を丸めて床に蹲る。突如、喉奥から何かが迫り上がる感覚を覚え──嘔吐した。喀血。抑えた右手が鮮血に濡れていた。血に混じって、点々と散らばる、オレンジ色の──これは……花?


 



「──ああ。そうか」

 目の前で死んでいる男を静かに見下ろす。

 

 全て思い出した。


 体の内側から金木犀に食い破られて死んでいるこの男は——……






 未だ死にきれない、僕の初恋。


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桂花陳酒 笹乃秋亜 @4k1a

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