4.4 フォーカスの移動

 前回と同じ文例から始める。

 He burned it.→ It was burned by him.

 「彼はそれを燃やした」→「それは彼に燃やされた」

 能動文→受け身文の書き換え問題であった。

 英語の場合、「彼がそれを燃やす」ことと「それが燃えた」ことは分離できない一体の事態と捉えられている。しがって、深層構造においては等価であり、文法的な変換操作によって能動文→受け身文の2種が生成されると考えられるかもしれない。

 しかし日本語では、彼は何をしましたか? →「彼はそれを燃やしました」→それはどうなりましたか? →「それは燃えました」という質疑応答文が可能だ。この質問部分をみればわかるように、事態は2つに分離され、フォーカスが「彼」、ついで「それ」へと移動している。

 英語の場合、ひとつの文の中での「彼」「それ」の主語の交換であるところが、主語を持たない日本語ではフォーカスの移動、あるいは場面転換の形をとる(つまり別の文になる)ことが多い。というよりも、実は日本語で主語に相当する(文を統括する)ものは文の深層にある(言表されない)フォーカスや場面なのではないか、ということ主張してみたいのだ。そして、さらに言えば、多くの場合それは「場」(場所)である。ある「場」(場所)において物や事が存在し生起する、という形をとる(考え方をする)のが日本語の基本形ではないだろうか。

 つまり「There is ~」という隠れた〈主語〉が文の深層にあり(グラウンド)、そこにおいて物事が演じられるという構造である。これが今まで述べてきた「一.日本語に主語はない」「二.あるの世界」「三.時制」の底部を貫く構造であり、日本語の思想の特徴であるような気もするが、後で改めて考えてみよう。

 話を戻す。

 単独の「それは燃えました」という表現自体には「彼が燃やした」という作用因は含まれない。「原因→結果」関係や「責任」の所在・帰属関係に言及しないフラットな表現と言える。日本語ではこのような言い方が非常に多い。

 例えば明らかな作用因があり、被害-加害、責任関係がある場合でも、「イージス艦が漁船に衝突し、漁船は沈没しました」「北朝鮮のミサイルが東京に落ちるかもしれない」という言い方をする。

 また、「それは燃やされました」という受け身表現でも、フォーカスは「それ」に向けられ(それはどうなりましたか?)、「彼」と「それ」との結合は弱い。「それは〈彼に〉燃やされた」と、あえて〈彼に(によって)〉を入れる場合は、単なる事実表現(書き換え問題)を超えて〈彼〉に対する非難の気持ちが加わっているように思う。その場合、フォーカスは〈それ〉ではなく〈彼〉に向いているのではないだろうか。能動文→受け身文の書き換えは、単なる変形操作ではない場面転換含み、意味的にも等価ではない、と思う。

 先にちょっと触れたグラウンドとしての「There is」を導入すれば、「それは(そこに)燃やされて(ある)」という存在文なのだ。日本語では、他動詞の効力が対象にまで及ばないように、それを受け身文にしたときも(存在文であらわすと)作用因にまで及ばない。そして、日本語では存在文の形式をとる受け身文が非常に多く用いられるのである。

 例えば、今書いた「用いられる」を始め、「~と言われる」「~に使われる」「~とされる」のような表現は日本語文章に非常に多く、欧米人からは主語が不明確だと評判が悪い(らしい)。

 本来の存在文、「何かがそこにある」という場合でも、受け身を使うほうが自然な場合が多い。「テーブルにコップが置かれている」「白線が引かれている」「毒の入った餃子(毒を入れられた、だろうが!)が売られている」「検問で車が止められている」。(いま気づいたが、全部「~ている」形を使っている。そうでなくてもOKなのだが、受け身形の存在文は「作用を受けた」状態で存在するということで、状態を表すアスペクト「~ている」が自然なのだろう)

 そもそも日本語では他動詞よりも自動詞を使うほうが自然なのだ。例えば「お金を貯める」という意図的な行為よりも、「お金が貯まる」という自然の成り行き(意図隠し?)のような表現が好まれる。「芽が出る」「雨が降る」であり、知覚においては「海が見える」が普通で、「海を見る」だと意思の強さが目立ってしまう。「AがBを負かした」場合でも「BはAに負けた」と言ったり、Aの側から言う場合には「負かす」よりも「AはBに勝った」と言う方が多い。

 ついでに言えば、転職したとき「会社をかわる」と言うが、これは文法的になかなか興味深いと思う(会社ガかわる、会社をカエル・・・?)

 目の前で何かを落とした人がいる。声をかけるとしたら「何かを落としましたよ」より「何かが落ちましたよ」が普通だろう。直接相手にフォーカスを向ける(責任追及のニュアンスが入り込む)より落ちた物(結果としての状態)にフォーカスを向けるのだ。「落とす」という他動詞には意図性や作為性が含まれるからである。

 また、「何かが落とされた」という受け身形にすると「迷惑」や「非難」の気持ちが入り込む。対応する自動詞があるのに、あえて他動詞の受け身形にすのは「迷惑」や「非難」の意味を含ませるためだと思う。実はこれが日本語の受け身形の「受け身」らしい特色だと思う。

 そこで次に日本語に特徴的な受け身表現を見てみる。

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