3.2 日本語に時制はない(2) 

実現と未実現


 日本語は出来事の時間的位置づけよりもその成否、実現したか否かに関心がある。つまり「ある」か「ない」か、である。

 前章でしつこく述べたように、日本語の根底には「ある」という根源述語がデンと座っている。

 「飲んだ」は「飲む」という行為がいつだったかではなく、それが「ある」ということ。つまり「飲んで+あり」→「飲んだり」→「飲んだ」という形だ。

 起こったことは取り消せない、どうしようもない。実現文がそのまま過去表現に使われることになる。それに対してこれから起こること(未来)はなんとでもなるし、そもそも起こらないかもしれない。過去は実現態、未来は可能態。これが日本語の過去と未来に対する態度といえるだろう。

 ついでに欧米語との対比をしてみる。

 日本語では「飲む」が実現して「ある」という存在の相で捉えているのに対し、欧米語では「飲む」を「した」(行為の過去帰属)という行為の相で捉えている。また、完了形ではhave + 過去分詞となり、所有(行為の結果を持つ)の相で捉える。さらに未来形ではwillという意志の相となる。欧米語では、行為・所有・意志の相、つまり「誰がどうした」という行為者(主語)が常に明示される(責任の所在)。「それがある」という存在の相で捉える日本語では、完了形との区別がないばかりか、行為者が(したがって責任問題も)消去され、自然物の存在と同じように(例えば「そこに山がある」)「それがある」(だからどうしようもない)という様相を示すことになる。(「ある・なる」の日本語と「する・持つ」の欧米語の対比は、自動詞・他動詞の考察の主テーマになるだろう)

 日本語に時制はない。かわりにアスペクト(様態)で対応している、と述べた。それをもう少し敷衍する。

 例文:

  アメリカに行くときカバンを買う。

  アメリカに行ったときカバンを買う。

 それぞれカバンを買うのはいつか? どちらも未来においてである。「行くとき」は「行く」という行為が未実現、つまり行く前の日本でカバンを買う。「行ったとき」は「行く」という行為の実現したとき、つまりアメリカでカバンを買う。未来か過去かという時制ではなく、実現・未実現を語っている。

 アメリカに行くときカバンを買った。

 アメリカに行ったときカバンを買った。

 すでに「買う」という行為が実現している(過去)。「行くとき」と「行ったとき」は前文と同じく、日本で買ったか、アメリカで買ったかを表しており、大過去とかの時制表現ではない。

 アメリカに行くときカバンを買ったらいいよ。

 アメリカに行ったときカバンを買ったらいいよ。

 まだ「買う」は実現していない(未来)。将来においてそれが実現したならば(仮定)良いことだからしなさいよ、と勧めている。「買うといいよ」は買うことの実現を仮定せずに、ストレートに「買う」ことがいいことだと勧めている。「行くとき」と「行ったとき」の意味は前文と同様だ。

 アメリカに行くときカバンを買うだろう。

 アメリカに行ったときカバンを買うだろう。

 どちらも「買う」ことを予想(推量)している(未来)。「だろう」は未来時制ではなく、推量の助動詞である。未来のことは分からないから推量するほかない。

 「買う予定だ」とか「買うつもりだ」も「予定」や「つもり」の語彙的意味から未来を表すことができる。「買う予定だった」「買うつもりだった」と否定すると、「予定」が「予定」のままで完了した、つまり予定したことが起こらなかったという結果(過去)を表す。「予定」とか「つもり」は、そのことが実現すれば「予定」(「つもり」)ではなくなるのが本態だから、「だった」とそのまま確定してしまうと、「予定」(「つもり」)のままで終わったことになる。

 未来に対して日本語は推量という態度をとるが、主観的な確信の度合いによって態度(表現)にも違いが出てくる。

 弱ければ「かもしれない」となり、強ければ「はずだ」「決まっている」「違いない」など。また、人の行動でない場合は、「雨が降りそうだ」の「そうだ」のように予兆や様態として述べることもある。

 主観性を入れずに未来を表現するには、「する」「なる」で言い切る。「来年50歳になる」「この法律は10月から施行される」「明日、身体検査があります」「今日6時に帰ります」(これはちょと違うかも?)

 推量は未来に限らず、現在でも過去に対してでも行える。

 「この町も昔は栄えていただろう」「あのときおまえはウソをついただろう」「いま、おまえはウソをついているだろう」

 しかし、自分のことに関しては、現在や過去の推量が不自然となる場合が多い。「あしたはラーメンを食べるだろう」はOKだが、「私はいまラーメンを食べるだろう」や「私はきのうラーメンを食べただろう」は普通ではなく、認知症を疑われるだろう。「だろうか」と疑問形にすればOK。

 未来のことはだれも分からないから、自分のことも含めて推量する。現在や過去でも他人のことは分からないから推量するが、自分の現在や過去が分からないのはおかしい、という捉え方だ。自分のことでも仮定法過去(英語文法でいうところの)ならOKだ。

 「もし私が鳥だったら、君の所へ飛んで行けただろう」。事実に反することは推量するしかないからだ。(ところで英語では過去形を使うが、過去ではなく仮定を表しているのだから、日本語訳では過去形ではなく「鳥ならば」と現在形をつかえと教える英語教師がいるそうだが、それは日本語の「鳥だったら」「鳥ならば」を時制だと勘違いしている証拠だ)

 時間表現を実現・未実現のアスペクト(動詞の様態)で捉えると書いてきたが、日本語のアスペクトは「~ている」「~てくる」「~てしまう」など、もっと多彩で表情豊かだ。時間表現もまたそうである。

 なので、次に時間表現のさまざまな表情に入っていきたい。つまり、日本語は時間をどのように捉えているか。そのポイントは、推量で述べた「自分のこと」と「他人ごと」の区別にありそうだ。

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